津野田是重
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生誕 |
1873年11月25日 大日本帝国・熊本県 |
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死没 | 1930年9月2日 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1895年 - 1919年 |
兵科 | 歩兵科 |
最終階級 | 陸軍少将 |
戦闘 | 日露戦争 |
除隊後 | 立憲政友会所属の衆議院議員 |
墓所 | 多磨霊園 |
津野田 是重︵つのだ これしげ、1873年︵明治6年︶11月25日 - 1930年︵昭和5年︶9月2日︶は、大日本帝国陸軍の軍人、政治家。熊本県出身。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。
経歴[編集]
熊本藩士、陸軍大尉・津野田是秋の長男として生まれる。中学済々黌、陸軍幼年学校を経て、1895年︵明治28年︶2月、陸軍士官学校︵第6期︶歩兵科を首席卒業。同年5月、陸軍歩兵少尉任官、近衛歩兵第1連隊付となる。1900年︵明治33年︶12月、陸軍大学校︵14期︶を優等で卒業。 1901年︵明治34年︶6月、参謀本部出仕となり、参謀本部部員、フランス駐在、参謀本部付を経て、1904年︵明治37年︶5月、第3軍参謀に発令され日露戦争に出征。旅順攻囲戦から奉天会戦まで戦った。1905年︵明治38年︶5月、陸軍歩兵少佐に進級。 1906年︵明治39年︶2月、フランス駐在となり、参謀本部付︵フランス出張︶、陸大教官、近衛歩兵第3連隊大隊長を歴任し、1911年︵明治44年︶1月、陸軍歩兵中佐に進級。1913年︵大正2年︶1月、奈良連隊区司令官に補され、1915年︵大正4年︶4月、陸軍歩兵大佐に進級。同年8月、歩兵第11連隊長に転じた。1919年︵大正8年︶4月、陸軍少将に進級すると同時に待命、同年8月、予備役に編入される。 予備役編入後、衆議院議員に政友会から立候補し当選、1920年︵大正9年︶から1924年︵大正13年︶まで勤めている。栄典[編集]
●1895年︵明治28年︶11月15日 - 正八位[1] ●1897年︵明治30年︶12月15日 - 従七位[2]親族[編集]
●子 津野田忠重︵作家︶・津野田知重︵陸軍軍人︶・津野田和重︵日本科学技術振興財団事務局長︶ ●後妻 津野田菊以︵小坂善之助の娘︶ ●義父 高島鞆之助︵陸軍中将、先妻の父︶著書[編集]
●﹃戦後の欧米 - 踏破十有七国﹄博文館、1920年。 ●﹃斜陽と鉄血﹄偕行社、1926年。 ●﹃軍服の聖者﹄信毎出版部、1927年。脚注[編集]
関連項目[編集]
●アナトーリイ・ステッセリ ●イアン・ハミルトン︵en:Ian_Standish_Monteith_Hamilton︶参考文献[編集]
●秦郁彦編﹃日本陸海軍総合事典﹄第2版、東京大学出版会、2005年。 ●福川秀樹﹃日本陸軍将官辞典﹄芙蓉書房出版、2001年。先代 白川健次郎 |
歩兵第11連隊長 第15代:1915年8月10日 - 1919年4月1日 |
次代 本庄繁 |