浅井井頼
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浅井井頼 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 元亀3年(1570年)から天正2年(1574年)の間 |
死没 | 不詳、[一説に]寛文元年(1661年)5月16日[1][注釈 1] |
改名 | 童名喜六[2]、井頼、浅井作庵、京極作庵 |
別名 |
政信、政賢(政堅)、政資、長春、長房 通称:喜八郎、周防、周防守 |
戒名 | 禅徳院殿実岩道意居士[1] |
墓所 | 泰雲山玄要寺(香川県丸亀市南条町) |
官位 | 周防守 |
主君 | 羽柴秀勝→豊臣秀長、秀保→増田長盛→生駒一正→山内忠義→豊臣秀頼→京極忠高 |
藩 | 丸亀藩藩士 |
氏族 | 浅井氏 |
父母 | 浅井長政 |
兄弟 |
万福丸、茶々[注釈 2]、初、江 万寿丸[注釈 4](蒼玉寅首座[注釈 5]) 井頼、円寿丸[注釈 6] |
子 |
女(石川光元正室)[12] 熊之助、長章(周防守)、女(名村玄達室)[13][要出典] |
特記 事項 | 落城時母方の里にいたという口伝もあり、徳川家や京極家では浅井長政の子という資料が残っている[2]。 |
浅井 井頼︵あざい いより︶は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。讃岐丸亀藩客分。近江の戦国大名・浅井長政の庶子。通称は喜八郎、周防守。諱は複数伝わり、政信[14][15]、政賢[注釈 7]・政堅[注釈 8]︵まさかた︶、長春[注釈 9]、政資[18]︵まさすけ︶、長房[注釈 10]など。晩年は作庵と号した。
略歴[編集]
讃岐の金刀比羅宮文書に﹁浅井喜八郎井頼﹂と署名された発給文書が現存し、同じく﹁浅井周防井頼﹂と署名された文書もあって、直井武久は両署名の花押が同じものであることを指摘した[20]。これによって﹃浅井氏家譜大成﹄の﹃浅井系統一覧﹄にみえる浅井喜八郎長春は、浅井喜八郎井頼のことであり、周防守という受領名を名乗っていたことがわかり、﹃徳川実紀﹄﹃武徳編年集成﹄に﹁浅井周防守政賢︵政堅︶﹂は﹁浅井備前守長政の庶子﹂とある[19] から、井頼と周防守は同一人物で、もともとは浅井喜八郎を名乗っていたことが明らかになった[19]。 小浜の常高寺に遺されている常高院︵初︶が死去する直前に書いた遺言状の写しには、﹁いまさらすてられ候ハぬ﹂と弟の井頼を気遣う内容が記されていて[21][注釈 11]。初は元亀3年︵1570年︶、江は長政が自害する天正元年︵1573年︶の生まれなので、江と双子でなければ生母はお市以外の側室であると推考され[18]、長政と側室の間に生まれた子供であろう[22]。 ﹃ 浅井三代記﹄[注釈 12]には織田信長の追及を逃れた︵小谷城落城時の︶当年子の次男の存在が書かれている[23]。﹃寛政重脩諸家譜﹄ではこれを万寿丸として福田寺の僧とするが、﹃浅井氏家譜大成﹄では次男は喜八郎としていて、三男を虎千代丸とし福田寺の僧としている[24]。小和田哲男は、浅井三姉妹の兄弟で確実視されるのは、長男の万福丸と喜八郎のみであるとして、信長方の追及の目を逃れるために喜八郎が福田寺に預けらたこととの混同かもしれないと述べている[25]。他方で、次男を万寿丸として蒼玉寅首座︵そうぎょくいんしゅそ︶となったとして別人とする説もあるので[注釈 5][18]、次男か三男かはよくわからない。三女・江との序列も不明。 天正11年︵1583年︶から天正13年︵1585年︶の間に羽柴秀吉の養子於次丸秀勝に仕えている[26]。秀勝の死後、秀吉の弟・秀長に仕えて[26]6百石の知行[14][15]。 さらに文禄3年︵1595年︶の秀保の死後は、大和郡山城を引き継いで入部した増田長盛に仕えて3,000石を給される[14][15]。 慶長5年︵1600年︶、関ヶ原の戦いで西軍に属した増田長盛が改易されると浪人。東軍に与した生駒一正︵生駒親正の子︶を頼って讃岐国丸亀城に身を寄せた[26]。 その後﹃山内忠義公記﹄や山内家の﹃御四代記﹄にあるように生駒家を出奔、慶長18年︵1613年︶に山内家に仕官するも、旧主君生駒正俊の奉公構がはいり慶長十九年春山内家を辞す[27]。 慶長19年︵1614年︶、大坂冬の陣の際は長姉・淀殿︵茶々︶のいる豊臣側に加わって、大坂城に入り、二の丸の東を守備。翌年︵1615年︶の夏の陣では毛利勝永の隊にあり[15]、戦死説もあるが[14][15]、大坂城落城後に脱出して再び浪人となった[28]。 将軍徳川秀忠に嫁いでいる崇源院︵江︶を頼ることはできなかったので、次姉・常高院︵初︶を頼って若狭国小浜藩に流れる[21]。常高院の夫の京極高次はすでに亡く、高次の子で︵井頼の︶義理の甥にあたる忠高の代となっていたが、前述の遺書にあるように常高院の願いで京極氏に庇護され、出家して作庵︵さくあん︶を称し、客分待遇で500石の知行を与えられた[29][18]。京極氏は忠高に男子がなく、忠高の甥で讃岐国丸亀藩に移封された初代藩主・京極高和は︵井頼と︶直接的な血縁・縁戚ではないが、浅井作庵の子孫は丸亀藩士として続いた[21]。 香川県丸亀市南条町の京極家の菩提寺である玄要寺に、京極作庵の名で過去帳にあり、丸亀藩士となった井頼の子孫のものと伝わる墓がある[注釈 1]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ab四国新聞1987年10月6日号直井武久﹁淀殿弟浅井作庵丸亀に死す﹂にも没年や戒名、御家覚書の記述は載っている。
(二)^ ﹃浅井氏家譜大成﹄を根拠として、娘の茶々は正室のお市が嫁ぐ前に生まれたともいわれ、長政の実子ではないという説もあるが、婚儀の時期が違うのでやはり長政の子という反論もある。︵淀殿#出生について︶
(三)^ その年に生まれた子の意味。
(四)^ ﹃翁草﹄﹃ 浅井三代記﹄によると浅井長政の滅亡の同年5月に生まれた当年子[注釈 3]で、中島左近、小川伝十郎が傅立てて近江国長沢村の福田寺の弟子となり[3]、慶安となったとする[4]。天正元年に産まれということはお江とは同い年なので庶子である[5]。﹃浅井氏家譜大成﹄では﹁虎千代丸長明﹂とされる[6]が、﹃寛政重脩諸家譜﹄では﹁万寿丸長秀﹂で、仏門に入り正芸と号し、院号は伝法院。近江国坂田郡長沢村の福田寺の住職となったとある[7][5][8]。この正芸はのちに還俗して、直政と名乗り、豊後に移住したとする別説もある[9]。
(五)^ ab桑田忠親は淀殿の末弟の出家僧を﹁蒼玉寅首座﹂として万寿丸にあてている[10]。
(六)^ ﹃浅井氏家譜大成﹄によれば﹁円寿丸政治﹂[11]。
(七)^ ﹃武徳編年集成﹄による[16]。
(八)^ ﹃徳川実紀﹄による[16]。
(九)^ ﹃浅井氏家譜大成﹄による[17]。
(十)^ ﹃大阪陣山口休庵咄﹄による。
(11)^ その記載順も養女の古奈姫より後であり元門真市市史編纂室の大野正義が、北河内とその周辺の地域文化誌﹃まんだ﹄第16号︵1982、P75︶で指摘しているようにより近い関係がうかがわれる。
(12)^ 及び﹁新井白石遺書﹂の佐々木京極家が延宝六年(1678年)に幕府に提出した江州浅井系図にもある。
出典[編集]
(一)^ ab(玄要寺過去帳)[要文献特定詳細情報]
(二)^ ab(京極家御家覚書)(台徳院殿御実紀)[要文献特定詳細情報]
(三)^ 近藤瓶城 編﹃国立国会図書館デジタルコレクション 通記第二十七 淺井三代記﹄ 第6、近藤出版部︿史籍集覧﹀、1919年、274頁。
(四)^ 国史研究会 編﹁国立国会図書館デジタルコレクション 淀殿略伝︵﹃翁草﹄より転載︶﹂﹃新東鑑﹄国史研究会︿国史叢書﹀、1915年、28頁。
(五)^ ab小和田 2014, p. 15
(六)^ 小和田 2010, p. 45.
(七)^ 北川 2008, p. 172.
(八)^ 堀田正敦﹃国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第4輯﹄國民圖書、1923年、988頁。
(九)^ 野村義男﹁浅井長政二男直政調査異聞﹂︵﹃真玉郷土研究会報﹄6号、1985年︶
(十)^ 桑田忠親﹃淀君﹄吉川弘文館︿人物叢書 新装版﹀、1985年、49頁。ISBN 4642050043。
(11)^ 宮本義己﹃誰も知らなかった江﹄毎日コミュニケーションズ︿マイコミ新書﹀、2010年。ISBN 9784839936211。
(12)^ 白川亨﹁石川家と石田家﹂﹃石田三成とその一族﹄新人物往来社、1997年、272-288頁。ISBN 4404025505。
(13)^ 丸亀2代目勘十郎母。
(14)^ abcd阿部 1990, p. 9.
(15)^ abcde高柳 & 松平 1981, p. 9.
(16)^ ab小和田 2010, p. 162
(17)^ 小和田 2010, p. 42.
(18)^ abcd福田千鶴﹃江の生涯―徳川将軍家御台所の役割﹄中央公論新社、2010年、12-13頁。ISBN 9784121020802。
(19)^ abc小和田 2010, p. 164.
(20)^ 直井武久﹁淀殿の弟―浅井作庵と京極家―﹂︵﹃香川県文化財保護協会 文化財協会報﹄昭和62年特別号、1987年︶[19]
(21)^ abc小和田 2010, p. 167.
(22)^ 小和田 2010, p. 46.
(23)^ 近藤瓶城 1919, p. 284-285.
(24)^ 小和田 2010, p. 45-46, 162.
(25)^ 小和田 2010, p. 163.
(26)^ abc小和田 2010, p. 165.
(27)^ 北川央﹁大阪城﹂2021、P143。柏木輝久﹁大坂の陣豊臣方人物事典﹂2016、P87。
(28)^ 小和田 2010, p. 166.
(29)^ 小和田 2010, p. 166-167.