石津郡
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石津郡︵いしづぐん︶は、岐阜県︵美濃国︶にあった郡。
郡域[編集]
多芸郡を挟んで東西で飛地状態となっていた。のちに西部が上石津郡を経て養老郡、東部が下石津郡を経て海津郡となった。 現在の以下の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。 ●大垣市の一部︵上石津町各町︶ ●海津市の一部︵南濃町戸田、南濃町徳田、南濃町庭田より南東かつ海津町福岡、海津町高須町、海津町馬目、海津町内記、海津町札野、海津町深浜、海津町江東、海津町福江、海津町古中島より南西︶ ●養老郡養老町の一部︵沢田・桜井︶歴史[編集]
855年(斉衡2年)閏4月、多芸郡の南部を割いて建郡。郡名の由来は、当地を開拓した石津連に因むと伝える。大庭、建部、桜樹、山崎の4郷。郡家は山崎郷に所在したと推測される。[1] 江戸時代初期は高須藩︵徳永家︶と多良藩︵関家︶が存在した。後に高須藩は尾張藩支藩︵尾張松平家︶になり、多良藩は廃止され、交代寄合美濃衆︵高木西家、高木東家の3家である高木家︶の陣屋︵西高木家陣屋︶が設置された。近世以降の沿革[編集]
所属町村の変遷は上石津郡#郡発足までの沿革、下石津郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照 ●﹁旧高旧領取調帳﹂に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領は美濃郡代が管轄。下記のほか寺社領、が存在。国名のあるものは飛地領。︵1町81村︶ ●後の上石津郡域︵37村︶ - 幕府領︵美濃郡代︶、旗本領、大垣藩、今尾藩[2]、尾張名古屋藩 ●後の下石津郡域︵1町44村︶ - 幕府領︵美濃郡代・大垣藩預地︶、高須藩、大垣藩、尾張名古屋藩 ●慶応4年 ●4月15日︵1868年5月7日︶ - 幕府領・旗本領が笠松裁判所の管轄となる。 ●閏4月25日︵1868年6月15日︶ - 笠松裁判所の管轄地域が笠松県の管轄となる。 ●明治初年 - 領地替えにより名古屋藩領の一部が笠松県の管轄となる。 ●明治3年12月23日︵1871年2月12日︶ - 高須藩が廃藩。領地は名古屋藩領となる。 ●明治4年 ●7月14日︵1871年8月29日︶ - 廃藩置県により、藩領が名古屋県、大垣県、今尾県となる。 ●11月22日︵1872年1月2日︶ - 第1次府県統合により、全域が岐阜県の管轄となる。 ●明治7年︵1874年︶9月 - 馬飼村が中島郡川東村と合併して中島郡馬飼村となる[3]。 ●明治8年︵1875年︶11月 - 高柳古新田・高柳新田・小坪新田が安八郡大牧村と合併して多芸郡大巻村となる。 ●明治12年︵1879年︶2月18日 - 郡区町村編制法の岐阜県での施行により、多芸郡を挟んだ西側21村の区域に上石津郡が、東側32村の区域に下石津郡が、それぞれ行政区画として発足。同日石津郡消滅。その他[編集]
●多芸郡を挟んで東西で飛び地状態となっていた。飛び地はそれぞれ上石津郡と下石津郡となった。上石津郡は西側の山間部、下石津郡は東側の平野部に相当する。上石津郡は養老郡上石津町︵現大垣市の一部︶、下石津郡は海津郡海津町︵現海津市の一部︶にほぼ相当する。 ●上石津郡と下石津郡に分割された後、上石津郡は多芸郡と統合されて養老郡に、下石津郡は海西郡と統合されて海津郡となり、どちらも短期間で消滅している。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 21 岐阜県、角川書店、1980年9月1日。ISBN 4040012100。
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目[編集]
先代 多芸郡 |
行政区の変遷 855年 - 1879年 |
次代 上石津郡・下石津郡 |