神吉宏充
神吉宏充 七段 | |
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平成27年11月28日、姫路市で行われた人間将棋にて | |
名前 | 神吉宏充 |
生年月日 | 1959年3月1日(65歳) |
プロ入り年月日 | 1983年7月26日(24歳) |
引退年月日 | 2011年6月1日(52歳) |
棋士番号 | 160 |
出身地 | 兵庫県加古川市 |
所属 | 日本将棋連盟(関西) |
師匠 | 内藤國雄九段 |
弟子 | 渡辺正和 |
段位 | 七段 |
棋士DB | 神吉宏充 |
戦績 | |
通算成績 | 341勝407敗(.4559) |
竜王戦最高クラス | 5組(22期) |
順位戦最高クラス | C級2組(17期) |
2021年8月22日現在 |
神吉 宏充︵かんき ひろみつ、1959年3月1日 - ︶は、将棋棋士。2011年、引退。内藤國雄九段門下。棋士番号は160。兵庫県加古川市出身。
将棋界きってのエンターテイナーと評される[1]。2021年現在の所属事務所は昭和プロダクション。
棋歴[編集]
小学生の頃に将棋を覚え、中学生のときに本格的に指し始める[2]。そのきっかけは、おじさんに﹁ヨワ将﹂と呼ばれたこと[2]。 1977年のアマチュア名人戦で兵庫県代表[2]となる。全国大会では最年少の18歳であったが、ベスト4進出[1]。角頭歩戦法を用いた勝局もあったという[1]。 そして、1978年、内藤門下で奨励会に入会。入門前の約3年間は会社員だった[3]。1級での入会は1961年の若松政和︵アマ名人戦優勝歴あり︶以来17年ぶり[1]。それから4年8か月経った1983年、四段昇段︵プロ入り︶を果たす。 オールスター勝ち抜き戦での本戦進出も数回あるが、最も活躍した棋戦は、一般の将棋ファンに対する露出度が最も高いNHK杯戦である。たびたび予選を通過し本戦出場した。 第44回︵1994年度︶NHK杯戦では、先崎学・加藤一二三らを破り準々決勝進出︵準々決勝で米長邦雄に敗れる︶。対・加藤戦では解説役で師匠の内藤も加えて局後の感想戦を行ったが、そのとき、謙虚ながらも偉大なる先輩に勝ったという感動を露わにした。加藤に﹁今日は強かった﹂と言われ喜んでいる姿を見た内藤に﹁対戦相手に強いと言われて喜ぶとアマチュアみたいだ﹂と指摘されるが、﹁今日はそれでもいいです﹂と言った[4]。 第49回︵1999年度︶NHK杯戦では、青野照市と森内俊之に勝つ︵この回の優勝者となる鈴木大介に3回戦で当たり、先手で持将棋となり先後入替の指し直し局で敗れる︶。森内との対局の序盤では、神吉は定番の振り飛車穴熊にするが、それに対して森内は自分の飛車も振って、意表の相振り飛車戦に持ち込んだ。サービス精神旺盛な神吉は森内に勝った後の感想戦ではガッツポーズを決めていた[5]。 順位戦での通算成績は、81勝89敗である。C級2組からC級1組に昇級することはなかった。17年間︵第43期・1984年度 - 第59期・2000年度︶の中で最終局まで昇級争い絡むことはなく、最高成績は3度の7勝3敗である︵第43期・第49期・第55期︶。うち、第55期の勝ち越しは降級点を2つから1つに減らしたものであった。しかし、第59期︵2000年度︶で降級点を累積3点としてしまい、フリークラスに降級した。 2005年8月、瀬川晶司のプロ編入試験第2局の試験官︵対戦相手︶を務める。対局前に﹁振り飛車穴熊戦法﹂と戦法予告をし、全身ピンクのスーツ姿で対局に臨み、対局前に瀬川に﹁︵目が︶チカチカするやろ﹂と言っておどけてみせる。また、対局中に︵対局当事者であるにもかかわらず︶大盤解説場に登場して情勢についてコメントするなどのパフォーマンスを見せた。結果は瀬川の勝利。対局終了後、﹁プロ棋士になれる﹂と瀬川を励まし、勇気づけた[6]。後に瀬川の自伝を映画化した﹃泣き虫しょったんの奇跡﹄に、瀬川の編入試験の対戦相手である﹁神田宏充六段﹂役として出演した際にも、当時と同じピンクのスーツ姿を見せた。 第18期︵2009年度 - 2010年度︶銀河戦で、ブロック戦で4連勝し、決勝トーナメント進出︵1回戦で丸山忠久に敗れる︶。 2010年度をもってフリークラス降級から10年を迎え、引退が決まった[7]。そして、2011年6月1日、第24期竜王戦6組昇級者決定戦1回戦で牧野光則に敗れたのが最終対局となり、同日付で引退した[8]。 2018年、姫路市の商店街に将棋教室﹁プロ棋士神吉七段の大逆転将棋倶楽部﹂をオープン[9][10]。︵2019年8月に姫路城・射楯兵主神社近くに移転︶棋風など[編集]
振り飛車穴熊戦法を得意とする。その一方、神吉流穴熊というオリジナルの居飛車穴熊を開発し、振り飛車退治も得意にする。 先崎学によれば、素人相手の駒落ちでは羽生善治よりも神吉が強いという。その理由は﹁プロは詰み筋を読むがアマは読まない、だから︵詰み筋が読めない︶アマの力量に合わせて指せば勝てる﹂ということである。[11]人物・エピソード[編集]
パーソナルデータ ●身長179cm・体重120kg[1]の巨体。 ●2001年5月5日に北海道函館市在住・家事手伝いの女性︵当時27歳︶と結婚[12]、同年10月31日に長男が誕生[13]。 ●映画好き。レンタルを嫌い、自宅には2007年時点で1500本以上のDVDやビデオテープがある[3]。 ●酒に非常に強い。本人曰く﹁ビールとチューハイはナンボ飲んでも酔わない﹂とのことで、現在でも﹁日本酒1升ぐらいはご挨拶﹂だという[14]。酒好きが昂じて、室谷由紀がメイン司会の﹃将棋居酒屋おゆき﹄︵JCOMチャンネル等︶という﹁実際に日本酒を飲みながら収録するトーク番組﹂を自らプロデュースしてしまったほど[14]。 師匠と弟子 ●師匠の内藤は詰将棋作家として知られるが、神吉は双玉詰将棋の作家として知られる。 ●内藤はヒット曲﹁おゆき﹂を歌った演歌歌手としても知られるが、神吉も歌手活動をしたことがある[1]。 ●師匠の内藤より早い引退を余儀なくされたことについて、神吉は﹁﹃親に先立つ不孝﹄のようで心苦しい﹂と語ったという[15]。 エンターテイナー ●NHK BS2で1月に放送されるバラエティー番組﹁大逆転将棋﹂で、毎年司会と構成を務めている。 ●﹁囲碁将棋ウィークリー﹂︵後の﹁囲碁・将棋ジャーナル﹂︶の初代キャスター。 ●﹁探偵!ナイトスクープ﹂など、将棋とは関係ないテレビのバラエティ番組にも出演した。 ●1994年4月から9月まで、TBS系の﹁テレビの王様﹂でレギュラー出演。 ●1996年放送のNHK連続テレビ小説﹁ふたりっ子﹂の中で、主人公に弟子入りを頼まれる棋士を本人役で演じている。その際にスタッフからトランプを手で扱いながら登場するよう指示され、その通りに演じた。その後、﹁将棋世界﹂誌のエッセイの中でこのことに触れ、﹁そんなことしながら歩く棋士おらんわ!﹂と書いていた。 ●1993年10月 - 12月に、林葉直子とのペアでNHK将棋講座﹁神吉、林葉のおしえて!ショーギ﹂の講師を担当。 ●2000年11月、将棋の日恒例の﹁次の一手名人戦﹂︵羽生善治vs丸山忠久戦︶にゲスト参加したところ、最後まで正解し続けて﹁次の一手名人﹂となった。2017年現在、プロ棋士で次の一手名人となったのは神吉が唯一の事例。なお本来はアマチュアの将棋ファン向けのイベントであるため賞品は辞退した[16]。 反則負け ●1988年3月、伊達康夫との対局で二手指しをしてしまい、反則負けを喫する。自らの手番で着手後、伊達が長考したため神吉は居眠りをしてしまったが、駒音で目が覚め、それを伊達が着手を終えた音と勘違いして次の手を指してしまったという[17]。弟子[編集]
棋士となった弟子[編集]
名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
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渡辺正和 | 2008年10月1日 | 六段 |
(2022年3月16日現在)
- 渡辺(旧姓・吉田)は、朝日アマ名人戦優勝により奨励会初段受験の資格を得て合格し、2005年に神吉門で初段で入会。その後、三段リーグ次点2回により2008年に四段昇段している。
昇段履歴[編集]
- 1978年 1級 =奨励会入会
- 1979年 初段
- 1983年7月26日 四段 =プロ入り
- 1988年1月17日 五段(勝数規定)
- 1996年4月11日 六段(勝数規定)
- 2010年4月1日 七段(フリークラス昇段規定)[18]
- 2011年6月1日 引退
主な成績[編集]
- 通算成績
- 748対局 341勝407敗 勝率0.4559
- 珍記録
竜王戦において、第1期から第22期まで22期連続で昇級も降級もなく5組在籍(第23期以降は6組)。
在籍クラス[編集]
竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
開始 年度 |
順位戦 | 竜王戦 | ||||||||||||||||
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期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
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1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1984 | 43 | C241 | ||||||||||||||||
1985 | 44 | C207 | ||||||||||||||||
1986 | 45 | C212 | ||||||||||||||||
1987 | 46 | C211 | 1 | 5組 | -- | |||||||||||||
1988 | 47 | C216 | 2 | 5組 | -- | |||||||||||||
1989 | 48 | C216 | 3 | 5組 | -- | |||||||||||||
1990 | 49 | C230 | 4 | 5組 | -- | |||||||||||||
1991 | 50 | C229 | 5 | 5組 | -- | |||||||||||||
1992 | 51 | C213 | 6 | 5組 | -- | |||||||||||||
1993 | 52 | C245 | 7 | 5組 | -- | |||||||||||||
1994 | 53 | C226 | 8 | 5組 | -- | |||||||||||||
1995 | 54 | C229 | 9 | 5組 | -- | |||||||||||||
1996 | 55 | C216 | 10 | 5組 | -- | |||||||||||||
1997 | 56 | C244 | 11 | 5組 | -- | |||||||||||||
1998 | 57 | C209 | 12 | 5組 | -- | |||||||||||||
1999 | 58 | C226 | 13 | 5組 | -- | |||||||||||||
2000 | 59 | C232 | 14 | 5組 | -- | |||||||||||||
2001 | 60 | C235 | 15 | 5組 | -- | |||||||||||||
2002 | 61 | F編 | 16 | 5組 | -- | |||||||||||||
2003 | 62 | F編 | 17 | 5組 | -- | |||||||||||||
2004 | 63 | F編 | 18 | 5組 | -- | |||||||||||||
2005 | 64 | F編 | 19 | 5組 | -- | |||||||||||||
2006 | 65 | F編 | 20 | 5組 | -- | |||||||||||||
2007 | 66 | F編 | 21 | 5組 | -- | |||||||||||||
2008 | 67 | F編 | 22 | 6組 | -- | |||||||||||||
2009 | 68 | F編 | 23 | 6組 | -- | |||||||||||||
2010 | 69 | F編 | 24 | 6組 | -- | |||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |