羽田 (大田区)
羽田 | |
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町丁 | |
北緯35度32分52秒 東経139度44分46秒 / 北緯35.5478度 東経139.746128度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京 |
特別区 | 大田区 |
地域 | 蒲田地域 |
人口情報(2023年(令和5年)1月1日現在[1]) | |
人口 | 14,437 人 |
世帯数 | 8,848 世帯 |
面積([2]) | |
0.791836661 km² | |
人口密度 | 18232.3 人/km² |
郵便番号 | 144-0043[3] |
市外局番 | 03(東京MA)[4] |
ナンバープレート | 品川 |
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羽田︵はねだ︶は、東京都大田区の町名。現行行政地名は羽田一丁目から羽田六丁目。住居表示実施済区域。
地理[編集]
大田区の南東部に位置する。北辺は環八通りに接し、これを境に大田区東糀谷・羽田旭町に接する。東辺は海老取川に接し、これを境に大田区羽田空港に接する。南辺は多摩川に接し、対岸は神奈川県川崎市川崎区殿町・大師河原になる。西辺は産業道路に接し、これを境に大田区本羽田・萩中に接する。 北部を東西に京急空港線の線路が通っており、町域内に大鳥居駅の出口︵駅所在地は西糀谷︶・穴守稲荷駅があり、首都高速神奈川1号横羽線が南北に縦貫している。 駅付近には商業地があり、幹線道路沿いにはビルやマンションが見られるほかは、主に住宅と工場、漁業設備が混在している。また、羽田空港利用者向けの、宿泊施設やレンタカー業者の店舗も多く、航空安全や旅行安全で知られる穴守稲荷神社が鎮座している。防災[編集]
東京都都市整備局が2022年に公表した﹁地震に関する地域危険度測定調査︵第9回︶﹂では、羽田三丁目および六丁目は、地震に対する建物倒壊危険度・火災危険度および総合危険度が、五段階評価のうち相対的に最も危険とされる﹁レベル5﹂となった[5]。地価[編集]
住宅地の地価は、2023年︵令和5年︶7月1日の公示地価によれば、羽田5-25-16の地点で42万8000円/m2となっている[6]。歴史[編集]
本町は都の隅に在り、多摩川口の左岸に位し、東は東京灣に面してゐる。 穴守稻荷の存在に依つて古くから知られた漁村であるが最近東洋一の飛行場の設置に依つて共の名は世界的となつた。小田原北條氏の時代には羽田浦又は扇ケ浦と稱し家人行方彈正の所領となり、德川氏入國後は其の直領として代官を置かれた。元祿六年羽田村から羽田獵師町を分ち、同年更に羽田村から萩中村が分村し、文化十二年羽田獵師町から鈴木新田を分つた。天保十四年に幕府は海外の事情︵阿片戰爭︶に鑑み此地に奉行を置き老中眞田幸貫をして羽田奉行に任じ砲臺を築かしめた。明治元年品川縣に屬し、同年東京府の管下に入り明治二十二年に羽田、羽田獵師町、鈴木新田、糀谷、下袋、濱竹、萩中を合併して羽田村を編成したが同四十年十月町となった。漁業を以て生業としてゐる。 本町は蒲田より分岐して居る京濱電車と京濱バスを唯一の交通機関として居る。 敎育施設としては本町は面積廣き爲め、尋常高等小學校二、尋常小學校二を有する。逐年兒童が増加する結果全校二部敎授を施工するの止むなき狀態である。 其他實業補習學校二、靑年訓練所二、尋常夜學校一がある。尚東京府立工藝學校の實習所が設置されてゐる。 町内の社會事業としては方面委員制度の外見るべきものなく、町營以外では府立勞働紹介所出張所が町役場内に設置されてゐる外私設の羽田保育會託兒所がある。 町内の神社佛閣を通じて著名なものは穴守神社だけである。 — 昭和7年刊﹃市域拡張記念 大東京概観 第六節 蒲田區 羽田町﹄より 元々、羽田は平治年間ごろから漁業が行われた地域であり[7]、多摩川の河口にあって魚貝類が豊富に採れた。江戸時代には、羽田村のうち多摩川に面した一帯が、﹁羽田猟師町﹂と呼ばれる漁業専業の町となり、人家が集中し活況を呈した。 羽田猟師町が出来たのは、1693年︵元禄6年︶頃といわれ、漁村部が農村部と分かれる形で羽田村︵現・本羽田周辺︶から分村したもので、当初その境界はあいまいだったとされる。近代の羽田猟師町は概ね、現在の弁天橋通りの南側で、西の中村地区︵現大師橋の上手、流水部が堤防に接近して河原が無い辺り︶から、東の大東地区︵海老取川の際︶までの範囲。中心に﹁羽田の渡し﹂を有し、多摩川水運を利用した材木船、砂利船、年貢米輸送船などが多く、経済力を背景とした商人も多く存在していたという。﹃名所江戸百景﹄はねたのわたし︵歌川広重︶ なお﹁羽田の渡し﹂は別名﹁六左衛門の渡し﹂と称されるが、これは公許の渡しではなく、稲荷新田︵右岸︶の小島六郎左衛門組が営んでいた私設の渡しだったためである。正確には﹁六郎左衛門の渡し﹂或いは﹁六稲荷の渡し﹂と呼ぶ。江戸時代にはこうした村持ちの渡しとは別に、川舟がもぐりの駄賃稼ぎとして行う﹁脇渡船﹂というのが客を奪い、﹁六郷の渡し﹂の管理権を持っていた川崎宿はいつも倒産寸前の経営状態だったとされる。 羽田は多摩川の河口にあって魚貝類が豊富に採れたため、江戸城に新鮮な魚貝類を献上する﹁御菜八ヶ浦﹂の一つとして幕府から指定を受け、羽田猟師町は江戸湾における漁猟の優先的特権を有して繁栄した。 ﹁新編武蔵風土記稿﹂は羽田猟師町の項に、家数は300軒余りで、平田船15艘、茶船38艘があり、皆﹁御免言字御極印船︵ごめんげんのじごこくいんせん︶﹂であるとし、極印船は、昔大阪の役の際軍船を多く出したことによって極印を賜わったと説明している。 寛政の頃の﹁江戸近傍図﹂中、荏原郡付近の注釈に、﹁羽田村、漁士町の2ヵ所で300艘余りの漁船・商船・肥取船を持っている﹂ことが書かれている。︵昭和4年の統計では、羽田町の漁船及び艀船の数1492隻、漁業人口 9,350名などとなっている。︶ 羽田浦は漁猟とともに、江戸廻米の船運権益を一手に握っていた。即ち、多摩川流域村からの﹁津出し﹂︵幕府領の城米と旗本知行所などの年貢米を江戸へ回送する︶を、他の介入を許さずに独占して請負っていたのである。 流域の村々は城米や年貢米を最寄の船着場まで馬の背で運び出し、そこから羽田浦の船方に江戸への回送を委託したのである。多摩川を利用して津出しを行っていた村々は、下流域の六郷領・世田谷領・川崎領・稲毛領の沿川村にとどまらず、左岸では多摩郡中領︵府中・是政・石原・布田・国領など︶、右岸では都筑郡小机領・多摩郡柚木領にまで及んでいた。津出しの河岸は多くの場合古くからの渡船場が使われた。 多摩川は流れが速いわりに水量が少なく、羽田浦の茶船はせいぜい古市場︵現在のガス橋と多摩川大橋の中間︶の河岸までしか上れなかった。そこで川上の村には、船頭が平田船の船首に曳綱を結び、川岸づたいに引張りあげたという。平田船は羽田までの川下げ専用船で、羽田で海上輸送の茶船に積み替えられて江戸に運ばれた。 天明年間︵1780年代頃︶になると、武蔵国荏原郡羽田猟師町で代々名主をしていた鈴木彌五右衛門という人物が、羽田村・羽田猟師町の東方にある干潟︵羽田浦、今の羽田空港一丁目・二丁目付近︶に目をつけ、その数町歩にわたる干潟を埋め立てて、新しい田畑を開発することにした[8]。 そこで彌五右衛門はこの干潟を羽田村の名主石井四郎右衛門より譲り受けて、この干潟に堤防を作って開墾を始めた。この際、彌五右衛門は猟師町の名主職を嗣子に譲り、 自ら移り住んで開拓に取り組んだという。1815年︵文化12年︶頃には、近在農村の分家層でとくに大森村からの出百姓らが居住するようになり、新田としての形態が整えられた[9]。この開墾事業は無事に成功したが、東京湾や多摩川に面する埋立地という環境のため、常に高潮、洪水などの水害の危険を孕んでいた土地であった。そのため彌五右衛門は、作物を植えるところは高く土を盛り、また堤防を強くするために数千本の松の木を植えることにした。この松の防潮林は、その後成長すると、沖から眺めると非常に美しい景観となった。それでこの地は、その地形から﹁扇ヶ浦﹂とか、元々一つの小さな島があったことから﹁要島﹂と人々から呼ばれるようになる。また、彌五右衛門は堤防のほとりに小さな祠を建て、毎年の五穀豊穣と海上安全の守護を祈願して、のちの穴守稲荷神社となる稲荷大神を祀ることにする[8]。 1829年︵文政12年︶、この開墾地は羽田猟師町から分かれて﹁鈴木新田﹂と名付けられた。その後、羽田村・羽田猟師町・鈴木新田の三集落を合わせて﹁羽田三ヶ村﹂といわれるようになった[10]。 多摩川にさらす手作りさらさらに 何そこの児のここだ悲しき — 詠み人知らず ﹃万葉集﹄より 此地の眺望、最も秀美なり。東に滄海満々として旭日の房総の山に掛かるあり、南は玉川泥々として清流の冨峯の雪に映ずるある。西は海老取川を隔てて、東海の駅路あり、往来絡繹たり、北は筑波山峨々として、飛雨行雲の気象萬千なり。此島より相州三浦浦賀へは、午に當たりて海路凡そ八九里、南総木更津の港へは巳に當たりて海路八九里、南北総の界は卯に當たりて海路十三里計りを隔てたり、冨峯は西の方に見ゆ — ﹃江戸名所図会﹄より ︵文化五年十二月︶十七日、空くもりて日の出るを見ず。巳の時ばかりにやどを立ちいづ、野羽織半天を服し股引を穿ち草鞋をつく。六郷のわたりをこえて、八幡塚村の内ところどころ堤のくづれたる所おさむべきために、名主案内して、間棹をもて丈量す。 雑色村より羽田村までの道あししとて、日よけ船にのりゆく。ややありて猟師町にいり、羽田の方にむかふ。蝦取橋といふを渡りて、羽田の弁天の前なる棚橋をわたり、社に入る。 玉川弁財天といふ額を掲ぐ。ここは要島といふ所なり。別富を金生山龍王院といふ。年頃此神の宮居を遠くのぞみて一度もまうづる事なし。今日はからづもここに来れるを思ひて、白銀一つぶをささぐ。宇賀神の小祠あり、御穴宇賀神といふ。ここに常燈籠の高きありて、入来る船の目じるしとせしも、近頃はたえて、そのかたばかりを残せり — ﹃調布日記﹄より町村制施行以降の沿革[編集]
●1889年︵明治22年︶5月1日 - 町村制の施行に伴い、東京府荏原郡麹谷村・萩中村・鈴木新田・羽田猟師町・羽田村の全域が合併し、東京府荏原郡羽田村が発足。現・羽田にあたる地域は、東京府荏原郡羽田村大字羽田・大字羽田猟師町となる。 ●1902年︵明治35年︶6月28日 - 京浜電気鉄道の羽田支線︵穴守線︶の︵旧︶穴守駅が開業。 ●1907年︵明治40年︶10月4日 - 羽田村が町制施行して東京府荏原郡羽田町大字羽田・大字羽田猟師町となる。 ●1912年︵明治45年︶4月1日 - ﹁東京府神奈川県境界変更に関する法律﹂が施行され、羽田・羽田猟師町の各一部が神奈川県橘樹郡大師河原村に編入され分離する。 ●1913年︵大正2年︶12月31日 - 穴守線が鈴木新田まで延伸、穴守駅も移設される。 ●1914年︵大正3年︶ - ︵旧︶穴守駅付近に羽田駅が開業。 ●1915年︵大正4年︶1月 - 羽田駅を穴守方へ移設、稲荷橋駅に改称。 ●1932年︵昭和7年︶10月1日 - 荏原郡全域が東京市に編入。東京府東京市蒲田区羽田一~三丁目及び蒲田区羽田本町・蒲田区羽田御台場及び猟師町御台場と分割・改称された。 ●1943年︵昭和18年︶7月1日 - 東京都制により東京府と統合されて東京市は廃止。東京都蒲田区羽田一~三丁目となる。 ●1947年︵昭和22年︶3月15日 - 蒲田区が大森区と合併し、東京都大田区羽田一~三丁目となる。 ●1958年︵昭和33年︶ - 東京都大田区羽田一〜六丁目及び羽田旭町に分割・再編される。 ●1967年︵昭和42年︶9月1日 - 住居表示が実施される。地名の由来[編集]
﹃新編武蔵風土記稿﹄では未詳とするが[11]、 ●海老取川を挟んだ土地の形が鳥の羽のように見える、肥沃な田地だったこと。 ●低湿地を意味する﹁埴田﹂︵はにだ︶、あるいは開墾地を意味する﹁墾田﹂︵はりた︶から転じた。 ●鳥の羽が落ちる田地だった。 など、さまざまな説が挙げられている[12]。催事[編集]
穴守稲荷神社の例祭や初午祭等の祭礼日には、多くの人が訪れる。世帯数と人口[編集]
2023年︵令和5年︶1月1日現在︵東京都発表︶の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 世帯数 人口 羽田一丁目 1,168世帯 2,232人 羽田二丁目 1,046世帯 1,838人 羽田三丁目 1,488世帯 2,499人 羽田四丁目 1,702世帯 2,593人 羽田五丁目 2,081世帯 2,973人 羽田六丁目 1,363世帯 2,302人 計 8,848世帯 14,437人 人口の変遷[編集]
国勢調査による人口の推移。
人口推移 年 人口 1995年(平成7年)[13] 14,8132000年(平成12年)[14] 14,5302005年(平成17年)[15] 14,6642010年(平成22年)[16] 15,4332015年(平成27年)[17] 15,0182020年(令和2年)[18] 14,959世帯数の変遷[編集]
国勢調査による世帯数の推移。
世帯数推移 年 世帯数 1995年(平成7年)[13] 6,0572000年(平成12年)[14] 6,3932005年(平成17年)[15] 6,8362010年(平成22年)[16] 8,0252015年(平成27年)[17] 8,2092020年(令和2年)[18] 8,699学区[編集]
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年3月時点)[19][20]。
丁目 番地 小学校 中学校 羽田一丁目 1〜4番 大田区立羽田小学校 大田区立羽田中学校 5〜21番 大田区立萩中小学校 大田区立出雲中学校 羽田二丁目 全域 羽田三丁目 全域 大田区立羽田小学校 大田区立羽田中学校 羽田四丁目 全域 羽田五丁目 全域 羽田六丁目 全域 事業所[編集]
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[21]。
丁目 事業所数 従業員数 羽田一丁目 131事業所 1,611人 羽田二丁目 65事業所 354人 羽田三丁目 53事業所 478人 羽田四丁目 117事業所 1,209人 羽田五丁目 80事業所 498人 羽田六丁目 54事業所 610人 計 500事業所 4,760人 事業者数の変遷[編集]
経済センサスによる事業所数の推移。
事業者数推移 年 事業者数 2016年(平成28年)[22] 5462021年(令和3年)[21] 500従業員数の変遷[編集]
経済センサスによる従業員数の推移。
従業員数推移 年 従業員数 2016年(平成28年)[22] 4,6612021年(令和3年)[21] 4,760施設[編集]
- 大鳥居駅(東口)
- 穴守稲荷駅
- 穴守稲荷神社
- 羽田水神社・玉川弁財天
- 羽田特別出張所(羽田地域力推進センター内)
- 大田区立羽田小学校
- 大田区立羽田図書館
- 大田羽田郵便局
- 京急 EXイン 羽田
- アパホテル 羽田 穴守稲荷駅前
- 京浜急行バス羽田営業所
- 赤レンガ堤防
- 五十間鼻
- さわやか信用金庫 穴守支店
- スカイプラザビル(旧日本航空訓練センター)
- スカイレンタカー 羽田空港店
- 大師橋・高速大師橋
- トヨタレンタカー 羽田空港店
- 日産レンタカー 羽田空港店
- ニッポンレンタカー 羽田空港営業所
- plat hostel keikyu haneda home
- ホテルエアポートイン
- ホテルマイステイズ羽田
- ヤマト運輸 羽田センター
その他[編集]
日本郵便[編集]
脚注[編集]
(一)^ ab“住民基本台帳による東京都の世帯と人口(町丁別・年齢別) 令和5年1月” (CSV). 東京都 (2023年4月6日). 2023年12月17日閲覧。 “︵ファイル元のページ︶”(CC-BY-4.0) (二)^ “﹃国勢調査町丁・字等別境界データセット﹄︵CODH作成︶”. CODH. 2023年12月16日閲覧。(CC-BY-4.0) (三)^ ab“羽田の郵便番号”. 日本郵便. 2023年11月17日閲覧。 (四)^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。 (五)^ “地域危険度一覧表‥大田区”. 東京都都市整備局 (2022年9月). 2023年1月29日閲覧。 (六)^ “国土交通省地価公示・都道府県地価調査”. 国土交通省. 2023年11月17日閲覧。 (七)^ 京急電鉄︵2008︶、P10。 (八)^ ab森重和雄﹃羽田時空旅行〜観て・知る・歩く羽田〜﹄出版舎風狂童子、2021年12月22日、40頁。 (九)^ 大田区史編纂委員会﹃大田区史 中巻﹄東京都大田区、1992年、571頁。 (十)^ 森重和雄﹃羽田時空旅行〜観て・知る・歩く羽田〜﹄出版舎風狂童子、2021年12月22日、40頁。 (11)^ 新編武蔵風土記稿 羽田村. (12)^ 京急電鉄︵2008︶、P8~9。 (13)^ ab“平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。 (14)^ ab“平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。 (15)^ ab“平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。 (16)^ ab“平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。 (17)^ ab“平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。 (18)^ ab“令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。 (19)^ “区立小学校通学区域一覧” (XLSX). 大田区 (2023年3月30日). 2023年12月16日閲覧。 “︵ファイル元のページ︶”(CC-BY-4.0) (20)^ “区立中学校通学区域一覧” (XLSX). 大田区 (2023年3月30日). 2023年12月16日閲覧。 “︵ファイル元のページ︶”(CC-BY-4.0) (21)^ abc“経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数︵町丁・大字別結果︶”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。 (22)^ ab“経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。 (23)^ “郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年10月28日閲覧。参考文献[編集]
●﹃京急グループ110年史 最近の10年﹄京浜急行電鉄、2008年。 ●﹁羽田村﹂﹃新編武蔵風土記稿﹄ 巻ノ40荏原郡ノ2、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763981/11。関連項目[編集]
外部リンク[編集]