蜂須賀綱通
表示
蜂須賀綱通 | |
---|---|
蜂須賀綱通像 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 明暦2年2月18日(1656年3月13日) |
死没 | 延宝6年7月30日(1678年9月15日) |
改名 | 千松丸(幼名)、正能(初名)、綱通 |
戒名 | 徳音院霊海文瑛 |
墓所 | 徳島県徳島市下助任町の興源寺 |
官位 | 従四位下・侍従、阿波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 阿波徳島藩主 |
氏族 | 蜂須賀氏 |
父母 | 蜂須賀光隆、金姫 |
兄弟 | 綱通、幸姫 |
妻 | 嶺松院 |
子 | 綱矩、賀島重郷正室 |
蜂須賀 綱通︵はちすか つなみち︶は、阿波国徳島藩の第4代藩主。
興源寺の墓所︵徳島県徳島市下助任町︶
3代藩主蜂須賀光隆の長男。幼名は千松丸、初名は正能︵まさよし︶。
寛文2年︵1662年︶、7歳の時に将軍家初見。当時の第4代将軍徳川家綱の偏諱を受けて綱通と改名。寛文6年︵1666年︶、父の死去に伴い、11歳で徳島藩4代藩主となる。
●若年のため、叔父の蜂須賀隆重の補佐を受ける。︵寛文6年︵1666年︶ - 寛文12年︵1672年︶9月28日︶
綱通は、寛文12年︵1672年︶に徳島城の防御と物資輸送の便のために旧吉野川と別宮川︵現吉野川︶をつなぐ水路を開削して、現在の吉野川や吉野川第十堰のもとになったことで知られている。
延宝5年︵1677年︶、若狭小浜藩主酒井忠直の下から堀田正信を預かった。
●堀田は佐倉藩第2代藩主であったが、所領没収・配流の身。
●延宝8年︵1680年︶、堀田が第4代将軍・徳川家綱の死に際して自害の殉死。徳島藩は責任を負って藩主閉門となる。
延宝6年︵1678年︶、23歳で死去。戒名は徳音院霊海文瑛。
子がなかったため、後継の藩主には従弟︵叔父・蜂須賀隆矩の長男で第2代藩主蜂須賀忠英の孫︶にあたる蜂須賀綱矩が就任した。
墓所は徳島県徳島市助任の興源寺。
生涯[編集]
官職位階[編集]
系譜[編集]
参考文献[編集]
- 『蜂須賀家記』