蜂須賀綱矩
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蜂須賀綱矩 | |
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蜂須賀綱矩像 | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛文元年5月28日(1661年6月24日) |
死没 | 享保15年11月7日(1730年12月16日) |
改名 | 熊太郎(幼名)、龍之(初名)、綱矩 |
墓所 | 徳島県徳島市下助任町の興源寺 |
官位 | 従四位下淡路守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 阿波徳島藩主 |
氏族 | 蜂須賀氏 |
父母 |
父:蜂須賀隆矩、母:松平宣助の娘・七 養父:蜂須賀綱通 |
妻 |
正室:奥津庸広の娘・園 継室:安西作左衛門の娘・架 側室:横山氏、福島氏 |
子 | 吉武、隆寿、宗員、蓮光院、小笠原忠貞室、大久保忠興婚約者、安藤信尹婚約者ら |
蜂須賀 綱矩︵はちすか つなのり︶は、阿波国徳島藩の第5代藩主。
興源寺の墓所︵徳島県徳島市下助任町︶
長命であり多くの子をもうけたが、嫡男・吉武には夭折され︵享保10年5月2日︵1725年6月12日︶没︶、支藩阿波富田藩の蜂須賀隆長のもとに養子に出ていた四男・宗員を呼び戻して嗣子としている。享保13年︵1728年︶隠居し、家督を宗員に譲った。宗員は富田藩3代藩主だった為に跡継ぎが居なくなり廃藩。本家に吸収された。
享保15年︵1730年︶死去。享年70。
生涯[編集]
蜂須賀隆矩︵徳島藩第2代藩主・蜂須賀忠英の四男︶の長男。母は紀州藩士・松平宣助の娘・お七。初名は龍之︵たつゆき︶。 延宝6年︵1678年︶、従兄の第4代藩主・蜂須賀綱通が23歳で実子なくして亡くなったため、その養子という形をとって第5代藩主となる。若年のため、伯父の蜂須賀隆重の補佐を受ける︵延宝6年10月7日~元禄4年︵1691年︶閏8月28日︶。慣例により、綱通と同様、第4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて綱矩︵﹁矩﹂は実父・隆矩の1字︶と改名する。 延宝6年︵1678年︶、伯父の蜂須賀隆重に5万石の分知を与えて阿波富田藩を立藩させている。 延宝8年︵1680年︶5月8日に家綱が死去したが、先代の頃から預かっていた堀田正信が5月30日に殉死、責任を問われて7月19日に第5代将軍・徳川綱吉から閉門を命じられた。11月27日には閉門を免ぜられた。 なお、綱矩の代の享保12年︵1727年︶、陸奥守山藩主松平頼貞のとりなしで、初代以来不通であった福岡藩主黒田家と和解している。松平頼貞正室は、伯父・蜂須賀隆重の次女である。系譜[編集]
- 父:蜂須賀隆矩
- 母:お七 - 松平宣助の娘
- 養父:蜂須賀綱通(1656-1678)
- 正室:園 - 蒼涼院、奥津庸広の娘
- 次男:蜂須賀吉武(1692-1725)
- 継室:架 - 架祥院、安西作左衛門の娘
- 四男:蜂須賀宗員(1709-1735)
- 側室:横山氏
- 側室:福良氏
- 女子
- 側室:某氏
参考文献[編集]
- 『蜂須賀家記』