青木一矩
青木一矩 / 青木秀以 青木重吉 | |
---|---|
時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 生年不詳 |
死没 |
慶長5年10月6日[1][2](1600年11月11日) または慶長5年10月10日[3][4][5](1600年11月15日) |
改名 |
[通説1]青木一矩 → 青木重治 → 青木秀以 [通説2]青木一矩 → 青木秀以 → 青木重吉→ 青木秀政 [黒田説]青木重吉 |
別名 |
重治、重吉、秀以、秀政[5]、羽柴秀以 通称:勘兵衛、勘七、青木紀伊守、羽柴越府侍従、羽柴府中侍従、羽柴北庄侍従 |
戒名 |
西江院殿前紀州太守長英傑山大居士[1] 南昌院殿良翁宗榮大居士[1] |
墓所 | 旧南昌院[6] (京都市東山区) |
官位 | 紀伊守、従五位下侍従 |
主君 | 羽柴秀長→豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 青木氏(羽柴氏、豊臣氏) |
父母 |
[通説]父:青木重矩、母:大恩院[注釈 1](関兼貞[注釈 2]の三女、大政所の妹) [黒田説]父母不明 |
兄弟 | 一矩(秀以、重吉)、矩貞(半右衛門)[1]、女[1] |
妻 | 高樹院[1]、西陽院[1] |
子 |
俊矩[猶子とも言う][注釈 3]、 蓮華院[7][8](徳川家康側室、のち本多正純継室)、光岩院[注釈 4] |
青木 一矩︵あおき かずのり︶は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の従兄弟。豊臣家の一門衆。越前国の大野城および府中城、次いで北ノ庄城の城主。千利休に師事した茶人としても知られ[9]、名物の所持者でもあった。
生涯[編集]
名前[編集]
通称の青木紀伊守︵あおき きいのかみ︶がよく用いられるが、諱は複数伝わっており、青木 秀以︵あおき ひでもち︶の名でも知られる[10]。 黒田基樹によると、本人の発給文書をはじめとする一次史料で確認できる実名は﹁重吉﹂のみであるとして、青木 重吉︵あおき しげよし︶にすべきであるという[注釈 5]。ただし高柳光寿は、一次史料にある﹁自署の名は読めない﹂[5]と書いており、悪筆により諱は判読不明であるとして青木紀伊守を用いている。通説では、初め勘兵衛一矩を名乗り、次いで重治、偏諱を受けて秀以と改めた[11]か、または一矩、秀以、重吉、秀政︵ひでまさ︶の順とする[5]。 このように人物比定が不確かであるため、経歴をしばしば青木一重とも混同されるが、これは別人である[5][注釈 6]。出自[編集]
通説によれば、美濃国大野郡揖斐庄の住人青木重矩︵勘兵衛、一董︶の子として生まれた[11]。﹃青木系図﹄では、藤原氏魚名流の青木氏として作られており、一矩は元弘3年︵1333年︶に恒良親王を奉じて千種忠顕らと共に挙兵した青木以季・義季親子の8代孫にされている[1][注釈 7]。 通説によれば、一矩の母・大恩院[注釈 1]は、秀吉の生母である大政所︵天瑞院︶の妹[2][12]︵一説には姉︶で、秀吉の叔母︵または伯母︶にあたる。秀吉が大政所の侍女に宛てた下記の書簡が根拠となる。 又申候。われらおばのきのかみはゝ[注釈 8]、大まんどころに、きにちがい候にて、めいわく申候はんまゝ、かわいく候間、わび事の文を大まんどころへ進上候間、ひろう — 桑田忠親著作集 第7巻[13] 桑田忠親はこれを以て、青木紀伊守秀以︵一矩︶と秀吉とは従兄弟の関係に当たるとしている[13]。母は後年は大政所の侍女を務めた。 黒田も、同じ書簡から重吉︵一矩︶の母が秀吉の﹁おば﹂であり、重吉が秀吉の従兄弟であるのは間違いないとするが、それ以外の素性は一次史料では不明として、豊臣政権の譜代大名で﹁公家成・羽柴名字﹂という厚遇を受けたのが福島正則・青木重吉の二人のみであることに着目し、﹁二人は秀吉の父方の従兄弟であったと考えるべき﹂との別の主張をしている[3][注釈 9]。略歴[編集]
最初、羽柴秀長に仕え[14]、天正11年︵1583年︶の賤ヶ岳の戦いに従軍[15][5]。 天正13年︵1585年︶4月の紀州征伐で秀長に従って湯川直春を破った[2]。同年5月の四国遠征に従軍した功で、知行1千石から一気に1万石に加増され[5][16]、紀伊国入山城[注釈 10]︵にゅうやまじょう︶主となる[5][注釈 11]。﹃武家事紀﹄では秀長家臣の筆頭に列せられ[17]﹁秀長ノ輔佐タリ﹂[18]とある。 富山の役の後、天正14年︵1586年︶に金森長近が飛騨国へ移封されることになり、旧領である越前国大野郡[注釈 12]に転封が命じられた[3]。実際に越前に移ったのは天正15年︵1587年︶頃と推測され[16]、この頃から豊臣秀吉に直仕した[5][15]。同年、播磨国[注釈 13]立石城に転封[5][15]になるが、再び越前国に戻され、大野城8万石の加増となった[5][15][注釈 14]。 天正18年︵1590年︶、小田原征伐に従軍し[5][15]、﹃小田原陣陣立﹄によると1,000名を率いた[19]。 文禄元年︵1592年︶の文禄の役に従軍[5][15]。1,000人︵1,400人︶を率いて肥前名護屋城に在陣している[20]。同年、山城国淀に転封となった木村重茲の旧領である越前府中城︵10万石[2]︶に移封となった[注釈 15][注釈 16]。 文禄2年︵1593年︶閏9月10日、名護屋城在陣中に、家臣の八木村与四郎が無断で国に帰ったかどで処罰して、放逐した[21]。文禄3年︵1594年︶1月25日、秀吉が島津義久に建造を命じていた船舶10隻の受け取りを寺沢正成と共に命じられた[22]。同年春に伏見城の普請分担に参加[5][15]。 慶長2年︵1597年︶7月21日に従五位下侍従に叙任されて豊臣姓を賜った[5][15][注釈 17]。これにより、羽柴越府侍従や羽柴府中侍従を称し、以後、通称としては羽柴紀伊守を用いた[3]。 慶長3年︵1598年︶8月、秀吉が死去すると、遺物として太郎坊兼光の刀を賜る。葬儀では従兄弟である福島正則と共に秀頼の名代を務めた。 豊臣政権が五大老による合議で運営されはじめると、慶長4年︵1599年︶、秀吉遺命として、2月5日付けで徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行されて、すでに命じられていた小早川秀秋の越前北ノ庄への転封が取り消されて、その旧領の筑前名島城へ復帰したので、代わって、府中の一矩が北ノ庄21万石︵20万石ともする︶への加増・転封が命じられ、越前北ノ庄城主となった[5][15][3][23]。以後、羽柴北庄侍従を称する[注釈 18][注釈 19]。ただし、同年1月14日に石田三成と上杉景勝を奉行として府中分の知行は蔵入地に編入されたということで[24]、北ノ庄の石高を8万石とする史料も少なくない[25][26]。府中は隠居領として堀尾吉晴に与えられた[27]。関ヶ原の役における動向[編集]
慶長5年︵1600年︶に関ヶ原役が起こった際の一矩の動向については諸説あるが、何れにしても、戦役が始まった時に一矩は病床にあって出陣は叶わなかった[5]。 大谷吉継ら北陸の諸将と共に西軍に味方したとするものが多く[5][15][12][25][注釈 20]、越前国で東軍に与したのは堀尾吉晴のみとするのがほとんどだが、北陸戦線では豊臣恩顧の諸大名が入り乱れて戦い、越前衆は本戦で寝返っているので情勢は複雑であった。﹃野史﹄では、初めは徳川家康の東軍に属して、次に右衛門佐︵俊矩︶と共に石田三成の側の西軍に付いたと書かれている[29]。﹃福井県史﹄ではその逆に、北ノ庄の﹁青木一矩﹂は﹁去就は微妙な点もあったが、最終的には東軍に付き……﹂[4]と書いて、府中の堀尾可晴︵吉晴︶と同じく最終的には東軍に与したとしている[4][注釈 21]。 北陸線戦の東軍の中でいち早く軍事行動を起こした前田利長は、7月26日に2万5千の大軍を率いて金沢城を発して南下し、丹羽長重の籠もる小松城を迂回して山口宗永親子の大聖寺城に向かい、前田家の武将山崎長徳の活躍で山口勢の伏兵を撃破すると、余勢を駆って8月3日に一気に城を落とした[30]。この段階で前田勢の大軍に恐れを成した北ノ庄の一矩や丸岡城の青山宗勝は恭順の意を示していたが、8月5日に利長は突如、北ノ庄の包囲を解いて、踵を返して北への撤退を始めた。そして帰途に於いて、前田勢は浅井畷の戦いで丹羽長重に大敗を喫してしまい、金沢に退却。北陸戦線は膠着状態に陥った。吉継らの北陸勢は三成の指示で関ヶ原本戦に召集されるが、一矩は北国口に留まった[2]。9月13日、決戦を前にして、家康は加賀にいた土方雄久に命じ、前田利長に丹羽長重と青木一矩とは講和するように伝えさせていた[31]。 関ヶ原本戦で西軍が敗戦した後、前田利長の軍勢が再び越前に侵攻して鳴鹿川︵竹田川︶を渡って北ノ庄に迫ったが[2]、すでにこの時には一矩は死の淵にあり、10月10日[5]︵6日とも[1][2]︶に病死した。法名は西江院傑山長英居士[2]。 利長の嘆願があったが、一矩の罪は許されずに、除封となった[32]ともいうが、﹃福井県史﹄では﹁関ケ原後も所領に変化はなかった。しかし慶長五年十月十日、一矩が病死したことで除封となり、その跡に保科正光が在番として入った﹂とある[4]。﹃廃絶録﹄には青木紀伊守一矩の名前があり、﹁関原役畢︵おわり︶てのち前田利長によりて降参す﹂と書かれていて[26]、﹃福井県史﹄表5の内容と異なる。﹃福井県史﹄は領地を安堵された[4]というが、処分未定のまま病死して、結果的に没領となったようである。﹃武家事紀﹄では、東軍に内応していたものの、﹁紀伊守初ヨリ不義ノ企ニクミセシ罪﹂[33]によりて領地没収とある。子孫[編集]
一矩の病死によって、北ノ庄の所領は除封された[5][3]。前田利長は、隣国のよしみからこれを哀れみ、土方雄久を仲介として嫡男[注釈 3]俊矩︵越前金剛院城主2万石︶に降伏するように説得し、利長は俊矩を連れて大津の徳川家康の本陣に赴いて、拝謁を取り計らったが、許されず、青木家は全て改易となった[34]。 また、娘の蓮華院︵お梅の方/於梅︶は、﹃幕府祚胤伝﹄では、六角家臣の青木紀伊守丹治一矩の娘として、丹治青木氏で六角家臣の青木氏の娘という華陽院の姪であるという理由で、慶長年中に召出されて奥勤︵おくづとめ︶となって、徳川家康の﹁寵を賜り﹂お手付きとなったと書かれているが[8]、前述のように一矩は丹治青木氏ではないし、華陽院と親戚であるというのも考え難い。豊臣家との繋がりを憚って仮冒したものと思われる。ともかく、お梅の方は、家康の側室となり、その﹁二妻十五妾﹂の一人に数えられている[8]。しばらく後、︵妻を亡くした︶本多正純に下賜され、その継室となったが、正純の失脚後には尼となり[7]、駿府で退居して、後に京に移り、さらに伊勢山田に居を構えて、同地で亡くなった[8]。系譜[編集]
※黒田説では父母は不詳脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ abc法号は大恩院殿日陽慶春大姉。
(二)^ abまたは関兼員ともいう。いずれも美濃の鍛冶師。
(三)^ ab一説には弟矩貞の長男で、甥であり、一矩の猶子であったとする[1]。
(四)^ 光岩院殿華清法春大姉。青木紀伊守の娘とある[1]。
(五)^ ﹁一矩﹂あるいは﹁秀以﹂という名は、江戸時代以後の編纂物のみに現れるので、黒田基樹は﹃今後は﹁青木重吉﹂と正確に表記すべき﹄と主張している[3]。
(六)^ 青木一重は同じ美濃出身で、今川氏真や家康に仕えた後、徳川家を出奔して丹羽長秀、そして秀吉に仕え七手組の組頭の一人となり、大坂の陣後に再び家康に仕えた。﹃青木系図﹄では一矩の祖父・重任と一重の祖父・重藤は兄弟とされており、それが正しければ同じ曽祖父をもつ重藤-重直-一重と重任-重矩-一矩︵重吉︶という関係となる。一重は丹治氏を祖とする青木氏を称している。
(七)^ ただし同系図では、丹治氏青木を称する青木重直︵一重の父︶の一族とも同族とされており、﹃寛政重修諸家譜﹄と整合しない。これは秀吉の引き立てで大名となった一矩が出身に箔を付けるため仮冒したか、家康に仕えるうえで秀吉に近い一矩との関係を嫌った重直や一重の一族が偽ったのか、そもそも同族ではないのかは定かではない。
(八)^ ﹁紀︵伊︶の守の母﹂の意味。
(九)^ ただし通説では福島正則も母方の従兄弟で、正則の母・松雲院も大政所の姉妹とされている。秀吉の父方の系譜がわかる史料は存在しないので、黒田説は現在のところはまだ仮説である。
(十)^ 和歌山県日高郡みなべ町︵旧南部川村︶。
(11)^ ﹃玉置覚書﹄による[5]。
(12)^ 4万5千石と推定される[16]。
(13)^ 実際に立石城があるのは摂津国で、明石城の誤記や歴代城主との混同も考えられるが、出典に従った。
(14)^ ﹃青木系図﹄﹃越前人物誌﹄﹃福井市史﹄によれば、これらは九州の役の戦功という[1][2][12]。
(15)^ ﹃越前国誌﹄による[5]
(16)^ ただし、黒田はこれを文禄4年︵1595年︶のこととする[3]。
(17)^ 公家成。口宣案が現存。
(18)^ ﹃毛利家文書﹄による[5]
(19)^ 同じく羽柴北庄侍従と称された堀秀治とは、官位や羽柴姓拝領なども同じである。
(20)^ 笠谷和比古は﹁青木一矩﹂は西軍に属したとしている[28]。
(21)^ 黒田も﹁青木重吉﹂は東軍に味方したとする[3]。
出典[編集]
(一)^ abcdefghijklmnop“青木系図”. 東京大学史料編纂所. 2017年1月9日閲覧。
(二)^ abcdefghi福田 1910, p. 100
(三)^ abcdefghi黒田 2016, pp. 107–111, ﹁青木重吉﹂
(四)^ abcde“第一章﹁織豊期の越前・若狭﹂第三節﹁豊臣政権と若越﹂一﹁越前・若狭の大名配置―慶長五年九月”. ﹃福井県史﹄通史編3 近世一. 2017年1月8日閲覧。
(五)^ abcdefghijklmnopqrstuvw高柳 & 松平 1981, p.3
(六)^ 旧大雲院塔頭で、大雲院の移転後は、独立したが廃寺。
(七)^ ab秋元茂陽﹁側室 お梅の方﹂﹃徳川将軍家墓碑総覧﹄星雲社、2008年、70頁。ISBN 9784434114885。
(八)^ abcd高柳金芳﹃国立国会図書館デジタルコレクション 史料徳川夫人伝﹄人物往来社、1967年。
(九)^ 守田公夫﹃名物裂の成立﹄奈良国立文化財研究所、1970年。
(十)^ "青木秀以". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2022年10月23日閲覧。
(11)^ ab福田 1910, p. 99
(12)^ abc石橋重吉 1941, p. 84.
(13)^ ab桑田忠親﹃桑田忠親著作集 第7巻 (戦国の女性)﹄秋田書店、1979年、251頁。ASIN B000J8BBR4
(14)^ 桑田 1971, p. 158.
(15)^ abcdefghij阿部 1990, p. 10
(16)^ abc“第一章﹁織豊期の越前・若狭﹂第三節﹁豊臣政権と若越﹂一﹁越前・若狭の大名配置―金森長近の飛騨転封”. ﹃福井県史﹄通史編3 近世一. 2017年1月8日閲覧。
(17)^ 桑田 1971, p. 60.
(18)^ 山鹿素行﹁国立国会図書館デジタルコレクション 第十四続集・青木紀伊守﹂﹃武家事紀. 上巻﹄山鹿素行先生全集刊行会︿山鹿素行先生全集﹀、1915年。
(19)^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編﹁国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣秀吉小田原陣陣立﹂﹃大日本古文書. 家わけ 三ノ一︵伊達家文書之一︶﹄東京帝国大学、1908年、619頁。
(20)^ 吉村茂三郎 著﹁国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記﹂、吉村茂三郎 編﹃松浦叢書 郷土史料﹄ 第1、吉村茂三郎、1934年、126頁。
(21)^ 史料綜覧11編913冊34頁.
(22)^ 史料綜覧11編913冊47頁.
(23)^ “第一章﹁織豊期の越前・若狭﹂第三節﹁豊臣政権と若越﹂一﹁越前・若狭の大名配置―青木一矩の北庄入部”. ﹃福井県史﹄通史編3 近世一. 2017年1月8日閲覧。
(24)^ 史料綜覧11編913冊184頁.
(25)^ ab小和田泰経 & 小和田哲男︵監修︶ 2014, p. 58
(26)^ ab近藤瓶城 編﹁国立国会図書館デジタルコレクション 廃絶録﹂﹃史籍集覧. 第11冊﹄近藤出版部、1926年、3頁。
(27)^ 史料綜覧11編913冊186頁.
(28)^ 笠谷 2007, p. 40, ﹁西軍武将一覧﹂
(29)^ 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 2.
(30)^ 小和田泰経 & 小和田哲男︵監修︶ 2014, pp. 58–59.
(31)^ 史料綜覧11編913冊261頁.
(32)^ 参謀本部 1911, p. 232-233.
(33)^ 山鹿 1915, p. 511.
(34)^ 福田 1910, p. 100-101.