非核神戸方式
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非核神戸方式︵ひかくこうべほうしき︶とは、核兵器の港への持ち込みに対する地方公共団体の対応方針のこと。非核三原則の自治体版とも表現される。神戸市は神戸港に寄港する外国軍の艦船に核兵器を搭載していないことを証明する﹁非核証明書﹂の提出を義務付けている。
概要[編集]
1975年︵昭和50年︶3月18日に神戸市の議会である﹁神戸市会﹂が﹁核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議﹂を可決して以降行われている。採択後、フランス軍やイタリア軍、インド軍などの艦船が証明書を提出して神戸港に入港しているが︵イギリス海軍も証明書を提出、“違反した場合は寄港拒否も甘んじて受ける”と表明している︶、アメリカ海軍は神戸港のこの方式を批判して近隣の姫路港には寄港するものの神戸港には寄港の意志すら示すこともなかった。 運用面において神戸港に寄港する外国軍の艦船に書類提出を義務付けているのは神戸市港湾施設条例の規定[1]に基づいているが、非核証明書提出などの非核神戸方式自体は市議会決議に留まり、条例で明記されたものではない。また非核神戸方式の運用も行政指導として機能しているのみで、文書に従い行政職員などが立ち入り調査をする権限はない。 神戸港の他にも函館港、高知港、鹿児島港などで条例化を目指して検討されている。経緯[編集]
第二次世界大戦での日本の敗戦のあと、神戸港は連合国軍の占領下に置かれたが、1951年︵昭和26年︶には解除されている。しかし、新港第6突堤は朝鮮戦争やベトナム戦争におけるアメリカ軍専用の修理補給基地として接収されたままになっていた。 ベトナム戦争のクリスマス休戦期間には、三宮や元町の繁華街にアメリカ軍兵士が溢れて一般市民とのトラブルを絶えず起こしていた。やがて、﹁米兵のいない静かなクリスマスを﹂といったスローガンを掲げたクリスマス闘争と呼ばれる市民運動や、新港第6突堤返還を求める港湾労働者の運動が頻発するようになる。 戦争の終結後、アメリカ軍がベトナムから撤収した翌年の1974年︵昭和49年︶には神戸港からも完全撤収するに至る。そして、翌1975年︵昭和50年︶に神戸市会では、港の平和利用を担保する事を非核三原則に則り、﹁核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議﹂を全会派一致で採択し、入港する外国軍の艦船に﹁非核証明書﹂の提出を義務付けた。この政策を導入した当時の市長・宮崎辰雄は、イデオロギーと関係なく実務的におこなった、非核三原則の存在を前提にそれを現実化する手続を作っただけと述べているが、その一方で証明書を出さない艦船は入港を拒否するし、それでも入港するなら信義の問題として抗議すると述べたことも指摘されている[2]。弊害[編集]
1995年に発生した阪神・淡路大震災の際、米軍艦艇を神戸港に派遣して救援活動を行う案がアメリカから打診されていたが、神戸市は条例を理由に難色を示し、実現に至らなかった[3]。脚注[編集]
(一)^ 第3条﹁港湾施設を使用しようとする者は、市長の許可を受けなければならない﹂・第5条﹁市長は、許可又は承認を受けようとする者が次の各号の一に該当する場合においては、許可又は承認を与えてはならない。(2)その使用内容が港湾環境を悪化させるおそれがあるとき。(4)その使用内容が公の秩序を乱すおそれがあるとき。﹂・第6条﹁市長は、この条例又はこれに基づく規則の規定による許可又は承認には、港湾施設を保全し、適正かつ効率的に使用し、使用に係る危険を防止し、秩序を維持し、又は環境を保全するために必要な条件を付し、及びこれを変更することができる﹂第36条﹁市長は、必要があると認めるときには使用者に対し取扱い貨物、けい留船舶、その他港湾施設の使用に関する事項について関係書類の提出を求めることができる﹂
(二)^ 川口徹﹁1975年の非核神戸方式を巡る中央地方関係﹂﹃社学研論集﹄第16巻、早稲田大学大学院社会科学研究科、2010年9月、43-53頁、CRID 1050001202488996224、hdl:2065/33599、ISSN 1348-0790、2023年12月27日閲覧。
(三)^ ︻平成30年史 大震災の時代(2)︼阪神大震災の一報に気づいたのは警備員だった 米軍の救援案に﹁核兵器は?﹂と難色が示された︵4/5ページ︶ - 産経ニュース 2017.3.7 07:00
参考文献[編集]
- 大川義篤『非核「神戸方式」』兵庫部落問題研究所〈ヒューマンブックレット〉、1992年。ISBN 4-89202-092-3。