高千穂宣麿
高千穂 宣麿︵たかちほ のぶまろ、1865年1月12日︵元治元年12月15日[1][2][3]︶- 1950年︵昭和25年︶12月23日[1][4]︶は、明治から昭和前期の神職、昆虫学者、政治家。貴族院議員、英彦山神社宮司、男爵。東山天皇の男系八世子孫である。
生涯[編集]
中納言徳大寺実則の二男として山城国京都に生まれる[1][2]。1870年︵明治3年︶一家で東京に移住。父実則は明治天皇の侍従となり、侯爵︵のち公爵︶を叙爵した。 訓蒙学舎、学習院、学農社農学校などに学び、11歳頃から小石川の薬園︵東京大学小石川植物園︶や御成門の開拓使博物館に通って動植物への興味を満足させる。 1877年、学習院に入学。昆虫の標本作りに熱中する。博物学に志し、神田の共立学校︵現‥開成中学校・高等学校︶に通って、大学予備門への入学を目指していたが、1883年︵明治16年︶6月、高千穂栄子︵しげこ︶の養子となり[1]︵6月13日承︶豊前英彦山の座主高千穂家を継ぐことになったため、学業を中断して西に下り、英彦山神社の宮司となる[2][3]。1884年︵明治17年︶7月8日、男爵を叙爵した[5]。 英彦山の大自然で生物の採集と観察に熱中し、1888年、日本人として初めてタカチホヘビを採集。 1900年、英彦山神宮の社務所の付近に高千穂昆虫学実験所を設立。1902年、コーネル大学留学を終えた桑名伊之吉を迎え、九州昆虫学研究所と改称。 1907年︵明治40年︶8月3日、補欠選挙で貴族院男爵議員に選ばれ[6]東京に転居。1911年︵明治44年︶7月9日に任期満了となる[注釈 1]。1918年︵大正7年︶まで、農商務省農事試験場にて、桑名たちと共に害虫の飼育研究を行う。同年7月10日、貴族院議員に再選された[7]。1913年からは東京帝室博物館︵東京国立博物館︶天産部にて昆虫標本を整理。1925年︵大正14年︶7月9日、貴族院議員の任期が満了し[4]、再び彦山に移住。 1935年から1936年にかけて、研究所の一切を九州帝国大学に寄付。以後、九州帝国大学彦山生物学研究所と改称。自らもこの研究所で嘱託として勤務した。1950年、85歳で死去。家族[編集]
●父‥徳大寺実則 ●母‥嘉年子︵山内豊資の六女︶[8] ●養父‥高千穂有綱 - 英彦山座主・高千穂教有の子。教有の妻栄子は醍醐輝弘の四女[9]。 ●妻‥芳子 - 室町公賀の二女。伯爵室町公大の妹。[10][11] ●長男‥俊麿︵1887年1月10日-1963年3月31日[1]︶- 英彦山神社大宮司。妻のユキエ (1895-1987) は筑豊炭鉱主・角銅朝太郎の長女。 ●孫‥有孚︵1915年8月19日生[1]︶ ●曾孫‥宣比古︵1950/12/10生[1]︶ ●妻‥純子︵1952/12/13生、吉美源四郎次女[1]︶ ●孫‥有智︵1918/9/5生[1]︶ ●孫‥有英︵1924/6/1生[1]︶ ●次男‥和麿︵1895年9月26日-1909年11月9日[1]︶ ●三男‥福麿︵1898年6月17日-1972年2月9日[1]︶ ●長女‥喜巳子 - 栗田保善の養女 ●次女‥小松 - 陸軍航空本部付陸軍大佐・高松岩根の妻 ●妾‥岡田セツ - 庶子多数[12] ●妾‥中谷シヅ - 庶子あり[12] ●父方の叔父に西園寺公望がいる[8]。高千穂家[編集]
後伏見天皇の皇子長助法親王の子孫で、17代を代々僧家として僧正の位を継ぎ、18代目の権僧正・通綱︵1824-1872、鷹司政通の猶子︶は、文久3年攘夷を祈願して萩藩奇兵隊に協力して豊前小倉城の襲撃を計画して捕らえられたが、明治維新に際して宗徒を率いて皇事を勤めたことから、明治元年に僧官を返上し、英彦山神社大宮司に任ぜられ、翌年、高千穗姓を賜り、高千穂教有と名乗った[11][13][9]。その子・高千穂有綱が家督を継ぎ、同6年に特旨により華族に列せられた[11]。系譜[編集]
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東山天皇 |
| 中御門天皇 |
| 桜町天皇 |
| 桃園天皇 |
| 後桃園天皇 |
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| 直仁親王 |
| 典仁親王 |
| 光格天皇 |
| 仁孝天皇 |
| 孝明天皇 |
| 明治天皇 |
| 大正天皇 |
| 昭和天皇 |
| 太上天皇 |
| 今上天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 鷹司輔平 |
| 鷹司政煕 |
| 鷹司政通 |
| 鷹司輔煕 |
| 徳大寺公純 |
| 徳大寺実則 |
| 高千穂宣麿 |
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- 係累縁者が多数に上るため、東山天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。
栄典[編集]
著作[編集]
- 『鶯嶺仙話』九州帝国大学附属彦山生物学研究所、1946年。 - 自伝
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』76頁では明治40年8月から大正14年7月まで在任の記載であるが、明治44年の改選男爵議員の『官報』〔第8423号、明治44年7月20日、478頁〕掲載の当選者名簿に記載はない。
出典[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l 霞会館 1996, p. 15-16.
- ^ a b c 筒井住蓮 1991, p. 96.
- ^ a b 人事興信所 1915, p. た73-74.
- ^ a b 衆議院 & 参議院 1990, p. 76.
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、16頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、27頁。この頁では再選の〇印は付されていない。
- ^ a b 霞会館 1996, p. 174.
- ^ a b 『現代華族譜要』維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929、p.366
- ^ 霞会館 1996, p. 15–16.
- ^ a b c 高千穂宣麿『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ a b 高千穂宣麿『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 高千穂教有(たかちほ きょうゆう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
参考文献[編集]
- 筒井住蓮『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 人事興信所『人事興信録』(第4版)人事興信所、1915年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院、参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成』 下巻、吉川弘文館、1996年。
関連項目[編集]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 高千穂家初代 1884年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |