鳥居強右衛門

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凡例

鳥居 強右衛門
時代 戦国時代
生誕 天文9年(1540年
死没 天正3年(1575年5月16日/17日
別名 勝商(諱)
戒名 智海常通居士
墓所 新昌寺および甘泉寺(共に愛知県新城市
主君 奥平貞昌
氏族 鳥居氏(奥平氏家臣)
信商
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作者・楊洲周延、以下タイトル、鳥居スネエモン、敵に捕らわれ、味方のジョウチュウへ忠言す、タイトル終わり。1893年(明治26年)刊行。縦大判錦絵三枚続の武者絵。連行されてきたスネエモンを中央に配し、中央から左にかけてのチュウケイに城とジョウヘイ、右画面に武田の騎馬武者と家来たちを描いている。武田ガタに捕まった鳥居スネエモンは、籠城する味方を裏切って「援軍は来ない」と知らせるよう強いられたが、面従フクハイしてまんまと城に近付き、間もなく援軍が来るとの事実を知らせて味方を鼓舞した。周りの敵兵は叫ぶスネエモンを慌てて押さえ込もうとしているが、トキすでに遅し。
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『甫庵信長記』と『三河物語』における鳥居強右衛門描写[5]
甫庵信長記 三河物語
鳥居強右衛門の名前 鳥井強右衛門 鳥井すね右衛門/鳥井すね右衛門尉
使者派遣の理由 兵糧の枯渇 武田軍の厳しい攻撃に耐えられなくなったため
鳥居強右衛門が使者となった理由 自ら名乗り出た 記述なし
長篠城脱出の模様 「ワカ君ノ命ニカワル玉ノ緒ヲ何トイヒケン武士(もののふ)ノ道」と言って5月14日夜に脱出、翌朝合図の狼煙を上げ、15日夜に岡崎に到着 城からは容易に脱出した、とするのみ
長篠へ帰還の模様 信長は飛脚を出すと言い強右衛門を引き留めたが強右衛門は急ぎ自ら帰り伝えるため発ち、16日夜半に長篠到着 信長が引き留める描写はない
捕縛の経緯 武田方が堀や柵を増強し厳戒態勢を敷いていたため途方に暮れていたところ、勝頼の家臣河原弥太郎により捕まった 武田逍遙軒の持ち場から竹束を被って侵入しようとしていたところを見つかり捕縛
武田方の要請 勝頼が、逍遙軒を通して尋問したところ、強右衛門は任務を包み隠さず白状したので、武田の家臣となり召し抱えることを提案され、強右衛門はこれを承諾した。夜更けになってから、逍遙軒が強右衛門に、城中の親しい者を呼び出して早く城を開城するよう伝えるよう要請した。 勝頼が、命を助け領地を与え召し抱える見返りに、磔の状態で城に向かって信長の援軍は来ないので城を開城するよう伝えるよう要請したのでこれを承諾した。
長篠城への伝達 暁天に10人ほどの侍を付けて柵へ近づき、信長が二三日のうちに到着するので城を維持すべきことと、今生の名残是迄なりと告げた。 城の近くで磔にされ、信長・上之助(信忠)・家康・信康の援軍が迫っている、三日のうちに好転するので城を維持するよう告げた。
強右衛門の殺害 勝頼は義士であるとして助命しようとしたが、強右衛門は請いて切られた。 かえって敵の利益になることを言う奴なのでそのままとどめをさされた。

    使使[6]使15[7]

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ギャラリー[編集]