Emma (雑誌)
Emma | |
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刊行頻度 | 月2回刊(10日・25日)→週刊 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
出版社 | 文藝春秋 |
発行人 | 鈴木琢二[1] |
編集長 | 松尾秀助[1] |
刊行期間 | 1985年6月10日 - 1987年5月6日 |
﹃Emma﹄︵エンマ︶は、1985年から1987年まで文藝春秋が発行していた写真週刊誌。
概要[編集]
1985年6月10日に10日と25日発売の月2回刊として創刊[2]。1986年9月24日には週刊化されるものの、1987年5月6日発売分をもって廃刊となった。 この頃並立していた写真週刊誌5誌︵いわゆる3FET⇒﹃FOCUS﹄﹃FRIDAY﹄﹃FLASH﹄﹃Emma﹄﹃TOUCH﹄︶の中でも日本航空123便墜落事故などの衝撃的な遺体写真を掲載するなど、過激さをひとつの売りにしていた雑誌であった。しかし、売り上げ部数では﹃FRIDAY﹄、﹃FOCUS﹄に後れを取っており、1986年のフライデー襲撃事件以降、写真週刊誌全般に対する社会からの批判の声が高まり、社内でも否定的な意見が強まったことから、出版社の意向で廃刊へと至った。最も短命に終わった写真週刊誌だった。 1985年10月10日号︵同年9月下旬発売︶では、ロス疑惑の殺人未遂容疑で逮捕された三浦和義が[3]、1983年4月16日に開催されたスワッピングパーティーに参加した際、﹃週刊大衆﹄と契約関係にあったレポーター[注 1]によって撮影された三浦の全裸写真︵無修整︶[注 2]を掲載した[5]。しかし、この一件で編集長の松尾秀助が警視庁保安一課からわいせつ図画販売容疑で事情聴取され、今後は掲載しないよう警告を受けた[6]。また、この件で文藝春秋は三浦のプライバシーを侵害したとして、三浦から慰謝料1,000万円の支払いと、全国紙5紙などに謝罪広告を掲載することを求める訴訟を起こされ[3]、1990年3月14日に東京地方裁判所民事第12部︵大喜多啓光裁判長︶から﹁刑事事件の被告人の情状を示すためであっても、︵全裸の写真を︶無断、無修整で掲載する必要はなかった﹂などとして、慰謝料など100万円の支払いを命じる判決を言い渡されている[7]︵確定︶[8]。関連項目[編集]
●花田紀凱 - 創刊準備を担当した後、編集部に在籍。 ●西川清史 - 表紙などビジュアル担当。 ●柳澤健 (ノンフィクション作家) - ビジュアル担当‥西川清史の下で働く。文藝春秋で勝谷誠彦の1年先輩。 ●勝谷誠彦 - 元記者。 ●沢口靖子 - 創刊号の表紙を飾る。 ●三浦百恵 - 創刊号から﹁窓に吹く風﹂と題するエッセイを連載。全6回[2]。 ●岡田有希子 - 岡田が投身自殺した際に追悼特集を組み、自殺直後の遺体写真を掲載。 ●桑田真澄・岡崎郁・山本雅夫 - 当時読売ジャイアンツ︵巨人︶に所属していたプロ野球選手。1986年6月に宮城県仙台市青葉区の国分町において、﹃Emma﹄の記者と取材した写真のフィルムの返還を巡って小競り合いになり、刑事訴訟にまで発展した。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b 判例時報 1990, p. 86.
- ^ a b 『別冊宝島345 雑誌狂時代!』 宝島社、1997年、58頁。
- ^ a b 『朝日新聞』1986年10月22日東京朝刊第一社会面23頁「ロス疑惑の三浦被告、エンマに賠償求める」(朝日新聞東京本社)
- ^ 週刊新潮 1992, p. 146.
- ^ a b 判例タイムズ 1991, p. 192.
- ^ 『朝日新聞』1985年9月28日東京朝刊第二社会面22頁「写真誌「エンマ」に警視庁が警告 ロス疑惑の三浦の全裸写真掲載」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1990年3月15日東京朝刊第二社会面30頁「三浦被告全裸写真 無修整・無断掲載はダメ 文春に支払い命令」(朝日新聞東京本社)
- ^ 判例タイムズ 1991, p. 190.