「日本航空123便墜落事故」の版間の差分
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* [[北原遥子]](女優・元[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]娘役) - 帰省先の横浜の実家から大阪の友人に会いに向かう途中。<ref>{{Cite news |author=榊原和子 |title=由美子へ・取材ノート 第16章 遭難 |newspaper=宝塚プレシャス+ |date=2007-07-24 |url=http://astand.asahi.com/takarazuka/yumiko/TKY200707230634.html |accessdate=2018-05-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180513130730/http://astand.asahi.com/takarazuka/yumiko/TKY200707230634.html |archivedate=2018-05-13}}</ref> |
* [[北原遥子]](女優・元[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]娘役) - 帰省先の横浜の実家から大阪の友人に会いに向かう途中。<ref>{{Cite news |author=榊原和子 |title=由美子へ・取材ノート 第16章 遭難 |newspaper=宝塚プレシャス+ |date=2007-07-24 |url=http://astand.asahi.com/takarazuka/yumiko/TKY200707230634.html |accessdate=2018-05-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180513130730/http://astand.asahi.com/takarazuka/yumiko/TKY200707230634.html |archivedate=2018-05-13}}</ref> |
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* [[中埜肇 (実業家)|中埜肇]]︵[[阪神電気鉄道]]<ref group="注釈">現在は経営統合して[[阪急阪神ホールディングス]]の傘下。</ref>専務取締役鉄道事業本部長・[[阪神タイガース]]球団社長︶、[[石田一雄]]︵阪神電気鉄道常務取締役︶ - 以上2名は[[阪神電気鉄道]]久万社長の代理で、都内の[[運輸省]]︵現・[[国土交通省]]︶本庁舎で開催された[[日本民営鉄道協会]]の会議の帰途。当年、阪神タイガースの選手、監督、コーチが事故後﹁中埜社長のためにみんなで頑張ろう﹂と誓い合い優勝に繋がったと当時の選手が語っている。
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* [[中埜肇 (実業家)|中埜肇]]︵[[阪神電気鉄道]]<ref group="注釈">現在は経営統合して[[阪急阪神ホールディングス]]の傘下。</ref>専務取締役鉄道事業本部長・[[阪神タイガース]]球団社長︶、[[石田一雄]]︵阪神電気鉄道常務取締役︶ - 以上2名は[[阪神電気鉄道]]久万社長の代理で、都内の[[運輸省]]︵現・[[国土交通省]]︶本庁舎で開催された[[日本民営鉄道協会]]の会議の帰途。当年、阪神タイガースの選手、監督、コーチが事故後﹁中埜社長のためにみんなで頑張ろう﹂と誓い合い優勝に繋がったと当時の選手が語っている。
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** なお、阪神タイガースの選手たちは前日に試合を行った福岡市︵[[平和台野球場|平和台球場]]︶から次の試合会場である[[後楽園球場]]へ向かうため366便に搭乗して羽田空港まで移動していた。これ以降、日本プロ野球では試合会場へ移動する際に航空機利用を極力避けるようになったと言われる<ref group="注釈">特に、[[セントラル・リーグ]]の場合は全球団が[[東海道・山陽新幹線]]で移動可能な範囲内に収まっているためその傾向が強いが、[[セ・パ交流戦]]や地方開催の場合はこの限りではない。</ref>。
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* 石野喜一([[SMBCフレンド証券|神栄石野証券]]〈[[SMBC日興証券]]の前身会社のひとつ〉代表取締役社長) |
* 石野喜一([[SMBCフレンド証券|神栄石野証券]]〈[[SMBC日興証券]]の前身会社のひとつ〉代表取締役社長) |
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* [[浦上郁夫]]([[ハウス食品グループ本社|ハウス食品工業]](現・ハウス食品グループ本社)代表取締役社長) - [[グリコ・森永事件]]の終息を父であり先代社長でもある浦上靖介の墓前に報告するために大阪に向かう途中。この事故の影響で、ハウス食品はCMの放映を数日間自粛し、{{要出典|範囲=当年放映中だった世界名作劇場「小公女セーラ」も8月18日放映分はCMカットで対応した|date=2022年12月}}。 |
* [[浦上郁夫]]([[ハウス食品グループ本社|ハウス食品工業]](現・ハウス食品グループ本社)代表取締役社長) - [[グリコ・森永事件]]の終息を父であり先代社長でもある浦上靖介の墓前に報告するために大阪に向かう途中。この事故の影響で、ハウス食品はCMの放映を数日間自粛し、{{要出典|範囲=当年放映中だった世界名作劇場「小公女セーラ」も8月18日放映分はCMカットで対応した|date=2022年12月}}。 |
2023年1月28日 (土) 01:09時点における版
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事故の概要 | |
---|---|
日付 | 1985年8月12日 |
概要 | 圧力隔壁の破損に起因する垂直尾翼の脱落(空中分解)、及び全油圧系統喪失による操縦不能、墜落。 |
現場 |
![]() 北緯36度00分05秒 東経138度41分38秒 / 北緯36.00139度 東経138.69389度座標: 北緯36度00分05秒 東経138度41分38秒 / 北緯36.00139度 東経138.69389度 |
乗客数 | 509 |
乗員数 | 15 |
負傷者数 | 4 |
死者数 | 520 |
生存者数 | 4 |
機種 | ボーイング747SR-46[注釈 1] |
運用者 |
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機体記号 | JA8119 |
出発地 |
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目的地 |
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日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が群馬県多野郡上野村の山中ヘ墜落した航空事故である。
概要
事故機に関する情報
123便に使用されたボーイング747SR-46︵機体記号:JA8119、製造番号:20783︶は、1974年︵昭和49年︶1月30日に製造され、1985年︵昭和60年︶8月19日付登録抹消された。総飛行時間は25,030時間18分で、総飛行回数は18,835回であった[報告書 3][7]。しりもち事故
事故前の不具合
事故直前の1985年︵昭和60年︶2月から本事故までの間、JA8119は客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生し、うち20件はグアム便︵伊丹 - グアム線︶で発生している。原因は、客室後部のコートルームに客室サービス用品を置いていたためで、コートルーム棚下への搭載禁止徹底により不具合は解消した[注釈 2]。しかし事故調は、前述のしりもち事故によって生じた機体の歪みによって不具合が発生した可能性は否定できないとしている。また、123便の前の便に乗っていた者の証言によると(366便福岡→羽田の便)床下から﹁ギシギシ﹂・﹁ガタガタ﹂のような音がしたという証言が入っている[報告書 4][別添 1]。運航乗務員
●機長︵CAP︶‥高濱雅己︵たかはま まさみ、49歳 宮崎県出身︶・運航部門指導教官 ●JAL入社年月日‥1966年︵昭和41年︶12月1日 ●海上自衛隊︵担当操縦教官は3等海佐・杉野計雄︵元・帝国海軍飛行兵曹長︶[8][9]︶から富士航空・日本国内航空を経てJALに入社 ●総飛行時間‥12,423時間41分︵うちB747、4,842時間22分︶ ●B747以外の保有運行資格‥YS-11、B727、DC-8 ●当日の動き‥最初のフライトで、副操縦士席で副操縦士の指導や無線交信などを担当[報告書 5]。 ●副操縦士︵COP︶‥佐々木祐︵ささき ゆたか、39歳 熊本県出身︶・B747における機長昇格訓練生 ●JAL入社年月日‥1970年︵昭和45年︶4月18日 ●総飛行時間‥3,963時間34分︵うちB747、2,665時間30分︶ ●B747以外の保有運行資格‥DC-8︵機長としても乗務していた︶ ●当日の動き‥別の機に乗務してからJA8119に乗り換え、訓練のため機長席に座り、操縦とクルーへの指示を担当[報告書 5]。 ●航空機関士︵F/E︶‥福田博︵ふくだ ひろし、46歳 京都府出身︶・エンジニア部門教官 ●JAL入社年月日‥1957年︵昭和32年︶4月1日 ●総飛行時間‥9,831時間3分︵うちB747、3,846時間31分︶ ●B747以外の保有運行資格‥DC-6、B727、DC-8 ●当日の動き‥羽田-福岡線363、366便からJA8119に乗務[報告書 5]。 通常操縦席は機長が進行方向左席、副操縦士は右席に着席するが、当日は副操縦士の機長昇格訓練を実施していたことから着席位置が逆であった[報告書 1]。 運行乗務員3名には、事故後に国際定期航空操縦士協会連合会︵IFALPA︶からポラリス賞が授与された。客室乗務員
チーフパーサー︵波多野純 PRU︶は39歳で、1969年︵昭和44年︶10月18日に入社。総飛行時間は10,225時間33分であった。他に11人の女性客室乗務員が乗務していた[報告書 5]。事故の経過
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0b/Japan_Airlines_123_fig01_Estimated_flight_path_of_JA8119_ja.png/220px-Japan_Airlines_123_fig01_Estimated_flight_path_of_JA8119_ja.png)
飛行計画
緊急事態発生後の客室内の様子
CVRや生存者の非番女性客室乗務員の証言によれば、客室内は次のような状況だった[別添 2][10]。 客室では衝撃音が響いた直後、各座席に酸素マスクが下り、プリレコーデッド・アナウンス[注釈 3]が流れた[別添 2]。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクとシートベルトの着用と、タバコを消す非常時の対応を行った[注釈 4]。 生存者によれば、﹁﹃パーン﹄という音と同時に白い霧のようなものが出たが、酸素マスクを着けて前を見たときには霧は既に無かった。数秒で消えた。爆発音発生直後の機内の乗客はパニックした様子は無く、まだ何とかなるんじゃないか、という雰囲気だった﹂という[10]。 酸素が切れた頃から、機体の揺れが大きくなり、客室乗務員も立っていられないほどになった[10]。18時47分以降は、緊急着陸︵着水︶に備え救命胴衣着用が指示された[報告書 6][注釈 5]。その後、乗客は不時着時の衝撃に備え、前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる姿勢︵不時着時の姿勢︶をとった[10]。 客室乗務員は乗客に対し機内アナウンスで、﹁幼児連れの親に子供の抱き方の指示﹂﹁身の回りの確認﹂﹁予告無しで着陸する場合もある﹂﹁地上と交信できている﹂等と案内していた[別添 2]。事故現場からは殉職した客室乗務員が書いた﹁不時着後の乗客への指示を列挙したメモ﹂も見つかった[11]。 乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた[12][13]。これらの遺書の一部は事故現場から発見された。 また、事故現場からはコンパクトカメラも見つかり、事故発生時の機内の様子を撮影していたことがわかった。現像された写真は警察が刑事事件の証拠資料として保存していたが、公訴時効成立後遺族に返還され、遺族が公開した[14][15][16]。 2014年︵平成26年︶8月12日にフジテレビジョンで放送された特番で紹介された生存女性︵夫、長男、長女、次女と搭乗し本人と長女が生還︶の手記によると、乗客の幾人かは失神した状態だったという。操縦室音声記録装置 (CVR) による概要
事故後回収された操縦室音声記録装置 (CVR) には、18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残されていた[報告書 1][別添 2][注釈 6]。下記はその内マスコミへ流出したカセットテープに記録されたもので、123便と東京航空交通管制部、東京進入管制所、横田基地などとの交信の概要。 ●東京コントロール︵東京ACC︶ - 東京航空交通管制部︵所在地‥埼玉県所沢市︶ ●東京アプローチ︵東京APC︶ - 東京進入管制所︵所在地‥羽田空港︶ ●YOKOTA APPROACH CONTROL︵横田管制︶ - 横田基地 カセットテープの最初の音声は、操縦席と客室乗務員とのやり取り。 18時24分35秒頃‥伊豆半島南部の東岸上空︵静岡県賀茂郡河津町付近︶を巡航高度24,000フィート (7,300 m) へ向け上昇中、23,900フィートを通過したところで衝撃音[注釈 7]が発生し[注釈 8]、客室高度警報音が1秒間に3回鳴動した[注釈 9]。続いて機長が﹁まずい、なんか爆発したぞ﹂と発言。直後にオートパイロットが解除され機体︵エンジン、ランディング・ギア等の表示︶の点検が行われ、4つのエンジン、ランディング・ギア等に異常がなかったが、航空機関士が﹁ハイドロプレッシャー︵油圧機器の作動油の圧力︶を見ませんか﹂と提案する。 24分47秒‥JAL123便が緊急救難信号﹁スコーク7700﹂の無線信号を発信、信号は東京ACCに受信された。 25分‥機長は東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の後、機長が副操縦士に対し﹁バンク︵傾き︶そんなにとるなマニュアル︵手動操縦︶だから﹂﹁︵バンクを︶戻せ﹂と指示。しかし、副操縦士は﹁戻らない﹂と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。この時機体は、垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、補助動力装置も喪失、油圧操縦システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油が全て流出し、油圧を使用したエレベーター︵昇降舵︶やエルロン︵補助翼︶の操舵が不能になった[注釈 10]。 25分21秒‥123便機長がトラブル発生の連絡とともに、羽田空港への帰還と22,000フィート (6,700 m) への降下を無線で要求、東京ACCはこれを了承。JAL123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。管制部は、右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は右旋回を希望した。羽田空港は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。 26分54秒‥チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示した[別添 2]。 27分‥異常発生からわずか3分足らずで航空機関士が﹁ハイドロプレッシャーオールロス︵油圧全て喪失︶﹂と発出︵コールアウト︶した[注釈 11]。 機長らは異常発生直後から墜落まで、操縦不能になった理由を把握できていない模様であった。油圧系統全滅を認識しながらも油圧での操縦を試みていた[報告書 7]。同じころ、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動やダッチロールが生じ、ピッチングとヨーイング、ローリングを繰り返した。DFDRには機首上げ角度20度 - 機首下げ15度、機体の傾き右60度 - 左50度の動きが記録されていた。 27分2秒‥東京ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答はなかった。このため、東京ACCはJAL本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。 28分31秒‥東京ACCは123便に真東に向かうよう指示するが、機長は﹁But Now Uncontrol︵現在操縦不能︶﹂と応答。東京ACCは、このとき初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。管制室のスピーカーがONにされ、123便とのやり取りが管制室全体に共有される[18]。 31分2秒‥東京ACCからの降下が可能かの問いに対し、123便は降下中と回答。東京ACCは羽田空港より近く、旋回の必要も最低限で済む愛知県西春日井郡豊山町の名古屋空港に緊急着陸を提案するが、123便は羽田に戻る[19]ことを希望する。航空機と地上との無線交信は英語で行われているが、管制部は123便の機長の負担を考え、母語である日本語の使用を許可。以後123便とは、ほとんど日本語で交信された。 31分40秒‥航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下︵エマージェンシー・ディセンド︶と酸素マスク着用を提案[注釈 12]、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が﹁R5︵機体右側最後部︶のドアがブロークン︵破損︶しました﹂と連絡している。 33分頃‥JALはカンパニーラジオ︵社内無線︶で123便に交信を求める。 35分33秒‥123便からR5のドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので、後ほど呼び出すまで無線を聴取するよう求められ、JALは了承した。 37分‥機長がディセンド︵降下︶を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。38分頃、これを回避するためにランディング・ギアを降ろそうとするが、油圧喪失のため降ろせなかった。 40分‥航空機関士の提案で、バックアップシステムである電気系統を用いてランディング・ギアを降ろした[注釈 13]。機体は富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000フィート (6,700 m) から6,000フィート (1,800 m) へと降下[注釈 14]。その後、羽田方面に向かうものの、東京都多摩市 ※要確認 付近上空で左旋回し、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始める。機体はロール軸の振幅が縮小して多少安定した。 40分44秒‥東京ACCが、123便と他機との交信を分けるため専用の無線交信周波数を割り当て、123便に周波数変更を求めたが、応答はなかった[注釈 15]。 41分54秒‥逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるように求めた。だが一部の航空機は通常周波数で交信を続けたため、管制部は交信をする機に個別で指示し続けた。 45分36秒‥航空無線を傍受していた横田基地が123便の支援に乗り出し、英語で123便にアメリカ空軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは﹁Japan Air 123、Uncontrollable︵JAL123便、操縦不能︶﹂と応答した。東京ACCが﹁羽田にコンタクトしますか︵東京APCと交信するか︶﹂と123便に尋ねるが、123便は﹁このままでお願いします﹂と応答した。 46分‥機長が﹁これはだめかも分からんね﹂と発言。やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していく。47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が﹁山にぶつかるぞ﹂と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6,000フィート (1,800 m) 前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に﹁がんばれー﹂と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は﹁今舵いっぱい﹂と返答している。 47分10秒‥123便は千葉県木更津市のレーダーサイトに誘導するよう求め、東京ACCは真東へ進むよう指示し、﹁操縦可能か﹂と尋ねるが、123便は﹁アンコントローラブル︵操縦不能︶﹂と応答した。この時、東京ACCの管制官は123便との交信中に﹁ああっ﹂という叫び声を聞いたとされる[18]。 49分‥機首が39度に上がり、速度は108ノット (200 km/h) まで落ちて失速警報装置が作動した。このころから機体の安定感が崩れ、何度も機首の上げ下げを繰り返した。この間、機長が﹁あーダメだ。ストール︵失速する︶﹂と発言するまでに追い詰められながらも、諦めることなく﹁マックパワー︵最大出力︶、マックパワー、マックパワー﹂などと指示していた。 49分‥JALがカンパニーラジオで3分間呼び出しを行ったが、応答はなかった。 50分‥﹁スピードが出てます スピードが﹂と困惑する副操縦士に機長が﹁どーんといこうや﹂と激励の発言。機長の﹁頭下げろ、がんばれがんばれ﹂に対して副操縦士は﹁今コントロールいっぱいです﹂と叫んでいる。機長が﹁パワーでピッチはコントロールしないとだめ﹂と指示。エンジン推力により高度を変化させる操縦を始めたと思われるが、左右の出力差で方向を変えた形跡は見当たらなかった[報告書 8]。速度が頻繁に変化し不安定な飛行が続いたため、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。 51分‥依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定し始めた。 53分30秒‥東京ACCが123便に交信を求めるが、123便は﹁アンコントロール︵操縦不能︶﹂と応答。横田管制は﹁横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っている﹂と通知。53分45秒、東京ACCが﹁周波数119.7に変えてください﹂と、東京APCの無線周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。 54分‥クルーは現在地を見失い[注釈 16]、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県 熊谷市から25マイル (40 km) 西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180ノット (330 km/h) まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。 54分25秒‥123便は東京APCに現在地を尋ね、﹁羽田から55マイル (89 km) 北西で、熊谷市から25マイル (40 km) 西﹂と知らされた。 55分01秒‥機長は副操縦士に﹁フラップおりるね?﹂と尋ね、副操縦士は﹁はいフラップ10︵度下がっている︶﹂と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。 55分5秒‥東京APCから123便に対し、﹁日本語にて申し上げます﹂と前置きし、﹁こちら︵羽田︶のほうは、アプローチレディ (approach ready) になっております。尚、横田と調整して横田ランディング (landing) もアベイラブル (available)になっております︵羽田と横田で緊急着陸可能の意︶﹂と知らせ、航空機関士が﹁はい了解しました﹂と応答、これが123便と地上との最後の交信となった。その直後に東京APCが﹁インテンション (intention) 聞かせてください﹂と、123便に今後の意向を尋ねたが応答はなかった。その後も東京APCと横田管制が123便に対して呼び出しを行ったが、応答はないままだった。 55分12秒‥フラップを下げた途端、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が﹁フラップ止めな﹂と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、﹁あーっ!﹂という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の﹁フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ﹂との声に混じって副操縦士が﹁フラップアップ、フラップアップ﹂と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10,000フィート (3,000 m) を切っていた。 56分00秒頃‥機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が﹁上げてます﹂と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで﹁あたま上げろー、パワー﹂と指示し続けた。 56分7秒頃‥わずかに機首を上げて上昇し始めた。 56分14秒‥クルーの必死の努力も空しく機体は降下し続け、対地接近警報装置︵GPWS︶が作動。高度3000mから、1600mまで降下していた。 56分23秒‥23秒の直前には﹁PULL UP︵上昇せよ︶﹂との警告音声とともに、機長の﹁もうダメだ﹂とも聞き取れる叫び声が記録されていた︵報告書では機長の発言は﹁判読不能﹂とされていた︶。右主翼と機体後部が尾根の樹木[注釈 17]と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は340ノット (630 km/h) 以上に達していた[報告書 10][付録 1]。接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾き始め、その角度は70度にも達した。 56分26秒‥機体は傾いたまま右主翼の先端が稜線[注釈 18]に激突し、衝撃で右主翼の先端とわずかに残る垂直尾翼と水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落。この時の衝撃と反動で、右主翼が稜線に引っかかる形で機体は前のめりに反転した。 56分28秒‥ 稜線に激突した衝撃で電源が落ち、フライトレコーダーとボイスレコーダーの記録はここで途絶える。 56分30秒‥動力と尾翼を失った機体は高天原山の群馬県側北東の斜面にある尾根にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。墜落時の衝撃[注釈 19]によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。機体客室後部が分離し、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた乗客4名は奇跡的に生還できた。 57分‥横田管制は123便に﹁貴機は横田の北西35マイル (56 km) 地点におり、横田基地に最優先で着陸できる﹂と呼びかけ、東京ACCも123便に横田基地に周波数を変更するよう求めたが、既に123便は墜落していた。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/Japan_Airlines_Flight_123_wreckage.jpg/350px-Japan_Airlines_Flight_123_wreckage.jpg)
捜索・救難活動
百里基地からF-4ファントム発進
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ac/F-4EJ_%28344_%26_321%29_of_302_Sqn_fly_over_Misawa_Air_Base_during_Cope_North_exercise%2C_-30_Nov._1978_a.jpg/220px-F-4EJ_%28344_%26_321%29_of_302_Sqn_fly_over_Misawa_Air_Base_during_Cope_North_exercise%2C_-30_Nov._1978_a.jpg)
米軍輸送機が上空から火災を確認
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cc/Lockheed_C-130_Hercules.jpg/220px-Lockheed_C-130_Hercules.jpg)
航空自衛隊救難隊の出動
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b5/KV107IIA5_GAB002.jpg/220px-KV107IIA5_GAB002.jpg)
実際の墜落位置‥北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒︵事故調資料︶
時刻 | 発見者・発表者 | 報告、活動 | 計測位置 | 墜落地点からの誤差 |
---|---|---|---|---|
18時56分ごろ | 東京救難調整本部 (運輸省航空局) |
レーダー消失地点 18時59分、自衛隊、警察、消防に通報 |
羽田方位308度59マイル 北緯36度02分、東経138度41分[報告書 11] |
北約3.7km |
18時56分ごろ | 航空自衛隊 | レーダー(千葉県南房総市愛宕山)消失地点 | 横田TACAN 方位302度36マイル |
東約9.4km |
19時15分 | アメリカ空軍 C-130輸送機 |
火災発見 | 横田TACAN 方位305度34マイル[報告書 11] |
北東3km |
19時21分 | 航空自衛隊 F-4戦闘機 |
炎を確認 | 横田TACAN 方位300度32マイル[解説 1] |
南東約6km |
20時42分 | 航空自衛隊救難隊 KV-107ヘリコプター |
炎を確認 | 横田TACAN 方位299度35.5マイル[解説 1] |
南西4km |
21時10分 | 朝日新聞社ヘリコプター 「ちよどり」 |
報道取材で現場上空に到着、炎を確認 | 羽田方位304度60マイル[26] | |
23時35分 | 朝日新聞社ヘリコプター 「ちよどり」 |
報道取材、自衛隊が運輸省に通報した御座山付近には墜落の形跡がないことを確認[27] | 羽田方位304度60マイル[28] | |
01時00分 | 航空自衛隊救難隊 KV-107ヘリコプター |
地上の捜索隊(警察)を誘導しようとしたが失敗 | 入間TACAN 方位291度36.3マイル[解説 1] |
南南西2km |
04時39分 | 航空自衛隊救難隊 KV-107ヘリコプター |
上空より墜落現場確認[報告書 11] | 三国山西約3km 扇平山北約1km[解説 1] |
南西3km |
05時00分 | 陸上自衛隊 HU-1Bヘリコプター |
日の出とともに上空より墜落現場確認 | 三国山北西約2km[解説 1] | 南南東1km以下 |
05時33分 | 航空自衛隊 KV-107ヘリコプター |
上空より墜落現場確認 | 三国峠方位340度3km[解説 1] | 北北東1km |
05時37分 | 長野県警察
ヘリコプター |
上空より墜落現場確認[報告書 11] | ||
08時30分 | 長野県警察
ヘリコプター |
墜落現場に機動隊員2名ラペリング降下 | ||
09時00分 | 陸上自衛隊 ヘリコプター |
墜落現場に空挺団員降下:陸路で捜索隊到着 |
陸上からの救難活動の遅れ
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Japan_Airlines_123_ex_table03_Positioning_results_for_each_aircraft_ja.png/220px-Japan_Airlines_123_ex_table03_Positioning_results_for_each_aircraft_ja.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a3/Japan_Airlines_123_ex_fig13_Positioning_results_for_each_aircraft_%28map%29_ja.png/220px-Japan_Airlines_123_ex_fig13_Positioning_results_for_each_aircraft_%28map%29_ja.png)
翌朝ヘリコプターからの救難活動開始
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a4/48i%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%92%EF%BC%95%E5%B9%B4%E5%BA%A6_%E7%AC%AC%EF%BC%91%E6%AC%A1%E9%80%A3%E9%9A%8A%E9%9B%86%E4%B8%AD%E8%A8%93%E7%B7%B4%E5%8F%8A%E3%81%B3%E9%83%A8%E9%9A%8A%E9%96%93%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%81%BA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0_%E6%95%99%E8%82%B2%E8%A8%93%E7%B7%B4%E7%AD%89_69.jpg/220px-48i%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%92%EF%BC%95%E5%B9%B4%E5%BA%A6_%E7%AC%AC%EF%BC%91%E6%AC%A1%E9%80%A3%E9%9A%8A%E9%9B%86%E4%B8%AD%E8%A8%93%E7%B7%B4%E5%8F%8A%E3%81%B3%E9%83%A8%E9%9A%8A%E9%96%93%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%81%BA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0_%E6%95%99%E8%82%B2%E8%A8%93%E7%B7%B4%E7%AD%89_69.jpg)
生存者の救出
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/24/Japan_Airlines_123_fig03_Situation_of_crash_site_ja.png/220px-Japan_Airlines_123_fig03_Situation_of_crash_site_ja.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Japan_Airlines_123_05_Debris_of_aft_fuselage_%282%29.png/220px-Japan_Airlines_123_05_Debris_of_aft_fuselage_%282%29.png)
遺体の状況と搬出・収容
尾根に激突した機体前部の乗客乗員は、機体の破壊とともに尾根に投げ出され死亡し、五体あった遺体もあったが、多くの遺体は全身挫滅、全身挫折、内臓破裂による臓器脱出、全身の表皮剥脱など激しく損壊していた。また火災により完全に焼損した遺体も多かった。焼損した部分は機首部分と胴体部で、燃料の入った主翼の大半とスゲノ沢へ滑落した機体後部は焼損しなかった。 一方、尾根への激突を免れた機体後部は衝撃も少なく火災にも巻き込まれなかったため、スゲノ沢で発見された遺体は見た目には生存︵気絶︶しているのか死亡しているのか区別できないほど、ほぼ完全な状態で発見された。ここから4名の生存者が発見された事もあり、谷間に駆け付けた自衛隊員、警察官、上野村 消防団員は慎重を期して一人ひとりの体を揺さぶったり脈を取るなどして生死を確認したが、4名の生存者以外はすでに全員が死亡していた。 群馬県警は遺体の収容先を当初予定していた上野村から直線距離で約45km離れた群馬県藤岡市で行うこととした。遺体搬出は陸路では無理と判断され、陸上自衛隊によるヘリポートを造成して14日から搬出作業を開始することとなった[報告書 9][45][46]。 13日夜、空挺団派遣隊はヘリポート作りに着手した。尾根の南東の急斜面を掘削した。岩山のため作業は難航したものの夜半に目途が経ち、仮眠をとってから朝方作業を再開し、14日午前7時頃までにはUH-1Hが運用できるヘリポートが完成した。スゲノ沢からヘリポートまでの搬出路もつくった[47]。 ただ、空挺団が作ったヘリポートだけでは輸送力が足りず、大型ヘリによる輸送を行える第2ヘリポートを作ることとなった。15日午前7時、第12師団施設大隊が建設を開始した。場所は第1ヘリポートから離れた尾根の先端の切り立った場所が選ばれた。大型ヘリが離着陸するため荷重計算を慎重に行い、資材は切り出した唐松250本を使用して骨組みとし、その上から土のうを積んだ。16日15時、完成した[48]。検視、身元確認作業
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Fujioka_city_Japan_Airlines_Flight_123_accident_monument.jpg/220px-Fujioka_city_Japan_Airlines_Flight_123_accident_monument.jpg)
捜索・救難活動における問題点
自衛隊への派遣要請の遅れ
東京空港事務所長から航空自衛隊への災害派遣要請は、航空自衛隊からの再三の要請督促を受けた後の20時33分に行われた。19時01分の百里基地のF4戦闘機緊急発進や、19時54分の百里救難隊による最初の救難捜索機 MU-2S の出動や救難ヘリ KV-107 の出動はいずれも要請前であった。 航空自衛隊への災害派遣要請が事故機の遭難から約1時間40分後と遅れて出された背景には、運輸省東京航空局東京空港事務所の﹁位置が確認できないことには、正式な出動要請はできん﹂という幹部指示や、運輸省から﹁レーダーから消えた地点を特定せよ﹂と何度も東京ACC︵東京航空交通管制部︶に電話が入るなど、所管行政当局である運輸省・航空局隷下組織の地上での位置・地点特定に固執した混乱や錯綜があったとされる[49]。 また、陸上自衛隊も群馬、長野の部隊が19時30分ごろから出動態勢を整え、派遣要請を待っていた。陸上自衛隊への派遣要請は21時30分と遅れた理由は、陸上自衛隊に対しては航空自衛隊への要請が済んでいたため、要請の必要性を知らなかったためとされる[50]。墜落位置の特定
12日21時06分までに、米軍輸送機C-130、航空自衛隊戦闘機F4ファントム、航空自衛隊救難ヘリKV-107、朝日新聞社ヘリAS355-F1﹁ちよどり﹂が、墜落した123便の上空を旋回しその位置をおおよそ確認しており、20時21分には陸上から長野県警パトカーが墜落現場付近の黒煙を確認している。しかし救難活動のために21時30分に出動した陸上自衛隊が現場に到着したのは翌日の午前9時となり、11時間30分を要した。夜間に火災現場は確認されたものの、黒煙に照明を遮られ、暗闇に包まれた山間部の地形を把握できず、当時はGPSもなかったため日が昇るまで正確な位置を特定できなかった。 時間がかかった原因は、墜落現場から北西に10km離れた﹁長野県南佐久郡 御座山北斜面﹂などの誤った墜落位置情報が流されたためであった。 墜落現場で起こった火災は結局のところ、特定に至るまで長時間放置されたことによる自然鎮火である。当時は消防ヘリも十分な数が配備されておらず、また消防ヘリの活動時間も日照時間中に限定されていたため、ちょうど間が悪く日没時刻に起こった墜落事故への消火活動もできなかった。 墜落現場も交通網から離れた山間部であったため、消防車でのアクセスも不可能で、その対処は困難を極めた。自衛隊車両に通行料請求
事故直後、自衛隊の部隊が非常呼集発令で出動し、高速道路で移動したところ料金所で通行料を請求され、作業服で出動したため財布を携行しておらず、隊員が少しずつ金を出し合って支払ったという[51][52]。 事故前より災害派遣時は証明書の発行により無料通行できることとなっていたが省庁間で調整を行い、1986年︵昭和61年︶9月1日、防衛庁陸上幕僚監部は自衛隊車両は災害派遣時には車両への表示により、無料で通行できる通達を出した[53]。放射性物質の問題
事故機には、貨物として医療用ラジオアイソトープ︵放射性同位体︶が92個積載されていた。これらは8月14日から16日の間に64.8%が回収された[報告書 14]。 また、機体には振動を防ぐバラストとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐ現場へ入らずに別命があるまで待機するよう指示されたという[54]。元アメリカ空軍中尉の手記
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3b/UH-1H_Iroquois_-_Fly_Navy_2017_%2834308870903%29.jpg/220px-UH-1H_Iroquois_-_Fly_Navy_2017_%2834308870903%29.jpg)
事故調査
航空事故調査委員会︵委員長‥東京大学名誉教授工学博士の八田桂三は病気のため途中で退任、後任は航空宇宙技術研究所所長の武田峻[66][67]︶は、事故発生2日後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始した。調査には事故機の製造国であるアメリカからも米国国家運輸安全委員会(NTSB)からジョージ・サイドレン、ロン・シュリードらが参加した[報告書 15][68][注釈 27]。事故調査委員会の聞き取り調査開始
8月12日20時過ぎから、事故調事務局は夏休みで直ぐに出られない二人を除く調査官全員に臨時招集をかけた。夜に開かれた第204回航空事故調査委員会で、本事故の調査官16名を指名した。墜落現場が長野か群馬で錯綜する中、防衛庁から出向の調査官の計らいで入間基地からヘリコプターで現地に入れるように手配してもらい、どこに調査官を派遣するか図上演習を行ったが﹁もっと場所がはっきりしてからの方が良い﹂との結論になり、結局朝まで東京で待機することとなった[69]。 13日早朝、東京を出発した調査団は8時過ぎ入間基地からヘリコプターで現場上空を確認した後、上野村の上野小学校校庭に着陸し調査活動を開始した。13日15時過ぎ、調査官は収容先の病院で生存者である非番の女性客室乗務員に事情聴取を行った。彼女は﹁ボーンという音がして急減圧が起き、耳が少し痛くなりました。ドアは飛ばなかったけれど、後ろの天井が落ちました﹂と供述した。夜に録音を聞いたベテラン調査官の中から圧力隔壁の破損を考え始めた者が出始めたという。13日は昼から山下徳夫運輸大臣が視察に来ることになり準備に追われ、往復5時間かかる事故現場に行くことは断念した[70]。ブラックボックスの捜索
14日5時、調査団は標高1,565メートルの御巣鷹の尾根に向けて登山を開始した。4キロメートル近く斜面を登り、2時間以上かけて漸くスゲノ沢第三支流の水平尾翼の残骸に到着した[71]。 この日の事故調査団の最重要課題は、デジタル式飛行記録装置 (DFDR)と、操縦室音声記録装置 (CVR)、所謂ブラックボックスを探し出すことだった。また同時に、水平尾翼の昇降舵を確認する必要があった。昇降舵にウエイトバランスとして劣化ウランが取り付けられている為で[注釈 28]、調査官は昇降舵の残骸に装備分の数が揃っているか慎重に確かめた[71]。 14時09分、残骸の約1メートル下からCVRが、20分後ほぼ同じ場所でDFDRも見つかった。DFDRとCVRはその日のうちに山からヘリコプターで下ろされ、パトカーで東京に送られた[71]。機体尾部の回収
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/63/Japan_Airlines_123_16_Part_of_vertical_fin_recovered_from_sea.png/220px-Japan_Airlines_123_16_Part_of_vertical_fin_recovered_from_sea.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/Japan_Airlines_123_58_Black_substance_adhering_to_right_side_skin_of_vertical_stabilizer_%281%29.png/220px-Japan_Airlines_123_58_Black_substance_adhering_to_right_side_skin_of_vertical_stabilizer_%281%29.png)
修理ミスの発見
8月16日、米国調査団は初めて現場入りしたものの、未だ遺体収容活動が行われている状態で、圧力隔壁の調査はできずに終了した。その後、台風が接近して悪天候が続き、米国調査団が現地入りするのは22日まで延期されることになった[74][注釈 31]。 8月22日、米国調査団は2回目の現地調査を行った。後部圧力隔壁に絞った調査で、実物大の隔壁図面を広げて調べているうちに、修理された隔壁の一部に一列しかリベットが効いていない箇所があることを発見した[76][注釈 32]。米国調査団のひとり、アメリカ連邦航空局 (FAA)技術アドバイザーのトム・スイフトは、修理ミスから金属疲労破壊が発生したと推定した[77]。 8月24日、3回目の調査に入った米国調査団は、隔壁破断面のレプリカを採取した[注釈 33]。ワシントンのNTSB本部にレプリカを送って検査したところ、ストライエーションと呼ばれる金属疲労痕が見つかった[77][注釈 34]。 8月29日、スイフトは八田委員長に﹁しりもち事故の修理ミスによって接続強度が大幅に下がり、理論計算上は修理後約1万4千回の飛行で圧力隔壁が破壊する可能性がある。﹂とレポートを示した[78]。 日本の調査団は9月5、7、10日の3日間、米国調査団とともに修理ミスや金属疲労痕の調査を行った[79]。ボーイングが修理ミスを認める
海底捜索とさらなる残骸の回収
コンピュータ解析と破壊実験
生還可能性の検証
聴聞会
1986年︵昭和61年︶4月25日、運輸省大会議室で事故調査委員会設置法に基づく聴聞会が開かれた[注釈 40]。3月19日の第242回事故調査委員会で議決された﹁事実調査に関する報告書の案﹂を元に公述人10人から意見を聞いた[102]。 JALのボーイング747副操縦士で日航乗員組合副委員長の安藤真之は、事故機の乗組員が異常事態発生後も酸素マスクを着けた形跡が無くクルーが意識を失った様子も無い事から﹁ゆるやかな減圧は起きたかも知れないが、圧力隔壁の破壊による様な急減圧は発生しなかったのではないか﹂と主張した。他のパイロットの組合関係者公述人3人も同様の主張をし、第一現場は相模湾上空だったことを理由に徹底的な海底捜索を求めた[102]。 大阪工業大学学長佐藤次彦は、パイロットの操縦について﹁発動機の出力の調整及び主翼の補助翼、フラップなどを利用したある程度のコントロールは可能だったのではないか﹂と指摘した上で、﹁羽田に戻るのではなく、できるだけ早い時期に着水することを主目的に、主として海上を西南方向に飛行することが正しい判断ではなかっただろうか。ある程度の着水操作は可能であり、事故による死亡者を大幅に減少できる確率があったのではないか﹂と主張した[102][注釈 41]。 ボーイング747を運航している全日空専務の舟津良行は、圧力隔壁のフェイルセーフ設計の確保に貢献するような調査とすること、乗務員が受けている訓練内容を超える異常事態が発生したことを指摘し、そのような事態への対処を考慮するよう求めた[102]。 国立大学名誉教授は、﹁左旋回して海に出ていたら、被害は軽微だったはずだ。危機管理のマニュアルが山岳国家日本向けにできていなかった﹂とし、﹁墜落ではなく、山への衝突だった﹂﹁山が殺した﹂と主張した。傍聴していた遺族が﹁山が殺した﹂の発言に憤激して発言中に退席し、聴聞会終了後、名誉教授に詰め寄る一幕もあった[102][103]。疲労亀裂の発見確率
しりもち事故の修理ミスによる圧力隔壁の疲労亀裂破壊が事故原因であることが明らかとなったが、事故機は修理後﹁C整備[注釈 42]﹂を7度受けていた。C整備には後部胴体内から圧力隔壁を目視点検する項目が含まれており、事故の直近では1984年︵昭和59年︶11月20日から12月5日まで行われていた。そこで、整備員がどの程度の確率で疲労亀裂を発見出来るかを算出した[104]。 ボーイング747の整備方式は﹁コンディション・モニタリング方式﹂と呼ばれるもので、運行されている同一機種の故障データを監視しながら対策をとるものであった。この整備方式を設計面での土台となったものが、﹁フェイルセーフ設計﹂であり、不具合が発生しても多重防護により他の部分に不具合が及ばない設計がなされていた。圧力隔壁も複数の区画で破壊が及ばないように設計されていたが、本事故は﹁マルチサイトクラック﹂と呼ばれる複数の区画で破壊が起こっており、設計思想にも及ぶ重大な問題となっていた[105]。 亀裂の発見確率こそ整備方式を決める前提となるものであるが、ボーイング747のどの機種も単一の亀裂しか想定しておらず、マルチサイトクラックを想定していなかった。そこで事故調査では単一亀裂の発見確率から、マルチサイトクラックの発見確率を導くこととした[105]。 目視点検による一つの疲労亀裂の発見確率事故原因
1987年︵昭和62年︶6月15日、第286回事故調査委員会で事故調査報告書の最終報告書案、勧告案、建議案は議決され[108]、本事故の原因は次のように結論された。 本事故は、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される。 飛行中に後部圧力隔壁が損壊したのは、同隔壁ウエブ接続部で進展していた疲労亀裂によって同隔壁の強度が低下し、飛行中の客室与圧に耐えられなくなったことによるものと推定される。 疲労亀裂の発生、進展は、昭和53年に行われた同隔壁の不適切な修理に起因しており、それが同隔壁の損壊に至るまでに進展したことは同亀裂が点検整備で発見されなかったことも関与しているものと推定される[報告書 2][注釈 45]。勧告、建議
1987年︵昭和62年︶6月19日、事故調査委員会は事故調査報告書の公表とともに、運輸大臣[注釈 46]に対し本事故における次の勧告および建議を行った。勧告
(一)航空事故による損傷の復旧修理等において、航空機の主要構造部材の変更等大規模な修理が当該航空機の製造工場以外の場所で実施される場合には、修理を行う者に対して、修理作業の計画及び作業管理を、状況に応じ特に慎重に行うよう、指導の徹底を図ること。 (二)航空事故による損傷の復旧修理等において、航空機の主要構造部材の変更等大規模な修理が行われた場合には、航空機の使用者に対して、必要に応じ、その部位について特別の点検項目を設け継続監視するよう、指導の徹底を図ること。 (三)今回の事故では、後部圧力隔壁の損壊により流出した与圧空気によって、尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が連鎖的に発生したが、このような事態の再発防止を図るため、大型機の後部圧力隔壁等の与圧構造部位の損壊後における周辺構造・機能システム等のフェール・セーフ性に関する規定を、耐空性基準に追加することについて検討すること[109]。建議
(一)緊急又は異常な事態における乗組員の対応能力を高めるための方策を検討すること。 特殊な緊急又は異常な事態あるいは同時に複数の緊急又は異常な事態が生じる場合においては、今回のJA8119の事故におけるように、乗組員が事態の内容を十分には把握できず、また、どのように対応するかの判断を下すのが困難なことが考えられる。 このような場合における乗組員の対応能力を高めるための方策について、検討する必要がある。 (二)航空機の整備技術の向上に資するため、目視点検による亀裂の発見に関し検討すること。 航空機の構造に生じた亀裂の発見は、目視点検により行われる場合が多いが、目視点検によってどの程度の亀裂を発見できるかについては、現在十分な資料がない状況である。 我が国で運航している輸送機について、目視点検による亀裂の発見に関する資料の収集・分析を行い、航空機の整備技術の向上に資する必要がある[110]。事故後の対策
与圧空気流入による操縦システム破壊の防止策
NTSBは事故発生の4ヶ月後の1985年︵昭和60年︶12月5日、FAAに対し8項目の改善勧告を行った[111][112]。 NTSBの勧告に対し、FAAはB747の垂直尾翼に与圧空気が入らないように覆いを取り付けることを義務化した。一方、尾部が破損しても油圧系統が喪失しないように第4油圧系統配管に作動油流出防止装置︵hydraulic fuse︶が取り付けられ、新造機は油圧系統を分散するよう設計変更が行われた[113][注釈 47]。後部圧力隔壁の設計変更
後部圧力隔壁についても設計の見直しが行われ、ボーイングは、2本のティア・ストラップと下部ダブラーを追加した強化型隔壁を開発し、後継のボーイング747-400に強化型隔壁を導入した[114]。事故調査をめぐる疑問点
1987年6月の航空事故調査報告書の示す事故原因を巡って、航空関係者や大学の航空専門家、遺族などから疑問や異説が示されてきた。 事故から25年目の2010年10月、この報告書に対して8・12連絡会︵遺族会︶が遺族の疑問点をまとめ、国土交通省の外局である運輸安全委員会に再調査要望書提出した。運輸安全委員会は日本ヒューマンファクター研究所の本江彰︵元日本航空インターナショナル機長︶及び元日本航空小林忍の協力で、その疑問点を解消するための解説書を作ることになった。8・12連絡会は遺族の意見をまとめるなどし、運輸安全委員会とやり取りを重ねたが、その内容は当初より事故調査委員会が説明していた事故原因に変更はなく、2011年︵平成23年︶7月にその内容が公表された[6][115]。2011年11月2日、航空会社11社のパイロットで構成されている日本乗員組合連絡会議︵日乗連︶は、この解説書について﹁最初に報告書が公表されて以降の新しい事実については全く検討されることなく、24年前に出された事故調査報告書の内容がいかに正しいかを解説するにとどまっている。﹂と批判している[116]。﹁急減圧﹂は本当にあったのか
事故調査報告書では、圧力隔壁の損壊部分から与圧された客室内の空気が一気に吹き出したことで、機内には相当な減圧が発生したと推定している。事故調査委員会はこの減圧についての計算を行い、異常発生の8秒後には機内の与圧はすべて失われ、気温もマイナス40度にまで低下したことを示唆している[付録 9]。 事故発生時、高度は23,900フィート︵7,285m︶で、気圧や酸素濃度は地上の半分以下。もし急減圧があったなら、耳の鼓膜が破れるか痛くて一時的に何も聞こえなくなり、酸素濃度が低いため意識がもうろうとする危険な状態になるが、ボイスレコーダーの音声からは操縦室で3人とも最期まで酸素マスクを使用した形跡がなく、特に身体的な異常も訴えていない。日本のパイロットのマニュアルであるAIM-j (Aeronautical Information Manual Japan︶︵国土交通省航空局監修︶によると、﹁20,000フィートでは5~12分間で修正操作と回避操作を行う能力が失われてしまい、間もなく失神する。﹂と記述されており[117][118][注釈 48]、急減圧の際コックピットではすぐさま酸素マスクを装着し緊急降下することが義務付けられているが、事故機は事故発生から18分間高度20,000フィート︵6,100m︶以上を維持している。生存者も室温の低下や強風も感じなかったと証言していることから、事故機に急減圧はなく圧力隔壁の損壊により客室内部の空気圧が垂直尾翼を破壊したとする事故調の結論は破綻しているとの主張がある[119]。運輸安全委員会の回答
運輸安全委員会の2011年︵平成23年︶の解説書は、2009年︵平成21年︶7月13日に急減圧事故を起こしたアメリカのサウスウエスト航空2294便の事例を示し、搭乗していた非番の機長2名の証言を紹介、 私は、すぐに急減圧を知覚したが、耳の苦痛がほとんどないのに驚いた。……ハリウッド映画と違い、何も飛ばされず、誰も穴に吸い込まれることはなかった。座席に置かれた書類もそのままだった。客室がやや冷え、薄い霧を見たが5秒ほどで消滅した[解説 4]。 という。︵但し、このサウスウエスト航空2294便の事故は、後部胴体に空いた0.135m²の穴からの急減圧で、日航123便の圧力隔壁の穴の15分の1しかない[120]︶ 急減圧が発生した際の123便機内の状況は、 ●客席で発生した風は、最大でも10m/s程度[注釈 49]で7秒間ほどであった[解説 5]。 ●断熱膨張によって室温がマイナス40度まで下がっても、エアコンによって室温は3分程度で回復する[注釈 50]。また、客室内の内壁などは冷えていないため、さほど気温が下がったとは感じられないと考えられる。 よって、急減圧を感じなかったのではないか、としている[解説 6]。 運航乗務員が酸素マスクを使用しなかったのは、事故機に生じた程度の減圧に対処するよりも操縦操作を優先したと考えられる、としている[解説 7]。 さらに、 ●機内で霧が発生した、という生存者の証言があること。 ●現場で発見された水平尾翼の内側から、圧力隔壁内側にあった断熱材の破片が大量に発見されたこと。 これらの証拠が急減圧と圧力隔壁破壊があったことを証明している、とした[解説 5]。フラッター現象や自衛隊標的機が事故原因ではないか
運輸安全委員会の回答
これらの主張に対し報告書や解説書では、フラッター現象は機体強度が弱い場合に発生するが、ボーイング747は構造・機能が正常な場合はもとより、油圧が低下した場合も発生しないことが開発時に実施された試験で確認されている、としている[報告書 18][解説 8]。 また、自衛隊の標的機が衝突したという主張に対しては、根拠になった尾翼の残骸付近の赤い物体は、主翼の一部であることが確認されており[126]、機体残骸に火薬や爆発物等の残留物は検出されず[報告書 19]、垂直尾翼の破壊が内部から外部に向かっていること、油圧作動油が垂直尾翼から噴き出している現象を説明できないのではないか、としている[解説 8]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b9/Japan_Airlines_123_att5_fig01_DFDR_record_%28182431-182451%29_selected.png/220px-Japan_Airlines_123_att5_fig01_DFDR_record_%28182431-182451%29_selected.png)
杉江弘の指摘
元日本航空機長の杉江弘は、報告書の緊急事態発生時︵18時24分31秒~51秒︶のデジタルフライトデータレコーダー (DFDR)のデータを基に[付録 10]、次のように指摘している。 フラッター現象の特徴は、初めに微振動が発生し次第に振幅が大きくなっていくものだが、DFDRの記録では先ず前後方向加速度 (LNGG)が働き、次に横方向加速度 (LATG)が働いたことが検出されている。横方向加速度の検出のタイミングと大きさ (0.08G)からみて、フラッターが主要因とする説は説明がつかない[127]。 自衛隊の標的機が垂直尾翼に衝突したとすれば、機首は標的機の飛んできた方向に振れるはずである。しかし、機首方位 (HDG)は約5秒間微動だにせず、10秒後もほぼ250度を維持していた。横方向加速度 (LATG)は最大でも0.1Gにも達しておらず、垂直尾翼に横から力が加わったとは到底考えられないと、横方向からの衝突可能性を否定した[注釈 51]。そして、前後方向加速度 (LNGG)が検出されているのは、補助動力装置 (APU)が破壊され噴出した空気の反作用と考えるのが自然であるとしている[128]。ボイスレコーダー音声の流出と遺族の生データ開示要求訴訟
2000年︵平成12年︶7月ごろには、事故機の操縦室音声記録装置 (CVR‥Cockpit Voice Recorder)を再録したカセットテープがマスメディアに流出した。8月にテレビ各局で相次いで放送され、墜落事故から15年を経て一般人が墜落直前のコックピットの様子を初めて知ることとなった[注釈 52]。 CVRは30分間のエンドレステープ4チャンネルからなり、管制交信・乗員の会話・乗客に対するアナウンス・マーカー音など、4通りとなっている[129]。流出したカセットテープの音声はこれらが繋ぎ合わされた32分間のもので、無録音部分も多い。 2000年︵平成12年︶8月、事故調査委員会は事故調査報告書作成のために使用した一部の資料を、マイクロフィルム化など別の手段で保存した上で廃棄していたことが毎日新聞の取材により分かった。再調査を求める一部の遺族らは﹁再調査への道を閉ざす行為﹂と批判した[130]。 2021年︵令和3年︶3月26日、遺族2人︵1人は事故機を操縦していた副操縦士の親族︶がボイスレコーダー・フライトレコーダーの生データの開示を求め東京地裁へ提訴した。2000年に流出したボイスレコーダーは4チャンネルを編集したもので生データは現在も非公開のまま。2018年と20年にボイスレコーダーとフライトレコーダーの生データの開示を日本航空に求めたが、日本航空は﹁公的な調査目的以外の使用は禁じられている﹂などの理由で応じていなかった。事故後36年間、国や日航は調査資料の開示に応じていない。原告は、開示は遺族の当然の権利としている[131][132]。刑事事件捜査
1985年︵昭和60年︶9月、群馬県警察は50人態勢の捜査本部を設置し、捜査を開始した。 群馬県警の捜査員は、ボーイングの修理担当者から直接事情を聴くため渡米したが、ボーイングの修理担当者は事情聴取に応じなかった[133][注釈 53]。 1988年︵昭和63年︶12月1日、群馬県警はボーイングの修理担当者を特定できないまま、ボーイング4人、日本航空12人、運輸省4人の計20人を業務上過失致死傷容疑で前橋地方検察庁に書類送検した[134][135]。 1989年︵平成元年︶11月22日、前橋地検は全員を﹃嫌疑不十分﹄として不起訴処分とし、捜査本部は解散した[136][137]。 1989年︵平成元年︶12月19日、一部の遺族が検察審査会に不起訴不当を申し立てた[138]。1990年︵平成2年︶4月25日、前橋検察審査会は日航社員2人とボーイングの作業員2人は不起訴不当とし、他は不起訴相当とした[139][140]。1990年︵平成2年︶7月19日、前橋地検は再捜査の結果、再び4人を不起訴処分とした。1990年︵平成2年︶8月12日、公訴時効が成立した[141][142][143]。 2016年︵平成28年︶8月、アメリカ合衆国司法省はボーイングに対し、日本の検察の捜査に協力するよう促していたことが分かった。当時、主任検事を務めたリンダ・キャンドラー弁護士がメディアの取材に対し初めて証言し、﹁アメリカ政府が中核産業のボーイングを擁護したとの見方も根強いが、これを明確に否定した﹂と共同通信が伝えた[144][145]。乗客
国籍 | 乗客 | 乗員 | 計 |
---|---|---|---|
![]() |
488 | 15 | 503 |
![]() |
6 | 0 | 6 |
![]() |
4 | 0 | 4 |
![]() |
3 | 0 | 3 |
![]() |
3 | 0 | 3 |
![]() |
2 | 0 | 2 |
![]() |
1 | 0 | 1 |
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1 | 0 | 1 |
![]() |
1 | 0 | 1 |
合計 | 509 | 15 | 524 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/Japan_Airlines_123_-_sitting_plan-ja.svg/180px-Japan_Airlines_123_-_sitting_plan-ja.svg.png)
灰色:使用席
白色:空席
赤色:生存者
死亡した著名人
●坂本九︵歌手︶ - NHK-FMで﹃歌謡スペシャル 秋一番!坂本九﹄[注釈 54]の収録後、友人の元マネージャーの選挙応援として、翌日の事務所開きに出席するため大阪に向かう途中。なお、当日は午前中にテレビ新広島制作のクイズ番組﹁クイズクロス5﹂の収録を終えた後に高速道路を利用して大阪入りする予定だった。[148][注釈 55][注釈 56] ●北原遥子︵女優・元宝塚歌劇団雪組娘役︶ - 帰省先の横浜の実家から大阪の友人に会いに向かう途中。[149] ●中埜肇︵阪神電気鉄道[注釈 57]専務取締役鉄道事業本部長・阪神タイガース球団社長︶、石田一雄︵阪神電気鉄道常務取締役︶ - 以上2名は阪神電気鉄道久万社長の代理で、都内の運輸省︵現・国土交通省︶本庁舎で開催された日本民営鉄道協会の会議の帰途。当年、阪神タイガースの選手、監督、コーチが事故後﹁中埜社長のためにみんなで頑張ろう﹂と誓い合い優勝に繋がったと当時の選手が語っている。 ●なお、阪神タイガースの選手たちは前日に試合を行った福岡市︵平和台球場︶から次の試合会場である後楽園球場へ向かうため366便に搭乗して羽田空港まで移動していた。これ以降、日本プロ野球では試合会場へ移動する際に航空機利用を極力避けるようになったと言われる[注釈 58]。 ●石野喜一︵神栄石野証券︿SMBC日興証券の前身会社のひとつ﹀代表取締役社長︶ ●浦上郁夫︵ハウス食品工業︵現・ハウス食品グループ本社︶代表取締役社長︶ - グリコ・森永事件の終息を父であり先代社長でもある浦上靖介の墓前に報告するために大阪に向かう途中。この事故の影響で、ハウス食品はCMの放映を数日間自粛し、当年放映中だった世界名作劇場﹁小公女セーラ﹂も8月18日放映分はCMカットで対応した[要出典]。 ●塚原仲晃︵医学博士・大阪大学基礎工学部教授︶ - 1986年から開始予定であった文部省︵現・文部科学省︶特定研究﹁脳の可塑性﹂の責任者として同研究に関する文部省との打ち合わせの帰途。 ●辻昌憲︵元自転車競技選手、1964年東京オリンピック代表・シマノレーシング監督︶ - 都内の日本アマチュア自転車競技連盟での打ち合わせの帰途。 ●竹下元章︵元広島カープ捕手、指月電機製作所社員︶ -群馬県代表となった東京農大二高野球部在籍の息子を応援のために甲子園球場へ向かう途中。群馬県在住者では唯一の搭乗者だった。 ●緋本こりん︵同人漫画家、本名生駒隆子︶ - 11日に都内で開催されていたコミックマーケット28におけるアニメ雑誌﹃ファンロード﹄関連のイベントに参加してからの帰途[150]。なお、当便にはイベント参加者も数人搭乗し犠牲となっている。 ●藤島克彦︵コピーライター、当時電通大阪支社に勤務︶ - 東京出張からの帰途。 ●山本幸男︵ミサワホーム専務取締役︶ - 大阪での会議に向かう途中。 ●和田浩太郎︵美容研究家、ミス日本審査員、和田静郎の長男︶- 友人である稲川淳二が出演するテレビ番組﹁稲川淳二のためになる話﹂の収録を手伝った後、私用で大阪に向かう途中。搭乗予定であった著名人
別の航空機に搭乗
●明石家さんま︵お笑いタレント︶ - 夜の﹁MBSヤングタウン﹂︵MBSラジオ︶に出演するために搭乗予定だったが、﹁オレたちひょうきん族﹂︵フジテレビ︶の番組収録が早めに終わり、一便早い全日空便に振り替えた[151]。後述の通り 当日のMBSヤングタウンではさんまは言葉を失うほどのショックを受け音楽を交えながらニュースを伝えた。この事故を機にさんまは東京•大阪間の移動は東海道新幹線を利用するようになった。なお、本人は﹁危機一髪で奇跡的に無傷で自宅のある東京に帰ってこれた﹂と語っている。 ●麻実れい︵女優、元宝塚歌劇団員︶ - 当便に搭乗する予定であったが、仕事が予定より早く終わり、一便早い飛行機に振り替えた[152]。 ●当時の笑点メンバー︵五代目三遊亭圓楽、桂歌丸、林家木久扇︵当時、初代木久蔵︶、林家こん平、三遊亭小遊三、六代目三遊亭円楽︵当時、楽太郎︶、7代目桂才賀︵当時、古今亭朝次︶、山田隆夫︶- 13日の徳島での阿波踊りに参加するために予約した徳島便が遅延。更に徳島空港悪天候のため予約便が条件付き運行となった。そこで、当便に搭乗して神戸から船で徳島入りする案が出たが[注釈 59]、こん平が﹁いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ﹂と提案し徳島便に搭乗した。しかし、同行予定だった広告代理店の数名は当便に搭乗し犠牲となった[153]。 ●ジャニー喜多川︵芸能プロモーター・音楽プロデューサー・ジャニーズ事務所代表取締役︶ - 事故前日に大阪の新歌舞伎座で幕を開けた舞台﹁森の石松﹂主演の近藤真彦の応援のために搭乗予定だったが、ジャニーは初日に近藤が開く記者会見に来て欲しいと要請を受けたため前倒しで大阪入りした[154]。 ●大西満︵釣り師︶ - 当日、前橋市の利根川で鮎釣りの講習会を行ったのち、主催した釣具店を出発する直前に当時大西がテスター契約を行っていたがまかつ製の釣竿の修理を依頼されたため、好意で修理を行った結果羽田空港に30分以上遅れて到着、満員かつ空席待ち2人前で締め切られたため123便への搭乗を断念し、後発の東亜国内航空207便に変更した事で難を逃れた[155]。 ●西川のりお︵漫才師︶-帰阪するために搭乗する予定だったが、羽田空港に移動中のタクシーが渋滞に巻き込まれ到着するのが遅れ当然乗り遅れ別の便に搭乗して難を逃れた。 ●長江健次(タレント︶ ●いしだあゆみ、浅野ゆう子(両者とも女優︶-帰郷するため搭乗する予定だったが、羽田空港に到着するのが遅れて別の便に搭乗して難を逃れた。 ●村尾晞峰(書道家︶-都内で行われた書道展の表彰式が予定より早く終わったために帰阪する際に一便早い別の日航便に搭乗し難を逃れた。東海道新幹線で移動
●逸見政孝︵当時フジテレビアナウンサー︶とその家族︵晴恵・太郎・愛︶ - 大阪の実家に帰省するために搭乗予定だったが、妻・晴恵が飛行機嫌いであることに加え、長男・太郎が直前になって﹁新幹線のほうが安いから﹂と提案して変更した[151][156]。 ●稲川淳二︵タレント︶ - 東京で健康番組﹁稲川淳二のためになる話﹂の収録を終えたあとに大阪入りするため搭乗予定だったが、体調不良のため大事を取って翌朝の東海道新幹線での移動に変更したため搭乗をキャンセルした[151]。前述の通り同番組を手伝った和田が当便に搭乗し犠牲となったため、稲川本人は﹁これが運命の分かれ目﹂と、DVD﹁稲川淳二の怪異夜話﹂の第7話(日航123便)にて述懐している。 ●勝谷誠彦︵コラムニスト︶ - 搭乗予定だったが、友人に会いに京都市へ向かうために東海道新幹線で移動することにした[157]。 ●神田敏晶︵ITジャーナリスト︶-帰郷するため当便を含めた航空機が満席だったため搭乗を断念し東海道新幹線に変更したことで難を逃れた。搭乗をキャンセル
●久万俊二郎︵阪神電気鉄道社長・阪神タイガースオーナー︶ - 前述の日本民営鉄道協会の会議に出席し終了後に当便で帰阪する予定だったが、私用で出席できなくなったことにより、中埜・石田の両名が代理で出席した。 ●佐々木正︵電子工学技術者、シャープ副社長︶ - 大阪の実家に帰省するために搭乗予定だったが、フィリップス本社の社長との会食の予定が入り搭乗をキャンセルした[156]。 ●少年隊︵ジャニーズ事務所所属ユニット︶のメンバー︵錦織一清、植草克秀、東山紀之︶ - 前述のジャニー喜多川と搭乗予定であったが、キャンセルし東京に残った[154]。 ●木戸克彦︵阪神タイガース︶夫人も123便に搭乗予定だったが直前にキャンセルした。 ●舛添要一︵東京大学教養学部政治学助教授︶ - 123便の搭乗券を持っていたが、最終的に乗らなかった。 ●小島良喜︵ピアニスト︶ ●深田恭子︵当時2歳︶- 家族と搭乗予定であったが、移動手段として使っていた東京モノレールが遅延していた為搭乗しなかった。追悼施設
事故後
8・12連絡会と航空安全国際ラリー組織委員会
航空輸送量の減少
本事故が起きた1985年度には、国内線旅客は前年度の対前年度比9%増から一転して同2.1%減となり、各航空会社とも経営が悪化した。これに対し新幹線旅客は、輸送人員で前年度の対前年度比1.5%増から飛躍的に増加し、同9.8%増となった[163]。事故後のJAL
欠番
羽田 - 伊丹線往路﹁JAL123便 (JL123)﹂という便名は、1985年︵昭和60年︶9月1日のダイヤ以降に欠番となった。しかし、2020年8月に成田空港で整備中の777-346ER﹁JA740J﹂[164]において、架空の便名としてJL123を使用していたことをFlightrader24の利用者に指摘されて謝罪をしている[165]。747SRの退役
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e9/STS-128_Return_to_KSC_10.jpg/220px-STS-128_Return_to_KSC_10.jpg)
安全啓発センターの設置
テレビ番組への影響
事故をきっかけとしてJALが協賛して賞品のハワイ旅行を提供していたテレビ番組﹃アップダウンクイズ﹄︵毎日放送制作、ロート製薬提供︶にて協賛のクレジットを自粛。事故の前までは、番組開始前のカウキャッチャーとして19時の時報とともにJALグループのCM︵ジャルパックなど︶が流れ、その後にロート製薬のオープニングキャッチに入っていたが、事故後には時報直後にロートのオープニングが流れるようになった。﹃アップダウンクイズ﹄は1985年10月6日に最終回を迎え、翌週﹃クイズ!!ひらめきパスワード﹄が放送開始。﹃ひらめきパスワード﹄も最初の半年間はJALが協賛していたが、当初はアップダウンクイズ末期と同様に協賛のクレジットを自粛した。 これとは別に毎日放送では、1985年7月下旬から平日帯の17時台に、JALが舞台かつ撮影の全面協力・スポンサーだったテレビドラマ﹃スチュワーデス物語﹄︵大映テレビ制作︶の再放送が行われていたが、再放送途中に当事故が発生したため、事故翌日︵8月13日︶に放送予定だった最終回を残して放送打ち切りとなった。報道
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報道機関の問題行動
事故を題材にした作品など
小説
﹃沈まぬ太陽﹄ 山崎豊子原作。1995年 - 1999年に週刊新潮で連載。2001年に単行本化。当時の日本航空をモデルとして、社内からの視点で描いたフィクションの作品。2009年に映画化。2016年にテレビドラマ化。 ﹃クライマーズ・ハイ﹄ 横山秀夫原作。2003年1月、﹃別冊文藝春秋﹄に掲載。当事故の報道における地元の新聞社の記者の苦悩を描いた作品。2005年にテレビドラマ化、2008年に映画化。テレビ番組
日本放送協会︵NHK︶ NHK総合テレビジョン NHK特集﹃﹁墜落﹂―日航機事故調査報告―﹄ 1985年12月15日放送[195]。 NHKスペシャル﹃あの日を忘れないで~日航機墜落事故 遺族の20年﹄ 2005年8月12日放送[196]。 土曜ドラマ﹃クライマーズ・ハイ﹄ 2005年12月10日・17日放送。2006年9月30日・10月7日再放送。2010年12月には日本映画専門チャンネルにて映画版とあわせて放送された[197]。 NHKスペシャル﹃日航ジャンボ機事故 空白の16時間~“墜落の夜”30年目﹄ 2015年8月1日放送。行政機関が保有している墜落事故に関する情報を﹃情報公開制度﹄を利用し、なぜ墜落場所の特定が混乱したのか、事故報告書で不明とされた部分を、NHKの独自取材をもとに検証・構成した。遺族の1人である吉田由美子の母親が登場し、墜落地点特定までの長野県南佐久郡川上村での目撃証言や、墜落場所とされた御座山に関する情報錯綜を検証した[198][199]。 NHK BSプレミアム アナザーストーリーズ 運命の分岐点﹃日航機墜落事故 命の重さと向き合った人々﹄ 2015年8月12日放送。事故当時に日本赤十字社の看護婦で救護に携わった人物、事故機の現場写真を掲載した上毛新聞社のカメラマン、遺族と元警察官に、初めてテレビカメラの前に立った人達が登場した[200]。なお、この回の放送は、総合テレビで、2021年8月14日に放送された。 日本テレビ NNNドキュメント﹃ドキュメント05.﹁あの夏…御巣鷹山・日航機墜落それぞれの20年﹂﹄ 2005年8月15日︵14日深夜︶放送。事故から20年。犠牲者の遺族、上野村の人々、日航社員、事故をきっかけに生まれた出逢いを一年がかりで取材した[201]。 NNNドキュメント﹃ドキュメント.﹁夏空の墓標 あの日、御巣鷹の尾根で﹂﹄ 2014年9月1日︵8月31日深夜︶放送。2014年の夏、航空業界を目指す東洋大学の大学生たちが、御巣鷹の尾根への登山を試みた。一方で高齢で慰霊登山を断念する遺族もいる。彼らの姿を通して事故を振り返る[202]。 ザ!世界仰天ニュース﹃若いカップルを引き裂いたJAL123便~日航機事故で引き裂かれた純愛~﹄ 2015年12月2日放送。当時佐渡ヶ嶽部屋所属の三段目の大相撲力士の琴天旭博且がこの事故で交際していた女性を失う悲劇について描かれた[203]。 TBS ﹃ボイスレコーダー~残された声の記録~ジャンボ機墜落20年目の真実﹄ 2005年8月12日放送。機長夫人や原因究明に奔走する先輩機長・藤田日出男から見た視点を中心に、事故発生からボイスレコーダー公開に至るまでの経緯について描かれた[204]。 ﹃8.12日航ジャンボ機 墜落事故30年の真相﹄ 2015年8月12日放送。TBSが独自に取材した生存者や親族の証言などをもとに、再現ドラマとドキュメンタリーの2部構成で送った[205]。 テレビ東京 坂本九没後20年ドラマスペシャル﹃上を向いて歩こう 坂本九物語﹄ 2005年8月21日放送。 フジテレビ ザ・ノンフィクション﹃15年目の検証﹄ 2000年11月19日放送。ノースダコタ大学航空学科での実験を通じた急減圧発生への疑問、カナダ・セレリス社のデジタル音声分析による公式報告書への疑問︵記載されたボイスレコーダの﹁オールエンジン﹂というフレーズが実は﹁ボディギア﹂ではないかと分析︶を放映し、さらに事故調査委員会の委員の中にボーイング747の操縦経験者が一人もいなかったことを指摘した。 金曜エンタテイメント特別企画﹃8・12日航機墜落事故20年目の誓い~天国にいるわが子へ~﹄ 2005年8月12日放送。2007年12月15日一部地域で再放送。甲子園での高校野球観戦をするため、1人で搭乗し死亡したある小学生の母親から見た視点で描かれている。また合間には、東京航空管制部での対応や生存者をスクープしたフジテレビカメラマンの話も実録ドラマで描かれている[206]。 ﹃8.12日航機墜落30回目の夏 生存者が明かす"32分間の闘い"~ボイスレコーダーの"新たな声"﹄ 2014年8月12日放送。よりオリジナルに近いボイスレコーダーの音声を、最新のデジタルリマスター機器で解析し、事故原因の再検証、また聞き取れず報告書で不明とされていた部分を元同僚パイロットとともに解説。そのほか、墜落時刻直前から墜落時刻の黙祷に合わせて現場から須田哲夫︵事故直後も現場を取材︶が生中継、さらに﹁事故を語るのはこれが最後﹂と言う生存者の証言に基づく再現ドラマも放送された[207]。 ザ・ノンフィクション﹃今だから話せる妻の本音~日航機墜落事故から30年~﹄ 2015年8月9日放送。 直撃!シンソウ坂上SP日航機墜落事故33年目の真相 2018年8月16日放送。番組が4組の遺族に独自取材を行い、33年を経て初めて明かされる壮絶な人生をドラマ化。また、坂上忍が初めて遺族の1人で小学生の息子を失った8・12連絡会・事務局長の美谷島邦子と御巣鷹の尾根に登った[208]。 WOWOW ドラマWスペシャル﹃尾根のかなたに~父と息子の日航機墜落事故~﹄ 2012年10月7日・14日放送。門田隆将の同名小説をドラマ化[209]。 連続ドラマW﹃沈まぬ太陽﹄ 2016年5月8日 ‐ 9月25日放送。同名小説のテレビドラマ化。 ナショナルジオグラフィックチャンネル ﹃メーデー!:航空機事故の真実と真相 シーズン3第3話 ﹁OUT OF CONTROL﹂︵邦題﹁御巣鷹の尾根﹂︶﹄ 客室乗務員とのやり取りや、酸素マスク着用の必要性を伝える航空機関士の呼びかけに、機長がしばらく応答せずマスクもつけなかったことから、可能性の一つとして急減圧のために操縦士らに低酸素症による一時的な判断力の低下が起こったかもしれないと、クルーが低酸素症でぼうっとしている様子が演じられる。 この番組では、シーズン5から日本語吹き替えを実施しているが、シーズン3のこの放送回のみ先行して吹き替えを実施して放送している。 ﹃衝撃の瞬間 シーズン6第5話 ﹁TERRIFIED OVER TOKYO﹂︵邦題﹁日本航空123便墜落事故﹂︶﹄ 本内容は﹁事故を検証﹂する観点で作成されたため、上記﹁メーデー!﹂とは内容が異なった。また、この放送では、本便に搭乗し死亡した坂本九の妻である柏木由紀子と当時陸上自衛隊隊員だった男性のインタビューも放送された。 ﹃衝撃の瞬間 特別編﹁小さなミス﹂﹄ ﹃日曜大惨事ファイル 衝撃の瞬間6﹁日本航空123便墜落事故﹂﹄ ディスカバリーチャンネル ﹃エアクラッシュ2点検の不備﹄ 上記﹁ナショジオ﹂の﹁メーデー!…﹂とは、操縦席等機内の再現VTRの内容が若干異なっている。映画
﹃コミック雑誌なんかいらない!﹄ 1986年公開。 ﹃御巣鷹山﹄ 2006年公開。渡辺文樹監督作品。自主制作のフィクション。上野村をはじめ全国で上映会。 ﹃クライマーズ・ハイ﹄ 2008年7月公開。同名小説の映画化。2012年8月には衛星劇場で放送された後、2015年の第28回東京国際映画祭﹁原田眞人の世界﹂で劇場再上映され、更に2016年8月12日夜には日本映画専門チャンネルでも放送された。 ﹃沈まぬ太陽﹄ 2009年10月公開。同名小説の映画化[注釈 62]。写真集
﹃4/524﹄ 小平尚典作。1991年。事故現場で撮影したカメラマンによるフォト・ドキュメント。日米同時に刊行された[210]。漫画
﹃御巣鷹山の暑い夏﹄ 小林源文作。自衛隊による事故現場処理の様子を描いたドキュメンタリー形式の劇画で雑誌﹃PX MAGAZINE﹄に掲載。﹃ストライク アンド タクティカル マガジン﹄2007年11月号にp. 36のセルフリメイクで再掲載。2010年4月単行本化[211]。演劇
﹃赤い鳥逃げた…﹄ 劇団離風霊船が1986年に初演。1988年、1989年、1995年、2005年に再演。物語は、事故の生存者と同じ事故に遭ったが自らの死を受け入れられない生存者の家族を軸にしており、役名も実際の生存者の名前を使っている。またラストでは生存者の1人が語ったとされ、メディアでも取り上げられた証言が一言も変えずに使われている。タイトルは、本事故とほぼ同時期にヒットしていた中森明菜の楽曲である﹁ミ・アモーレ﹂の異名同曲異歌詞である﹁赤い鳥逃げた﹂と当時日本航空の旅客機に描かれていた﹁鶴丸﹂に掛けている。 ﹃8・12︵はってんいちに︶﹄ ﹁劇団裏長屋マンションズ﹂の座長である赤塚真人が、同事故で親友を失った事実を基に書き下ろした作品。2004年に初演、事故後20年の節目となった翌年には続編︵第二章︶が上演され、2008年﹁8・12~絆~﹂として再演される。物語は、父親との確執を抱えたまま事故機に搭乗した青年の思いを軸に、実在したクラブハウスを舞台に描かれる。同劇団では、作品の上演にあたり毎年御巣鷹山への慰霊登山を実施しているという[212][213]。 ﹃8・12~白球~︵はってんいちにはっきゅう︶﹄ ﹁劇団裏長屋マンションズ﹂が、事故から30年を期して2015年初演。同事故で親友を失った座長・赤塚真人が原作、原案。当時、夏の甲子園に出場を果たした息子と、その応援のために123便に搭乗して遭難した元プロ野球選手でもある父親の実話をモチーフに描いた、﹃8・12﹄シリーズの新編。来世へと旅立った父親が、自分の年齢になった息子に会うために、現世に舞い戻るというストーリーである[214][213]。 ﹃CVR チャーリー・ビクター・ロミオ﹄ 実際に発生した航空事故のCVRを再現した舞台演劇作品。そのうちのひとつが本事故。1999年アメリカ合衆国で初演。日本では燐光群によって2002年に初演。 ﹃操縦不能 UNCONTROLLABLE﹄ 2010年初演。由木事務所[215]。 ﹃ナイス・エイジ﹄ 2000年初演。演劇ユニットナイロン100℃による上演。 ﹃フェイクスピア﹄ 2021年上演。NODA・MAP 第24回公演として上演。ラストシーンにボイスレコーダーに記録された墜落までのシーンを再現。音楽
﹁RAMP IN﹂﹁SONG FOR YOU﹂ 1985年11月発売のアルバム﹃T's BALLAD﹄に収録された角松敏生の楽曲。歌詞カードには﹁RAMP IN﹂が“Dedicated to the stewardesses of JAL 123︵JAL123便に乗務していた客室乗務員に捧げる︶”、﹁SONG FOR YOU﹂が“Dedicated to the souls of the passsengers of JAL 123︵JAL123便の乗客の魂に捧げる︶”とそれぞれ記載された。また﹁RAMP IN﹂は1993年発売のベスト・アルバム﹃1981-1987﹄に完全リテイクで再収録。ライナーノーツには改めて“'85年に起きた航空機事故の乗員乗客に捧げた”と記載された。 ﹁Last Flight﹂ 角松敏生の楽曲。2003年発売のシングル﹁君のためにできること﹂のカップリング曲として発表。その後アルバム﹃Summer 4 Rhythm﹄に収録[216]。類似事故・事件
JAL123便墜落の主原因とされる﹁圧力隔壁の損壊・急減圧・油圧配管の破断・垂直尾翼︵方向舵︶の損傷﹂に関する類似事故事件。事故年 | 機種 | 原因 | 結果 | |
---|---|---|---|---|
パンアメリカン航空845便離陸衝突事故 | 1971年 | ボーイング747-100 | 離陸時に主脚を進入灯に接触させ、4本の油圧系統のうち床下を走る3本を破断。 | 緊急着陸に成功 |
英国欧州航空706便墜落事故 | 1971年 | ビッカース ヴァンガード | 圧力隔壁が腐食により破壊され急減圧が発生。風圧によって外壁が吹き飛ばされ水平尾翼も崩壊。 | 空中分解し、地上に墜落 |
アメリカン航空96便貨物ドア破損事故 | 1972年 | マクドネル・ダグラス DC-10 | 貨物ドアの欠陥による急減圧が原因で、方向舵、昇降舵、第2エンジンがほぼ操作不能になった。補助翼とエンジン出力の操作で機体制御。 | 緊急着陸に成功 |
ナショナル航空27便エンジン破損事故 | 1973年 | マクドネル・ダグラス DC-10-10 | 第3エンジンが破損、破片の一つが客室の窓を破壊し急減圧が起こる。 | 乗客1名が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
トルコ航空DC-10パリ墜落事故[注釈 63] | 1974年 | マクドネル・ダグラス DC-10 | 上昇中に貨物室ドアが脱落し急減圧が発生。全油圧系統を損失し操縦不能に。 | 操縦不能に陥り墜落 |
サウディア162便機体破損事故 | 1980年 | ロッキードL-1011トライスター | 部品の劣化により車輪が破裂。機体下部の隔壁に穴が開き急減圧が発生。 | 乗客2名が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
遠東航空103便墜落事故 | 1981年 | ボーイング737 | 圧力隔壁の腐食によって貨物室が客室の与圧に耐えられなくなり外板が破壊。 | 空中分解し、山中に墜落 |
タイ航空機爆発事件 | 1986年 | エアバスA300-600 | 乗客が持ち込んだ手榴弾が機体後部で爆発、圧力隔壁が破損し急減圧が発生。油圧3系統のうち2系統を損失。 | 緊急着陸に成功 |
アロハ航空243便事故 | 1988年 | ボーイング737-200 | 胴体に無数の疲労亀裂があり、飛行中に胴体前方上部が分離、急減圧が発生。 | CA1名が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故 | 1989年 | ボーイング747-122 | 機体の右前部貨物ドアのロックがひとりでに解除。ドアが開き脱落、急減圧が発生 | 乗客9名が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
ユナイテッド航空232便不時着事故 | 1989年 | マクドネル・ダグラス DC-10 | 尾部エンジンの欠陥により破壊。全油圧系統損失[注釈 64][217]。 | 緊急着陸時に大破・炎上 |
ブリティッシュ・エアウェイズ5390便不時着事故 | 1990年 | BAC 1-11・528FL | 不適切に装着された操縦席の窓ガラスが吹き飛び急減圧が発生。 | 機長の体のほとんどが吸い出されたが緊急着陸に成功 |
フィリピン航空434便爆破事件 | 1994年 | ボーイング747-200B | テロリストの爆弾で床に穴が開き方向舵の操作が困難になった。左右エンジン出力の操作で機体制御。 | 緊急着陸に成功 |
アメリカン航空587便墜落事故 | 2001年 | エアバスA300-600R | 離陸直後、方向舵の過剰操作により垂直尾翼が脱落し、操縦不能に。 | 操縦不能に陥り墜落 |
ノースウエスト航空85便緊急着陸事故 | 2002年 | ボーイング747-400 (-400初号機) |
下部方向舵が動かなくなり機体制御が困難に陥る。操縦桿と左右エンジン出力の操作で機体制御。 | 緊急着陸に成功 |
DHL貨物便撃墜事件 | 2003年 | エアバスA300 | テロリストが貨物機を狙撃したことで全油圧系統損失。左右エンジン出力の操作で機体制御。 | 緊急着陸に成功 |
ナショナル・エアラインズ102便墜落事故 | 2013年 | ボーイング747-400BCF 改造貨物機 |
積荷の軍用車が荷崩れを起こし圧力隔壁・油圧系統の一部と昇降舵の油圧ジャッキを破壊。 | 操縦不能に陥り墜落 |
サウスウエスト航空1380便エンジン爆発事故 | 2018年 | ボーイング737-700 | 左エンジンが破損し断片が客室窓ガラスを破壊。急減圧が発生。 | 乗客1名の上半身が吸い出され死亡したが、緊急着陸は成功 |
四川航空8633便不時着事故 | 2018年 | エアバスA319-100 | フロントガラスのシールが湿気によって損傷し破裂、急減圧が発生。 | 副操縦士の上半身が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
その他の原因別事故・事件
原因別の航空事故を参照
脚注
注釈
55放送日の9月1日に、冒頭で追悼の文言がアナウンスされた。
事故調査報告書 出典
事故調査報告書
- ^ a b c d e f 報告書 1987, pp. 6–8 (2.1 飛行の経過)
- ^ a b 報告書 1987, p. 128 (4.2 原因)
- ^ a b 報告書 1987, pp. 17–19 (2.7 航空機に関する情報)
- ^ 報告書 1987, pp. 101–104 (3.2.2 昭和53年大阪国際空港における事故による損壊の修理作業並びにその後の事故機の運航および整備点検について)
- ^ a b c d 報告書 1987, pp. 14–17 (2.6 乗組員に関する情報)
- ^ 報告書 1987, p. 24 (2.12 客室乗務員の対応に関する情報)
- ^ 報告書 1987, p. 114 (3.2.7 異常事態における運行乗務員の対応)
- ^ 報告書 1987, pp. 117–118 (3.2.7.5 その他の対応)
- ^ a b c 報告書 1987, pp. 8–9 (2.3 墜落現場の状況)
- ^ 報告書 1987, pp. 77–83 (3.1.7 DFDRに基づく事故機の飛行状況及び飛行経路について(関係資料付録6))
- ^ a b c d e f g h 報告書 1987, pp. 25–28 (2.14 人の生存、死亡又は負傷に関係ある捜索、救難及び避難に関する情報)
- ^ 報告書 1987, pp. 24–25 (2.13 医学に関する情報)
- ^ 報告書 1987, pp. 121–122 (3.2.10 乗員・乗客の死傷についての解析)
- ^ 報告書 1987, pp. 63–64 (2.16.8 放射性物質に関する調査)
- ^ 報告書 1987, p. 3 (1.2 航空事故調査の概要)
- ^ 報告書 1987, pp. 13–14 (2.4.4 海底浮遊残骸の揚収等)
- ^ 報告書 1987, p. 14 (2.4.5 飛行経路下(陸地)から回収された残骸)
- ^ 報告書 1987, pp. 70–71 (3.1.2.5 フラッタ及びダイバージェンスに関する検討)
- ^ 報告書 1987, p. 63 (2.16.7 爆発物等に関する調査)
- ^ 報告書 1987, p. 8 (2.2 人の死亡、行方不明および負傷)
- ^ 報告書 1987, p. 141 (付図-5 胴体ステーション及び座席配置図)
事故調査報告書 別添
事故調査報告書 (付録)
- ^ 報告書(付録) 1987, pp. 95–130 (付録6 DFDRに基づく事故機の飛行状況及び飛行経路について)
- ^ 報告書(付録) 1987, pp. 3–21 (付録1 後部圧力隔壁破壊の解析のための試験研究)
- ^ 報告書(付録) 1987, pp. 23–46 (付録2 垂直尾翼破壊の解析のための試験研究)
- ^ 報告書(付録) 1987, pp. 47–52 (付録3 APU防火壁付近の強度解析)
- ^ 報告書(付録) 1987, pp. 53–85 (付録4 後部圧力隔壁からの与圧空気の流出の数値計算による検討)
- ^ 報告書(付録) 1987, p. 145 (付録7 付表-6 緊急着水のための最適操作)
- ^ 報告書(付録) 1987, pp. 131–156 (付録7 事故機の飛行シミュレーション試験)
- ^ 報告書(付録) 1987, pp. 207–213 (付録12 目視点検による亀裂の発見について)
- ^ 報告書(付録) 1987, pp. 73–74 (付録4 付図-4 (b)客室、コクピット温度変化)
- ^ 報告書(付録) 1987, pp. 91–92 (付録5 付図-1 DFDR拡大図)
事故調査報告書についての解説
出典
田中慶
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参考文献
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●御巣鷹の尾根 ●日本航空安全啓発センター ●日本航空の航空事故およびインシデント ●欠番 ●野外入浴セット - 災害派遣時にメーカーからボランティア提供を受け試用したところ、隊員の士気維持・向上に有効であったとされ、制式採用に至った。 ●山の日 - 当初、当事故が発生した8月12日を祝日とする予定だったが、﹁﹃慰霊の日﹄を祝日とするのはそぐわない﹂と墜落地である群馬県選出の国会議員や群馬県知事、上野村の村長らが日付の変更を求め、最終的に8月12日を避け、8月11日を祝日とすることとなった[1]。 ●ショルダーホン - 捜索隊が当初使用していた無線機よりも性能が良かったため、日本電信電話︵NTT︶は捜索隊に対し試作機12台を8月15日に提供し宇都宮市と水戸市の拠点から電波を中継した上で実際に使用された。なお、事故当時はサービス開始前で郵政省からの免許も得ていなかったため超法規的措置を適用させた上での提供となった[2]。- ^ “海があるなら…祝日「山の日」8月11日で国会提案へ”. 朝日新聞デジタル. (2013年12月9日). オリジナルの2013年12月9日時点におけるアーカイブ。
- ^ “企業遺産 ドコモのショルダーホン 日航機事故で緊急登板”. 日本経済新聞電子版. (2017年7月11日)