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「リチャード・H・アンダーソン」の版間の差分

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|name=リチャード・ヘロン・アンダーソン<br />Richard Heron Anderson

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|caption=リチャード・ヘロン・アンダーソン将軍

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|battles=[[米墨戦争]]<br />

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* [[ベラクルス包囲戦]]

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* [[コントレラスの戦い]]

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* [[モリノ・デル・レイの戦い]]

* [[モリノ・デル・レイの戦い]]

* [[メキシコシティの戦い]]<br />

* [[メキシコシティの戦い]]

[[南北戦争]]

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* サンタローザ島の戦い

* サンタローザ島の戦い

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'''リチャード・ヘロン・アンダーソン'''(英:Richard H. Anderson、[[1821年]][[10月7日]]-[[1879年]][[6月26日]])は、[[アメリカ陸軍]]の職業[[軍人]]であり、[[米墨戦争]]で手柄を立てた。[[南北戦争]]の時は[[南軍]]の[[将軍]]としても仕えた。アンダーソンはその謙虚さでも注目された<ref>Dupuy, p. 40. "...有能で機略に富んだ師団指揮官、個人的には謙虚。"</ref>

'''リチャード・ヘロン・アンダーソン'''(英:Richard H. Anderson、[[1821年]][[10月7日]]-[[1879年]][[6月26日]])は、[[アメリカ陸軍]]の職業[[軍人]]であり、[[米墨戦争]]で手柄を立てた。[[南北戦争]]の時は[[南軍]]の[[将軍]]としても仕えた。アンダーソンはその謙虚さでも注目された<ref>Dupuy, p. 40. "...有能で機略に富んだ師団指揮官、個人的には謙虚。"</ref>。



== 初期の経歴 ==

== 初期の経歴 ==

アンダーソンは[[サウスカロライナ州]][[サムター郡 (サウスカロライナ州)|サムター郡]]にあるステイトバーグの町近く、ハイヒルズ・オブ・サンティーのバラハウス・プランテーション(ヒルクレスト)で生まれた。ウィリアム・ウォレス・アンダーソン博士とその妻メアリー・ジェーン・マッケンジー夫妻の息子であり、[[アメリカ独立戦争]]の英雄でその名を貰ったリチャード・アンダーソンの孫だった<ref name=roots>[http://www.rootsweb.ancestry.com/~scdacudc/ UDC website]</ref>。

アンダーソンは[[サウスカロライナ州]][[サムター郡 (サウスカロライナ州)|サムター郡]]にあるステイトバーグの町近く、ハイヒルズ・オブ・サンティーのバラハウス・プランテーション(ヒルクレスト)で生まれた。ウィリアム・ウォレス・アンダーソン博士とその妻メアリー・ジェーン・マッケンジー夫妻の息子であり、[[アメリカ独立戦争]]の英雄でその名を貰ったリチャード・アンダーソンの孫だった<ref name="roots">[http://www.rootsweb.ancestry.com/~scdacudc/ UDC website]</ref>。



アンダーソンは[[1842年]]7月に[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]を同期56人中40番目の成績で卒業し、第1アメリカ竜騎兵隊の名誉少尉に任官された<ref name=Eicher105>Eicher, p. 105.</ref>。1842年は、[[ペンシルベニア州]][[カーライル (ペンシルベニア州)|カーライル]]のアメリカ陸軍兵舎での実習のため騎兵学校で働いた。[[1843年]]は[[アメリカ合衆国西部|西部]]での[[フロンティア|辺境]]任務に就き、最初は[[アーカンソー州]][[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]、次に[[インディアン準州]]内にあるギブソン砦とウォシタ砦の守備隊を務めた。その連隊は1843年に合衆国インディアン代理人を護衛して[[レッド川 (ミシシッピ川水系)|レッド川]]に行ってウォシタ砦に戻り、そこに[[1844年]]まで留まった。アンダーソンは1844年[[7月16日]]に少尉に昇進し、1844年から[[1845年]]は[[ルイジアナ州]]ジェサップ砦で勤めた。その後連隊は1845年のテキサス軍事占領のために遠征し、アンダーソンは[[1846年]]に新兵徴兵業務に携わった<ref name="Military biography of Richard H. Anderson">{{cite web|url=http://www.library.ci.corpus-christi.tx.us/MexicanWar/andersonrh.htm|title="Military biography of Richard H. Anderson"|publisher=''www.library.ci.corpus-christi.tx.us''|accessdate=2008-09-08}}</ref>。

アンダーソンは[[1842年]]7月に[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]を同期56人中40番目の成績で卒業し、第1アメリカ竜騎兵隊の名誉少尉に任官された<ref name="Eicher105">Eicher, p. 105.</ref>。1842年は、[[ペンシルベニア州]][[カーライル (ペンシルベニア州)|カーライル]]のアメリカ陸軍兵舎での実習のため騎兵学校で働いた。[[1843年]]は[[アメリカ合衆国西部|西部]]での[[フロンティア|辺境]]任務に就き、最初は[[アーカンソー州]][[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]、次に[[インディアン準州]]内にあるギブソン砦とウォシタ砦の守備隊を務めた。その連隊は1843年に合衆国インディアン代理人を護衛して[[レッド川 (ミシシッピ川水系)|レッド川]]に行ってウォシタ砦に戻り、そこに[[1844年]]まで留まった。アンダーソンは1844年[[7月16日]]に少尉に昇進し、1844年から[[1845年]]は[[ルイジアナ州]]ジェサップ砦で勤めた。その後連隊は1845年のテキサス軍事占領のために遠征し、アンダーソンは[[1846年]]に新兵徴兵業務に携わった<ref name="Military biography of Richard H. Anderson">{{cite web|url=http://www.library.ci.corpus-christi.tx.us/MexicanWar/andersonrh.htm|title="Military biography of Richard H. Anderson"|publisher=''www.library.ci.corpus-christi.tx.us''|accessdate=2008-09-08}}</ref>。


[[米墨戦争]]のとき、アンダーソンは[[1847年]]3月の[[ベラクルス包囲戦]]に参加し、続いて[[6月9日]]にラ・ホヤ近くで小戦闘に加わった。[[8月19日]]の[[コントレラスの戦い]]、翌日のサンオーガスティン・アルタプルコ近くの小戦闘、および[[9月8日]]の[[モリノ・デル・レイの戦い]]に参戦した。サンオーガスティン近くでの戦闘における勇敢さによって[[8月17日]]に中尉に名誉昇進した<ref name=Dupuy40>Dupuy, p. 40.</ref>。[[9月12日]]から14日の[[メキシコシティの戦い]]とその占領にも参加した<ref name="Military biography of Richard H. Anderson"/>。

[[米墨戦争]]のとき、アンダーソンは[[1847年]]3月の[[ベラクルス包囲戦]]に参加し、続いて[[6月9日]]にラ・ホヤ近くで小戦闘に加わった。[[8月19日]]の[[コントレラスの戦い]]、翌日のサンオーガスティン・アルタプルコ近くの小戦闘、および[[9月8日]]の[[モリノ・デル・レイの戦い]]に参戦した。サンオーガスティン近くでの戦闘における勇敢さによって[[8月17日]]に中尉に名誉昇進した<ref name="Dupuy40">Dupuy, p. 40.</ref>。[[9月12日]]から14日の[[メキシコシティの戦い]]とその占領にも参加した<ref name="Military biography of Richard H. Anderson"/>。


メキシコでの任務が終わると[[1848年]][[7月13日]]に第2アメリカ竜騎兵隊の中尉に昇進し、[[1849年]]は再度新兵徴兵業務に携わった。1849年から1[[850年]]はカーライルのアメリカ陸軍兵舎に戻り、続いて[[1852年]]までまた新兵徴兵業務に携わった。その後、[[テキサス州]]の幾つかの施設での辺境任務につき、1852年から[[1853年]]はグラハム砦、1853年から[[1854年]]はマッカベット砦、1854年に[[サンアントニオ]]、および[[1855年]]のマッカベット砦と続いた<ref name="Military biography of Richard H. Anderson"/>。1855年[[3月3日]]に大尉に昇進し<ref name=Eicher105/>、1855年から[[1856年]]は[[カンザス州]]ライリー砦勤務となった。1856年から[[1857年]]に掛けての[[血を流すカンザス|州境紛争]]の間はまだカンザスで勤務し、その後[[1858年]]は新兵徴兵任務と最後のカーライル兵舎勤務となった。1858年から[[1859年]]に掛けての[[ユタ戦争]]に参加し、1859年から[[1861年]]は[[ネブラスカ州]]カーニー砦で勤務した<ref name="Military biography of Richard H. Anderson"/>。

メキシコでの任務が終わると[[1848年]][[7月13日]]に第2アメリカ竜騎兵隊の中尉に昇進し、[[1849年]]は再度新兵徴兵業務に携わった。1849年から[[1850年]]はカーライルのアメリカ陸軍兵舎に戻り、続いて[[1852年]]までまた新兵徴兵業務に携わった。その後、[[テキサス州]]の幾つかの施設での辺境任務につき、1852年から[[1853年]]はグラハム砦、1853年から[[1854年]]はマッカベット砦、1854年に[[サンアントニオ]]、および[[1855年]]のマッカベット砦と続いた<ref name="Military biography of Richard H. Anderson"/>。1855年[[3月3日]]に大尉に昇進し<ref name="Eicher105"/>、1855年から[[1856年]]は[[カンザス州]]ライリー砦勤務となった。1856年から[[1857年]]に掛けての[[血を流すカンザス|州境紛争]]の間はまだカンザスで勤務し、その後[[1858年]]は新兵徴兵任務と最後のカーライル兵舎勤務となった。1858年から[[1859年]]に掛けての[[ユタ戦争]]に参加し、1859年から[[1861年]]は[[ネブラスカ州]]カーニー砦で勤務した<ref name="Military biography of Richard H. Anderson"/>。



== 南北戦争での従軍 ==

== 南北戦争での従軍 ==

アンダーソンはその故郷である州と[[アメリカ連合国]]に付く道を選び、アメリカ陸軍を退役し(1861年3月3日に承認)、南軍に入隊した。[[1月28日]]付けで第1サウスカロライナ歩兵連隊の大佐としての任務を受けた<ref name=Eicher105>Eicher, p. 105.</ref>。4月の[[サムター要塞の戦い|サムター砦占領]]後は[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]港地域の指揮官を任された<ref name=Dupuy40>Dupuy, p. 40.</ref>。[[7月19日]]に准将に昇進し、[[フロリダ州]][[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]に転属となり、[[10月9日]]のサンタローザ島の戦いで左肘を負傷した。


[[]]退186133[[128]]1<ref name="Eicher105">Eicher, p. 105.</ref>4[[|]][[ ()|]]<ref name="Dupuy40">Dupuy, p. 40.</ref>[[719]][[]][[ ()|]][[109]]

この傷が快復すると[[1862年]]2月に旅団指揮官として[[ポトマック軍 (南軍)|ポトマック軍]]に加わった(その春には[[北バージニア軍]]に吸収された)。[[半島方面作戦]]では5月の[[ウィリアムズバーグの戦い]]と[[セブンパインズの戦い]]、および6月から7月の[[七日間の戦い]]で頭角を現した。[[グレンデイルの戦い]]では[[ジェイムズ・ロングストリート]]少将の師団を一時的に指揮した。半島での優れた功績により、[[7月14日]]に少将に昇進し、ロングストリートの第1軍団で第2師団の指揮を任された<ref name=Eicher105/>。

この傷が快復すると[[1862年]]2月に旅団指揮官として[[ポトマック軍 (南軍)|ポトマック軍]]に加わった(その春には[[北バージニア軍]]に吸収された)。[[半島方面作戦]]では5月の[[ウィリアムズバーグの戦い]]と[[セブンパインズの戦い]]、および6月から7月の[[七日間の戦い]]で頭角を現した。[[グレンデイルの戦い]]では[[ジェイムズ・ロングストリート]]少将の師団を一時的に指揮した。半島での優れた功績により、[[7月14日]]に少将に昇進し、ロングストリートの第1軍団で第2師団の指揮を任された<ref name="Eicher105"/>。



8月の[[第二次ブルランの戦い]]では、アンダーソンの掛けた攻撃が北軍の戦線を突破し、[[ワシントンD.C.]]周辺の塹壕まで撤退に追い込んだ。9月の[[アンティータムの戦い]]では、南軍防衛線の中央にあって、窪んだ道路すなわち「ブラッディ・レイン」での全体指揮を執った。アンダーソンは太腿に負傷して戦場を離れ(上級准将のロジャー・A・プライアーが引き継いだ)その後はその師団が躓き始め最終的に北軍の側面攻撃に圧倒されてその陣地から壊走することになった。その後12月の[[フレデリックスバーグの戦い]]では、その師団は激しく戦うことは無かった。

8月の[[第二次ブルランの戦い]]では、アンダーソンの掛けた攻撃が北軍の戦線を突破し、[[ワシントンD.C.]]周辺の塹壕まで撤退に追い込んだ。9月の[[アンティータムの戦い]]では、南軍防衛線の中央にあって、窪んだ道路すなわち「ブラッディ・レイン」での全体指揮を執った。アンダーソンは太腿に負傷して戦場を離れ(上級准将のロジャー・A・プライアーが引き継いだ)その後はその師団が躓き始め最終的に北軍の側面攻撃に圧倒されてその陣地から壊走することになった。その後12月の[[フレデリックスバーグの戦い]]では、その師団は激しく戦うことは無かった。


1863年5月の[[チャンセラーズヴィルの戦い]]では、ロングストリート隊と離れて行動しており(ロングストリートはこの時[[サフォーク (バージニア州)|サフォーク]]近くでの任務に派遣されていた)、アンダーソンは[[ストーンウォール・ジャクソン]]中将が北軍の右翼を攻撃しているときに北軍左翼を押し込んだ。アンダーソンと[[ラファイエット・マクローズ]]少将は[[5月3日]]に主戦線を離れ、東に向かって[[ロバート・E・リー]]将軍の後方に回りこむ怖れのある[[ジョン・セジウィック]]少将の第6軍団の前進を牽制した。[[5月10日]]のストーンウォール・ジャクソンの戦死に続いて、リーはその軍隊を再編し2個軍団から3個軍団に変えた。アンダーソンはリーの覚えが良く、軍団指揮官にと考えられたが、その師団はこのとき中将となった[[A・P・ヒル]]の新しい第3軍団に割り当てられた。

1863年5月の[[チャンセラーズヴィルの戦い]]では、ロングストリート隊と離れて行動しており(ロングストリートはこの時[[サフォーク (バージニア州)|サフォーク]]近くでの任務に派遣されていた)、アンダーソンは[[ストーンウォール・ジャクソン]]中将が北軍の右翼を攻撃しているときに北軍左翼を押し込んだ。アンダーソンと[[ラファイエット・マクローズ]]少将は[[5月3日]]に主戦線を離れ、東に向かって[[ロバート・E・リー]]将軍の後方に回りこむ怖れのある[[ジョン・セジウィック]]少将の第6軍団の前進を牽制した。[[5月10日]]のストーンウォール・ジャクソンの戦死に続いて、リーはその軍隊を再編し2個軍団から3個軍団に変えた。アンダーソンはリーの覚えが良く、軍団指揮官にと考えられたが、その師団はこのとき中将となった[[A・P・ヒル]]の新しい第3軍団に割り当てられた。



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1864年春、[[荒野の戦い]]ではロングストリートが重傷を負い、アンダーソンが指揮を代わって[[オーバーランド方面作戦]]の間指揮を執り続けた。荒野の戦いの後、[[スポットシルバニア・コートハウスの戦い]]では、アンダーソンがうまく戦った。アンダーソンとその師団は[[5月7日]]に終夜の強行軍を行い重要な陣地を確保し(既にそこに送っていた南軍騎兵を補強した)、北軍部隊がそこに到着する直前にそこを占領した。その地点に到着して守ることで、北軍がリー軍を回りこんで[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]に向かうことを阻止した。アンダーソンは[[5月8日]]から12日までの激闘も持ち堪えた。

1864年春、[[荒野の戦い]]ではロングストリートが重傷を負い、アンダーソンが指揮を代わって[[オーバーランド方面作戦]]の間指揮を執り続けた。荒野の戦いの後、[[スポットシルバニア・コートハウスの戦い]]では、アンダーソンがうまく戦った。アンダーソンとその師団は[[5月7日]]に終夜の強行軍を行い重要な陣地を確保し(既にそこに送っていた南軍騎兵を補強した)、北軍部隊がそこに到着する直前にそこを占領した。その地点に到着して守ることで、北軍がリー軍を回りこんで[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]に向かうことを阻止した。アンダーソンは[[5月8日]]から12日までの激闘も持ち堪えた。


6[[]]610[[ ()|]]<ref name=Dupuy40/>[[531]]<ref>Dupuy, p. 40. </ref>

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ロングストリートが[[1864年]][[10月19日]]に治療から戻ってくると、アンダーソンは元の少将の位に戻されたが、新しく作られた第4軍団を率いて、[[リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦|ピーターズバーグ包囲戦]]から1865年の[[アポマトックス・コートハウス]]への撤退まで戦った。北軍騎兵隊による数回の攻撃でその軍団は弱っていったために、アンダーソンの動きは鈍くなり、何度も停止して攻撃を跳ね除けなければならなかった。このことで西に移動するリー軍の残りとは孤立するようになり、このとき軍全体の後衛になっていた。第4軍団は遂に停止して[[4月6日]]の[[セイラーズクリークの戦い]]に入り、壊走で終わった。リーはこの光景を目撃し、「軍隊は分解してしまったのか?」と叫んだ<ref name=Foote915-17>Foote, pp. 915-17.</ref>。軍団の生き残りが再結集し、[[4月8日]]に第3軍団の残りが第2軍団に吸収された軍隊に合流した<ref>Eicher, p. 889</ref>。このことでアンダーソンには指揮する部隊が無くなり、サウスカロライナ州の故郷に帰った。アンダーソンは[[1865年]][[9月27日]]に恩赦を受けた。ただし仮釈放の記録は無い<ref name=Eicher105/>。


[[1864]][[1019]]4[[|]]1865[[]]退西4[[46]][[]]<ref name="Foote915-17">Foote, pp. 915-17.</ref>[[48]]32<ref>Eicher, p. 889</ref>[[1865]][[927]]<ref name="Eicher105"/>


== 戦後 ==

== 戦後 ==

戦後、アンダーソンは[[1866年]]から[[1868年]]までステイトバーグで農場経営をし、綿花を育てた、これに失敗すると、サウスカロライナ鉄道の代理人となり、1868年から[[1878年]]まで[[カムデン (サウスカロライナ州)|カムデン]]で働き、1879年にはサウスカロライナ州の[[リン酸塩]]検査官兼代理人になった<ref>Dupuy, p. 40., Eicher, p. 105.</ref>。アンダーソンは57歳の時に[[ビューフォート (サウスカロライナ州)|ビューフォート]]で死に、そこのセントヘレナ・エピスコパル教会の教会墓地に埋葬されている<ref name=roots>[http://www.rootsweb.ancestry.com/~scdacudc/ UDC website]</ref>。

戦後、アンダーソンは[[1866年]]から[[1868年]]までステイトバーグで農場経営をし、綿花を育てた、これに失敗すると、サウスカロライナ鉄道の代理人となり、1868年から[[1878年]]まで[[カムデン (サウスカロライナ州)|カムデン]]で働き、1879年にはサウスカロライナ州の[[リン酸塩]]検査官兼代理人になった<ref>Dupuy, p. 40., Eicher, p. 105.</ref>。アンダーソンは57歳の時に[[ビューフォート (サウスカロライナ州)|ビューフォート]]で死に、そこのセントヘレナ・エピスコパル教会の教会墓地に埋葬されている<ref name="roots">[http://www.rootsweb.ancestry.com/~scdacudc/ UDC website]</ref>。



== 脚注 ==

== 脚注 ==

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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

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[[Category:アメリカ連合国の将軍]]

[[Category:サウスカロライナ州サムター郡出身の人物]]

[[Category:1821年生]]

[[Category:1821年生]]

[[Category:1879年没]]

[[Category:1879年没]]

[[Category:アメリカ連合国の将軍]]

[[Category:アメリカ士官学校出身の人物]]

[[Category:サウスカロライナ州の人物]]


2019年3月23日 (土) 04:43時点における最新版

リチャード・ヘロン・アンダーソン
Richard Heron Anderson
1821年10月7日-1879年6月26日(57歳没)
渾名 ファイティング・デイック
生誕 サウスカロライナ州サムター郡
死没 サウスカロライナ州ビューフォート
軍歴 1842年-1861年(USA)
1861年-1865年(CSA)
最終階級 大尉(USA)、中将(CSA)
指揮 北バージニア軍第1軍団、第4軍団
戦闘

米墨戦争

南北戦争

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:Richard H. Anderson1821107-1879626[1]

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1842756401[3]18421843西1843184418447161844184518451846[4]

184736981998817[5]91214[4]

184871321849184918501852185218531853185418541855[4]185533[3]185518561856185718581858185918591861[4]

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退1861331281[3]4[5]719109

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18661868綿186818781879[9]57[2]

脚注[編集]



(一)^ Dupuy, p. 40. "..."

(二)^ abUDC website

(三)^ abcdeEicher, p. 105.

(四)^ abcd"Military biography of Richard H. Anderson".  www.library.ci.corpus-christi.tx.us. 200898

(五)^ abcDupuy, p. 40.

(六)^ Dupuy, p. 40. 

(七)^ Foote, pp. 915-17.

(八)^ Eicher, p. 889

(九)^ Dupuy, p. 40., Eicher, p. 105.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]