「他阿」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
(32人の利用者による、間の41版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox Buddhist |
|||
{{文学}} |
|||
|名前=他阿弥陀仏 |
|||
⚫ | |||
|生没年=[[嘉禎]]3年 - [[文保]]3年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]] <br />([[1237年]] - [[1319年]][[2月17日]]〈[[ユリウス暦|新暦]]〉) |
|||
|幼名= |
|||
|名= |
|||
|号=他阿弥陀仏 |
|||
|諱=真教 |
|||
|諡号= |
|||
|尊称=他阿上人、真教上人、遊行上人、大聖 |
|||
|生地=[[豊後国]]もしくは[[京都]] |
|||
|没地=[[相模国]] |
|||
|画像=[[ファイル:Taa Shonin (Shonenji Sakai).jpg|150px]] |
|||
|説明文= |
|||
|宗旨=[[時宗]] |
|||
|宗派= |
|||
|寺院= |
|||
|師=[[一遍]] |
|||
|弟子=[[他阿智得]]、[[呑海]]、[[浄阿]] |
|||
|著作=『他阿上人法語』、『道場誓文』、『大鏡集』 |
|||
|廟=[[無量光寺 (相模原市)|無量光寺]] |
|||
}} |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
== 概要 == |
|||
膨大な消息はのちに「他阿上人法語」8巻にまとめられたほか、歌集に「大鏡集」があり、他阿の伝記は「一遍上人絵詞伝(遊行上人縁起絵)」に詳しく載せられている。 |
|||
生まれは[[豊後国]](現・[[大分県]])とも[[京都]]ともされるが、前半生は不明である。 |
|||
⚫ |
[[弘安]]元年︵[[1278年]]︶、[[九州]]で時宗の祖[[一遍]]に師事して以来、一遍の諸国[[遊行]]に従う。[[正応]]2年︵[[1289年]]︶、一遍が亡くなった後に、一旦解散した[[時衆]]を再結成して集団組織化し、[[越前国]]、[[加賀国]]、[[越中国]]、[[越後国]]、[[関東]]、[[東海道]]を中心として遊行を続けた。[[嘉元]]2年︵[[1304年]]︶、遊行を3世量阿︵[[他阿智得]]。のち他阿号を世襲︶に譲り、自らは[[相模国]]に草庵︵後の当麻道場金光院[[無量光寺 (相模原市)|無量光寺]]︶を建立して独住︵定住︶し、83歳で示寂。同寺の境内に、一遍らと並んで墓塔の[[宝篋印塔]]がある。主な門弟に量阿のほか、有阿︵恵永または恵光、のち[[呑海|他阿呑海]]。藤沢道場[[清浄光寺]]を開く︶、京都四条道場[[金蓮寺 (京都市)|金蓮寺]]・[[浄阿]]︵真観︶がいる。
|
||
一遍は、肉親ともいわれる弟子[[聖戒]]を後継者とみなしていた節があり、しかも入寂に際しては時衆が自然に解散している。他阿は、﹁時衆制誡﹂﹁道場制文﹂などを定め、消息の中で、配下にある[[道場]]︵寺院︶は百あまりと述べているように、時衆を制度的に整備された教団とした。現在ある時宗教団は、この他阿の系統を引く藤沢道場[[清浄光寺]]が、ほかの念仏聖の教団を吸収して近世に成立した。今の時宗法主は74代の他阿︵真円︶を称する。その点で、他阿真教は、時宗の実質的な開祖といえよう。
|
|||
膨大な消息はのちに『他阿上人法語』8巻にまとめられた他、『道場誓文』を作成している。[[歌人]]としても[[京都]]の貴人たちと交わり、歌集に『大鏡集』がある。また伝記として『一遍上人縁起絵』がある。全10巻のうち前半4巻は一遍の業績が、そして後半6巻に他阿の業績が述べられている。 |
|||
他阿の[[肖像]]としては、[[称念寺 (坂井市)|長崎称念寺]]([[福井県]][[坂井市]])蔵の画像や東山[[長楽寺 (京都市)|長楽寺]]([[京都市]][[東山区]])蔵の木造椅像、および黒駒[[称願寺]]([[山梨県]][[笛吹市]])・国府津蓮台寺([[神奈川県]][[小田原市]])・常称寺([[広島県]][[尾道市]])蔵の木造座像が有名で、いずれも[[重要文化財]]。晩年に患った[[中風]]によって口許がゆがんでいるのが特徴である。 |
|||
一遍は、肉親ともいわれる弟子[[聖戒]]を後継者と看做していたと考えられ、一遍入寂の後は信奉者は各地に散って自然消滅している。それを他阿が再結成し、再興を成し遂げた。 |
|||
他阿はバラバラであった時衆を統制するために、一般の信徒に対して僧(善知識)を「仏の御使い」と位置付け、これに絶対服従させる知識帰命の説を取り入れた。さらに「時衆制誡」「道場制文」などを定め、『時衆過去帳』を作成して時衆の教団化、定住化を図っていった。この頃、消息の中で配下の[[道場]](寺院)は百余と述べている。こうして他阿は時衆を整備された[[教団]]として構成し直し、教義を伝える組織確立のうえで大きな功績を残した。 |
|||
現在ある時宗教団は、他阿真教の系統である藤沢道場[[清浄光寺|清浄光寺(遊行寺)]]が、過程として他の[[一向俊聖]]などによる念仏聖の流派・教団([[時宗十二派]])を吸収し合流することで近世に成立した<ref>自然に合流した派もあるがなにより、江戸時代初期に幕府の命により、他の「踊念仏」の宗派が全て遊行寺の管轄とされたことが大きい。すなわち強制的な経緯であり、他派閥はしばし独立運動を起こしている。一向俊聖を祖とする一向宗・天童派も、明治時代になって分離し、浄土宗の傘下に移籍している。</ref>。歴代の時宗の法主は「他阿」を称する。『一遍上人縁起絵(遊行上人縁起絵)』における冊数の割合などを考慮対象とした上で、初代他阿である他阿真教こそが時宗の実質的な開祖である、とする見解がある。 |
|||
宗祖一遍とならぶ﹁二祖上人﹂と通称され、多くの時宗寺院で、その像が一遍と対になって荘厳されている。そしてその功績を偲び、他阿を﹁大[[聖]]︵おおひじり︶﹂と呼んでいる。
|
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* [[大橋俊雄]]編『時宗二祖 他阿上人法語』([[大蔵出版]]、1975年) |
|||
;関連文献(各・現代語訳) |
|||
*『現代語訳 他阿上人法語』同 現代語訳研究会編([[法藏館]]、2022年) |
|||
*『現代語訳 一遍上人縁起絵(遊行上人縁起絵)全十巻』同 現代語訳研究会編(法藏館、2022年) |
|||
{{先代次代|[[遊行上人]](時宗法主)|第2代:1289年-1319年|[[一遍|一遍智真]]| [[他阿智得]]}} |
|||
{{浄土教2}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{buddhism-stub}} |
{{buddhism-stub}} |
||
{{DEFAULTSORT:たあ}} |
|||
⚫ | |||
[[Category: |
[[Category:遊行上人]] |
||
[[Category: |
[[Category:久我家]] |
||
[[Category:鎌倉時代の僧]] |
|||
{{生没年|たあ|1237年|1319年}} |
|||
⚫ | |||
[[Category:13世紀の歌人]] |
|||
[[Category:14世紀の歌人]] |
|||
[[Category:1237年生]] |
|||
[[Category:1319年没]] |
2024年5月24日 (金) 03:33時点における最新版
他阿弥陀仏 | |
---|---|
嘉禎3年 - 文保3年1月27日 (1237年 - 1319年2月17日〈新暦〉) | |
号 | 他阿弥陀仏 |
諱 | 真教 |
尊称 | 他阿上人、真教上人、遊行上人、大聖 |
生地 | 豊後国もしくは京都 |
没地 | 相模国 |
宗旨 | 時宗 |
師 | 一遍 |
弟子 | 他阿智得、呑海、浄阿 |
著作 | 『他阿上人法語』、『道場誓文』、『大鏡集』 |
廟 | 無量光寺 |
概要[編集]
生まれは豊後国︵現・大分県︶とも京都ともされるが、前半生は不明である。 弘安元年︵1278年︶、九州で時宗の祖一遍に師事して以来、一遍の諸国遊行に従う。正応2年︵1289年︶、一遍が亡くなった後に、一旦解散した時衆を再結成して集団組織化し、越前国、加賀国、越中国、越後国、関東、東海道を中心として遊行を続けた。嘉元2年︵1304年︶、遊行を3世量阿︵他阿智得。のち他阿号を世襲︶に譲り、自らは相模国に草庵︵後の当麻道場金光院無量光寺︶を建立して独住︵定住︶し、83歳で示寂。同寺の境内に、一遍らと並んで墓塔の宝篋印塔がある。主な門弟に量阿のほか、有阿︵恵永または恵光、のち他阿呑海。藤沢道場清浄光寺を開く︶、京都四条道場金蓮寺・浄阿︵真観︶がいる。 膨大な消息はのちに﹃他阿上人法語﹄8巻にまとめられた他、﹃道場誓文﹄を作成している。歌人としても京都の貴人たちと交わり、歌集に﹃大鏡集﹄がある。また伝記として﹃一遍上人縁起絵﹄がある。全10巻のうち前半4巻は一遍の業績が、そして後半6巻に他阿の業績が述べられている。 他阿の肖像としては、長崎称念寺︵福井県坂井市︶蔵の画像や東山長楽寺︵京都市東山区︶蔵の木造椅像、および黒駒称願寺︵山梨県笛吹市︶・国府津蓮台寺︵神奈川県小田原市︶・常称寺︵広島県尾道市︶蔵の木造座像が有名で、いずれも重要文化財。晩年に患った中風によって口許がゆがんでいるのが特徴である。 一遍は、肉親ともいわれる弟子聖戒を後継者と看做していたと考えられ、一遍入寂の後は信奉者は各地に散って自然消滅している。それを他阿が再結成し、再興を成し遂げた。 他阿はバラバラであった時衆を統制するために、一般の信徒に対して僧︵善知識︶を﹁仏の御使い﹂と位置付け、これに絶対服従させる知識帰命の説を取り入れた。さらに﹁時衆制誡﹂﹁道場制文﹂などを定め、﹃時衆過去帳﹄を作成して時衆の教団化、定住化を図っていった。この頃、消息の中で配下の道場︵寺院︶は百余と述べている。こうして他阿は時衆を整備された教団として構成し直し、教義を伝える組織確立のうえで大きな功績を残した。 現在ある時宗教団は、他阿真教の系統である藤沢道場清浄光寺︵遊行寺︶が、過程として他の一向俊聖などによる念仏聖の流派・教団︵時宗十二派︶を吸収し合流することで近世に成立した[1]。歴代の時宗の法主は﹁他阿﹂を称する。﹃一遍上人縁起絵︵遊行上人縁起絵︶﹄における冊数の割合などを考慮対象とした上で、初代他阿である他阿真教こそが時宗の実質的な開祖である、とする見解がある。 宗祖一遍とならぶ﹁二祖上人﹂と通称され、多くの時宗寺院で、その像が一遍と対になって荘厳されている。そしてその功績を偲び、他阿を﹁大聖︵おおひじり︶﹂と呼んでいる。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 関連文献(各・現代語訳)
- 『現代語訳 他阿上人法語』同 現代語訳研究会編(法藏館、2022年)
- 『現代語訳 一遍上人縁起絵(遊行上人縁起絵)全十巻』同 現代語訳研究会編(法藏館、2022年)
|
|
|