「大御食神社」の版間の差分
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*大御食神社の周辺には現在「湯奉(ゆぶ)の沢」という地名([[小字]])が残っている。[[慶安]]二年(1649年)の[[検地帳|御検地帳]]にもあり、日本武尊が湯浴みをしたと伝わる。 |
*大御食神社の周辺には現在「湯奉(ゆぶ)の沢」という地名([[小字]])が残っている。[[慶安]]二年(1649年)の[[検地帳|御検地帳]]にもあり、日本武尊が湯浴みをしたと伝わる。 |
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* [[宮田村]]誌によると、﹁日本武尊が[[太田切川 (長野県)|大田切川]]まで来たとき、大水で渡ることが出来なかったが、一頭の馬が馳せ来たのでその馬に乗って無事川を渡った。古老はその馬を、秋冬はこの原に住み、春夏は西山に住む神馬だと申し上げた。﹂という伝説がある。︵駒ヶ嶽御尋書-天保3年︵1832年︶︶<br/>そのとき日本武尊が腰をかけ休んだという﹁御座石﹂が、[[宮田村]]駒ヶ原に文化財として残っている。
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* [[宮田村]]誌によると、﹁日本武尊が[[太田切川 (長野県)|大田切川]]まで来たとき、大水で渡ることが出来なかったが、一頭の馬が馳せ来たのでその馬に乗って無事川を渡った。古老はその馬を、秋冬はこの原に住み、春夏は西山に住む神馬だと申し上げた。﹂という伝説がある。︵駒ヶ嶽御尋書-天保3年︵1832年︶︶<br/>そのとき日本武尊が腰をかけ休んだという﹁御座石﹂が、[[宮田村]]駒ヶ原に文化財として残っている。
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* [[西行]]が社家に立ち寄り、書を残している。[[江戸時代]]後期の旅行家[[菅江真澄]]の随筆『すわの海』に この書についての記述がある。 |
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== 祭事 == |
== 祭事 == |
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** 祭神三神の神名の御真筆 - [[小松宮彰仁親王]]書{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。 |
** 祭神三神の神名の御真筆 - [[小松宮彰仁親王]]書{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。 |
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** 日本武尊の尊像(伝) - ヤマトタケルの[[衣冠束帯]]の立姿とされる。ヒノキ材による[[寄木造]]で、総丈は33[[センチメートル]]。衣装部分は[[白]]・[[赤]]・[[青]]の[[泥絵具]]で彩色されている<ref name="komagane-bijogamori" />。 |
** 日本武尊の尊像(伝) - ヤマトタケルの[[衣冠束帯]]の立姿とされる。ヒノキ材による[[寄木造]]で、総丈は33[[センチメートル]]。衣装部分は[[白]]・[[赤]]・[[青]]の[[泥絵具]]で彩色されている<ref name="komagane-bijogamori" />。 |
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** [[西行]]作とされる[[和歌]]の[[掛軸]] - [[絹]]地に西行作とされる和歌を記し、さらに3頭の[[ウマ|馬]]を[[水墨画]]で描いた掛軸。総丈1.56メートル、幅36センチメートル。和歌は[[菅江真澄]]『すわの海』にも登場している<ref>{{Cite journal |和書 |author=小堀光夫 |title=菅江真澄の旅と西行の伝承和歌 |date=2006 |publisher=菅江真澄研究会 |journal=菅江真澄研究 |volume= |issue=58 |url={{NDLDC|2626060}} |page=11 }}</ref>。 |
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** 獅子頭 - [[#祭事]]参照。 |
** 獅子頭 - [[#祭事]]参照。 |
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* その他社宝など{{要出典|date=2021-02}} |
* その他社宝など{{要出典|date=2021-02}} |
2021年2月7日 (日) 14:18時点における版
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大御食神社 | |
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![]() 大御食神社正面 | |
所在地 | 長野県駒ヶ根市赤穂11475(市場割)[1][注 1] |
位置 | 北緯35度43分25秒 東経137度56分55秒 / 北緯35.72361度 東経137.94861度座標: 北緯35度43分25秒 東経137度56分55秒 / 北緯35.72361度 東経137.94861度 |
主祭神 | 日本武尊・五郎姫神・誉田別尊[3][4] |
社格等 | 郷社[3][4] |
創建 | 景行天皇の時代[注 2][1] |
本殿の様式 | 三間社流造[3] |
別名 | 美女ヶ森[1][3] |
例祭 | #祭事参照 |
主な神事 | #神事参照 |
地図 |
大御食神社(おおみけじんじゃ)は、長野県駒ヶ根市赤穂にある神社である。別名は美女ヶ森(びじょがもり)[1]。
概要
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祭神
●日本武尊 - 伝承によると景行天皇41年[7]、東征の帰路の途中であった日本武尊は当地を通過する際、杉の木の下で当地の首長であった赤須彦のもてなしを受ける。この杉を﹁御蔭杉﹂︵日の御蔭杉、月の御蔭杉とも︶といい、側にあって日本武尊が手を掛けたとされる石を﹁御手掛石﹂という。御蔭杉の下に神殿を建て、日本武尊を祀ったものが当社の始まりとされる[4][注 3]。 ●五郎姫神 - 宮簀媛。伝承には美夜須姫とも。応神天皇の時代に尾張国より勧請したもので、﹁美女ヶ森﹂の名の由来とされる[4]。 ●誉田別尊 - 元慶3年︵879年︶3月15日 (旧暦)、石清水八幡宮より勧請したという[4]。 代々当社宮司を務める社家の阿智祝部︵阿智氏︶は、八意思兼神に始まる神の系譜に繋がるとされる[9]。 かつての赤須村6地区の総氏神で、各地区持ち回りで祭事の中心を務める[4]。北は太田切川から南は片桐︵中川村︶まで氏子が広く分布していた時期もあったという[10]。歴史
沿革
●景行天皇の時代 - 創建。日本武尊を奉斎[4][注 2]。 ●応神天皇の時代 - 尾張国より五郎姫神を勧請[4]。 ●元慶3年︵879年︶3月15日 (旧暦)、石清水八幡宮より誉田別尊を勧請[4]。 ●寛平3年︵891年︶3月15日 (旧暦) - 大和国︵現・奈良県︶の春日大社より流鏑馬が伝わる[4]。 ●応永15年︵1408年︶3月15日 (旧暦) - 流鏑馬神事を境内で行うようになる[4]。 ●明和4年︵1767年︶ - 氏子より祭事用獅子頭を寄進される[11]。 ●天明2年︵1782年︶8月 - 神官宅にて火災、古文書の多くを焼失[4]。 ●文久3年︵1863年︶9月 - 本殿釿始め︵おのはじめ︶[3]。 ●元治元年︵1864年︶4月 - 本殿地鎮祭[3]。 ●明治2年︵1869年︶5月 - 落合直澄が神代文字社伝記を解読する[4]。 ●明治5年︵1872年︶11月 - 当社の社格が郷社に列せられる[4]。 ●2012年︵平成24年︶9月16日 - 9月17日 - 大御食神社1900年祭[12]。境内
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%99%AF.jpg/220px-%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%99%AF.jpg)
その他
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古記録
祭事
神事
●流鏑馬 - 寛平3年︵891年︶、大和国︵現・奈良県︶の春日大社より伝わる。当初は宮の原︵当社より東方3町、御射山原とも[5]︶という場所で行っていたが、応永15年︵1408年︶より境内で行うようになる。明治維新の頃より衰退[4]。神事としては1892年︵明治25年︶まで続いたとされる[15]。境内社
﹃上伊那郡史﹄[16]による。かっこ内は祭神。文化財
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E6%B3%95%E5%B8%AB%E7%9C%9F%E7%AD%86%EF%BC%88%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%BC%9D%EF%BC%89.jpg)