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全国神社名鑑より |
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* [[ヤマトタケル|日本武尊]] - 伝承によると[[景行天皇]]41年{{Sfn |佐野重直 |1901 |p=42 }}、日本武尊は[[ヤマトタケル#東征|東征]]の帰路の途中で当地を通過する際、[[スギ|杉]]の木の下で当地の首長であった[[赤須氏#清和源氏満快流 赤須氏|赤須彦]]のもてなしを受ける。この杉を「御蔭杉」(日の御蔭杉、月の御蔭杉とも)といい、側にあって日本武尊が手を掛けたとされる石を「御手掛石」という。景行天皇58年、御蔭杉の下に神殿を建て、日本武尊を祀る{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}{{Refnest |group="注" |ヤマトタケル赤須滞在の記事は他の史書に見えないが、『[[古事記]]』には坂の神を服従させたと伝わり、『[[日本書紀]]』では白い鹿の神を蒜で殺し、次に現れた白い犬に導かれて[[美濃国]](現・[[岐阜県]])へ出たとされる。またこの白い犬について、『諏訪史料叢書』巻28掲載の「神長守矢氏系譜」には、守矢実久が[[建御名方命]]の神功か、あるいは[[守矢氏]]の祖である小須美君の使いではないかとしている<ref>「神長守矢氏系譜」『諏訪史料叢書.巻28』諏訪教育会、昭和11年、36頁。</ref>。}}。 |
* [[ヤマトタケル|日本武尊]] - 伝承によると[[景行天皇]]41年{{Sfn |佐野重直 |1901 |p=42 }}、日本武尊は[[ヤマトタケル#東征|東征]]の帰路の途中で当地を通過する際、[[スギ|杉]]の木の下で当地の首長であった[[赤須氏#清和源氏満快流 赤須氏|赤須彦]]のもてなしを受ける。この杉を「御蔭杉」(日の御蔭杉、月の御蔭杉とも)といい、側にあって日本武尊が手を掛けたとされる石を「御手掛石」という。景行天皇58年、御蔭杉の下に神殿を建て、日本武尊を祀る{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}{{Refnest |group="注" |ヤマトタケル赤須滞在の記事は他の史書に見えないが、『[[古事記]]』には坂の神を服従させたと伝わり、『[[日本書紀]]』では白い鹿の神を蒜で殺し、次に現れた白い犬に導かれて[[美濃国]](現・[[岐阜県]])へ出たとされる。またこの白い犬について、『諏訪史料叢書』巻28掲載の「神長守矢氏系譜」には、守矢実久が[[建御名方命]]の神功か、あるいは[[守矢氏]]の祖である小須美君の使いではないかとしている<ref>「神長守矢氏系譜」『諏訪史料叢書.巻28』諏訪教育会、昭和11年、36頁。</ref>。}}。 |
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* [[宮簀媛|五郎姫神]](いついらつひめのみこと<ref name="komagane-honden" />) - [[宮簀媛]]。伝承には美夜須姫とも。[[応神天皇]]8年7月に[[尾張国]]より勧請したもので、「美女ヶ森」の名の由来とされる{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。 |
* [[宮簀媛|五郎姫神]](いついらつひめのみこと<ref name="komagane-honden" />) - [[宮簀媛]]。伝承には美夜須姫とも。[[応神天皇]]8年7月に[[尾張国]]より勧請したもので、「美女ヶ森」の名の由来とされる{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。 |
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* [[応神天皇|誉田別尊]] - [[元慶]]3年︵[[879年]]︶[[3月15日 (旧暦)]]、[[石清水八幡宮]]より勧請したという{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。
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* [[応神天皇|誉田別尊]] - [[八幡神|八幡大神]]{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。[[元慶]]3年︵[[879年]]︶[[3月15日 (旧暦)]]、[[石清水八幡宮]]より勧請したという{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。
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代々当社[[宮司]]を務める[[社家]]の阿智祝部︵阿智氏︶は、[[八意思兼神]]に始まる神の系譜に繋がるとされる<ref>[[宝賀寿男]]編著﹃古代氏族系譜集成﹄中巻、[[古代氏族研究会]]、1986年。</ref>。
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代々当社[[宮司]]を務める[[社家]]の阿智祝部︵阿智氏︶は、[[八意思兼神]]に始まる神の系譜に繋がるとされる<ref>[[宝賀寿男]]編著﹃古代氏族系譜集成﹄中巻、[[古代氏族研究会]]、1986年。</ref>。[[神紋]]は﹁八花形﹂である{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。
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かつての赤須村6地区の総[[氏神]]で、各地区持ち回りで祭事の中心を務める{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。北は[[太田切川 (長野県)|太田切川]]から南は片桐︵[[中川村]]︶まで |
かつての赤須村6地区の総[[氏神]]で、各地区持ち回りで祭事の中心を務める{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。﹃全国神社名鑑﹄︵1977年刊︶によると[[氏子]]4,500戸、崇敬者15,000人{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。北は[[太田切川 (長野県)|太田切川]]から南は片桐︵[[上伊那郡]][[中川村]]︶まで氏子が広く分布していた時期もあったという{{Sfn |下中邦彦 |1979 |p=432 }}。
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[File:美しの杜(現在).jpg|thumb|社叢]] |
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[[File:大御食神社景.jpg|thumb|『郷社大御食神社之景』(1901年)]] |
[[File:大御食神社景.jpg|thumb|『郷社大御食神社之景』(1901年)]] |
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* 境内 - 1,500坪{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。 |
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* 本殿 - [[流造|三間社流造]]で[[間口]]は4.2[[メートル]]。[[唐破風|軒唐破風]]をもつ[[屋根]]は[[銅]]板葺で、もとは[[こけら葺]]であった。[[棟札]]から[[文久]]3年([[1863年]])9月着工、[[元治]]元年([[1864年]])4月に[[地鎮祭]]・[[上棟式|上棟]]と考えられている。[[棟梁]]は斎藤常吉、彫工は立木音四郎で、ともに[[立川和四郎|立川和四郎冨昌]]の[[弟子]]である。随所に立川流[[彫刻]]の特徴が見られる<ref name="komagane-honden" />。駒ヶ根市指定有形文化財(建造物)<ref name="komagane-bunka">{{Cite web |url=https://www.city.komagane.nagano.jp/gyosei/kosodate_bunka_sports/rekishi_bunkazai/4102.html |title=指定文化財一覧 |publisher=駒ヶ根市 |accessdate=2021-02-06 }}</ref>。 |
* 本殿 - 9[[坪]]{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。[[流造|三間社流造]]で[[間口]]は4.2[[メートル]]。[[唐破風|軒唐破風]]をもつ[[屋根]]は[[銅]]板葺で、もとは[[こけら葺]]であった。[[棟札]]から[[文久]]3年︵[[1863年]]︶9月着工、[[元治]]元年︵[[1864年]]︶4月に[[地鎮祭]]・[[上棟式|上棟]]と考えられている。[[棟梁]]は斎藤常吉、彫工は立木音四郎で、ともに[[立川和四郎|立川和四郎冨昌]]の[[弟子]]である。随所に立川流[[彫刻]]の特徴が見られる<ref name="komagane-honden" />。駒ヶ根市指定有形文化財︵建造物︶<ref name="komagane-bunka">{{Cite web |url=https://www.city.komagane.nagano.jp/gyosei/kosodate_bunka_sports/rekishi_bunkazai/4102.html |title=指定文化財一覧 |publisher=駒ヶ根市 |accessdate=2021-02-06 }}</ref>。
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* 拝殿 - 30坪。[[大工]]の小口平四郎と、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]][[教授]]の矢崎貞之による共同建築である{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。
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* 流鏑馬所(やぶさめじょ)<ref name="komagane-honden" /> |
* 流鏑馬所(やぶさめじょ)<ref name="komagane-honden" /> |
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* 御蔭杉︵みかげすぎ︶ - 伝承によると[[神功皇后]]5年春3月、[[天安 (日本)|天安]]2年︵[[858年]]︶春の2度にわたって植継ぎを行ったという<ref name="komagane-bijogamori">{{Cite web |url=https://www.city.komagane.nagano.jp/material/files/group/19/20200506bijogamoridensetsu.pdf |title=美女ヶ森伝説 |publisher=駒ヶ根市 |accessdate=2021-02-07 }}</ref>。﹃上伊那郡史﹄︵1921年刊︶には﹁回り二[[丈]]余り﹂とある{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。
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* 御蔭杉︵みかげすぎ︶ - [[神木]]{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。伝承によると[[神功皇后]]5年春3月、[[天安 (日本)|天安]]2年︵[[858年]]︶春の2度にわたって植継ぎを行ったという<ref name="komagane-bijogamori">{{Cite web |url=https://www.city.komagane.nagano.jp/material/files/group/19/20200506bijogamoridensetsu.pdf |title=美女ヶ森伝説 |publisher=駒ヶ根市 |accessdate=2021-02-07 }}</ref>。﹃上伊那郡史﹄︵1921年刊︶には﹁回り二[[丈]]余り﹂とある{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。
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** 利生稲荷社(豊受姫神) |
** 利生稲荷社(豊受姫神) |
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* 富士社([[木花咲耶姫]]) |
* 富士社([[木花咲耶姫]]) |
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﹃全国神社名鑑﹄では[[摂末社|末社]]18社とある{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。
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== 祭事 == |
== 祭事 == |
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[[File:獅子練り.JPG|thumb|獅子練り]] |
[[File:獅子練り.JPG|thumb|獅子練り]] |
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当社の[[例祭]]は9月20日至近の[[土曜日]]から[[日曜日]]にかけて行われる<ref name="komagane-shishineri" />{{Refnest |group="注" |当社の例祭について、﹃角川日本地名大辞典﹄︵1990年刊︶には[[9月21日]] - [[9月22日]]とある{{Sfn |﹁角川日本地名大辞典﹂編纂委員会、竹内理三 |1990 |p=259 }}。}}。
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当社の[[例祭]]は9月20日至近の[[土曜日]]から[[日曜日]]にかけて行われる<ref name="komagane-shishineri" />{{Refnest |group="注" |当社の例祭について、﹃全国神社名鑑﹄︵1977年刊︶・﹃角川日本地名大辞典﹄︵1990年刊︶には[[9月21日]] - [[9月22日]]とある{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}{{Sfn |﹁角川日本地名大辞典﹂編纂委員会、竹内理三 |1990 |p=259 }}。}}。
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* [[獅子舞|獅子練り]] - [[中世]]の時代より伝わる、[[五穀豊穣]]を祈願する祭事。曳いた獅子の頭を神前で切り落とし、供物とする{{Sfn |下中邦彦 |1979 |p=432 }}。駒ヶ根市指定民俗文化財︵無形民俗文化財︶<ref name="komagane-bunka" />。獅子頭は[[明和]]4年︵[[1767年]]︶に氏子より寄進されたもの。獅子舞自体は長野県[[南信地方]]の寺社だけでも160例を数えるが、獅子を神社に招いて討ち取り、その頭を納めるというのは当社と同市内の大宮五十鈴神社︵赤穂2827︶の他に例がなく、その発祥については不詳である<ref name="komagane-shishineri" />。
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* [[獅子舞|獅子練り]] - [[中世]]の時代より伝わる、[[五穀豊穣]]を祈願する祭事。曳いた獅子の頭を神前で切り落とし、供物とする{{Sfn |下中邦彦 |1979 |p=432 }}。駒ヶ根市指定民俗文化財︵無形民俗文化財︶<ref name="komagane-bunka" />。獅子頭は[[明和]]4年︵[[1767年]]︶に氏子より寄進されたもの。獅子舞自体は長野県[[南信地方]]の寺社だけでも160例を数えるが、獅子を神社に招いて討ち取り、その頭を納めるというのは当社と同市内の大宮五十鈴神社︵赤穂2827︶の他に例がなく、その発祥については不詳である<ref name="komagane-shishineri" />。
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== 神事 == |
== 神事 == |
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* 春祭祈年祭 - 4月15日{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。 |
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* 新穀感謝祭 - 11月23日{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。 |
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* [[流鏑馬]] - [[寛平]]3年([[891年]])、[[大和国]](現・[[奈良県]])の[[春日大社]]より伝わる。当初は宮の原(当社より東方3[[町 (単位)|町]]、御射山原とも{{Sfn |佐野重直 |1901 |p=43 }})という場所で行っていたが、[[応永]]15年([[1408年]])より境内で行うようになる。[[明治維新]]の頃より衰退{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。神事としては[[1892年]](明治25年)まで続いたとされる{{Sfn |「角川日本地名大辞典」編纂委員会、竹内理三 |1990 |p=259 }}。 |
* [[流鏑馬]] - [[寛平]]3年([[891年]])、[[大和国]](現・[[奈良県]])の[[春日大社]]より伝わる。当初は宮の原(当社より東方3[[町 (単位)|町]]、御射山原とも{{Sfn |佐野重直 |1901 |p=43 }})という場所で行っていたが、[[応永]]15年([[1408年]])より境内で行うようになる。[[明治維新]]の頃より衰退{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。神事としては[[1892年]](明治25年)まで続いたとされる{{Sfn |「角川日本地名大辞典」編纂委員会、竹内理三 |1990 |p=259 }}。 |
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** 真社名御筆 - [[有栖川宮熾仁親王]]書{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。 |
** 真社名御筆 - [[有栖川宮熾仁親王]]書{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。 |
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** 祭神三神の神名の御真筆 - [[小松宮彰仁親王]]書{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。 |
** 祭神三神の神名の御真筆 - [[小松宮彰仁親王]]書{{Sfn |唐沢貞治郎 |1921 |p=969 }}。 |
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** 日本武尊の尊像(伝) - ヤマトタケルの[[衣冠束帯]]の立姿とされる。ヒノキ材による[[寄木造]]で、総丈は33[[センチメートル]]。衣装部分は[[白]]・[[赤]]・[[青]]の[[泥絵具]]で彩色されている<ref name="komagane-bijogamori" />。 |
** 日本武尊の尊像︵伝︶ - ヤマトタケルの[[衣冠束帯]]の立姿とされる。ヒノキ材による[[寄木造]]で、総丈は33[[センチメートル]]。衣装部分は[[白]]・[[赤]]・[[青]]の[[泥絵具]]で彩色されている<ref name="komagane-bijogamori" />。古代神像は[[平安時代]]の作という{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}。
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** [[西行]]作とされる[[和歌]]の[[掛軸]] - [[絹]]地に西行作とされる和歌を記し、さらに3頭の[[ウマ|馬]]を[[水墨画]]で描いた掛軸。総丈1.56メートル、幅36センチメートル。和歌は[[菅江真澄]]『すわの海』にも登場している<ref>{{Cite journal |和書 |author=小堀光夫 |title=菅江真澄の旅と西行の伝承和歌 |date=2006 |publisher=菅江真澄研究会 |journal=菅江真澄研究 |volume= |issue=58 |url={{NDLDC|2626060}} |page=11 }}</ref>。 |
** [[西行]]作とされる[[和歌]]の[[掛軸]] - [[絹]]地に西行作とされる和歌を記し、さらに3頭の[[ウマ|馬]]を[[水墨画]]で描いた掛軸。総丈1.56メートル、幅36センチメートル。和歌は[[菅江真澄]]『すわの海』にも登場している<ref>{{Cite journal |和書 |author=小堀光夫 |title=菅江真澄の旅と西行の伝承和歌 |date=2006 |publisher=菅江真澄研究会 |journal=菅江真澄研究 |volume= |issue=58 |url={{NDLDC|2626060}} |page=11 }}</ref>。 |
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** 獅子頭 - [[#祭事]]参照。 |
** 獅子頭 - [[#祭事]]参照。 |
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== 交通アクセス == |
== 交通アクセス == |
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;[[公共交通機関]] |
;[[公共交通機関]] |
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:[[東海旅客鉄道|JR]][[飯田線]]・[[小町屋駅]]が最寄り。直線距離で1,240メートル<ref>{{Cite web |url=https://www.mapion.co.jp/phonebook/M06005/20210/ILSP0061170657_ipclm/ |title=大御食神社 |website=[[Mapion]] 電話帳 |publisher=[[ONE COMPATH]] |accessdate=2021-02-06 }}</ref>。または[[駒ケ根駅]]から[[タクシー]]で10分間<ref name="nihon-kankou" />。 |
:[[東海旅客鉄道|JR]][[飯田線]]・[[小町屋駅]]が最寄り。直線距離で1,240メートル<ref>{{Cite web |url=https://www.mapion.co.jp/phonebook/M06005/20210/ILSP0061170657_ipclm/ |title=大御食神社 |website=[[Mapion]] 電話帳 |publisher=[[ONE COMPATH]] |accessdate=2021-02-06 }}</ref>。または[[駒ケ根駅]]から約2[[キロメートル]]{{Sfn |三浦譲 |1977 |p=488 }}、[[タクシー]]で10分間<ref name="nihon-kankou" />。 |
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;[[自家用自動車]] |
;[[自家用自動車]] |
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:[[中央自動車道]]・[[駒ヶ根インターチェンジ]]から[[自動車]]で20分間。普通車15台分の[[駐車場]]がある<ref name="nihon-kankou" />。 |
:[[中央自動車道]]・[[駒ヶ根インターチェンジ]]から[[自動車]]で20分間。普通車15台分の[[駐車場]]がある<ref name="nihon-kankou" />。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author=三浦譲 |title=全国神社名鑑 上巻 |publisher=全国神社名鑑刊行会 史学センター |year=1977 |ref=harv }} |
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* {{Cite book |和書 |url={{NDLDC|765237/24}} |author=佐野重直 |title=南信伊那史料 巻之下 |publisher=佐野重直 |year=1901 |ref=harv }} |
* {{Cite book |和書 |url={{NDLDC|765237/24}} |author=佐野重直 |title=南信伊那史料 巻之下 |publisher=佐野重直 |year=1901 |ref=harv }} |
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* {{Cite book |和書 |url={{NDLDC|965702/521}} |author=唐沢貞治郎 |title=上伊那郡史 |publisher=上伊那郡教育会 |year=1921 |ref=harv }} |
* {{Cite book |和書 |url={{NDLDC|965702/521}} |author=唐沢貞治郎 |title=上伊那郡史 |publisher=上伊那郡教育会 |year=1921 |ref=harv }} |
2021年2月11日 (木) 12:59時点における版
![]() |
大御食神社 | |
---|---|
![]() 大御食神社正面 | |
所在地 | 長野県駒ヶ根市赤穂11475(市場割)[1][注 1] |
位置 | 北緯35度43分25秒 東経137度56分55秒 / 北緯35.72361度 東経137.94861度座標: 北緯35度43分25秒 東経137度56分55秒 / 北緯35.72361度 東経137.94861度 |
主祭神 | 日本武尊・五郎姫神・誉田別尊[3][4] |
社格等 | 郷社[3][4] |
創建 | 景行天皇58年[5][4][注 2] |
本殿の様式 | 三間社流造[3] |
別名 | 美女ヶ森[1][3] |
例祭 | #祭事参照 |
主な神事 | #神事参照 |
地図 |
祭神
●日本武尊 - 伝承によると景行天皇41年[7]、日本武尊は東征の帰路の途中で当地を通過する際、杉の木の下で当地の首長であった赤須彦のもてなしを受ける。この杉を﹁御蔭杉﹂︵日の御蔭杉、月の御蔭杉とも︶といい、側にあって日本武尊が手を掛けたとされる石を﹁御手掛石﹂という。景行天皇58年、御蔭杉の下に神殿を建て、日本武尊を祀る[4][注 3]。 ●五郎姫神︵いついらつひめのみこと[3]︶ - 宮簀媛。伝承には美夜須姫とも。応神天皇8年7月に尾張国より勧請したもので、﹁美女ヶ森﹂の名の由来とされる[4]。 ●誉田別尊 - 八幡大神[9]。元慶3年︵879年︶3月15日 (旧暦)、石清水八幡宮より勧請したという[4]。 代々当社宮司を務める社家の阿智祝部︵阿智氏︶は、八意思兼神に始まる神の系譜に繋がるとされる[10]。神紋は﹁八花形﹂である[9]。 かつての赤須村6地区の総氏神で、各地区持ち回りで祭事の中心を務める[4]。﹃全国神社名鑑﹄︵1977年刊︶によると氏子4,500戸、崇敬者15,000人[9]。北は太田切川から南は片桐︵上伊那郡中川村︶まで氏子が広く分布していた時期もあったという[11]。歴史
沿革
●景行天皇41年 - 日本武尊来臨[7]。 ●景行天皇58年 - 創建。日本武尊を奉斎[5][4][注 2]。 ●応神天皇8年7月 - 尾張国より五郎姫神を勧請[4]。 ●元慶3年︵879年︶3月15日 (旧暦)、石清水八幡宮より誉田別尊を勧請[4]。 ●寛平3年︵891年︶3月15日 (旧暦) - 大和国︵現・奈良県︶の春日大社より流鏑馬が伝わる[4]。 ●応永15年︵1408年︶3月15日 (旧暦) - 流鏑馬神事を境内で行うようになる[4]。 ●明和4年︵1767年︶ - 氏子より祭事用獅子頭を寄進される[12]。 ●天明2年︵1782年︶8月 - 神官宅にて火災、古文書の多くを焼失[4]。 ●文久3年︵1863年︶9月 - 本殿釿始め︵おのはじめ︶[3]。 ●元治元年︵1864年︶4月 - 本殿地鎮祭[3]。 ●明治2年︵1869年︶5月 - 落合直澄が神代文字社伝記を解読する[4]。 ●明治5年︵1872年︶11月 - 当社の社格が郷社に列せられる[4]。 ●2012年︵平成24年︶9月16日 - 9月17日 - 大御食神社1900年祭[13]。境内
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/60/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%AE%E6%9D%9C%EF%BC%88%E7%8F%BE%E5%9C%A8%EF%BC%89.jpg/220px-%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%AE%E6%9D%9C%EF%BC%88%E7%8F%BE%E5%9C%A8%EF%BC%89.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%99%AF.jpg/220px-%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%99%AF.jpg)