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{{Otheruses|'''[[天皇]]を尊び、[[敵|外敵]]を斥けようとする[[思想]]'''|1927年(昭和2年)の[[日本映画]]|建国史 尊王攘夷}} |
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'''尊王攘夷'''︵そんのうじょうい |
'''尊王攘夷'''︵そんのうじょうい、'''尊皇攘夷'''︶とは、[[天皇]]を尊び[[敵|外敵]]を斥けようとする思想である。[[江戸時代]]末期︵[[幕末]]︶の[[水戸学]]や[[国学]]に影響を受け、[[明治維新|維新期]]に昂揚した政治[[スローガン]]を指している<ref>尾形勇﹃歴史学事典﹄︻第7巻 戦争と外交︼p447</ref>。
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[国家]]存在の根拠としての尊王思想と、[[侵略|侵掠者]]に対抗する攘夷思想が結びついたものである。﹁王を尊び、夷を攘う︵はらう︶﹂の意。[[古代]][[中国]]の[[春秋時代]]において、[[周]]王朝の[[天子]]を尊び、[[領土|領]]内へ侵入する[[夷狄]]︵[[中華思想]]における[[中国の異民族|異民族]]。ここでは南方の[[楚 (春秋)|楚]]を指す︶を打ち払うという意味で、[[覇者]]が用いた標語を |
[[国家]]存在の根拠としての尊王思想と、[[侵略|侵掠者]]に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意。[[古代]][[中国]]の[[春秋時代]]において、[[周]]王朝の[[天子]]を尊び、[[領土|領]]内へ侵入する[[夷狄]]([[中華思想]]における[[中国の異民族|異民族]]。ここでは南方の[[楚 (春秋)|楚]]を指す)を打ち払うという意味で、[[覇者]]が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。[[斉 (春秋)|斉]]の[[桓公 (斉)|桓公]]は周室への[[礼]]を失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を主に唱えたのは、[[宋学]]の[[儒学者]]たちであった。周の天子を「王」のモデルとしていたことから、元々「尊王」と書いた。 |
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[[日本]]でも[[鎌倉時代]]、[[室町時代]]は[[天皇]]を[[王]]と称する用例も珍しくなかったが、 |
[[日本]]でも[[鎌倉時代]]、[[室町時代]]は[[天皇]]を[[王]]と称する用例も珍しくなかったが、江戸時代における[[大義名分|名分論]]の徹底により、{{要出典範囲|幕末には﹁'''尊皇'''﹂に置き換えて用いることが多くなった。|date=2023年4月}}
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なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、[[水戸藩]]の[[藩校]][[弘道館]]の教育理念を示した[[徳川斉昭]]の弘道館記によるものがもっとも早く、少なくとも幕末に流布した「尊王攘夷」の[[出典]]はここに求められる<ref>[[尾藤正英]]「水戸学の特質」、『[[日本思想大系]]53 水戸学』、[[岩波書店]]、1973年(昭和48年)、558 - 559頁。</ref>。弘道館記の実質的な起草者は、[[藤田東湖]]であり、東湖の |
なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、[[水戸藩]]の[[藩校]][[弘道館]]の教育理念を示した[[徳川斉昭]]の[[弘道館]]記によるものがもっとも早く、少なくとも幕末に流布した「尊王攘夷」の[[出典]]はここに求められる<ref>[[尾藤正英]]「水戸学の特質」、『[[日本思想大系]]53 水戸学』、[[岩波書店]]、1973年(昭和48年)、558 - 559頁。</ref>。弘道館記の実質的な起草者は、[[藤田東湖]]であり、東湖の『[[弘道館記述義]]』によって弘道館記の解説がなされている。幕末尊王攘夷論は、[[水戸学]]による影響が大きい。 |
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幕末期においては、『[[日本外史]]』が一般に流布し、当時尊王論や[[大義名分論]]が普及する一助になった。 |
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=== 尊王論 === |
=== 尊王論 === |
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{{Main|尊王論}}皇室を神聖なものとして尊敬することを主張した思想。 |
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=== 攘夷論 === |
=== 攘夷論 === |
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{{Main|攘夷論}} |
{{Main|攘夷論}} |
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[[江戸幕府]]が、[[オランダ]]や[[朝鮮]]を除いて鎖国政策を続け、その鎖国下で封建的な支配を続けていた約250年の間に、[[ヨーロッパ|欧州]]・[[アメリカ合衆国|米国]]は各種の根本的な革命を成し遂げていた。
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[[江戸幕府]]が、[[オランダ]]や[[朝鮮]]を除いて[[鎖国]]政策を続け、その鎖国下で封建的な支配を続けていた約250年の間に、[[ヨーロッパ|欧州]]・[[アメリカ合衆国|米国]]は各種の根本的な革命を成し遂げていた。
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* [[1638年]]、[[清教徒革命]](広義では[[1638年]]の主教戦争から[[1660年]]の王政復古まで) |
* [[1638年]]、[[清教徒革命]](広義では[[1638年]]の主教戦争から[[1660年]]の王政復古まで) |
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* [[1688年]]、[[権利の章典]]および[[名誉革命]]([[1688年]] - [[1689年]]) |
* [[1688年]]、[[権利の章典]]および[[名誉革命]]([[1688年]] - [[1689年]]) |
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* [[1776年]]、[[アメリカ独立宣言]] |
* [[1776年]]、[[アメリカ独立宣言]] |
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* [[1789年]]、[[アメリカ権利章典]] |
* [[1789年]]、[[権利章典 (アメリカ)|権利章典]] |
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* [[1789年]]、[[フランス革命]] |
* [[1789年]]、[[フランス革命]] |
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* [[1793年]]、[[人間と市民の権利の宣言|フランス人権宣言(人間と市民の権利の宣言)]] |
* [[1793年]]、[[人間と市民の権利の宣言|フランス人権宣言(人間と市民の権利の宣言)]] |
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また、 |
また、欧米は、[[大航海時代]]以降、世界各地に進出し、支配領域を拡大し、更に[[帝国主義]]の波に乗って[[アフリカ]]・[[アジア]]に進出し、[[植民地]]化を行った。欧米列強は[[東アジア]]各国にとって脅威となっていた。
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[[1840年]]([[天保]]11年)、[[清国]]は[[イギリス]]と[[戦争]]([[アヘン戦争]])となり、[[香港|香港島]]を奪われた([[1997年]]([[平成]]9年)返還)。 |
[[1840年]]([[天保]]11年)、[[清国]]は[[イギリス]]と[[戦争]]([[アヘン戦争]])となり、[[香港|香港島]]を奪われた([[1997年]]([[平成]]9年)返還)。 |
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日本でも、[[北海道]]で[[ゴローニン事件]]、[[九州]]で[[フェートン号事件]]といった摩擦が起こり始め、これらの事態に対応するために、外来者を打ち払って日本を欧米 |
日本でも、[[北海道]]で[[ゴローニン事件]]、[[九州]]で[[フェートン号事件]]といった摩擦が起こり始め、これらの事態に対応するために、外来者を打ち払って日本を欧米列強から防衛すべしという思想が広まることとなった。こういう侵略拒否・植民地化拒否を目的とする思想が攘夷論である。 |
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また、国内では[[平田篤胤]]などによる |
また、国内では[[平田篤胤]]などによる国学の普及にともなって[[民族主義|民族意識]]がとみに高まっていた時代でもあった。 |
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[[1853年]]︵[[嘉永]]6年︶、米国の[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令長官[[マシュー・ペリー]]が[[黒船来航|黒船で来航]]した際には、﹁泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず﹂という[[狂歌]]が詠まれた<ref>[[上喜撰]]とは[[緑茶]]の銘柄である﹁喜撰﹂の上物という意味であり、﹁上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが︵[[カフェイン]]の作用により︶夜眠れなくなる﹂という表向きの意味と、﹁わずか四杯︵船を1杯、2杯とも数える︶の異国からの[[蒸気船]]︵上喜撰︶のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる﹂という意味をかけて |
[[1853年]]([[嘉永]]6年)、米国の[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令長官[[マシュー・ペリー]]が[[黒船来航|黒船で来航]]した際には、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という[[狂歌]]が詠まれた<ref>[[上喜撰]]とは[[緑茶]]の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが([[カフェイン]]の作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(船を1杯、2杯とも数える)の異国からの[[蒸気船]](上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。</ref>。 |
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このペリーの黒船来航による[[圧力|外圧]]にどう対応すべきであるかという問題を江戸幕府([[老中]]・[[阿部正弘]])が諸藩に諮問した事から日本各地で幕末の尊王攘夷運動が本格的に発生し始める。 |
このペリーの黒船来航による[[圧力|外圧]]にどう対応すべきであるかという問題を江戸幕府([[老中]]・[[阿部正弘]])が諸藩に諮問した事から日本各地で幕末の尊王攘夷運動が本格的に発生し始める。 |
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[[1854年]]︵ |
[[1854年]]︵嘉永7年︶、それまでの[[異国船打払令|異国船無二念打払令]]︵[[1825年]]︵[[文政]]8年︶︶に取って代わり、[[下田港|下田]]と[[函館港|箱館]]を開港地とする[[日米和親条約]]などの和親条約が米英露と締結される。この和親条約により、日本は諸外国に薪水、食料、[[石炭]]、その他の便宜を与えることとなる。
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その後、[[安政の大獄]]・[[公武合体運動]]・[[和宮親子内親王|和宮]][[降嫁]]・[[長州征討|第一次長州征伐]]・[[長州征討|長幕戦争]]に見られるように、江戸幕府は弾圧と懐柔により、諸藩を |
その後、[[安政の大獄]]・[[公武合体運動]]・[[和宮親子内親王|和宮]][[降嫁]]・[[長州征討|第一次長州征伐]]・[[長州征討|長幕戦争]]に見られるように、江戸幕府は弾圧と懐柔により、諸藩を鎖国下に置いたまま、[[1858年]]︵[[安政]]5年︶の[[不平等条約]]︵﹁[[安政五カ国条約]]﹂︶による5港の屈服開港を[[朝廷 (日本)|京都朝廷]]と諸藩に承諾させようとし続けることになる。この5港は、下田 → [[横浜港|神奈川︵横浜︶]]、箱館、[[長崎港|長崎]]、[[神戸港|兵庫︵神戸︶]]、[[新潟港|新潟]]であり、いずれも不平等条約による本格的な交易のための開港地であった。
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このような |
このような幕府に対して、根本的な幕政改革を要求する[[薩摩藩]]や、諸藩連合による新たな全国統治を画策しつつ全面的な[[開国]]による攘夷を要求する[[長州藩]]が朝廷政治と幕政の両方に大きな影響力を持つ存在となっていった︵和宮降稼に協力して京で警護を行ない幕政改革を要求した[[島津久光]]、幕政の主導権を握ろうとして[[四賢候会議]]を企画・周旋した[[小松清廉|小松帯刀︵小松清廉︶]]・[[西郷隆盛|西郷吉之助︵西郷隆盛︶]]・[[大久保利通|大久保一蔵︵大久保利通︶]]、1858年︵安政5年︶の時点で欧米への留学を希望していた[[吉田松陰|吉田寅次郞︵吉田松陰︶]]・[[木戸孝允|桂小五郎︵木戸孝允︶]]、[[1861年]]︵[[文久]]元年︶に建白によって[[航海遠略策]]を幕府に認めさせた[[長井雅楽]]、京都朝廷と諸藩への周旋活動を行ない続けた、[[久坂玄瑞|久坂義助︵久坂玄瑞︶]]など︶。
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ところが、幕府側の度重なる弾圧によって尊王攘夷の志士たちの京都朝廷への影響力が小さくなっていた[[1865年]](慶応元年)、 |
ところが、幕府側の度重なる弾圧によって尊王攘夷の志士たちの京都朝廷への影響力が小さくなっていた[[1865年]]([[慶応]]元年)、それまで一貫して安政の[[不平等条約]]への[[勅令|勅許]]を拒否し続けていた[[孝明天皇]]が勅許を与え、「'''即今攘夷'''」が基本的に不可能となった。この時点で「攘夷」の意味は実質的に「'''破約攘夷'''」のみに変わった。即ち、不平等条約撤廃という意味だけになった(この「破約攘夷」のほうは、[[日露戦争]]勝利後の[[1911年]]([[明治]]44年)、明治政府により達成される)。 |
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長州藩の吉田寅次郞︵吉田松陰︶・桂小五郎︵木戸孝允︶・長井雅楽、[[越前藩]]の[[松平春嶽]]、[[津和野藩]]の[[大国隆正]]らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に[[外国]]と開国してでも国内統一や[[富国強兵]]を優先すべきであるとする﹁'''大開国・大攘夷'''﹂が唱えられた事は、﹁開国﹂と﹁攘夷﹂という二つの思想の結合をより一層強め、﹁[[公議政体論]]﹂、﹁'''[[倒幕運動|倒幕]]'''﹂という一つの行動目的へと収斂させて行くこととなった。[[土佐藩]]の[[板垣退助]]が、[[中岡慎太郎]]や[[坂本龍馬]]らの斡旋や仲介もあり、幕末日本の薩摩と長州という二大地方勢力を中心として諸藩を糾合しつつ[[明治維新]]へと向かっていくこととなった。
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
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* [[会沢正志斎]] - 尊王攘夷論について体系的にまとめた『新論』を著した。 |
* [[会沢正志斎]] - 尊王攘夷論について体系的にまとめた『新論』を著した。 |
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* [[宋 (王朝)]] - 尊王論は、特に北部を[[金 (王朝)|金]]に征服された[[南宋]]で[[朱子学]]の発展とともに盛んになったとされる。 |
* [[宋 (王朝)]] - 尊王論は、特に北部を[[金 (王朝)|金]]に征服された[[南宋]]で[[朱子学]]の発展とともに盛んになったとされる。 |
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概要[編集]
国家存在の根拠としての尊王思想と、侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。﹁王を尊び、夷を攘う︵はらう︶﹂の意。古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄︵中華思想における異民族。ここでは南方の楚を指す︶を打ち払うという意味で、覇者が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。斉の桓公は周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を主に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。周の天子を﹁王﹂のモデルとしていたことから、元々﹁尊王﹂と書いた。 日本でも鎌倉時代、室町時代は天皇を王と称する用例も珍しくなかったが、江戸時代における名分論の徹底により、幕末には﹁尊皇﹂に置き換えて用いることが多くなった。[要出典] なお幕末期における﹁尊王攘夷﹂という言葉の用例は、水戸藩の藩校弘道館の教育理念を示した徳川斉昭の弘道館記によるものがもっとも早く、少なくとも幕末に流布した﹁尊王攘夷﹂の出典はここに求められる[2]。弘道館記の実質的な起草者は、藤田東湖であり、東湖の﹃弘道館記述義﹄によって弘道館記の解説がなされている。幕末尊王攘夷論は、水戸学による影響が大きい。 幕末期においては、﹃日本外史﹄が一般に流布し、当時尊王論や大義名分論が普及する一助になった。尊王論[編集]
皇室を神聖なものとして尊敬することを主張した思想。
攘夷論[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]
- 会沢正志斎 - 尊王攘夷論について体系的にまとめた『新論』を著した。
- 乙丑の獄
- 勤王
- 佐幕
- 三条教則
- 攘夷実行の勅命
- 宋 (王朝) - 尊王論は、特に北部を金に征服された南宋で朱子学の発展とともに盛んになったとされる。
- 尊攘堂
- 排外主義
- ナショナリズム
- 日本外史
- 幕末の四大人斬り