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「板垣守正」の版間の差分

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=== 家督相続 ===

=== 家督相続 ===


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=== 廃嫡事件 ===

=== 廃嫡事件 ===

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=== 『自由党異変』その後 ===

=== 『自由党異変』その後 ===

帝劇側は、守正廃嫡事件が世間の注目を集めれば集めるほど興行業績が伸びるだろうと、考えられていた節があり<ref>「一方、舞台協会では守正君の意気に感じあくまでも上演する事に決したといふ。そして恐らく問題が大きくなればなる程、興行政策からいへば望ましい事だらうと芝居仲間では穿つた噂さへしている」『[[東京朝日新聞]]』(大正14年([[1925年]])10月20日号)</ref>、上演に反対する旧自由党の支援者・[[自由民権運動]]の支持者たちからは、上演中止を請願する声が続々と帝劇の大倉社長や山本専務に寄せられていたにもわらず無視する構えを見せていた<ref>「板垣守正君の『自由党異変』上演問題では帝劇の山本専務や大倉社長などに対して上演阻止、脅迫状や圧迫がましい運動が盛んなさうだが、帝劇側はこんな事には慣れたもので、ひとりでニヤニヤ笑つてゐる」『[[東京朝日新聞]]』(大正14年([[1925年]])[[10月21日]]号)</ref>。しかし上演前日の大正14年([[1925年]])[[10月25日]]、板垣家側、舞台協会側双方から条件が示され遂に上演中止が決定された。板垣家側から示された条件は、「在学中の[[東京大学|東京帝国大学]]卒業後はその自由を拘束せず、万一再び『自由党異変』が世に出る時には、旧[[自由党]]員も華々しく応援する<ref>板垣家側の「『自由党異変』が世に出る時には、旧自由党員も華々しく応援する」という文言は、「上演差止」めと「守正廃嫡」の法的な裁許が下りるまでの時間稼ぎであった可能性が高い。また、守正側は祖父板垣伯の遺品の一部を後継者の実弟・[[板垣正貫]]側に渡さないなどの対抗措置を行っている</ref>」というもので、舞台協会側から示された条件は「守正氏を動かして、今、遅れている卒業論文を必ず書いて貰つて帝大は必ず卒業させる事」というもので双方から条件を出した和解の方式が採られた。さらに『[[東京朝日新聞]]』(大正14年([[1925年]])10月25日号)では、守正の学費は故板垣伯爵が清貧に甘んじていたため、遺族の収入が充分でなかったのが上聞に達し、特に恩賜の教育賜金によって学費に充てられていたので卒業の如何によっては不敬の極みとならんことを家人が危ぶんだことが載せられている。

帝劇側は、守正廃嫡事件が世間の注目を集めれば集めるほど興行業績が伸びるだろうと、考えられていた節があり<ref>「一方、舞台協会では守正君の意気に感じあくまでも上演する事に決したといふ。そして恐らく問題が大きくなればなる程、興行政策からいへば望ましい事だらうと芝居仲間では穿つた噂さへしている」『[[東京朝日新聞]]』(大正14年([[1925年]])10月20日号)</ref>、上演に反対する旧自由党の支援者・[[自由民権運動]]の支持者たちからは、上演中止を請願する声が続々と帝劇の大倉社長や山本専務に寄せられていたにもかかわらず無視する構えを見せていた<ref>「板垣守正君の『自由党異変』上演問題では帝劇の山本専務や大倉社長などに対して上演阻止、脅迫状や圧迫がましい運動が盛んなさうだが、帝劇側はこんな事には慣れたもので、ひとりでニヤニヤ笑つてゐる」『[[東京朝日新聞]]』(大正14年([[1925年]])[[10月21日]]号)</ref>。しかし上演前日の大正14年([[1925年]])[[10月25日]]、板垣家側、舞台協会側双方から条件が示され遂に上演中止が決定された。板垣家側から示された条件は、「在学中の[[東京大学|東京帝国大学]]卒業後はその自由を拘束せず、万一再び『自由党異変』が世に出る時には、旧[[自由党]]員も華々しく応援する<ref>板垣家側の「『自由党異変』が世に出る時には、旧自由党員も華々しく応援する」という文言は、「上演差止」めと「守正廃嫡」の法的な裁許が下りるまでの時間稼ぎであった可能性が高い。また、守正側は祖父板垣伯の遺品の一部を後継者の実弟・[[板垣正貫]]側に渡さないなどの対抗措置を行っている</ref>」というもので、舞台協会側から示された条件は「守正氏を動かして、今、遅れている卒業論文を必ず書いて貰つて帝大は必ず卒業させる事」というもので双方から条件を出した和解の方式が採られた。さらに『[[東京朝日新聞]]』(大正14年([[1925年]])10月25日号)では、守正の学費は故板垣伯爵が清貧に甘んじていたため、遺族の収入が充分でなかったのが上聞に達し、特に恩賜の教育賜金によって学費に充てられていたので卒業の如何によっては不敬の極みとならんことを家人が危ぶんだことが載せられている。



=== 無形社を創設 ===

=== 無形社を創設 ===

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=== 死去 ===

=== 死去 ===


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== 家族 ==

== 家族 ==

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***妻:板垣桃子(福士 進の二女)

***妻:板垣桃子(福士 進の二女)

****長男<ref>[[戸籍]]上は、[[板垣鉾太郎]]の四男</ref>:尾崎正<ref>昭和5年([[1930年]])[[1月26日]][[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[北川村]]大字野川 [[尾崎卓爾|尾崎旦]]の養子となる。</ref>(大正15年([[1926年]])[[10月1日]]生, のち[[尾崎旦]]養子)

****長男<ref>[[戸籍]]上は、[[板垣鉾太郎]]の四男</ref>:尾崎正<ref>昭和5年([[1930年]])[[1月26日]][[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[北川村]]大字野川 [[尾崎卓爾|尾崎旦]]の養子となる。</ref>(大正15年([[1926年]])[[10月1日]]生, のち[[尾崎旦]]養子)

****二男<ref>戸籍上は、板垣守正の長男</ref>:板垣正明<ref>{{cite web|url=https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/index_asanumainejiro2_syokan.pdf|title=昭和26年(1951)7月 活版・墨書 1通 父板垣守正 告別式の案内状(差出人 喪主板垣正明・板垣桃子, 宛先 浅沼稲次郎) |publisher=『浅沼稲次郎関係文書(その2)書簡の部目録』国立国会図書館憲政資料室 |date=2012-06-01 |accessdate=2014-06-16}}</ref>(母 板垣桃子)

****二男<ref>戸籍上は、板垣守正の長男</ref>:板垣正明<ref>{{Cite web|和書|url=https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/index_asanumainejiro2_syokan.pdf|title=昭和26年(1951)7月 活版・墨書 1通 父板垣守正 告別式の案内状(差出人 喪主板垣正明・板垣桃子, 宛先 浅沼稲次郎) |publisher=『浅沼稲次郎関係文書(その2)書簡の部目録』国立国会図書館憲政資料室 |date=2012-06-01 |accessdate=2014-06-16}}</ref>(母 板垣桃子)

****長女:三島拓子<ref>父守正[[認知]]届出済。のち昭和15年([[1940年]])[[4月6日]][[広島県]][[芦品郡]][[駅家町]]大字服部永谷 三島薫、同人妻美代子の養子となる。</ref>(昭和10年([[1935年]])[[9月30日]]生, 母 旭外子)

****長女:三島拓子<ref>父守正[[認知]]届出済。のち昭和15年([[1940年]])[[4月6日]][[広島県]][[芦品郡]][[駅家町]]大字服部永谷 三島薫、同人妻美代子の養子となる。</ref>(昭和10年([[1935年]])[[9月30日]]生, 母 旭外子)

***弟:[[板垣正貫]]

***弟:[[板垣正貫]]

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{{板垣氏当主}}

{{板垣氏当主}}

{{板垣会会長}}

{{Normdaten}}

{{Normdaten}}



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[[Category:1900年生]]

[[Category:1900年生]]

[[Category:1951年没]]

[[Category:1951年没]]

[[Category:冨士霊園に埋葬されている人物]]


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板垣 守正
1948年
生誕 1900年3月15日
東京府東京市芝区西久保桜川町
死没 (1951-07-16) 1951年7月16日(51歳没)
神奈川県中郡大根村
出身校 東京帝国大学文学部
職業 劇作家満洲国官僚文官
配偶者 板垣外子、板垣桃子
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家族[編集]

著作[編集]

補註[編集]



(一)^ 1419251020

(二)^ 1419251020

(三)^ 穿1419251020

(四)^ 1419251021

(五)^ 

(六)^  1928127

(七)^ 31928127

(八)^ 3192824

(九)^ 41929827

(十)^ 4西1334

(11)^ 267188 52212105139

(12)^ 退

(13)^ 

(14)^ 51930126 

(15)^ 

(16)^ 26(1951)7 1  ( ,  ).  (2) (201261). 2014616

(17)^ 15194046 

参考文献[編集]

  • 『社団法人 満洲文化協会会員名簿』満洲文化協会編、昭和12年(1937年
  • 『満洲紳士録(第4版)』中西利八編、東京・満蒙資料協会、1943年
  • 『新聞集成 昭和編年史(昭和3年度版 第1巻)』明治大正昭和新聞研究会、1988年9月発行