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「穂積重遠」の版間の差分

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| 称号・勲章 = [[勲一等旭日大綬章]]

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| 配偶者 = 穂積ナカ

| 配偶者 = 穂積ナカ

| 親族(政治家) = 祖父・[[渋沢栄一]](貴族院議員)<br>叔父・[[阪谷芳郎]](大蔵大臣)<br>叔父・[[穂積八束]](貴族院議員)<br>父・[[穂積陳重]](枢密院議長)<br>義父・[[児玉源太郎]](文部大臣)<br>弟・[[穂積真六郎]](参議院議員)<br>義兄・[[兒玉秀雄]](文部大臣)<br>義弟・[[児玉九一]](広島県知事)<br>義弟・[[木戸幸一]](内務大臣)<br>義兄弟・[[石黒忠篤]](農商大臣)<br>従弟・[[阪谷希一]](貴族院議員)<br>従弟・[[渋沢敬三]](大蔵大臣)

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| 就任日 = [[1944年]][[7月22日]]<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、52頁。</ref>

| 就任日 = [[1944年]][[7月22日]]<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、52頁。</ref>

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''' ''' [[1883]][[]]16[[411]] - [[1951]][[]]26[[729]][[]][[]][[]][[]][[|]][[]][[|]][[|]][[|]][[#|]][[#|]][[]][[]]

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[[穂積陳重]]の長男、[[渋沢栄一]]の初孫。[[実業家]]、[[政治家]]の[[渋沢敬三]]と政治家の[[阪谷希一]]は母方の従兄弟にあたる。


[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[|]]<ref>{{Cite web||title=621968 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2993342/1/40 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-07-31}}</ref>[[]][[ ()|]]


== 人物 ==

== 人物 ==

[[File:Nobushige Hozumi, Professor of Jurisprudence.jpg|thumb|200px|父の穂積陳重。]]


[[]][[]][[|]][[]]西[[]][[]][[]][[]]

1883年[[4月11日]] 、[[穂積陳重]]の長男として東京に生まれる。母は[[渋沢栄一]]の娘、[[穂積歌子|歌子]]。栄一にとっては初孫となる。



[[]]西[[]][[]][[]][[]]

1951年[[7月29日]]、満68歳(享年69)で死去。



== 少年時代 ==

== 少年時代 ==

[[ファイル:Shibusawa_Eiichi_Portrait_1900.png|thumb|祖父・渋沢栄一。]]

子供時代、祖父渋沢栄一の影響で[[論語]]に興味を覚えた。後にそれに関する著書もある。大学時代に[[宇野哲人]]が家庭教師であったが、家庭的論語講義をしたという。[[東京高等師範学校]]附属小学校(現・[[筑波大学附属小学校]])、同附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])時代は、[[鳩山秀夫]]や[[杉村陽太郎]]と親しかった。成績も優秀であったが、柔道に熱心であり、寒稽古に欠かさず出席した。

子供時代、祖父渋沢栄一の影響で[[論語]]に興味を覚えた。後にそれに関する著書もある。大学時代に[[宇野哲人]]が家庭教師であったが、家庭的論語講義をしたという。[[東京高等師範学校]]附属小学校(現・[[筑波大学附属小学校]])、同附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])時代は、[[鳩山秀夫]]や[[杉村陽太郎]]と親しかった。成績も優秀であったが、柔道に熱心であり、寒稽古に欠かさず出席した。



音楽にも興味があった。[[第一高等学校 (旧制)|一高]]時代には校歌を作詞し、その「都の空に」は後に[[学徒出陣]]の際に歌われることになる。[[1902年]]、母校である東京高師附属中学校の校歌「桐陰会会歌」の制定を提唱した。

音楽にも興味があった。[[第一高等学校 (旧制)|一高]]時代には校歌を作詞し、その「都の空に」は後に[[学徒出陣]]の際に歌われることになる。[[1902年]]、母校である東京高師附属中学校の校歌「桐陰会会歌」の制定を提唱した。

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== 教職時代と留学 ==

== 教職時代と留学 ==

[[File:Hozumi Shigeto.jpg|thumb|200px|穂積重遠]]

[[File:Hozumi Shigeto.jpg|thumb|200px|穂積重遠]]

[[ファイル:Shibusawa Eiichi, 1st Viscount Shibusawa in New York City in 1915.jpg|thumb|[[ニューヨーク市]]にて。右にいるのは祖父・[[渋沢栄一]]。]]

小学校時代から同級であった[[鳩山秀夫]]と重遠は、1909年の東京帝国大学卒業と共に同大学講師に採用された。同年に結婚する。重遠は「結婚届出同日主義」をもっており、母を驚かせた。ドイツ法の原書講読を受け持ったが、学生の中には後に同僚となる若き日の[[田中耕太郎]]が含まれていた。1910年3月には助教授に昇任し、1912年7月には欧米留学の辞令が発せられている。

小学校時代から同級であった[[鳩山秀夫]]とは、1908年の東京帝国大学卒業と共に同大学講師に採用された。同年に児玉仲子と結婚する。「結婚届出同日主義」をもっており、母の歌子を驚かせた。


ドイツ法の原書講読を受け持ったが、学生の中には後に同僚となる若き日の[[田中耕太郎]]が含まれていた。1910年3月には助教授に昇任し、1912年7月には欧米留学の辞令が発せられている。



1912年10月24日東京を旅立ち、目的地のドイツの[[ボン]]に12月16日到着。その地では先に留学していた鳩山秀夫が出迎えた。講義を聞くだけでなく、ドイツ婦人からドイツ語とダンスを習った。翌年4月にはベルリンに移った。視察も多く「刑事博物館」「東方文化研究所」「幼年裁判所」「幼年者救護会」「小児食堂」「[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]・フレーベル館」など視察している。1914年5月31日まで滞在、6月にはパリに居を移したが、この時も社会見物に精を出している。

1912年10月24日東京を旅立ち、目的地のドイツの[[ボン]]に12月16日到着。その地では先に留学していた鳩山秀夫が出迎えた。講義を聞くだけでなく、ドイツ婦人からドイツ語とダンスを習った。翌年4月にはベルリンに移った。視察も多く「刑事博物館」「東方文化研究所」「幼年裁判所」「幼年者救護会」「小児食堂」「[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]・フレーベル館」など視察している。1914年5月31日まで滞在、6月にはパリに居を移したが、この時も社会見物に精を出している。




19148161915113[[]][[]]1916111222<ref>[2013:30]</ref>

ほどなく第一次世界大戦が勃発、1914年8月16日にパリからロンドンに移った。ロンドンでは裁判所、陪審員がいる「素人裁判所」を見学している。1915年11月3日の汽船でロンドンを去り、アメリカへ主として[[ハーバード大学]]のある[[ケンブリッジ]]で過ごした。判例を素材にした問答式の授業法に興味をもった。1916年1月11日、この地を去りサンフランシスコ経由で横浜には2月22日に着いた。留学の成果としては第一に著書「戦争ト契約」であるが、ドイツと米国で学生生活を味わったこと、社会事業を観察したこと、社会教育の重要性に気付いたこと、婦人問題である、と述べている<ref>大村[2013:30]</ref>。



== 「戦争と契約」から「離婚制度の研究まで」 ==

== 「戦争と契約」から「離婚制度の研究まで」 ==

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== 立法と社会教育・社会事業・関東大震災 ==

== 立法と社会教育・社会事業・関東大震災 ==


調[[]][[]][[]]19331933[[]][[]]調調調[[]][[]]1938<ref>[2013:83]</ref>

民法改正の要綱作成のために、親族編、相続編に種々の調査を提案した。[[平塚らいてう]]、[[高群逸枝]]などの運動家を支援した。また、[[弁護士法]]の改正(1933年)へ情熱を注ぎ、性別条件をなくした。「児童虐待防止法」(1933年)を制定したが、これは戦後に[[児童福祉法]]に吸収された。[[関東大震災]]時は、東京にいて無事であったが、親戚縁者の無事を確認して大学に向った。学生の証言によると、重遠も来て、情報局ができ、指導したという。救援活動の中から、「帝都震災火災系統地図」ができた。震災後の借地、借家調停の問題から、借地借家調停法ができ、日本橋区の調停を担当した。[[賀川豊彦]]らは、上野に[[セツルメント]]を作り、法律相談を積極的に引き受けた。彼はどちらかというと、人情・法学的にやわらかく包んでいく方で、常識的にやっていたようです、という記録がある。セツルメントの中に唱歌指導というのがあり、「このような平和なのどかな心地よいことは穂積先生の人柄の影響だろう」ともある。しかしセツルメントは左翼化して、1938年には関係学生が警視庁特高部に出頭を命ぜられて、当人の承認を得て解散した<ref>大村[2013:83]</ref>。



== 社会教育協会 ==

== 社会教育協会 ==

1925年、[[小松謙助]]らが作った社会教育協会は、相談の結果、重遠が理事長となった。この協会の主な仕事は出版と講演であった。また、特殊学校として、東京家庭学園を設置した。それは白梅保母学園となり現在は大学院、大学、短期大学、高等学校、中学校(高等学校一貫制)、幼稚園を有する学校法人白梅学園に発展した([[白梅学園大学]]参照)。重遠は1945年8月まで理事長をつとめ、死に至るまで、会長職にあった<ref>大村[2013:118]</ref>。

1925年、[[小松謙助]]らが作った社会教育協会は、相談の結果、重遠が理事長となった。この協会の主な仕事は出版と講演であった。また、特殊学校として、東京家庭学園を設置した。それは白梅保母学園となり現在は大学院、大学、短期大学、高等学校、中学校(高等学校一貫制)、幼稚園を有する学校法人白梅学園に発展した([[白梅学園大学]]参照)。1945年8月まで理事長をつとめ、死に至るまで、会長職にあった<ref>大村[2013:118]</ref>。



== 講義ぶり、ラジオ放送、女性法律家の養成 ==

== 講義ぶり、ラジオ放送、女性法律家の養成 ==

東京大学セツルメントは社会事業の一つであるが、重遠はそれをよく理解していた。

東京大学セツルメントは社会事業の一つであるが、それをよく理解していた。




[[|]][[鹿|鹿]][[|]][[]][[]][[|]][[]]1929150193254193619383調<ref>[2013:113]</ref>

[[|]][[鹿|鹿]][[|]][[]][[]][[|]][[]]1929150193254193619383調

また重遠は公民科の教科書を編集した<ref>大村[2013:113]</ref>。



== 東京帝大法学部長 ==

== 東京帝大法学部長 ==


193131930-19331936-19371939-1942[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[|]]<ref>[2013:173]</ref>

1931年、満州事件がおきた。大学の法学部長を3回務めている(1930年-1933年、1936年-1937年、1939年-1942年)。[[小田村事件]]の処理に加え経済学部の内紛から起きた[[平賀粛学]]にも遭遇し、京都帝大の[[滝川幸辰]]事件、[[紀元二千六百年]]事業、[[新体制運動]]、[[学徒出陣]]などの難問があった。



== 文化人・重遠 ==

== 文化人・重遠 ==

女権拡張に好意的だったことから、重遠は女好きと皮肉られることがあった。留学時代に記していた『英独観劇日記』にはマダム・バタフライの[[三浦環]]に次第にひきつけられてきたと書いているが、これはほぼ同時期にオペラ留学していたドイツから戦火を避けてイギリスに移り、そこでの成功を背景アメリカに移りボストンで初めてオペラ『[[蝶々夫人]]』を演じて一斉を風靡した三浦の足跡を、まるで追うようにして穂積もまたイギリス経由でボストンに至ったことを述べたものである。1942年の非常時にこの本を刊行したことについて、東宝の渋沢社長から要求があったというが、[[大村敦志]]は非常時だから、余裕を持とうと思ったのだろうとしている。戦後に出版した『歌舞伎思出話』には、[[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]を贔屓にしていたことなどが綴られている。

女権拡張に好意的だったことから、女好きと皮肉られることがあった。留学時代に記していた『英独観劇日記』にはマダム・バタフライの[[三浦環]]に次第にひきつけられてきたと書いているが、これはほぼ同時期にオペラ留学していたドイツから戦火を避けてイギリスに移り、そこでの成功を背景アメリカに移りボストンで初めてオペラ『[[蝶々夫人]]』を演じて一斉を風靡した三浦の足跡を、まるで追うようにして穂積もまたイギリス経由でボストンに至ったことを述べたものである。1942年の非常時にこの本を刊行したことについて、{{要検証|東宝の渋沢社長から|date=2024年4月}}要求があったというが、[[大村敦志]]は非常時だから、余裕を持とうと思ったのだろうとしている。戦後に出版した『歌舞伎思出話』には、[[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]を贔屓にしていたことなどが綴られている。



重遠は古今の[[百人一首]]を蒐集していたが、戦災で焼失した。また重遠は古い川柳や笑い話に興味があり、時に講演に応用したりした。[[和歌]]も詠んだ。自由画、通俗文学、朝鮮文化、[[聖書]]、[[フランス語]]などにも興味を持った<ref>大村[2013:220]</ref>。

古今の[[百人一首]]を蒐集していたが、戦災で焼失した。また古い川柳や笑い話に興味があり、時に講演に応用したりした。[[和歌]]も詠んだ。自由画、通俗文学、朝鮮文化、[[聖書]]、[[フランス語]]などにも興味を持った<ref>大村[2013:220]</ref>。



== 皇室と最高裁判所 ==

== 皇室と最高裁判所 ==


19458 [[]][[]][[|]]4[[]]1933[[|]][[|]]1936[[]]194587[[]][[]][[]][[|]]3[[]] (Our King) 使 19492[[]][[]]<ref>[2013:238]</ref>

1945年8月 [[東宮大夫]]、[[東宮侍従長]]に就任した。次女・[[岩佐美代子|美代子]]が4歳時から[[照宮]]の学友だった縁からという。1933年ころから、[[香淳皇后|皇后]]、[[貞明皇后|皇太后]]へ進講している。また、1936年には[[講書始]]で「ギールケ著ドイツ団体法論」について進講し、外にも進講した。東宮侍従長人事に関しては、1945年8月7日[[木戸幸一]][[内大臣]]が[[昭和天皇]]に内奏し、天皇は「穂積とは重遠か、彼ならよし」との言葉があった。日光に疎開していた[[明仁|皇太子]]を訪れ、終戦を迎えた。当時の日記が残っている。皇太子の帰京には3か月かかった。皇太子の教育機関である御学問所の総裁でもあり、東宮御教育参与でもあった。皇太子の家庭教師としての[[エリザベス・ヴァイニング]]起用に関しては、穂積の頭越しの決定だったので、ヴァイニングとはややギクシャクしたものがあった。戦後は、英国留学時代を思い出し「アワ キング」(Our King) という言葉を使い、皇太子には常に「アワ キング」であって欲しいと思っていたとも言われる。しかし、圧力があり、1949年2月、最高裁判事に転出した。[[裁判官任命諮問委員会]]が廃止されてから初の最高裁判事誕生である。替わって東宮御教育参与になったのは、[[小泉信三]]であった<ref>大村[2013:238]</ref>。




1937[[]][[]]42[[|200]]25195010111025<ref>[2013:269-272]</ref>200[[|197344]]1995

1937[[]][[]]42[[|200]]25195010111025<ref>[2013:269-272]</ref>200[[|197344]]1995


== 家族と家庭生活 ==

== 家族と家庭生活 ==

重遠は子煩悩であり、それは旅行の時の、子供への手紙に窺える。夏は避暑地にでかけ、水泳が好きであった。家庭内で家族で論語を読んでいたという。重遠は、酒もタバコも嗜まなかったが、酒席には和やかに加わっていた。また、健啖家でもあった。毎年家族の写真を撮影していた。妻はかなり活動的であることは、妻の日記に見える。重遠は3人の弟がおり、貞三は早逝している。[[穂積律之助|律之助]]は海軍の技術将校で、造船少将まで昇進している。重遠と同じ時期にフランスに留学していて、重遠を[[マルセイユ]]で出迎えた。[[穂積真六郎|真六郎]]は、[[朝鮮総督府]]に勤務する植民地官僚であった。1920年に重遠が旅行した時は新義州の税務局長をしていた。殖産局長を最後に退官し、民間人になったが、終戦に際して日本人世話会の会長として引揚げを指揮した<ref>大村[2013:197]</ref>。

子煩悩であり、それは旅行の時の、子供への手紙に窺える。夏は避暑地にでかけ、水泳が好きであった。家庭内で家族で論語を読んでいたという。酒もタバコも嗜まなかったが、酒席には和やかに加わっていた。また、健啖家でもあった。毎年家族の写真を撮影していた。妻はかなり活動的であることは、妻の日記に見える。


3[[|]][[]][[|]][[]]1920退<ref>[2013:197]</ref>


== 経歴 ==

== 経歴 ==

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*[[1945年]] - [[東宮大夫]]兼[[東宮侍従長]]

*[[1945年]] - [[東宮大夫]]兼[[東宮侍従長]]

*[[1949年]] - 最高裁判事([[1951年]]まで)。就任してから[[衆議院議員総選挙]]の公示前の在任中に死去したため、[[最高裁判所裁判官国民審査]]を受けることはなかった。

*[[1949年]] - 最高裁判事([[1951年]]まで)。就任してから[[衆議院議員総選挙]]の公示前の在任中に死去したため、[[最高裁判所裁判官国民審査]]を受けることはなかった。

*[[1951年]] - 1月1日、病に倒れる。7月29日 東京大学附属病院にて逝去。

*[[1951年]] - 1月1日、病に倒れる。同年、7月29日東京大学附属病院にて逝去(享年69)。墓所は[[谷中霊園]]



==栄典==

== 栄典 ==

* [[1926年]](大正15年)[[4月2日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第4092号「敍任及辞令」1926年4月17日。</ref>

* [[1926年]](大正15年)[[4月2日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第4092号「敍任及辞令」1926年4月17日。</ref>



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* 『新訳 [[論語]]』(社会教育協会、1947年)。[[講談社学術文庫]]、1981年

* 『新訳 [[論語]]』(社会教育協会、1947年)。[[講談社学術文庫]]、1981年

* 『私たちの民法』(社会教育協会、1948年)

* 『私たちの民法』(社会教育協会、1948年)

* 『新訳 [[孟子 (書物)|孟子]]』(社会教育協会、1948年)。[[講談社学術文庫]]、1980年

* 『新訳 [[孟子 (書物)|孟子]]』(社会教育協会、1948年)。[[講談社]]学術文庫、1980年

* 『歌舞伎思出話』(大河内書店、1948年)

* 『歌舞伎思出話』(大河内書店、1948年)

* 『新民法読本』(日本評論社、1948年)

* 『新民法読本』(日本評論社、1948年)

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* 『百万人の法律学』(思索社、1950年)

* 『百万人の法律学』(思索社、1950年)

* 『結婚読本』(中央公論社、1950年)

* 『結婚読本』(中央公論社、1950年)

* 『法律入門』(宝文館、1952年(NHK教養大学))

* 『法律入門』(宝文館、1952年)。放送読本:NHK教養大学

* 『続有閑法学』(一粒社、1961年)

* 『欧米留学日記』(岩波書店、1997年)。[[穂積重行]]編

* 『欧米留学日記』(岩波書店、1997年)。[[穂積重行]]編

* 『[[終戦日記|終戦戦後日記]] 1945~50 大正一法学者の晩年』(有斐閣、2012年)。[[大村敦志]]校訂 

* 『[[終戦日記|終戦戦後日記]](一九四五~五十大正一法学者の晩年』(有斐閣、2012年)。[[大村敦志]]校訂 [[名古屋大学]]

* 『近代日本判例批評集―新編 判例百話/有閑法学/続有閑法学』([[書肆心水]]、2024年)



== 門下生 ==

== 門下生 ==


* [[中川善之助]]([[東北大学]][[名誉教授]]・[[金沢大学]]名誉教授。「現代家族法の父」と称される。)

* [[中川善之助]]([[東北大学]][[名誉教授]]・[[金沢大学]]名誉教授。「現代家族法の父」と称される。)

*[[来栖三郎 (法学者)|来栖三郎]]([[東京大学]][[名誉教授]]。兄弟子にあたる[[中川善之助]]らとともに戦後の親族法・相続法の改正起草委員を務めた。):弟子に[[石田穣]](のちの東京大学助教授)

* [[松坂佐一]]([[名古屋大学]][[名誉教授]])

* [[来栖三郎 (法学者)|来栖三郎]]([[東京大学]][[名誉教授]]。兄弟子にあたる[[中川善之助]]らとともに戦後の親族法・相続法の改正起草委員を務めた。):弟子に[[石田穣]](のちの東京大学助教授)



== 脚注 ==

== 脚注 ==

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| after = 華族制度廃止

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{{東宮大夫}}

{{東宮大夫}}

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[[Category:日本の法哲学者]]

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[[Category:日本の国際法学者]]

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[[Category:論語学者]]

[[Category:日本学士院会員]]

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[[Category:帝国学士院会員]]

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[[Category:1883年生]]

[[Category:1883年生]]

[[Category:1951年没]]

[[Category:1951年没]]

[[Category:谷中霊園に埋葬されている人物]]


2024年4月29日 (月) 19:35時点における最新版

日本の旗 日本政治家

穂積 重遠

ほづみ しげとお

生年月日 1883年4月11日
出生地 大日本帝国の旗 大日本帝国東京府(現・東京都
没年月日 (1951-07-29) 1951年7月29日(68歳没)
死没地 日本の旗 日本東京都文京区
出身校 東京帝国大学法学部卒業(現・東京大学法学部
前職 帝国学士院会員
現職 最高裁判所裁判官
称号 勲一等旭日大綬章
配偶者 穂積ナカ
親族 祖父・渋沢栄一(貴族院議員)
叔父・阪谷芳郎(大蔵大臣)
叔父・穂積八束(貴族院議員)
父・穂積陳重(枢密院議長)
義父・児玉源太郎(文部大臣)
弟・穂積真六郎(参議院議員)
義兄・兒玉秀雄(文部大臣)
義弟・児玉九一(広島県知事)
義弟・木戸幸一(内務大臣)
義兄弟・石黒忠篤(農商大臣)
従弟・阪谷希一(貴族院議員)
従弟・渋沢敬三(大蔵大臣)

日本の旗 貴族院議員

在任期間 1944年7月22日[1] - 1945年8月28日
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(15)^ 40921926417

文献[編集]

  • 大村敦志『社会教育と社会事業を両翼として 穂積重遠』ミネルヴァ書房、2013年。ISBN 978-4-623-06588-2 

外部リンク[編集]

日本の爵位
先代
穂積陳重
男爵
穂積家第2代
1926年 - 1947年
次代
華族制度廃止