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:3月 - 清作は猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する[[會津壹番館|会陽医院]]に[[書生]]として住み込みで働きながら、約3年半にわたって[[医学]]の基礎を学ぶ。細菌学を知ったのもこの頃であったという。1896年8月に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院︵[[東京歯科大学]]の前身︶の[[講師 (教育)|講師]]・6歳年長の[[血脇守之助]]と知り合う<ref>{{Cite web|和書|url=https://abiko.cda.or.jp/chiwaki |title=血脇守之助ちわきもりのすけ ~野口英世の育ての親~ |publisher=我孫子市歯科医師会 |accessdate=2020-07-31 }}</ref>。
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:3月 - 清作は猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する[[會津壹番館|会陽医院]]に[[書生]]として住み込みで働きながら、約3年半にわたって[[医学]]の基礎を学ぶ。細菌学を知ったのもこの頃であったという。1896年8月に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院︵[[東京歯科大学]]の前身︶の[[講師 (教育)|講師]]・6歳年長の[[血脇守之助]]と知り合う<ref>{{Cite web|和書|url=https://abiko.cda.or.jp/chiwaki |title=血脇守之助ちわきもりのすけ ~野口英世の育ての親~ |publisher=我孫子市歯科医師会 |accessdate=2020-07-31 }}</ref>。
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; 1895年(明治28年) |
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:4月7日 - [[日本基督教団]][[日本基督教団若松栄町教会|若松栄町教会]]で[[藤生金六]]教師より[[洗礼|受洗]]し、[[キリスト教徒]]([[プロテスタント]])となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://etsuya.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4718.html|title=若松栄町教会のあらまし |publisher=[[日本基督教団若松栄町教会]]|date=2013-05-03|accessdate=2024-03-20 }}</ref>。 |
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; 1896年(明治29年) |
; 1896年(明治29年) |
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:9月 - 野口は小林らから40円︵現在価格約80万︶もの大金を借りて上京し、医師免許を取得するために必要な[[医術開業試験]]の前期試験︵[[筆記|筆記試験]]︶に合格するも、[[放蕩]]のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。その後、[[掃除]]や雑用をしながら[[学僕]]となる。
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:9月 - 野口は小林らから40円︵現在価格約80万︶もの大金を借りて上京し、医師免許を取得するために必要な[[医術開業試験]]の前期試験︵[[筆記|筆記試験]]︶に合格するも、[[放蕩]]のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。その後、[[掃除]]や雑用をしながら[[学僕]]となる。
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* 1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士 |
* 1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士 |
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* 1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士 |
* 1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士 |
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* 1925年(大正14年) |
* 1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士 |
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=== 受賞歴 === |
=== 受賞歴 === |
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=== 異性関係 === |
=== 異性関係 === |
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野口は会津若松の書生時代に洗礼を受けた[[日本基督教団]][[若松栄町教会]]で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も[[恋文]]を送る。しかし女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。その後、東京の済生学舎で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。1899年︵明治32年︶清国に出向く直前には正装し[[湯島]]に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで、下宿の主婦に依頼して以降の面会を拒否した。その後、山内は1902年︵明治35年︶に20歳で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚。会津若松で三省堂医院を開業する。野口は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚したことを知り、﹁夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え﹂との一文を菊地に送っている。野口が日本に帰郷した際の記念写真には山内の姿がある。
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野口はクリスチャンであったが、会津若松の書生時代に[[洗礼]]を受けた[[日本基督教団]][[日本基督教団若松栄町教会|若松栄町教会]]で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も[[恋文]]を送る。しかし、女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。その後、東京の済生学舎で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。1899年︵明治32年︶清国に出向く直前には正装し[[湯島]]に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで、下宿の主婦に依頼して以降の面会を拒否した。その後、山内は1902年︵明治35年︶に20歳で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚。会津若松で三省堂医院を開業する。野口は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚したことを知り、﹁夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え﹂との一文を菊地に送っている。野口が日本に帰郷した際の記念写真には山内の姿がある。
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渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にすることはなく、先方から破談されるよう策していた。現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃すことを恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。 |
渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にすることはなく、先方から破談されるよう策していた。現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃すことを恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。 |
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生誕 |
1876年11月9日[1][2] 日本 福島県耶麻郡三ッ和村 (現:耶麻郡猪苗代町)[1][2] |
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死没 |
1928年5月21日(51歳没) 英領ゴールド・コースト (現:ガーナ共和国 アクラ) |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 細菌学 |
研究機関 | ロックフェラー医学研究所 |
出身校 | 済生学舎(日本医科大学の前身。ただし、野口が学んだ当時は「医術開業試験予備校」と言うべき存在。また、野口の在校期間は数カ月に過ぎない) |
主な業績 | 梅毒の研究 |
主な受賞歴 |
正五位 勲二等旭日重光章 |
プロジェクト:人物伝 |
年譜[編集]
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
名誉称号授与歴[編集]
●1907年︵明治40年︶ - ペンシルベニア大学名誉修士 ●1918年︵大正7年︶ - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授 ●1920年︵大正9年︶ - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士 ●1921年︵大正10年︶ - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士 ●1925年︵大正14年︶ - パリ大学名誉医学博士受賞歴[編集]
●1913年︵大正2年︶ - 勲三等︵ スペイン︶、勲三等︵ デンマーク︶ ●1914年︵大正3年︶ - 勲三等︵ スウェーデン︶ ●1915年︵大正4年︶ - 勲四等旭日小綬章︵ 日本︶ ●1920年︵大正9年︶ - ジョン・スコット・メダル名誉章︵ 米国 フィラデルフィア︶ ●1924年︵大正13年︶ - レジオンドヌール勲章︵ フランス︶ ●1925年︵大正15年︶12月15日 - 正五位︵ 日本︶[19] ●同年 - コーベル賞牌 ●1928年︵昭和3年︶ - 勲二等旭日重光章︵ 日本︶、防疫功労金牌︵ フランス︶研究スタイル[編集]
人体実験スキャンダル[編集]
1911年と1912年にニューヨーク市のロックフェラー医学研究所において、野口はツベルクリン検査のような梅毒の皮膚検査法の開発を試みていた。被験者はニューヨークの診療所と病院から集められた。この実験において、野口はルエチンと呼ばれる梅毒の抽出物を被験者の上腕皮下に注射した。皮膚反応は病気の進行段階やその処置に応じて梅毒患者と健康な被験者との間で差があり、研究がなされた。571人の被験者のうち315人が梅毒患者であった。残りの被験者は﹁対照群﹂であり、彼らは梅毒に感染していない孤児や入院患者であった[25]。入院患者は既にマラリア、ハンセン病、結核、肺炎といった様々な梅毒以外の病気の治療歴があった。対照群の残りは健常者であり、ほとんどは2歳から18歳の子供であった[26][27]。野口と他の医師たちは、この実験について被験者に説明せず、承諾を得ていなかった[28]。当時の批判者︵主に生体実験反対運動の人々︶は、野口が傷つけられやすい孤児と入院患者の権利を侵害した、と言及した。生体実験反対主義者らの一部には、野口の実験によって子供が梅毒にかかったのではないかとの懸念があった[25][29]。 これは周知のスキャンダルとなり、メディアがこのことについて議論した。﹃ライフ﹄誌の編集者は以下のように指摘した。 かの研究者が患者に対して﹃あなたの身体に、多かれ少なかれ恐ろしい病気と関連した調合物を注射する許可を頂けますでしょうか?﹄と聞いていたとしたら、病人らは拒否しただろう。[30] 野口を弁護するため、ロックフェラー研究所のビジネスマネージャーであったジェローム・D・グリーンは、この実験に抗議していた反生体実験団体に書簡を送った。グリーンは、野口とその同僚研究者は被験者に投与する前に自分自身で抽出物を試験したので、この投与が梅毒を引き起こす可能性はない、と指摘した。しかしながら、野口自身1913年に無治療状態の梅毒と診断され、野口はロックフェラー病院での梅毒治療を断っている[25]。その当時、グリーンの説明は、実験の重要性と研究中に医者が取っていた配慮を証明するものと見なされた。1912年5月、ニューヨーク児童虐待防止協会はニューヨーク地区検事長に野口に対する告発を求めたが、却下された[31]。 アメリカ合衆国において、被験者を保護するための法律が可決され、人体実験に関して十分なコンセンサスの醸成が成されるようになったのは20世紀後半のことであった。そこに至るまでに、インフォームド・コンセントと患者/被験者の権利に関するより多くの手続きが開発された[25]。業績[編集]
存命中に野口の名を高めた学問上の業績は、進行性麻痺患者の脳内に梅毒病原体を発見した事と、いくつかの感染症の病原体特定および培養である[32]。ただし後者の業績は後に否定された[33]。 現在まで残っている野口の業績のうち最大とされるのは[34]、梅毒スピロヘータを麻痺性痴呆患者の脳と脊髄癆患者の脊髄に発見したことである。当時、すでに麻痺性痴呆と脊髄癆は梅毒の末期症状と考えられていたが、証明はなされていなかった[34]。研究者たちは梅毒患者の脳や脊髄から梅毒スピロヘータを見つけ出そうと試みていたが上手くいかなかった[34]。野口は当時の顕微鏡で数千枚にもおよぶ病理組織標本の観察により、菌がいると考えられていた血管まわりではなく繊維の奥深くでスピロヘータを確認し、神経性疾患と感染症との関連を明らかにした[35][36]。ひとたび脳のどの部分にスピロヘータがいるのかが分かれば、容易に見つけ出せるようになった[35]。また脊髄からもスピロヘータを発見した[35]。 一方で、のちに否定された研究業績として挙げられるのが病原性梅毒スピロヘータの純粋培養[注 13]と黄熱病の研究[注 15]である。急性灰白髄炎︵ポリオ、小児麻痺︶、狂犬病、黄熱病、トラコーマの病原体発見の業績に関しても、のちにウイルスなどの別の病原体であることが判明していることから否定されており、現代において微生物学の分野で評価できるものは全体の仕事のうちの一部に留まることになる。これは、野口の研究時期において、濾過性病原体としてのウイルスの存在はすでに示唆されており、光学顕微鏡下で観察可能なスピロヘータの研究方法にこだわったこと、培養方法などに技術的限界があったことが考えられる。また、発表された200本あまりの論文の大部分を掲載したJournal of Experimental Medicineは、ロックフェラー医学研究所外の研究者による査読を免れており、フレクスナーの推薦があれば掲載されるなど、査読システムの不備も指摘されている[39]。 野口はまた、ペルー、エクアドル、コロンビアの山間部の風土病であり、サシチョウバエにより媒介されて溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱と、四肢に数センチに達する疣︵イボ︶ができるペルー疣が同じ病気であることを証明した[40]。科学史家の中山茂は、これを野口の業績のなかで﹁2番目に大きな業績として認められている﹂としている[41]。同じ病気の異なる症状であるという説は、1885年ペルーの医学生ダニエル・カリオンが、それまでペルーの医師の間で唱えられてきた説を自らの身体を実験体として示し、以後カリオン病と呼ばれるようになったものであり、ペルー国内では認められたものの、アメリカのハーバード大学により否定されていた。野口の業績はカリオンの報告を科学的に証明したもので、その成否についてハーバード大学と大変な議論を経た後に野口の成果が正しいとされた。 他の業績として、渡米後すぐに行った、蛇毒によって引き起こされた溶血性変化に関する研究や、血清学的ヘルペドモナド(HERPETOMONADS)とリーシュマニアの分類︵1926年サイエンス誌︶がある。 前記の通り、野口はノーベル賞に何度も推薦を受けているが、自身は1926年のノーベル医学・生理学賞に、バクテリオファージ研究者であるフェリックス・デレーユを推薦している[42][注 16]。- 主要な研究年譜
- 1902年(明治35年)蛇毒の血清学的研究
- 1911年(明治44年)梅毒スピロヘータの純粋培養(のちに否定[注 17][注 13])
- 1913年(大正2年)梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆患者の脳病理組織内で発見
- 1913年(大正2年)小児麻痺病原体特定(のちに否定)
- 1913年(大正2年)狂犬病病原体特定(のちに否定)
- 1918年(大正7年)エクアドルの黄熱病病原体特定(のちに否定)。翌年にかけてワクチンの開発を行う。
- 1926年(大正15年)ペルー疣とオロヤ熱が同じ病気の症状であることを証明
- 1927年(昭和2年)熱帯リーシュマニア症の研究
- 1927年(昭和2年)トラコーマ病原体特定(のちに否定)
人物[編集]
両親と生家[編集]
野口の父の佐代助は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いが、佐代助本人は特に悪人というわけでもなく、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言われる。後年、野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の負債を重ね、﹁借金の天才﹂とまで呼ばれたほどの野口の要領の良さ・世渡りの上手さは、良くも悪くも佐代助から受け継いだ才能であったといわれている。ただし野口は、酒好き放蕩好きな浪費家という佐代助の欠点をも受け継いでいるが、伝記では伏せられることが多い。 野口の母のシカは農作業の傍らで副業として産婆を営むようになる。1899年︵明治32年︶、産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、シカは文字の読み書きができなかったが、近所の寺院の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯に2000件近くの出産に貢献した。野口は渡米後、母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。これは母親が大変字が下手な事を考慮して送ったものである。前記の通り、野口の母のシカはもともと文字の読み書きができず、正式な産婆の免許を取得するために苦労して一から読み書きを学んだ事情がある。1912年︵明治45年/大正元年︶にシカが野口に宛てて書いた手紙が1通現存しており、当て字の漢字︵﹁勉強﹂を﹁べん京﹂︶が混じったり、会津弁の表現・発音がそのまま出たりした︵共通語なら﹁に﹂と書く助詞を﹁さ﹂、﹁え﹂となる箇所を﹁い︵イ︶﹂と書いたり、﹁写真﹂を﹁さしん﹂と書くなど︶文章に、筆記の苦労が窺われる内容となっている[43]。一度の帰国は母親からの手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。 少年期の野口は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。高野川のほとりでの以下ような口論があった旨、姉の野口イヌの後年の回想にある。イヌ﹁私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい﹂清作﹁俺は継ぎたくない。姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。﹂押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。清作﹁俺が家を継がねばならないなら死ぬ。﹂︵野口英世記念会﹁野口英世-少年期﹂︶異性関係[編集]
野口はクリスチャンであったが、会津若松の書生時代に洗礼を受けた日本基督教団若松栄町教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送る。しかし、女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。その後、東京の済生学舎で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。1899年︵明治32年︶清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで、下宿の主婦に依頼して以降の面会を拒否した。その後、山内は1902年︵明治35年︶に20歳で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚。会津若松で三省堂医院を開業する。野口は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚したことを知り、﹁夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え﹂との一文を菊地に送っている。野口が日本に帰郷した際の記念写真には山内の姿がある。 渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し﹁顔も醜く学がない﹂旨の評がある。血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にすることはなく、先方から破談されるよう策していた。現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃すことを恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。血脇守之助との関係[編集]
野口は貧乏育ちのためか金銭感覚が疎く、金遣いが荒かったことが知られる。留学前に血脇守之助からもらった当時500円という大金を遊興で使い切ってしまった時には、血脇もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったといわれる。それでも血脇は野口の才能を信じて金貸しへ行き、野口のために再び留学資金を準備した。このことに野口は涙を流したと言われている。1922年︵大正11年︶、血脇がアメリカを訪れたとき、野口は大喜びして何日間も朝から夜まで付きっきりで案内してまわった。血脇が講演するときには通訳を買って出て、﹁私の大恩人の血脇守之助先生です﹂と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまで会わせた。別れ際、血脇は﹁君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。これでお相子だな﹂と言ったが、野口は﹁私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいか知れません﹂と言葉を返した。医学者として[編集]
フレクスナーに渡した履歴書には1893年︵明治26年︶5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨が記載されている。実際には1893年︵明治26年︶には会津若松で書生をしており、その後も医術開業試験予備校である済生学舎にも、僅か数か月しか通っていない。またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人程度しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった︵もっとも済生学舎は当時、﹁東京専門学校済生学舎﹂と称しており、医師免許取得とともに卒業を認定したので、東京専門学校済生学舎の卒業生であること自体は事実である。ただし半年で卒業しているので3年も在籍はしていない。またMDは医師免許と同義語であり、医学博士Ph.D.とは異なる。現在でも日本の医師は、医学士BMBSであっても米国ではMDと称している︶。1927年︵昭和2年︶に友人の堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために野口が大学を卒業していないことを語ったところ憤慨し、電報で取り消しを求めた。 野口がロックフェラー研究所に勤めていた頃、日本からの留学生と一緒に住んでいた時期がある。1年ほどの月日が経ったある日の夜、野口は留学生に﹁君もここへ来てから色々と勉強したことだろう。そろそろ論文を発表したらどうだい﹂と勧めたが、﹁英語が拙いため書けない﹂と拒まれてしまう。すると、﹁それならば、君が日本語で話したことを、僕が英文に直してあげよう﹂と言って、共同で執筆することにした。完成後、野口は﹁すぐにポストへ出して来なさい﹂と申告したが、留学生は﹁流石にもう遅いから明日にしましょう﹂と言い返した。これに対して野口は、﹁それでは駄目だ。今すぐ入れてきなさい。君と同じ研究を誰かがやっているかもしれないんだ。もし1日でも発表が遅れたら、君の発表じゃなくなってしまう。全てが無駄になるんだ﹂と強く言い聞かせた。留学生は強く感銘を受け、暗い夜道を走って論文を提出し、無事に帰国したという。在米生活[編集]
ニューヨークでの将棋の相手は絵の師でもある写真家の堀市郎であり、囲碁の相手は彫塑家の川村吾蔵があたった。﹁野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた﹂と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を﹁野口博士との思い出﹂で綴っている。 1901年︵明治34年︶、野口が24歳の時に同世代の事業家である星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。のちにお互いが千円紙幣の肖像に採用されることになる。 台湾医学界の重鎮であった杜聡明が京都大学の学生時代、ニューヨーク、ロックフェラー研究所にいる野口を訪ねた。研究所の食堂で野口と杜が日本語で歓談していると、食堂内に米国人が入ってきた。その途端、野口はさっと会話を日本語から英語に切り替えたという。杜聡明は、﹁これが真の国際マナーであり、国際人というものか﹂と感嘆した、と自らの書で野口英世について語っている︵﹁中国名医列伝﹂・中公新書︶。野口英世語録[編集]
●志を得ざれば再び此の地を踏まず︵青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉︶ ●人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。 ●努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。 ●絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。 ●人は能力だけではこの世に立つことはできない。能力と共に徳義を持つことが必要である。 ●模倣から出発して独創にまで伸びてゆくのが、日本人の優れた性質である。それは逞しい能力でもある。 ●ナポレオンは三時間しか寝なかった︵口語︶ ●偉ぐなるのが敵討︵ガタキウ︶ちだ︵口語︶ ●教えに来たのではありません。習いに来たのです。︵ブラジルを訪れた時︶ ●自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。 ●私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきた。 ●学問は一種のギャンブルである。 ●障害者であることは、学問においては問題にならない。 ●名誉のためなら危ない橋でも渡る。 ●過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ。 ●忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。︵原典フランス語︶ ●英雄却相親︵星一との写真に添え書き︶ ●人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである。 ●まて己 咲かで散りなば 何が梅︵順天堂医院の助手の頃に詠んだもの︶ ●正直であることが最高の手段だ。後世への影響[編集]
系譜[編集]
●野口家 清太郎━━岩吉==善之助︵渡部氏︶==佐代助︵小檜山氏︶━━清作︵英世︶ ●戸田純子︵埼玉県立皆野高等学校教諭。戦国時代の連歌師である猪苗代兼載を研究している︶によると、父である佐代助の実家﹁小檜山氏﹂は、猪苗代兼載にゆかりがある家柄[48]。主要論文[編集]
●サイモン・フレキス子ル、野口英世、蛇毒ノ血球溶解作用抗細菌溶解作用及毒性ニ就キテ 細菌學雜誌 1902年 1902巻76号 p.193-222, doi:10.14828/jsb1895.1902.193 ●サイモン・フレキス子ル、野口英世、︻原著︼蛇毒ノ血球溶解作用抗細菌溶解作用及毒性ニ就キテ 順天堂医学 1902年 M35巻 352号 p.259-290, doi:10.14789/pjmj.M35.259 ●野口英世、黄熱病病原ニ關スル研究 実験医学雑誌 1919年3巻1号 p.59-60, doi:10.3412/jsb1917.3.1_59野口英世を扱った作品[編集]
伝記[編集]
野口英世の伝記は非常に多数出版されている。野口の存命中にすでに日本語の伝記が1つ出ているが、理想化されていたため野口自身は気に入っていなかった[49]。 野口の死後、フレクスナーが短い評伝を書き、それに刺激されて医師で文筆家のグスタフ・エクスタインが訪日して資料を集めたうえで1931年に﹁野口英世伝﹂︵原題"Noguchi"︶を書いた。また野口と交流のあった医学者の奥村鶴吉も1933年に伝記を出版した。多くの伝記はエクスタイン本と奥村本が元となっている[49]。この2冊には私生活のルーズさも書かれている。 野口が死去した年から多くの伝記が出版され続けているが、前記2冊を例外として立志伝・偉人伝として美化されたものだった[50]。これは戦後もしばらく続き、業績が見直されて人間的な欠点も伝記に書かれるようになるのは1970年頃からである[50]。1980年には多くの1次資料や関係者へのインタビューを元に書かれたイザベル・プレセットによる伝記が出版された[49]。小説など[編集]
●野口英世最後のたたかい︵中山達郎︶ - ノンフィクション、2005年。 ●野口英世︵馬場正男︶ - ポプラ社の子供向け伝記、1982年。 ●野口英世︵浜野卓也︶ - ポプラ社の子供向け伝記、1998年。 ●野口英世 - 大日本雄弁会講談社の絵本。 ●遠き落日︵渡辺淳一︶ - 小説、1979年。後に映画化、1992年。 ●ノグチの母 野口英世物語︵新藤兼人︶ - 小説、1992年。 ●人間野口英世︵池田貞武︶ - 小説、1978年。 ●帰国︵渡辺祐一︶ - 小説、1983年。 ●Dr.NOGUCHI︵むつ利之︶ - 漫画︵全17巻︶、1994-1997年。 ●野口英世の少年時代 - 映画、関川秀雄監督、東映教育映画部製作、1956年。 この他、児童向けの伝記や学習漫画などにも取り上げられている。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 山本厚子『野口英世 知られざる軌跡 メリー・ロレッタ・ダージズとの出会い』(山手書房新社、1992年) ISBN 4841300430
- 飯沼信子『野口英世の妻』(新人物往来社、1992年) ISBN 4404018940
- 渡辺淳一『遠き落日』(角川文庫) ISBN 4041307147、ISBN 4041307155
- ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド『背信の科学者たち』 (化学同人、1988年) ISBN 475980160X
- ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド『背信の科学者たち』( 講談社、2006年) ISBN 4062575353 - 上の書籍の新書版
- 北篤『正伝 野口英世』(翠楊社、1980年) - 伝記的小説
- "Noguchi and His Patrons" by Isabel Rosanoff Plesset, Fairleigh Dickinson Univ Press,(1980年)ISBN 0838623476
- 中山茂『野口英世』(朝日新聞社 1978年)1989年に改定、岩波同時代ライブラリー収録1995年
- 小桧山六郎『医聖 野口英世を育てた人々』(福島民友新聞社、2008年) ISBN 978-4897577043
- 『野口英世―少年期』野口英世記念会 (1980年)
- 坪内逍遙『当世書生気質』(岩波文庫) ISBN 978-4003100424
- 小泉丹『野口英世 [改稿]』(岩波新書、1939年)
- イザベル・R・プレセット著、翻訳 中井久夫、枡矢好弘『野口英世』(星和書店、1987年2月) ISBN 4791101545
- 宮島幹之助「野口英世君逝く」(『細菌學雜誌』1928巻 387号、1928年) p.a1-a3, doi:10.14828/jsb1895.1928.387_a1