スペイン人
Españoles | |
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代表的なスペイン人の一覧 1列目:イサベル1世、フェルナンド2世、コルテス、イグナチオ・デ・ロヨラ、カルロス1世、アビラのテレサ | |
総人口 | |
約4,200万人 | |
居住地域 | |
スペイン 41,063,259人 (2009)[1] | |
アメリカ合衆国 | 625,562人 a[2] |
オーストラリア | 58,271人 b[3] |
プエルトリコ | 83,879人 c[4] |
オランダ | 18,000人[5] |
イスラエル | 2,100人[5] |
言語 | |
カスティーリャ語と地方公用語:バスク語、カタルーニャ語(バレンシア語を含む)、ガリシア語、その他 | |
宗教 | |
カトリックが76%、無宗教が19% | |
関連する民族 | |
イベリア人、ケルト系、ラテン系、西ゴート族、ムーア人、ローマ人、ポルトガル人、イタリア人、フランス人、ヒスパニック、セファルディム |
概要[編集]
スペインという国の成立は、西欧主要国の中でも比較的古い部類に入る。しかしスペイン人という民族グループの成立は、統一の立役者としてスペイン人を自負するカスティーリャ王国の住民と、その過程で失われた国々︵カタルーニャ君主国、ナバラ王国など︶の住民という対立軸から、今日に至るまでスペイン国民全体を纏める存在にはなり得ていない。またスペイン人︵カスティーリャ人︶の間でも、初期からのカスティーリャ王国住民と、後々に併合された国︵アラゴン王国・レオン王国︶や、レコンキスタが完成するまでの長期間をイスラム圏で過ごしたアンダルシア地方の住民とで、文化的な対立が存在している。 現在のスペインをおおむね含む体制が成立したのは1469年のカスティーリャ・アラゴン連合の成立、及び同国による1492年のレコンキスタ完了によってとなる。だがあくまでも中世・近世的な領域拡大であって、集権的な国民国家が形成された訳ではなかった。そのような試みが行われるのは18世紀頃に入ってからであるが、中央集権を行うには地方勢力を抑えられるだけの牽引力が必要となるにもかかわらず、カスティーリャ人の領域であるイベリア半島中央部は広大ながら貧しい地域であった。産業革命が起きると、沿岸部のカタルーニャと資源地帯のバスク地方が発展する一方、双方を持たないカスティーリャは一層に弱体化した。そもそもスペインという枠組みも相次いで植民地を失う中で︵以前に得ていた植民地からの利益は浪費により失われた︶、国際的な権威を失墜させていた。 地方勢力の不満と国家主義者の危機感は、スペイン内戦を引き起こした。内戦を制したフランシスコ・フランコ政権下で推し進められた国家主義は、地方の民族主義を徹底して弾圧した。しかし逆に、スペイン人と対立する民族への帰属心を一層に強める効果ももたらし、やがてフランコ死後に成立した自由主義政権では、各民族運動の議会進出が進んだ。民主化後のスペインは、フランコ政権時代の反省から自治権の拡大などの政治的譲歩に応じ、1978年に制定された新憲法︵スペイン民主化憲法︶に﹁憲法は地方の自治と団結を保障する﹂との文章が記載された。 自治権は多くのスペイン主義者や地方主義者の穏健派に受け入れられたが、過激な国家主義者達は自治権をスペイン国家解散への前哨と批判して、政府と地方運動の双方を攻撃した。また地方運動の強硬派も、完全な独立を阻止しようとする飴玉だと批判、政府と自派穏健派を攻撃した。この奇妙な対立が最も顕著に現れたのが、カタルーニャ州の更なる自治権拡大を定めた法案が議会で審議された時で、ほとんどの住民がこの法案に賛同する中、カタルーニャ独立運動の最強硬派は、﹁国家解体の第一歩﹂﹁スペインのバルカン半島化﹂と同法案を批判していた国家主義者グループと共に、この法案に反対していた。 上述の通り、地方民族の多くはスペインという国に関しては経済的・軍事的な連合体としては一定の評価を与えており、急速な独立や内戦には消極的である。しかしそれはあくまで、スペインが﹁多民族国家﹂であることが大前提であり、彼らの多くは最終的にスペインが連邦制国家や国家連合体へ変化することを望んでいる。スペイン政府が行った調査によれば、スペイン民族という概念に帰属心を持つスペイン国民は半数以下であった。地方対立[編集]
カタルーニャ[編集]
バレンシア[編集]
バレンシア地方はカタルーニャ地方の南部に相当する地域で、バレンシア人という独自の民族意識を有している。しかし言語面では、バレンシア語はカタルーニャ語の方言とされ、しばしば議論の対象となる。アンダルシアとカスティーリャの関係と類似していると言える。
バスク[編集]
ナバラ[編集]
ナバラは伝統的にスペイン化された人々が多く、必ずしもバスク主義運動には賛同しない傾向がある。歴史的にもバスクの他地域と異なる歴史を有し、他地域とは距離を置いている。民主化後に自治州形成の際、他地域︵今日のバスク州にあたる︶と共同での自治州形成の動きもなかったわけではないが、結果ナバラ単独での自治州形成となった。ガリシア[編集]
カナリア[編集]
アンダルシア[編集]
カスティーリャ[編集]
ムルシア[編集]
ムルシア州はタイファというイスラム系諸国からの影響を強く引き継いでおり、ある程度の独立主義の運動が存在する。話される言語はカスティーリャ語に含まれるが、アラビア語の影響が非常に強い。エストレマドゥーラ[編集]
エストレマドゥーラ州で話される言葉はエストレマドゥーラ語という独立言語に分類されている。だがこの地域ではアンダルシア地方とは逆に、言語・文化ではカスティーリャと遠いながらも地方運動は余り盛んではない。
カンタブリア[編集]
カンタブリアこの地域は伝統的にカスティーリャ地方に含まれてきたが、レオン地方やバスク地方との十字路であったことから独自の文化を育んでいる。独立主義の政党が存在する。
アラゴン[編集]
アストゥリアス(レオン)[編集]
アストゥリアス王国(レオン王国)は、後に統一国家となるカスティーリャの旧宗主国として知られている。ゴート人の亡命貴族ペラーヨがアストゥリアス族(現地の在来部族)を率いて建国した同国は、最初にイスラム勢力に反旗を翻したイベリア人国家でもあり、レコンキスタを「スペイン人(あるいはイベリア住民全体)の団結」と「イベリアのヨーロッパ回帰」と考えるスペイン王国にとって、同国の系譜を引くことは政治的に重要な事柄だった。スペイン王太子がアストゥリアス公を称する習慣もこれに由来している。
しかし当のアストゥリアス人は、上記の功績を強い誇りとしつつも、自分たちの祖先の功績をスペイン人の事績とされるのを必ずしも快くは思っていない。民主後の改革においても、アストゥリア語がスペイン語の方言である疑いがあるとされたり、スペイン全州が自治州に移行した際にもアストゥリアス人の居住区だけがアストゥリアス州他幾つかの州に分断されるなど、露骨に冷遇されていることがその傾向に拍車をかけている。2007年には「レオン・アストゥリアス自治州」設立を求めるデモが発生し、同年にはレオン民族連合が地方選挙で10%以上の得票を得て躍進した。
ロマ人[編集]
脚注[編集]
- ^ www.ine.es Spanish population 2009
- ^ U.S. Census Bureau, Spaniard, 2008 American Community Survey
- ^ www.censusdata.abs.gov.au Australia: Spanish Ancestry Australian Bureau of Statistics
- ^ page 6, Puerto Rican ethnic ancestry. 2.1% identified as Spaniard
- ^ a b http://www.joshuaproject.net/peoples.php?rop3=109534
- ^ a b c d e f “Diagnóstico social de la comunidad gitana en España : Un análisis contrastado de la Encuesta del CIS a Hogares de Población Gitana 2007” (PDF). INFORMES, ESTUDIOS E INVESTIGACIÓN 2011 (保健・社会政策・平等省): p. 27-30. (2007年). オリジナルの2019年8月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ “Roma inclusion in Spain”. 欧州委員会. オリジナルの2021年3月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ “Estimated by the Society for Threatened Peoples”. 被抑圧民族協会. (2007年5月17日). オリジナルの2021年8月16日時点におけるアーカイブ。