井伊直平
井伊直平 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 |
文明11年(1479年)? または延徳元年(1489年)?[1][2] |
死没 | 永禄6年9月18日(1563年10月5日)[1] |
戒名 | 桂雲院殿西月顕祖大居士[2] |
墓所 |
龍潭寺(浜松市浜名区引佐町井伊谷)[3] 渓雲寺(浜松市浜名区引佐町川名)[4] 墓碑(浜松市浜名区引佐町川名)[4] |
官位 | 修理亮、信濃守、兵部少輔[2] |
主君 | 今川氏親→氏輝→義元→氏真 |
氏族 | 井伊氏 |
父母 | 父:井伊直氏 |
妻 | 井平安直娘[5]、他 |
子 |
直宗、直満、直義、直元、井平直種[5]、 今川義元側室(後義元養妹)[1][6] 養子?:南渓瑞聞 [注釈 1] |
井伊 直平︵いい なおひら︶は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人・井伊氏16代当主。井伊直虎・井伊直政の曾祖父[8]。一説には、徳川家康の正室・築山殿の外祖父に当たると言われる[9]。その場合、直平は松平信康の曾祖父になる[10]。
生涯[編集]
文明11年︵1479年︶または延徳元年︵1489年︶[注釈 2] 、井伊谷城主・井伊直氏の子として誕生。永正4年︵1507年︶、井伊氏の祖・共保の出生地にある氏寺・菩提所の自浄院に田畑3反を寄付し[11]、井伊保︵井伊谷︶に黙宗瑞淵を招いて自浄院を龍泰寺と寺号を改めた[12]。 永正8年︵1511年︶、祝田助四郎に下地を付与し、そのことを祝田禰宜に伝えた[11]。 直平の子のうち嫡男・直宗、次男・直満、四男・直義、五男・直元は直平に先立っている。直宗は天文11年︵1542年︶に三河国田原城攻撃の際に野伏の襲撃をうけて討たれ[1][注釈 3]、直満と直義は天文13年︵1545年︶に家老小野政直の讒言により今川義元に討たれ[13]、直元は天文10年︵1541年︶に病死[14]。直宗の嫡男・直盛は直宗死後当主となり井伊谷を治めたが、永禄3年︵1560年︶に桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に倒れた。直満の嫡男・直親は直満の死後、武田領の信濃国へ落ち延び、弘治元年︵1555年︶に政直の死去を契機に井伊谷へ復帰しており、養父・直盛の死後に家督を継いだ。しかし直親も﹁遠州錯乱﹂で小野政直の嫡男・道好︵政次︶の讒言により、主君・今川氏真から松平元康と織田信長に内通して謀反を起こす疑いをかけられ、陳謝のために駿府へ向かう道中の懸川にて永禄5年12月14日︵1563年1月8日︶、今川家家臣・朝比奈泰朝に襲撃され殺害された[15]。 直親の嫡男・虎松はまだ幼少であり、永禄6年︵1563年︶、直平が後見役となる。同年9月18日、今川氏真の命により今川から離反した天野景泰・元景父子がいる八代山城︵社山城︶を攻めようとした矢先に死去した[2]。享年75(または85)[注釈 2]。家督は出家していた直盛の娘次郎法師︵直虎︶が継いだ。虎松は流浪した末に直虎に代わって当主となり、徳川氏に仕え、のちの徳川四天王の井伊直政となった。直平の死諸説[編集]
﹃井伊家伝記﹄では今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、直平は氏真と共に出陣するも白須賀で陣を敷いていた直平の軍勢から南からの強風が原因で出火し白須賀のあちこちの集落が焼き払われ、その件で軍中では直平が井伊直親の殺害を氏真が命じたことの件で怨んでいたので白須賀を焼いて軍の最後尾に被害を与えたのではないかという悪い評価がなされ、直平は火事のことに関して不慮の事故だと説明するも、過失の埋め合わせとして今川の家臣だった天野左衛門尉が武田方に従ったことを知った氏真が、曳馬城の城主だった直平に鎮圧を命じ、直平が出陣の支度をしている時に、家老の飯尾連龍の室・お田鶴の方に毒茶を勧められ、有玉旗屋の宿にて落馬し服毒死した。﹃井伊家伝記﹄の別の章には連龍が直平に毒薬を進め直平は服毒死したとある[注釈 4]。これ以外にも敵の急襲を受け討死[17]、服毒死(病死とも表現可能)[18]など直平の死は諸説存在する。また直平の死後、従者の大石作左衛門が直平の遺体を故郷の川名に馬で運ぶと殉死した[18]。 ﹃井伊家伝記﹄によれば﹃徳川伝記﹄では﹁飯尾豊前守﹂ではなく﹁井伊豊前守﹂としているので、多くの本や軍記物でも﹁井伊豊前守﹂としている。これは、井伊直平が年老いていたので、出陣の際には、飯尾連龍が直平の名代として出陣していたので、﹁井伊豊前守﹂として聞き伝えられて記されていたのであると記されている[18]。また、飯尾連龍が行った事が﹃井伊家伝記﹄や﹃井伊直平公御一代記﹄では直平が行ったこととして記されている[18]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 各種系図では実子か養子かの記載が無いが、龍潭寺が所蔵する﹃南渓過去帳﹄には﹁実田秀公居士 南渓父﹂と記されており、直平の法名︵桂雲院殿西月顕祖大居士[2]︶とは異なるため、南渓は養子と推定されている[7]
(二)^ ab﹃井伊家伝記﹄︵享保15年、龍潭寺九世祖山法忍著︶および﹃井伊直平公御一代記﹄︵﹃引佐町資料﹄第1集︶は享年75、墓碑銘︵﹃引佐町史﹄︶には享年85とある。75歳であれば延徳元年︵1489年︶生まれ、85歳であれば文明11年︵1479年︶生まれとなる。
(三)^ 直宗はすでに直平から家督を譲られ井伊家当主となっている。
(四)^ ﹁8.井保十三代、井伊信濃守直平、遠州引馬の城主に成る事﹂[16]
出典[編集]
(一)^ abcd﹃寛政重修諸家譜 第4集﹄、1111頁、564コマ目。
(二)^ abcde﹃井伊氏系図﹄、2コマ目︵直平 共保十三代︶。
(三)^ “龍潭寺境内墓所図︵井伊家歴代・龍潭寺歴代住職 南渓・傑山・昊天・家臣︶”. 龍潭寺. 2017年9月27日閲覧。
(四)^ ab“ゆかりの地|井伊直虎サイト”. ﹁おんな城主 直虎﹂推進協議会. 浜松市産業部観光・シティプロモーション課. 2017年9月27日閲覧。
(五)^ ab“井平城︵浜松市北区引佐町伊平︶ 武田の予想超える行軍裏付け”. 産経新聞 (産経新聞社). (2017年5月7日) 2017年9月27日閲覧。
(六)^ ﹃井伊年譜﹄1巻、19-20コマ目。
(七)^ 小和田 2016, p.94.
(八)^ 楠戸 2016, pp.169-170,266-267.
(九)^ ﹃井伊年譜﹄﹃系図纂要﹄﹃井家粗覧﹄
(十)^ ﹃井伊年譜﹄1巻、45コマ目。
(11)^ ab﹃静岡県史資料編7﹄436,548頁。
(12)^ ﹃井伊氏家系史考﹄
(13)^ ﹃井伊家伝記﹄上、11-12コマ目。
(14)^ ﹃井伊家伝記﹄上、12コマ目。
(15)^ 千葉篤志 著﹁相次ぐ一族・家臣の死と、直虎登場の背景とは?﹂、歴史と文化の研究所 編﹃井伊一族のすべて﹄洋泉社、2017年、47頁。
(16)^ ﹃井伊家伝記﹄上、9-11コマ目。
(17)^ ﹃細江町史﹄
(18)^ abcd﹃井伊家伝記﹄上、22-23コマ目。