吉川経見
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吉川経見 | |
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代中期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 永享7年10月19日(1435年11月9日) |
改名 | 経見→法秀(法名)[1] |
別名 | 経春 |
官位 | 左衛門尉[1]、駿河守[1] |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 南朝→北朝 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 | 父:吉川経兼[1] 養父:吉川実経、吉川経秋 |
妻 | 弥徳(吉川経秋の娘) |
子 | 経信[1]、経憲、経茂 |
生涯[編集]
安芸吉川氏の分家石見吉川氏の出身で、建徳2年︵応安4年、1371年︶、石見国における所領を相続する。
武将としての器量に優れ、安芸吉川氏の内紛を鎮圧し所領のほとんどを併合した。その実力から、男子のいなかった本家当主・吉川経秋より家督を継承し、九州探題今川了俊に従軍して九州を転戦した。応永10年︵1403年︶には、毛利光房、宍戸家秀、小早川義春、平賀貞宗、阿曽沼光郷、香川遠景等と共に南朝方となった熊谷直明の討伐を行い、直明を降伏させた。
応永13年︵1406年︶には安芸守護・武田氏から正式に吉川氏の本家当主として認められ、以後は経見の系統が吉川氏の本家を継ぐこととなった。また、居城を駿河丸城から小倉山城に移している。
応永23年︵1416年︶、嫡男経信に家督を譲って隠居し、永享7年︵1435年︶10月19日に死去した。