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大庭賢兼

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凡例

大庭賢兼
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永3年(1523年
死没 不詳
別名 大庭兼方
法名:宗分
官位 図書允加賀守
主君 大内義隆義長毛利元就輝元
氏族 桓武平氏良文流鎌倉氏流大庭氏
父母 父:大庭景家?
兄弟 矩景?、賢兼
景忠
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西[1]

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関連作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 陰徳太平記』巻27によると、天文24年(1555年)の厳島の戦いの際に元就は生かしておきたい2人の者として賢兼の名を挙げており、その理由として著名な歌人である賢兼を老後の和歌の友としたいためと述べている。
  2. ^ 元就が「石見がた 雪より馴るる 友とてや 心のかぎりに 打ち解けにけり」と送り、賢兼が「石見がた かたき氷も 雪もけふ とくる心の めぐみうれしも」と返している。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 和田秀作「毛利氏の領国支配機構と大内氏旧臣大庭賢兼」『山口県地方史研究』64号、1990年。 /所収:村井 2015

参考文献[編集]

  • 村井良介『安芸毛利氏』岩田書院〈論集 戦国大名と国衆17〉、2015年。ISBN 978-4-87294-911-7 
  • 岡部忠夫編『萩藩諸家系譜』(マツノ書店1999年復刻)
  • 萩藩閥閲録』巻46「大庭源大夫」