大河内正質
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松平 正質︵まつだいら まさただ︶または大河内 正質︵おおこうち まさただ、弘化元年4月11日︵1844年5月27日︶ - 明治34年︵1901年︶6月2日︵グレゴリオ暦︶︶は、幕末の上総国大多喜藩の第9代︵最後︶の藩主。奏者番・若年寄・老中格。大河内松平宗家11代。
生涯[編集]
越前国鯖江藩主間部詮勝の五男。正室は松平正和の娘・鋲子。子は大河内正敏︵長男︶、大河内正倫︵次男︶、娘︵小西某室︶。官位は豊前守。 文久2年︵1862年︶11月18日、先代藩主松平正和の婿養子として家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下・備前守に叙任する。後に弾正忠に改める。元治元年︵1864年︶7月8日、奏者番に就任する。慶応2年︵1866年︶8月8日、若年寄に就任する。同年10月21日、幕府から京都在住を命じられて、4000両を賜る。慶応3年︵1867年︶12月15日、老中格となる。 慶応4年︵1868年︶1月、鳥羽・伏見の戦いでは総督として旧幕府軍を指揮するものの、敗北する。その折には敵兵の頬肉をあぶって酒の肴にしたという話が伝わっている[1][注釈 1][注釈 2]。1月5日夕方、本営の淀から八幡・橋本方面へと撤退した[4][注釈 3]。 同年1月8日、鳥羽・伏見の戦いの敗北により、大坂城を退去する。紀伊から海路江戸に逃走する。同年1月10日、新政府から官位を剥奪される。京都屋敷も没収される。同年2月9日に老中格を解任され、翌日には松平容保らとともに江戸城登城を禁じられる。このため、江戸を出て大多喜に向けて帰国すると、円照寺に入って謹慎した。同年2月19日、旧幕府から逼塞を命じられる。閏4月11日、新政府軍に大多喜城を明け渡し、佐倉藩に預けられるが、同年8月19日に許されて所領を回復した。同年10月23日、官位も元に戻された。 新政府からは﹁︵鳥羽・伏見の戦いの︶巨魁は大河内豊前・竹中丹後[6]﹂と名指しされるほどの旧幕府軍の責任者とみなされながら、帰国後に藩主以下家中が謹慎して大多喜城を速やかに開城したことや、撤兵隊・遊撃隊などの旧幕府軍部隊の勧誘に応じなかったこと︵これに応じた同じ上総国の請西藩は改易処分となっている︶が新政府への恭順の証明として高く評価され、藩主の交替や所領の削減などの処分を課されることなく藩存続が認められた[7]。 明治2年︵1869年︶6月24日、版籍奉還により大多喜藩知事に就任する。同年12月4日、米津政敏らと上総国内の知藩事に議事院の設置を建議する。明治3年︵1870年︶12月9日、大多喜城の破却と開墾の許可を得る。明治4年︵1871年︶7月、廃藩置県により免官。維新後は大河内姓に復した。 明治4年︵1871年︶8月、兵部省七等出仕となる。明治5年︵1872年︶2月、陸軍歩兵少佐に任官する。明治17年︵1884年︶4月、宮内省七等出仕となる。同年7月8日、子爵を叙爵した[8]。明治18年︵1885年︶10月、陸軍省七等出仕となる。明治19年3月、解任される。明治20年︵1887年︶から明治23年︵1890年︶まで麹町区長。1890年7月10日、貴族院議員に就任し[9]、2期務め死去するまで在任した[9][10]。家族[編集]
父母 ●間部詮勝︵実父︶ ●松平正和︵養父︶ 妻 ●大河内峯子︵1852年 - 1937年︶ - 松平正和の娘 子女
●長男 大河内正敏︵1878年 - 1952年︶ - 子爵、本家筋の旧三河吉田藩大河内家を相続。
●四男 大河内正倫︵1885年 - 1948年︶ - 子爵、正質の家督を継ぎ襲爵。慶應義塾理財科を卒業し、大阪の山口銀行に入行。妻は亀井茲明の娘。長女の寿美子は関屋友彦︵関屋貞三郎二男︶の妻。二女貞子は松本清一︵自治医大名誉教授、日本家族計画協会会長︶の妻[11]。長男・大河内正陽︵神奈川大学工学部教授を経て専修大学経営学部教授のち経営学部長、専修大学情報科学研究所所長等を歴任︶、二男・大河内正孝︵1921年 - 1979年︶、三男・正雄︵1923年 - 1968年︶、四男・正也がいる[12]。
●娘 大河内完子︵1887年 - 1970年︶ - 小西酒造の小西新右衛門︵利右衞門︶の妻[13]
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の兵糧方を務めた幕吏の証言に依る。慶應4年1月3日から4日、淀での首実検の際、近くの酒屋から部下に持って来させた酒樽の冷酒を飲み、敵首の頬を削いで食べたという[2]。
(二)^ 松平正質は主戦論者として知られており、鳥羽伏見の戦いよりも前の慶応3年︵1867年︶12月に、薩摩人1人を殺すごとに賞金を与える法令を大坂城中で提案したが、徳川慶喜に止められた[3]。
(三)^ 松平正質総督は無謀にも、兵糧方に最前線近くでの炊事を厳命していた。1月5日夕方、総督は兵糧方を淀の町に置き去りのまま撤退し、兵糧方の部隊は淀小橋陥落後に土方歳三に知らされて、危うく楠葉へ逃れた[5]。
出典[編集]
(一)^ 牧原憲夫﹃文明国をめざして﹄︵小学館、2008年︶56-57頁
(二)^ ﹃史談会速記録 合本 五﹄︵著者‥史談会、発行所‥原書房、発行‥昭和46年︵1971年︶12月10日、復刻原本発行‥明治27年︵1894年︶11月13日︶88頁︵原本は﹃史談速記録 第23輯﹄﹁坂本君伏見戦役に従事せられたる事実︵一次︶附四十九節﹂八十四頁︶
(三)^
●国立国会図書館デジタルコレクション﹃徳川慶喜公伝 巻四﹄249~250頁︵著者‥渋沢栄一、監修者‥萩野由之、出版者‥竜門社、出版年‥大正7年︵1918年︶︶ ︵2018年9月20日閲覧︶
●﹃昔夢会筆記︵東洋文庫76︶﹄﹁第一 鳥羽伏見の変の事﹂20頁︵著者‥徳川慶喜、編者‥渋沢栄一、校訂‥大久保利謙、発行所‥平凡社、発行‥昭和41年︵1966年︶10月10日︶
(四)^ 国立国会図書館デジタルコレクション﹃徳川慶喜公伝 巻四﹄271~272頁、274頁︵著者‥渋沢栄一、監修者‥萩野由之、出版者‥竜門社、出版年‥大正7年︵1918年︶︶ ︵2018年9月20日閲覧︶
(五)^ ﹃史談会速記録 合本 五﹄︵著者‥史談会、発行所‥原書房、発行‥昭和46年︵1971年︶12月10日、復刻原本発行‥明治27年︵1894年︶11月13日︶81頁 ︵原本は﹃史談速記録 第23輯﹄﹁坂本君伏見戦役に従事せられたる事実︵一次︶附四十九節﹂七十七頁︶
(六)^ 慶応4年閏4月4日付大総督府宛太政官通牒
(七)^ 水谷憲二﹃戊辰戦争と﹁朝敵﹂藩-敗者の維新史-﹄︵八木書店、2011年︶P194-197
(八)^ ﹃官報﹄第308号、明治17年7月9日。
(九)^ ab﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄39頁。
(十)^ ﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、11頁。
(11)^ ︵おくやみ︶松本清一氏が死去 自治医大名誉教授日本経済新聞、2011年12月21日
(12)^ 大河内正倫﹃人事興信録﹄第8版 [昭和3(1928)年7月]
(13)^ 小西新右衛門﹃人事興信録﹄第4版 [大正4(1915)年1月]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (大多喜)大河内家初代 1884年 - 1901年 |
次代 大河内正倫 |