米津政敏
米津政敏 | |
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米津政敏 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 嘉永4年3月29日(1851年4月30日) |
死没 | 明治28年(1895年)10月30日 |
墓所 | 青山霊園立山墓地 |
官位 | 従五位下・伊勢守、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 出羽長瀞藩主 |
氏族 | 米津氏 |
父母 | 米津政明 |
兄弟 | 政敏、酒井忠利 |
妻 | 堀田正睦娘・千勢 |
子 | 鉄子、政賢 |
米津 政敏︵よねきつ まさとし︶は、江戸時代後期の大名、および明治時代の華族、陸軍軍人。出羽国長瀞藩5代藩主。官位は従五位下・伊勢守。維新後は藩庁を移転し、上総国大網藩知事、さらに移転し常陸国龍ヶ崎藩知事となった。爵位は子爵。位階および勲等は正四位・勲五等。
生涯[編集]
嘉永4年︵1851年︶3月29日、長瀞藩4代藩主・米津政明の長男として誕生した。慶応元年︵1865年︶12月11日、父の隠居により家督を相続する。 慶応2年︵1866年︶12月18日、従五位下・伊勢守に叙任される。戊辰戦争では庄内藩側に与し、慶応4年︵1868年︶閏4月に天童藩に陣屋を占拠されている。明治2年︵1869年︶6月、版籍奉還により長瀞藩知事となる。同年11月、政庁を上総山辺郡大網村に、明治4年︵1871年︶2月にはさらに常陸河内郡龍ヶ崎村に移した。同年7月15日、廃藩置県により、知藩事を免官となる。 維新後は陸軍戸山学校を卒業し、明治10年︵1877年︶に陸軍少尉、のち中尉に昇進して近衛師団文庫主管などを務めた。明治17年︵1884年︶子爵[1]。明治22年︵1889年︶6月10日から[2]翌明治23年︵1890年︶7月25日まで[3]、梨本宮家の家令を務めた[4]。明治23年7月10日、貴族院議員に当選[5][6][7]して終生在任した[8]。 明治28年︵1895年︶10月30日、死去。享年45。家族[編集]
父母 ●米津政明︵父︶ 妻 ●堀田千勢 ー 堀田正睦の娘 子女 ●米津鉄子︵長女︶ ー 子爵松平直敬夫人後に河村隆美夫人 ●米津政賢︵長男︶ 家令- 富田庸全
栄典[編集]
脚注[編集]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (長瀞)米津家初代 1884年 - 1895年 |
次代 米津政賢 |