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(一)^ 川村博忠は﹁慶長日本図﹂は作成されなかったとする立場から、巡見使の目的を江戸幕府による最初の日本地図︵﹁寛永日本図﹂︶編纂の準備とする︵川村博忠﹃江戸幕府撰日本総図の研究﹄古今書房、2013年︶。
(二)^ これらの6大名は本来は外様大名の家系であるが、幕府の役職を歴任しており譜代大名並みの待遇を受けていた。
(三)^ ただし、副使については2名とも小姓番あるいは書院番である事も稀にあった。例えば享保元年に陸奥・出羽・松前に派遣された諸国巡見使の場合、正使曾我長祐は使番であったが、副使である小笠原長重・高城清胤はともに書院番であった。
(四)^ 監察する諸藩への過重な負担を避けるために寛文の制において、1,000石以上は30名まで、1,500石以上は35名まで、2,000石以上は40名まで、2,500石以上は45名までとする従者の定員があった。
(五)^ 徳川吉宗は将軍に就任したその日のうちに発遣令を出し、以後の将軍は就任から1ヶ月以内に発遣令を出している。
(六)^ 御料巡見使は正徳6年に派遣されており、その巡見中に家継が病没している事から、諸国巡見使の計画もあったものと見られている。
(七)^ 幕府はこうした接待を度々禁じ、また正使・副使が動員出来る従者の数の厳守を命じたが、状況の改善には至らなかったという。
(八)^ 五島は令制国では肥前国に属するが、江戸時代には単独で藩を形成していた。
(九)^ 志摩が含まれていないが、恐らく隣国の伊勢と一括で扱われたと思われる。
(十)^ 蝦夷地のうち和人支配地に相当する部分。
(11)^ いなべ市・北勢町史PDF版・第四章第四節
参考文献[編集]
●半田隆夫﹁幕府巡見使体制と西国経営﹂︵藤野保先生還暦記念会編﹃近世日本の政治と外交﹄︵1993年、雄山閣︶ ISBN 4639011954︶
関連項目[編集]
●文治政治
●いただき勘兵衛 旅を行く - 大目付任命の巡察使を主人公にしている。
●俵太の達者でござる - 巡見使が﹁見回り奉行﹂のモチーフとなっている。
外部リンク[編集]
●﹃巡見使﹄ - コトバンク