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*[[落合義明]]『中世東国の「都市的な場」と武士』 ([[2005年]]) ISBN 978-4634523418 |
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*[[落合義明]]『中世東国の「都市的な場」と武士』 ([[2005年]]) ISBN 978-4634523418 |
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== 大井氏(小笠原支族) == |
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== 大井氏(小笠原氏族) == |
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[[小笠原長清]]の七男[[大井朝光|朝光]]が、[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]における「宇治川の合戦」での戦功により、[[信濃国]][[佐久郡]][[大井荘]]の地頭となって土着したのが起源とされる。朝光の子・朝氏は[[弘安]]3年([[1280年]])、[[亀山天皇|亀山上皇]]の御前で[[流鏑馬]]を披露している(『勘仲記』)。 |
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[[小笠原長清]]の七男[[大井朝光|朝光]]が、[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]における「宇治川の合戦」での戦功により、[[信濃国]][[佐久郡]][[大井荘]]の地頭となって土着したのが起源とされる。同時に[[伊賀国]]にも所領を得た。朝光の子・朝氏は[[弘安]]3年([[1280年]])、[[亀山天皇|亀山上皇]]の御前で[[流鏑馬]]を披露している(『勘仲記』)。 |
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弘安2年([[1279年]])、同じ[[佐久郡]]内の[[伴野荘 (信濃国佐久郡)|伴野荘]]を[[一遍]]が訪問すると、[[大井光長|光長]]が自邸に迎え入れている(『絹本著色一遍上人絵伝』)。弘安8年([[1285年]])朝光の孫・[[大井行光|行光]]の代に[[霜月騒動]]が起こり、伴野荘の地頭で小笠原家惣領職・[[伴野氏]]が没落。大井氏はこれを契機に佐久郡内に勢力を拡大していったとされる。 |
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弘安2年([[1279年]])、同じ[[佐久郡]]内の[[伴野荘 (信濃国佐久郡)|伴野荘]]を[[一遍]]が訪問すると、[[大井光長|光長]]が自邸に迎え入れている(『絹本著色一遍上人絵伝』)。弘安8年([[1285年]])朝光の孫・[[大井行光|行光]]の代に[[霜月騒動]]が起こり、伴野荘の地頭で小笠原家惣領職・[[伴野氏]]が没落。大井氏はこれを契機に佐久郡内に勢力を拡大していったとされる。 |
2018年1月3日 (水) 06:02時点における版
大井氏(紀氏)
- 参考文献
大井氏(小笠原氏族)
系譜
大井氏系図(尊卑分脈)
凡例
1) 実線は実子、点線は養子[注釈 1]。
- ^ 異本に匂田太郎。
- ^ 号藤崎、法名光念。
- ^ 異本に又三郎。
- ^ 大井庄惣領分相論時依令殺害敵人行光(異本)。先代官配佐渡国。
武田大井氏
古長禅寺
大井氏は、甲斐国巨摩郡大井荘︵山梨県南アルプス市︶を本拠とした一族。平安時代後期に常陸国から源義清・清光が甲斐国へ流罪となり、その子孫は盆地各地へ進出するが、清光期の西郡在地豪族に大井氏が見られる。
南北朝時代には安芸守護武田信武が甲斐守護となり甲斐へ土着するが、信武の三男信明は大井荘へ入部して大井氏を称した。
室町時代には上杉禅秀の乱により守護武田氏の権威が失墜し甲斐各地では有力国人領主が台頭し武田氏に対抗する。戦国時代に大井氏は郡内領主の小山田氏や河内領主の穴山氏、東郡の栗原氏と並ぶ西郡の有力国衆として台頭する。
﹃高白斎記﹄﹃塩山向嶽庵小年代記﹄に拠れば大井信達・信業は富田城︵南アルプス市戸田︶を本拠とし、穴山信懸とともに駿河国守護の今川氏に属し武田氏に対抗する。信達は永正17年︵1520年︶に武田信虎と和睦し、娘︵大井の方︶が信虎の正室となり嫡男太郎︵武田晴信、後の信玄︶を産む。
大永元年︵1521年︶9月には今川氏の武将福島氏が甲斐へ侵攻し、富田城を攻略し甲府まで侵攻している。信虎期には甲斐の統一が達成され、信虎・晴信期には今川氏と同盟が結ばれ、西郡地域は安定する。
信達の子息には信業・信常・武藤信堯・武藤常昭がいる。信業は父・信達の出家により家督を継承し、享禄4年︵1531年︶2月2日に死去する。信業の子・信為は信業の没後に家督を継承し、信虎の娘・亀御料人を妻としている。﹃高白斎記﹄によれば、天文18年︵1549年︶6月27日に叔父の信常が名代として家督を継承しており、信為はこの前後に死去したと考えられている。
信達の次男・信常は武田晴信︵信玄︶の信濃侵攻において活躍している一方で歌人としても知られ、天文16年︵1547年︶には三条西実条の甲斐下向に際して、武田信繁や武藤信堯とともに歌会を行っている。信常は信為が死去すると名代として家督を継承する。信常は天文20年︵1551年︶7月14日以前に死去したと考えられている。信達の子・武藤信堯は武田家親族衆・武藤氏を継承し、天文19年︵1550年︶10月1日に砥石崩れの際に戦死したという。信達の六男・武藤常昭は信堯の跡を継いで武藤家を継承したと考えられている。
信常の子・信舜は信常没後に家督を継承し、元亀2年︵1571年︶8月5日に死去する。
現在の南アルプス市鮎沢には臨済宗寺院の古長禅寺︵長禅寺︶が所在する。長禅寺は真言宗寺院の西光寺が前身とされ、南北朝時代に夢窓疎石が中興して臨済宗寺院に改められたという。戦国時代には臨済宗妙心寺派の僧・岐秀元伯︵ぎしゅうげんぱく︶が招かれて住職となる。岐秀は武田晴信の学問の師となり、後に晴信により長禅寺は甲府城下に移転され、甲府五山の第一位となった。これが現在の甲府市愛宕町に古長禅寺とは別に所在する長禅寺である。また、岐秀は大井夫人の葬儀の際の導師を務めている。
天正10年︵1582年︶、甲州征伐によって武田氏滅亡の後、大井氏は帰農したと伝えられる。
脚注
- ^ 系図については『尊卑分脈』「清和源氏」に準拠。
参考文献