静嘉堂文庫
静嘉堂文庫 Seikado Bunko Library | |
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静嘉堂文庫 | |
施設情報 | |
正式名称 | 公益財団法人静嘉堂 |
前身 | 静嘉堂 |
専門分野 | 日本および東洋の古典籍 |
事業主体 | 公益財団法人静嘉堂 |
建物設計 | 桜井小太郎 |
開館 | 1940年 |
所在地 |
〒157-0076 東京都世田谷区岡本二丁目23番1号 |
位置 | 北緯35度37分22.112秒 東経139度37分09.472秒 / 北緯35.62280889度 東経139.61929778度座標: 北緯35度37分22.112秒 東経139度37分09.472秒 / 北緯35.62280889度 東経139.61929778度 |
ISIL | JP-2001376 |
統計・組織情報 | |
蔵書数 | 約20万点(2018年時点) |
館長 | 理事長 佐々木幹夫 |
公式サイト | https://seikado.or.jp/ |
地図 | |
プロジェクト:GLAM - プロジェクト:図書館 |
静嘉堂文庫︵せいかどうぶんこ︶は、東京都世田谷区岡本にある専門図書館。日本および東洋の古典籍及び古美術品を収蔵する。東京都千代田区丸の内の静嘉堂文庫美術館で収蔵美術品を一般公開している。
籩豆︵ いう句︵祖先の霊前への供物が美しく整うという意味︶から採られた弥之助の堂号︵書斎号︶に由来する[2]。弥之助は兄で三菱創設者である岩崎弥太郎に従って実業界に入る以前、漢学を学んだ経験があった。恩師である重野安繹︵成斎︶の研究を援助する目的から古典籍の収集を始め、和漢の古書や古美術品の収集を熱心に行った。1907年には清の集書家、陸心源の﹁皕宋楼﹂旧蔵書4万数千冊を購入し、宋・元の版本多数を含む貴重なコレクションが文庫にもたらされた。
世田谷区岡本の旧美術館
翌1908年の弥之助死後、その子岩崎小弥太は、父の遺志を受け継ぎ、文庫を拡充し、1911年には岩崎家の高輪別邸︵東京都港区、現・開東閣︶に移転。さらに1924年には世田谷区岡本にある弥之助の墓の隣接地に桜井小太郎の設計で静嘉堂文庫を建て、広く研究者への公開を開始した。1940年に小弥太は、蔵書や文庫の施設など一切を財団に寄付して財団法人静嘉堂を創立し、典籍の永存を図るとともに、これを公開して学者、研究の利用に供した。
太平洋戦争後、財政難に陥るが、1953年に同じく三菱系の私立図書館である東洋文庫︵創設者は岩崎弥太郎の子で、三菱第3代総帥の岩崎久弥︶とともに、国立国会図書館の支部図書館となって、資料の公開を継続することができた。これは、文庫の資料と施設を所有する財団法人が国立国会図書館と契約を結んで図書館部門を国会図書館の支部図書館としてその傘下に組み入れ、図書と施設は財団の所有に残したまま、財団の図書館業務の人的部分を国会図書館に委託するというものである。
その後、静嘉堂文庫は三菱グループの援助を受けて1970年に国立国会図書館の傘下から離れ、再び三菱グループ経営の私立図書館となった。1977年からは付属の展示室を設けて文庫の収蔵する美術品の公開を開始し[注釈 1]、1992年には創設100周年を記念して建設された新館に恒久的な美術館︵以下﹁旧美術館﹂︶を開館した[注釈 2]。
2022年10月に明治生命館内に再開館した﹁静嘉堂@丸の内﹂のホワ イエ部分。
世田谷区の旧美術館は2021年に閉館し、準備期間を経て2022年10月1日に東京都千代田区丸の内の明治生命館に移転し﹁静嘉堂文庫美術館︵愛称﹁静嘉堂@丸の内﹂︶﹂として再開館した[注釈 3]。移転するのは展示ギャラリーのみで、美術品の保管、静嘉堂文庫︵書庫︶の業務、および庭園の管理は引き続き従来の世田谷区岡本で行われる。この移転は美術館の開館30周年ならびに三菱創業150年︵2020年︶の記念事業の一環として行われるものである[7]。
概要[編集]
事業主体は公益財団法人静嘉堂。同財団は三菱財閥が第2代総帥岩崎弥之助・第4代総帥岩崎小弥太父子が所有した庭園と遺品の古典籍・古美術コレクションを基礎として発足した。なお、﹁静嘉堂﹂の名は﹃詩経﹄の大雅、既酔編 の﹁籩豆静嘉﹂ の句から採った弥之助の堂号である。 世田谷区の静嘉堂文庫は内外の古典籍を研究者向けに公開する専門図書館である。千代田区の明治生命館で運営している静嘉堂文庫美術館︵愛称﹁静嘉堂@丸の内﹂︶は、収蔵美術品を一般公開する展示ギャラリーである。竹中工務店が明治生命館の地下2階、地上1階~3階の延床面積1,805m2を改修設計したもので、1階ラウンジ部分を展示ギャラリーとしている[1]。沿革[編集]
静嘉堂文庫は、岩崎弥之助が1892年︵明治25年︶、神田駿河台︵東京都千代田区︶の自邸内に創設した文庫﹁静嘉堂﹂を起源としている。静嘉堂の名は﹃詩経﹄大雅、既酔編にある﹁活動[編集]
文庫︵図書館︶は、研究者に向けて公開されており、具体的には大学生以上で紹介状を有する者に利用資格が認められている。閲覧は予約制である。 研究に資するため原則として原本を提供するという方針をとっているため、きわめて貴重な宋・元版を除き、明以降の中国の版本などは全て古典籍の原書が閲覧に供されている。資料は貴重書であるため、複写はマイクロフィルムからに限られる。コレクション[編集]
静嘉堂のコレクションは、岩崎弥之助とその子、小弥太が収集した約20万冊の古典籍と約6500点の東洋古美術品からなり、国宝7件、重要文化財84件があり、重要美術品79件を含んでいる[8]。 弥之助は当時の日本における西洋化の風潮の中で貴重な古典籍や古美術が散逸したり日本から流出することを怖れ、古典籍4万冊を蒐集した。また俵屋宗達筆の﹃源氏物語関屋及澪標︵せきやおよびみおつくし︶図﹄屏風を筆頭とする書画・刀剣なども数多く集めた。また、晩年に購入した陸心源旧蔵書には宋版をはじめとする数々の中国古典籍の至宝が含まれている。-
源氏物語澪標図 俵屋宗達筆
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源氏物語関屋図 俵屋宗達筆
小弥太は父の遺志を継いで古典籍・古美術を収集し、さらに自ら﹁巨陶﹂と号したように、古美術品の中でも陶磁器に力を入れた。中でも国宝の曜変天目茶碗は、元は柳営御物︵徳川将軍家所蔵の名器茶道具︶の一つで、3代将軍家光より乳母の春日局に下賜され、その子孫である淀藩主稲葉家に伝来したことから﹁稲葉天目﹂の通称で知られ、1934年︵昭和11年︶に小弥太が入手したが、あまりの貴重さゆえに一度も使用することなく、夫人の死後に寄贈された。稲葉天目は、現存する三つの曜変天目茶碗のうち、特有の曜変斑紋が最も良く出た最高の品と見做されており、静嘉堂コレクションの代表と言えるものである。
指定文化財[編集]
国宝[編集]
- 紙本金地著色源氏物語関屋及澪標図 俵屋宗達筆 六曲屏風一双
- 絹本墨画淡彩風雨山水図 伝馬遠筆
- 紙本墨画禅機図断簡 因陀羅筆(智常禅師図)
- 太刀 銘包永
- 曜変天目茶碗
- 倭漢朗詠抄 巻下残巻(彩牋)
- 趙子昂書 与中峰明本尺牘(六通)
重要文化財[編集]
絵画
(仏画・垂迹画) (絵巻) (室町水墨画)
(近世日本絵画) |
(近代日本絵画)
(中国絵画)
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彫刻
工芸品
(日本陶磁) (中国・朝鮮陶磁) (漆工) |
(刀剣) |
書跡典籍・古文書
(典籍) (古文書)
(墨蹟) |
(宋代刊本) |
※ 出典‥2000年までの指定物件については、﹃国宝・重要文化財大全 別巻﹄[25]による。
岩崎家廟
庭園にある岩崎家の納骨堂。1910年︵明治43年︶に三菱財閥四代目総帥の岩崎小彌太が父で二代目総帥の岩崎彌之助の三回忌に合わせて建設したものである。設計は桜井小太郎の師である英国人建築家ジョサイア・コンドル。
岡本静嘉堂緑地
静嘉堂文庫の周囲をとりまく緑は岡本静嘉堂緑地と呼ばれる。これは、元は岩崎家の庭園であったが、戦後四十数年間ほぼ手つかずの状態のままにあったために照葉樹林が生い茂り、国分寺崖線の貴重な自然が残されている[26]。現在は世田谷区の管理地となっている[27]。
建築[編集]
文庫の建物は桜井小太郎の設計により1924年︵大正13年︶に建てられた。鉄筋コンクリート造2階建てスクラッチ・タイル貼りの瀟洒な建物で、イギリスの郊外住宅のスタイルを濃厚に表現している。文庫の利用者以外には通常、内部非公開。東京都選定歴史的建造物。庭園[編集]
旧美術館の周囲には、南側斜面の梅園など庭園が整備されている。また美術館の脇には展望デッキがあり、富士山など、国分寺崖線の高台からの眺望を見ることができる。岩崎家廟[編集]
岡本静嘉堂緑地[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 1945年に小弥太が没すると、財団はその美術品コレクションから国宝・重要文化財ほかを故人の遺志により夫人の孝子から受贈する。夫人が1975年に没すると、岩﨑忠雄により、岩崎家に残っていた収蔵品全点と鑑賞室等の施設が財団に移管され公開に至る[3]。
(二)^ ここまでの﹁沿革﹂節の記述は小林[4]及び成澤[5]による。
(三)^ 2022年11月にNHK Eテレの﹁日曜美術館﹂で取り上げられた[6]。
(四)^ 四天王眷属像4躯のうちの木造広目天眷属立像1躯[10]。他の3躯はMOA美術館[11]と東京国立博物館︵2躯︶[12][13]にある。
(五)^ 浄瑠璃寺伝来とされる十二神将像12躯のうちの7躯︵子神[14]、丑神[14]、寅神[14]、卯神[14]、午神[14]、酉神[14]、亥神[14][15]︶。残りの5躯は3か所に分蔵されていたが、現在は5躯とも東京国立博物館にある[16][17][18][19][20]。
(六)^ 本作品は1939年に重要文化財に指定された。かつては古伊万里の色絵とされていたが、古伊万里研究家の今泉元佑は、本作のように胴の大きい徳利は古伊万里時代には存在しないと述べている[21]。静嘉堂所蔵の古伊万里の図録である﹃静嘉堂蔵 古伊万里﹄[22]には本作品は収録されていない。
出典[編集]
(一)^ 明治生命館・静嘉堂文庫美術館 竹中工務店
(二)^ “静嘉堂について︵沿革︶”. 静嘉堂文庫美術館. 2020年11月21日閲覧。
(三)^ 沿革 2018.
(四)^ 小林 2010, pp. 104–110.
(五)^ 成澤 2010, p. 111.
(六)^ “曜変天目 丸の内へ 静嘉堂 夢の新美術館オープン”. NHK (2022年11月27日). 2022年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月21日閲覧。
(七)^ ﹁静嘉堂文庫美術館の移転について﹂︵静嘉堂文庫サイト、2020年2月26日発表︶
(八)^ 2023年、三菱商事株主優待卓上カレンダーより。
(九)^ ab令和4年3月22日文部科学省告示第40号。
(十)^ 康円 1267a.
(11)^ 康円 1267b.
(12)^ 康円 1267c.
(13)^ 康円 1267d.
(14)^ abcdefg静嘉堂文庫美術館 2017.
(15)^ 伝浄瑠璃寺伝来-亥神.
(16)^ 伝浄瑠璃寺伝来-辰神.
(17)^ 伝浄瑠璃寺伝来-巳神.
(18)^ 伝浄瑠璃寺伝来-未神.
(19)^ 伝浄瑠璃寺伝来-申神.
(20)^ 伝浄瑠璃寺伝来-戌神.
(21)^ 今泉1987, p. 153.
(22)^ 静嘉堂文庫美術館 2008.
(23)^ 平成28年8月17日文部科学省告示第116号
(24)^ 平成19年6月8日文部科学省告示第97号
(25)^ 国宝・重要文化財大全 2000.
(26)^ “岡本静嘉堂緑地バッタ広場”. 公益財団法人世田谷区産業振興公社. 2020年11月4日閲覧。
(27)^ “静嘉堂緑地の自然林”. 世田谷区 (2019年12月16日). 2020年11月4日閲覧。