オーストリア(英語表記)Austria

翻訳|Austria

改訂新版 世界大百科事典 「オーストリア」の意味・わかりやすい解説

オーストリア
Austria



Republik Österreich 
83871km2 
2010839 
Wien8 
 
Austrian Schilling19991Euro

Österreich︿

2/3西3/4

 西SalzachEnnsMurMürzDravaFlyschMolasse3798m西3500m1800m26003100m3600km21400km2

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 西西2200m17001800m西1900m1000m西Karnische Alpen


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 1890︿Fin de siècle-weltR.︿99K.

1914628119181111退

 SchutzbundHeimwehr3421219333E.347Kurt Schuschnigg1897- 31338311︿Anschluss2


19454Rote Armee Brücke5458193755515調Staatsvertrag3831817

1945427︿1192010119291274551192019201918

 9︿161Nationalrat183Bundesrat63411/2Volksabstimmung781/31929Volksbegehren

Österreichische VolksparteiÖVPSozialistische Partei ÖsterreichsSPÖ21020

 ÖVPÖVPBauernbundWirtschaftsbundArbeiter-und Angestelltenbund2SPÖ19701SPÖ171SPÖ83SPÖ

 SPÖ191934225SPÖAdolf Schärf19576345ÖVPSPÖO.1934ÖVPBruno PittermannBruno KreiskyFranz Vranitzky

 Kommunistische Partei ÖsterreichsKPÖ1918113Johann KoplenigE.59

 Freiheitliche Partei ÖsterreichsFPÖ1948Verband der Unabhängigen5651Burghand Breitner15.4%FPÖ退83

 FPÖJorg Haider1950- SPÖ8386

 FPÖ94612EU西EU

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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オーストリア」の意味・わかりやすい解説

オーストリア
おーすとりあ
Austria


Österreich西8387180329262001196

 3215()18671918西西


自然

アルプスの山地が広範囲を占めるオーストリアのなかでも、チロール州、ザルツブルク州、ケルンテン州北西部はとくに山がちである。ここのアルプスの標高は高く、氷河を伴ったホーエ・タウエルン山群(東アルプスの最高峰のグロースグロックナー山、3797メートルがある)、エッツタール・アルプス、チラータール・アルプス、シュトゥバイ・アルプスなどの山群が連なり、オーストリアの屋根とよばれる。これらの山群は結晶片岩、花崗(かこう)岩などでできており、地質や地形の観点から中部アルプスとよばれる。この中部アルプスの北側にはドナウ川の支流であるイン川、ザルツァハ川、エンス川などの上流部が地質構造の影響を反映して直線的に東西方向に流れ、大きな谷が広がっている。これらの谷の北側に連なるのが石灰岩質の北アルプスで、荒々しい山稜が目だつ。石灰岩質の北アルプスは北へ向かってしだいに低くなり、アルプス前地とよばれる平野への境界近くには、ウォルフガング湖、アッター(カンマー)湖、モンド湖、トラウン湖などの美しい湖が連続する。これらの湖は、氷河時代に氷河が削り込んだ深い谷底に水をたたえているもので、切り立った氷河のU字谷とあわせて典型的なアルプスの自然景観を生み出している。アルプスの地形景観は、中部アルプスの南側でも地質構造の影響を強く受け、ドラウ川(ドラバ川)の広い谷が東西方向に延び、さらにその南側には石灰岩質の南アルプスが連なっている。アルプス北麓よりさらに北側のチェコ国境付近では、標高500~900メートルほどの丘陵性の山地が波打つようにゆったりと広がる。このような景観は場所によってはドナウ川より南まで達している。ここは、ボヘミア山地の南縁にあたり、アルプスよりも古い時代(古生代)の造山運動によって生じた。首都ウィーンの位置する北東部はオーストリアでもっとも標高が低く、ノイジードラー湖周辺はプスタとよばれる温帯性の長茎草原で、ハンガリー平原の自然環境に含まれる。また、ドナウ川より北側の丘陵地帯はブドウ栽培地域でワインフィアテル(地域)として知られる独特の自然・土地利用景観をみせる。

 オーストリアは気候的には、西ヨーロッパの海洋性から東ヨーロッパの内陸性への漸移帯にあたる。北西部のとくにアルプス北側では、大西洋の影響を受けて冬も比較的温和で、年間を通して降水がある。東ほど降水量は減少し、たとえば、ザルツブルク付近までは年間1300ミリメートル以上、場所によっては2000ミリメートルに達するが、ウィーンでは600~700ミリメートルになる。さらに南東部ではいっそう乾燥化し、夏は非常に暑く、冬は寒冷である。オーストリアの気候はアルプスによって大きな影響を受ける。たとえば、イン川上流部の谷は雨陰(レイン・シャドー。湿った風が山にぶつかって雨を降らせ、山を越えるときは乾いた風となる現象)となるため、周辺の山地では2000ミリメートル以上に達するにもかかわらず、年間降水量は600ミリメートル程度にすぎない。アルプスの気候で特徴的なのは、気温の逆転現象である。とくに冬には冷気が流入する谷底や盆地では著しく低温になり、山地のほうが高い。また、春と秋にとくに顕著な、急激な気温上昇で知られるフェーンもアルプスの気候の特色である。フェーンは、アルプスの北方を低気圧が通過し、暖かい気流が南からアルプスを越えるときに生じ、融雪洪水や雪崩(なだれ)を引き起こす。イン谷はフェーンが頻発することで有名であり、インスブルックでは、フェーンの発生が年間104日に達したこともある。アルプス山脈が西から東へ低下するにつれて、植生も土地利用も居住高度限界も低下する。森林限界は西部では2200メートル、東部では1700~1800メートルである。南北方向でも、降水の多いアルプス北縁ではブナとその混合林(標高1000メートル以下)およびトウヒを主とする針葉樹林(1000メートル以高)が広がるのに対し、南部は地中海性気候の影響を受けて赤ブナが森林限界まで分布するところもある。東部の低地では、アルプスの植生とはまったく違うステップ(温帯草原)植生が現れる。

[木内信藏・平川一臣]

地誌


西31411西西3

 18

 4沿23西915619


歴史

オーストリアの古代

ここは先史時代を通して交通の要地であり、諸民族の動きも激しかった。初期鉄器時代、紀元前8世紀ごろからハルシュタット文化の中心となり、定着したケルト人のなかから前2世紀にはノリクム王国も生まれた。紀元前後にはローマ人もドナウ南岸に達し、ノリクムを属州に加え、遅れてウィンドボナを建設する。南下していたゲルマン人も1世紀にはこの地方に進出し、ローマ帝国はその応対に苦慮しながら4世紀にはキリスト教を広げる。フン人の西進により5世紀にはアッティラの支配(435~453)を受けたが、その死後は、ゲルマン諸部族の再編と自立化が進む。しかし東方からスラブ人を伴ってアバール人が進出してきた5世紀末には、ローマ人もここから引き揚げる。

[進藤牧郎]

オストマルクの成立

西方にあって5世紀後半以来王国を形成したフランク人は、6世紀にはローマ教会と結び、しだいに南東方へも進出し、カロリング朝カール大帝(在位768~814)のもとで8世紀末バイエルンを服属させ、さらに東進して791~796年アバール人を壊滅させ、ここに初めてオストマルクを設置する。9世紀末以来西進を始めたマジャール人は10世紀に入ってここにも進出し、カロリング朝断絶後の東フランク王国を引き継いだザクセン朝オットー1世(在位936~973)は、955年マジャール人を撃破し、ようやくオストマルクを再建し、962年神聖ローマ帝国が生まれたのである。

[進藤牧郎]

バーベンベルク家の支配

従弟(いとこ)のバイエルン公と争って皇帝となったオットー2世(在位961~983)は、976年バイエルンからオストマルクを切り離して辺境伯領としバーベンベルク家に授封する。歴代の君主たちは、東方植民を進めて経済の発展を図り、叙任権をめぐる皇帝と教皇の争いを利用して世襲を慣行化し、シュタウフェン家とウェルフ家の争いに際しても、皇帝フリードリヒ1世(在位1152~1190)から1156年世襲の公領への昇格を獲得し、領域内の裁判権を認められる。1192年にはシュタイアーマルク公領をもあわせ、さらに南東方に家領を拡大したが、1246年ハンガリーとの戦いに、最後の君主フリードリヒ2世(在位1230~1246)は戦死し、オーストリアは空位時代(1246~1273)を迎えることになった。

[進藤牧郎]

ハプスブルク家支配の成立

ねらわれたオーストリアは隣接諸侯の武力介入を招いたが、オーストリア貴族に招かれたボヘミア(ベーメン)王オトカル2世Přemysl Ottokar Ⅱは、1251年ウィーンを占領し、アドリア海にまで進出して東欧に強大な勢力を築き、1256年に始まるドイツの大空位時代(1256~1273)もあって皇帝位を求めるに至った。これに反対してドイツ諸侯は1273年、エルザスとスイスに基盤をもつハプスブルク伯ルドルフを皇帝に選ぶ。皇帝ルドルフ1世(在位1273~1291)は帝国領の返還を求め、拒否したオトカルを1278年敗死させ、オーストリアを家領として確保したのである。しかし諸侯は、強大になったハプスブルク家に継続的に皇帝位を与えなかった。1291年以来、とくに14世紀には長い間のスイス独立戦争に苦しむとともに、カール4世(在位1347~1378)のもとで繁栄したルクセンブルク家とも対立し、1356年の金印勅書でも七選帝侯から排除され、この王朝がフス戦争(1419~1436)によって断絶してのち、ようやく1438年アルプレヒト2世(在位1438~1439)以後、ハプスブルク家は皇帝位を独占することになり、オーストリアは1453年、大公領に昇格する。

[進藤牧郎]

結婚政策と世界帝国の成立

ハプスブルク家にとって諸子分割相続の伝統は、一方に結婚政策による家領の拡大を可能にしたが、他方では家領の分割と継承争いを生み、統一的国家への道を妨げる。1477年ブルグント公女と結婚した皇帝マクシミリアン1世(在位1493~1519)は、1495年ドイツ帝国の改革を図るが挫折(ざせつ)する。1496年にはその子フィリップがスペイン王女と結び、1515年にはその孫フェルディナントがボヘミア・ハンガリー王女と結ぶ。この結婚政策はフランスとの対立を恒常化し、これと結んだトルコの進出を導き、ハプスブルク家は東西からの圧迫に苦しむことになる。しかしフィリップの長子カール5世(在位1519~1556)が、フランス王との争いに勝って、1519年皇帝に選ばれると、ハプスブルク世界帝国が出現する。

[進藤牧郎]

宗教改革とオーストリア

1517年を画期に激化した宗教改革の嵐(あらし)のなかで、1519年実現された世界帝国も、1521年スペイン系とオーストリア系に分割され、オーストリアのフェルディナント1世(在位1556~1564)は農民戦争にも直面する。トルコの北上にハンガリー王ラヨシュ2世(在位1516~1526)が、1526年モハーチに敗死すると、ボヘミア・ハンガリー王を相続する。しかし1529年にはウィーンを包囲されてかろうじて撃退し、1531年ドイツ王になるが、ハンガリーではわずかに北西部を支配したにすぎない。1555年のアウクスブルクの和議ののち、1556年カール5世から皇帝位を受け継ぐが、宗教争乱にはあまり干渉できなかった。ハプスブルク家の内紛ののち、フェルディナント2世(神聖ローマ皇帝、在位1619~1637)が1617年ボヘミア王となり、反宗教改革を強行すると、1618年、三十年戦争(1618~1648)が勃発(ぼっぱつ)する。

[進藤牧郎]

封建反動と啓蒙専制主義

三十年戦争は単なる宗教戦争ではなく、資本主義誕生の胎動でもあり、チェコ民族主義の動きでもあった。列国の干渉のなかでオーストリアの君主たちは、反宗教改革を通して再版農奴制を確立し、西方ではイギリスと結んでルイ14世の侵略を防ぎ、東方では1683年トルコによるウィーン包囲から反撃に転じてハンガリー全土を確保する。権力の集中を図り、家領の統合を試み、産業育成、農民保護に努めるが、スペイン継承戦争では海外への進出をあきらめ、スペイン王位を放棄してネーデルラントとイタリアに領土を得る。オーストリア継承戦争(1740~1748)ではプロイセンにシュレージエン(シレジア)を奪われたが、ようやく家領不分割のためのプラグマティッシェ・ザンクツィオンを認められ、マリア・テレジア(在位1740~1780)への相続を確保する。1756年フランスとの同盟に成功したが、七年戦争(1756~1763)でもシュレージエンを回復できず、かえってハンガリー貴族と妥協し、東方においてロシアの進出とドイツにおけるプロイセンの勃興(ぼっこう)を許すことになった。戦中戦後の復興のために行財政を中心に改革を進め、ヨーゼフ2世(在位1765~1790)のもとで1781年農奴解放令と寛容令となる。しかし1789年フランス革命の勃発、1790年ヨーゼフの死によって、この啓蒙(けいもう)的な改革政策も急激であっただけに、反動化のなかに挫折(ざせつ)する。

[進藤牧郎]

ナポレオン戦争とメッテルニヒ体制

ナポレオンの登場に直面したハプスブルク家は、家領維持のために、ナポレオンの戴冠(たいかん)に先だって1804年オーストリア皇帝を称し、アウステルリッツに惨敗した翌1805年、中世以来の神聖ローマ帝国を解体し、その皇帝を辞した。メッテルニヒは、1810年皇女マリ・ルイーズとナポレオンの結婚による宥和(ゆうわ)政策をとるが、その没落に際しては巧みに解放戦争の主導権を握り、ウィーン会議(1814~1815)を主催し、復古、正統、連帯を基調に反動体制を国内的にも国際的にも確立し、自由の動きを弾圧する。

[進藤牧郎]

三月革命と反革命の勝利

この反動体制のもとでも産業の発展につれて市民層の力も強まる。1848年フランスの二月革命からウィーンなど各地に三月革命が起こり、メッテルニヒは亡命する。革命の表面に下層市民が現れるにつれ、産業市民層は後退し、10月末には反革命の勝利に終わり、1851年以降新絶対主義バッハ体制となった。革命後は農民解放を定着させつつ、産業の近代化を進めたので産業革命も展開し、資本主義の発展もみられた。家領の基盤を東中欧に置いたためオーストリアは典型的な多民族国家となり、革命は諸民族自立の運動を顕在化させた。ハンガリー土地貴族による独立運動はロシアの軍隊の援助により1849年鎮圧されたが、チェコのオーストリア・スラブ主義はスラブ諸民族に影響を与え、クリミア戦争における外交的失敗と孤立化のなかで、イタリアの運動は、1859年独立戦争にまで高まり、その敗戦によってバッハ体制は崩壊する。

[進藤牧郎]

二重王国とその崩壊

危機に直面したオーストリアは諸民族の要求を加味して、1860年連邦主義的な十月勅書Oktoberdiplomを、さらに1861年には二院制議会を認める二月憲法February-Patentを発布し、ブルジョア的権力の強化を図るが、1866年プロイセン・オーストリア戦争に完敗し、ハンガリー土地貴族と結び、その王国を認めて、1867年オーストリア・ハンガリー二重王国を成立させた。この路線は、反発するスラブ諸民族の要求を抑え、1873年恐慌を経て、1879年ドイツ・オーストリア同盟に至る。しかし民族主義の高まり、加えて労働運動の成長に、この年「すべての民族、政党を代表する皇帝の内閣」が成立すると、このもとでドイツ人とチェコ人の民族的対立を緩和するため、ボヘミアでは言語令Sprachenverordnungが繰り返されるが、かえって対立が日常生活にまで持ち込まれて激化し、1888年に結成された社会民主党は、1907年普通選挙制を獲得したにもかかわらず、1909年には民族別に分裂し、民族主義の高揚に巻き込まれる。帝国主義的バルカンへの進出は、汎(はん)スラブ主義と対立し、1914年サライエボ事件を契機に第一次世界大戦に突入する。

[進藤牧郎]

二つの大戦と戦後

第一次世界大戦はこの帝国を解体し、1918年社会民主党の主導で共和国となり、国民議会決議にも「ドイツ系オーストリアはドイツ共和国の一構成分子」と明記されたが、この合併(アンシュルス)は戦勝国に認められず、もっとも産業的なボヘミアを失い、戦後経済の混乱、さらには1929年の大恐慌もあってキリスト教社会党が台頭し、1932年成立のドルフース内閣は、社共とともに合併を叫ぶナチスをも弾圧した。多くのドイツ民族主義者たちはナチスに走り、ヒトラー・ドイツの台頭の前に1938年ドイツ・オーストリア合邦となり、翌1939年第二次世界大戦に加わるのであった。ナチス・ドイツの敗北のなかで、1945年3月ウィーンはソ連によって解放されたが、戦後は米英仏ソの四国占領下に、経済再建のためマーシャル・プランを受け入れ、260回を超える四国会議を経て、ようやく1955年オーストリア国家条約が調印され、自由な永世中立国として主権が回復され、現在に至る。

[進藤牧郎]

政治


19203

 418319862199920002002911200610179

 64

 186719484

 19555419551026西197219811979

 1980EU19944EU6661EU2002EU西NATO調NATO

 18506


経済・産業


西194919551950619941965124476

 19701994VAOMVÖIAG

 2.429.867.8199919512236241819936.835.157.6

 314820020013293001989216185256902

 19701980219821990620016.11960619751.7198419942.620003.320011.3297


農林業

18150242001993272199363769

 

 西退

 47390761500

 19995103


鉱業・エネルギー

12800×10123231122016

 934437651994199093()()4002626


工業

6139002001281990

 OMV11000680381332BMW1994BA

 綿西


商業・金融・貿易

7188

 便便1053573619941771

 貿512562891994貿EU6366EFTA()貿97151051994


観光業

芸術と歴史の都ウィーン、アルプスの山岳、湖沼の景観やスキー場を目ざし多数の観光客が訪れ、1970年代半ばには1年間の宿泊数合計は約1億2000万泊に達した。しかしその後は停滞傾向が続き1995年には1億1171万泊(2007年現在で1億2140万泊)である。州別、季節別にみると、東部に比べチロール州やザルツブルク州のある西部で宿泊客が多く、東部では夏季観光の、西部では冬季観光の占める割合が高い。全宿泊客の約7割は外国人で、もっとも多いのはドイツ人、次いでオランダ人となる。外国からの観光客の割合は、西部とウィーンで9割程度に達する。アルプスの山村地域では多くの農家が民宿を経営するが、近年ではその規模拡大や、宿泊業の専門化が目だつ。全国で宿泊施設の改善が進んでおり、トイレとバスが備わった部屋が一般化してきた。さらに台所を備えた部屋も増加している。観光業による外貨収入は約1500億シリング(2007年現在156億ユーロ)に達し、国内総生産の8%程度を占める。とくにスキー観光は1人当りの消費額が多く、フォアアールベルク州のレッヒ・チュルス、チロール州のザンクト・アントン、ゼルデン、キッツビューエルなどは国際的に有名なスキー場である。

[木内信藏・呉羽正昭]

社会

全国平均人口密度は1平方キロメートル当り96人である。人口分布は地域差が大きく、ウィーン盆地ではその値が200人以上に達するのに対し、西部の山地では人口がまばらである。オーストリア全体の人口は微増を続けているが、2001年の出生率は9.3%、死亡率は9.2%で、近年の人口増加の多くは、増えつつある外国人労働者などの移住者による社会的増加が要因である。2001年の外国人の総数は76万1700人である。しかし西部の諸州では、依然として出生率も高い。人口の自然増加が減少したこと、また死亡率の低下とともに高齢化が進んできている。この傾向はウィーンやその他の州都などの都市部で顕著である。

 オーストリアの社会は、ドイツ文化とローマ・カトリックの精神的基礎のうえに、第一次世界大戦後の1920年に成立した憲法による民主主義の三本柱によって支えられている。それは西ヨーロッパ社会のもつ特色とほとんど異ならないが、社会福祉、社会保障などにおいては世界的にみて進歩した国の一つである。これらの制度は19世紀後半の帝政時代に始まり、第一次世界大戦後の変革によって一歩進み、第二次世界大戦後に仕上げられた。労働関係では、労働時間の短縮が進められてきた。その一方で有給休暇制度が確立し、とくに年間5週間のバカンス休暇の取得は義務とされる。女性労働力が増加しており(1971年の120万3000人が2001年の139万9900人に増加)、就業は男女の区別がないものとなっている。社会福祉制度も著しく発展している。高齢者、障害者、失業者、就学者などへの対策がさまざまな方向から十分に整備されている。たとえば、大学生の学費は無料(2002年から有料化)であるし、職をもつ女性には出産後2年間の産後休職期間が認められている。さらに、健康保険制度もすべての医療をカバーし、医療の水準も高い。こうした社会福祉に費やされる金額は国内総生産の約3割に達する(1996)。

 教育制度は、4年間の基礎学校(国民学校)の上に、職業教育を中心とした基幹学校(5年)と一般教育を中心とした高等学校(ギムナジウム、8年)がある。義務教育期間は9年である。基幹学校5年間の卒業者は、さらに3年間、職業学校で職業教育を受ける。また基幹学校4年修了時に、職業高等学校(5年、卒業時に大学入学資格取得)または高等学校後期課程に進むこともできる。高等学校は前期課程と後期課程からなり、国家資格・高等学校卒業試験(マトゥーラ)があり、これに合格すると、大学入学資格を得る。総合大学、単科大学がこれらの上にある。このように、職業の選択と能力に対応して、教育は複線型をとっている。

 スポーツは冬季のスキーと、会員25万を超えるサッカーがもっとも愛好されている。連邦スポーツ評議会と63の部門別評議会とによって構成されている連邦スポーツ協会には、1万3500余のスポーツ団体が参加し、国からの助成が行われている。1964年と1976年にインスブルックで冬季オリンピック競技会が、またアルペンおよびノルディックスキーの世界選手権やワールドカップ大会も頻繁に開かれている。オーストリアの選手は多くの種目で、しばしば上位に入賞している。スキー、スケート、登山は広く国民的スポーツとなっている。

[木内信藏・呉羽正昭]

文化


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日本との関係

オーストリアと日本との関係は、音楽とウィンタースポーツの面などで密接である。学術交流もじみではあるが進んでおり、オーストリアの民主中立的な歩み、経済政策などに、日本は学ぶべき点が多いといってよい。1869年(明治2)に日本と修好通商航海条約を締結(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)している。音楽では、明治時代のバイオリニスト幸田延(こうだのぶ)(1870―1946)をはじめとして、ウィーンに学んだ日本人はきわめて多い。近年はオーストリアからの音楽家の来日がとみに増加し、日本人の観光客がオペラや音楽の鑑賞に出かけたり、音楽家の遺跡を訪ねたりすることも少なくない。ウィーン・フィルハーモニー、ウィーン少年合唱団、国立オペラなどの演奏は広く日本の聴衆に親しまれている。2002年から2010年まで小沢征爾(おざわせいじ)がウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めている。

 スキーを本格的に日本に伝えたのは、オーストリアの軍人レルヒTheodor von Lerch(1869―1945)で、1911年に新潟県高田(現上越市)で一本杖(づえ)の技術が伝習された。第二次世界大戦前にはハンネス・シュナイダーHannes Schneider(1890―1955)が、戦後にもオーストリアの名手が、日本のスキーの発達に貢献しており、日本からスキーや登山のために渡航する人々も増加しつつある。また武道を通じた文化交流も盛んになってきた。

 ウィーン大学における日本学(ヤパノロギー)の研究には日本文化に関する優れた業績がある。日本からの留学生の大半はウィーン音楽・演劇アカデミーに在籍している。国連関係の機関や日本企業の現地支店などに働く日本人もいる。日本とオーストリアの間の貿易額は2006年には、日本からの輸出が1388億円、輸入が1792億円である。長く日本の輸出超過が続いていたが、2004年以降は輸入超過となっている。日本からの輸出品目の中心は自動車、電気機械で、輸入ではスキー用具と木材が輸入額の2割程度を占める。

[木内信藏・呉羽正昭]

『今来陸郎編『世界各国史7 中欧史』新版(1971・山川出版社)』『矢田俊隆編『世界各国史13 東欧史』新版(1977・山川出版社)』『矢田俊隆著『ハプスブルク帝国史研究』(1977・岩波書店)』『木内信藏編『世界地理7 ヨーロッパⅡ』(1977・朝倉書店)』『I・T・ベレンド、G・ラーンキ著、南塚信吾監訳『東欧経済史』(1978・中央大学出版部)』『良知力著『向う岸からの世界史』(1978・未来社)』『連邦総理府・連邦報道庁編『オーストリア 事実と数字』(1979・連邦報道庁/日本語版・オーストリア大使館)』『P・パンツァー、J・クレイサ著、佐久間穆訳『ウィーンの日本』(1990・サイマル出版)』『池内紀監修『オーストリア』(1995・新潮社)』『田辺裕監修『図説大百科世界の地理12 ドイツ・オーストリア・スイス』(1996・朝倉書店)』『大西健夫、酒井晨史編『オーストリア』(1996・早稲田大学出版部)』『Austrian Museum for Economy and Society ed.Survey of the Austrian Economy 1980』『Adolf Leidlmair ed.Österreich,2.Auflage(1986,List)』

 

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百科事典マイペディア 「オーストリア」の意味・わかりやすい解説

オーストリア

 
Republic of Austria3879km28452013Wien171201188699EuroHeinz Fischer20047201076Werner Faymann19602008121920195510625618352013GDP41642008GDP959020064.52003寿78.183.420112010100         32西西79 97613161518191867121955 37貿EFTA1995EU西NATO2009GDP3.52010退2011EUGDP2.62016 1920192929619902000EU19553460020061200712200879123220104201395EU
19641976  

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストリア」の意味・わかりやすい解説

オーストリア
Austria

 
  Republik Österreich
 83883km2
 89490002021
 

8西西433181使 70% 20%1995EU  

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オーストリア」の解説

オーストリア
Österreich[ドイツ],Austria[英]


101312821416退181918486667()19183855

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旺文社世界史事典 三訂版 「オーストリア」の解説

オーストリア
Austria

ヨーロッパ中央部にある共和国。首都ウィーン
前14年ローマ領となり,軍団駐屯地であったが,8世紀末フランク王国のカール1世はここに辺境伯領を置いた。9世紀末からアジア系マジャール人の侵入をうけたが,976年神聖ローマ帝国によってオストマルク(東部辺境伯領)が設けられ,これがオーストリアの起源となる。1156年独立の公国,オーストリアに昇格。1278年からハプスブルク家の所領となり,1918年まで同家が支配した。この間,1315年,スイス地方は住民の反抗で独立。ハプスブルク家は15世紀前半より事実上神聖ローマ皇帝を世襲し,16世紀のマクシミリアン1世・カール5世・フェルディナント1世のとき強大を誇り,オスマン帝国の侵入を防ぎ,逆に1699年のカルロヴィッツ条約ではハンガリーその他を獲得した。また,宗教改革後,ドイツの国内は新旧両教徒の対立が激化し,三十年戦争の惨禍をみた。これは宗教に名をかりた国際戦争であったが,1648年のウェストファリア条約でフランスにアルザスを,ブランデンブルク−プロイセンに東ポンメルンを奪われ,ハプスブルク家の地位は低下した。1713年スペイン継承戦争でスペイン領ネーデルラント・サルデーニャ島・ナポリを併合。18世紀にはオーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジエンを奪われたが,ポーランド分割に参加してガリチアを得た。ナポレオン戦争の結果,神聖ローマ帝国は消滅(1806)してオーストリア帝国となる。ウィーン会議後,ドイツ連邦の盟主となったが,ドイツ統一の指導権をプロイセンと争って敗れ,普墺 (ふおう) 戦争後の1867年,アウスグライヒ(妥協)によってオーストリア−ハンガリー帝国となった。第一次世界大戦ではドイツとともに戦ったが敗れ,ハプスブルク家の支配は終わり,領内諸民族は独立した。1919年共和国となったが,1938〜45年ナチス−ドイツに併合された。戦後アメリカ・イギリス・フランス・ソ連に分割占領されたが,55年オーストリア国家条約が成立し,永世中立の共和国として独立した。1960年以降ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加盟していたが,マーストリヒト条約によってヨーロッパ共同体(EC)がヨーロッパ連合(EU)に発展すると,95年1月これに加盟した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「オーストリア」の解説

オーストリア

中部ヨーロッパに位置する国。漢字表記は墺太利・墺太利亜。日本との外交関係は,オーストリア-ハンガリー帝国との1869年(明治2)日墺洪修好通商航海条約に始まる。この不平等条約は97年改定された。大日本帝国憲法の制定ではウィーン大学教授シュタインが,渡欧した伊藤博文らに憲法を講じ影響を与えた。日露戦争後に来日したレルヒ陸軍少佐は,新潟県高田(現,上越市)で近代スキーの初の本格的指導を行う。オーストリア-ハンガリー帝国は1918年第1次大戦に敗れて消滅,共和国として独立した。38年ヒトラーのドイツに併合され第三帝国の1州となったが,第2次大戦後55年に独立を回復し永世中立国となる。第2次大戦で消滅した日本との外交関係は,1953年(昭和28)復活した。正式国名オーストリア共和国。首都ウィーン。

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