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{{Infobox 島 |
{{Infobox 島 |
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|諸島= |
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|海域=[[瀬戸内海]] [[安芸灘]] |
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|国={{JPN}}([[広島県]][[廿日市市]])<ref>{{Cite book|author=日本離島センター|year=2004|title=日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』|edition=第2版|publisher=日本離島センター|isbn=9784931230224}}</ref><ref name="misen">{{Cite web|url=http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2005-1006.html|title=厳島の最高峰「弥山(みせん)」の標高値が変わります|publisher=国土地理院|date=2005-10-06|accessdate=2009-09-20}}</ref> |
|国={{JPN}}([[広島県]][[廿日市市]])<ref>{{Cite book|author=日本離島センター|year=2004|title=日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』|edition=第2版|publisher=日本離島センター|isbn=9784931230224}}</ref><ref name="misen">{{Cite web|和書|url=http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2005-1006.html|title=厳島の最高峰「弥山(みせん)」の標高値が変わります|publisher=国土地理院|date=2005-10-06|accessdate=2009-09-20}}</ref> |
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|地図 = {{Location map|Japan Hiroshima Prefecture#Japan|relief=1|float=center|label=厳島}} |
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|OSMズーム = 10 |
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[[ファイル:1167-1 Miyajimachō, Hatsukaichi-shi, Hiroshima-ken 739-0588, Japan - panoramio (3).jpg|thumb|280px|<center>(干潮時)]] |
[[ファイル:1167-1 Miyajimachō, Hatsukaichi-shi, Hiroshima-ken 739-0588, Japan - panoramio (3).jpg|thumb|280px|<center>(干潮時)]] |
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[[ファイル:Sanki-gongen-dō.jpg|thumb|200px|<center>[[大聖院 (宮島)#伽藍|三鬼権現堂]]<br />([[弥山 (広島県)|弥山]]山頂付近に所在)]] |
[[ファイル:Sanki-gongen-dō.jpg|thumb|200px|<center>[[大聖院 (宮島)#伽藍|三鬼権現堂]]<br />([[弥山 (広島県)|弥山]]山頂付近に所在)]] |
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'''厳島'''(いつくしま)は、 |
'''厳島'''(いつくしま)は、[[広島県]][[廿日市市]]宮島町にある[[島]]。[[瀬戸内海]]西部、[[広島湾]]の北西部に位置する。通称は'''安芸の宮島'''(あきのみやじま)、または'''宮島'''。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[古代]]より、島そのものが[[自然崇拝]]の対象であったと考えられる。[[平安時代]]末期以降は、[[厳島神社]]の影響力の強さや[[海運|海上交通]]の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場するようになった。[[江戸時代]]中期には、[[丹後国]]︵現・[[京都府]]北部︶の[[天橋立]]、[[陸奥国]]︵現・[[東北地方]]東部︶の[[松島]]と並ぶ、[[日本三景]]の一つに挙げられる[[景勝地]]として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており<ref group="*">[[廿日市市]]発表による[[2008年]]の宮島地区への入り込み観光客数は343万人。[[1998年]]から[[2006年]]までは300万人を割り込んだが、[[2007年]]︵307万人︶以降は再び300万人台となっている。</ref>、[[2011年]]には、[[トリップアドバイザー]]が﹁外国人に人気の日本の観光スポット﹂トップ20の第1位と発表した<ref>[ |
[[古代]]より、島そのものが[[自然崇拝]]の対象であったと考えられる。[[平安時代]]末期以降は、[[厳島神社]]の影響力の強さや[[海運|海上交通]]の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場するようになった。[[江戸時代]]中期には、[[丹後国]]︵現・[[京都府]]北部︶の[[天橋立]]、[[陸奥国]]︵現・[[東北地方]]東部の[[宮城県]]︶の[[松島]]と並ぶ、[[日本三景]]の一つに挙げられる[[景勝地]]として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった<ref name="itsukushima">{{Cite web|和書|title=1泊2日のRefresh Trip #68 新垣結衣さんが広島県の宮島、山口県の岩国を1泊2日で巡る旅をナビゲート|月刊旅色2021年2月号|url=https://tabiiro.jp/book/monthly/202102/refreshtrip/|website=トラベルウェブマガジン旅色|accessdate=2021-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210125031923/https://tabiiro.jp/book/monthly/202102/refreshtrip/|archivedate=2021-01-25|language=ja}}{{cite web|url=https://whc.unesco.org/en/list/776/|title=Itsukushima Shinto Shrine|publisher=UNESCO World Heritage Centre|accessdate=2023–11–23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231123101919/https://edition.cnn.com/travel/itsukushima-shrine-japan-tourist-tax-intl-hnk/index.html|archivedate=2006–03–02|language=en-AU}}{{Cite web|date=2023–10–03|url=https://edition.cnn.com/travel/itsukushima-shrine-japan-tourist-tax-intl-hnk/index.html|title=Japan implements tourist tax at famous ‘floating shrine’ to combat overtourism|author=Lilit Marcus|accessdate=2023–11–23|publisher=[[CNN]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231123101919/https://edition.cnn.com/travel/itsukushima-shrine-japan-tourist-tax-intl-hnk/index.html|archivedate=2023–11–23|language=en-AU}}{{Cite web|和書|date=2020–03–30|title=世界文化遺 産|url=https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/site/kanko/52641.html|website=はつたび 廿日市市観光公式サイト|publisher=廿日市市|accessdate=2023–11–23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201203201733/https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/site/kanko/52641.html|archivedate=2020–12–03|language=ja}}{{Cite web|和書|date=2023–10–04|title=﹁観光客﹂だけでなく﹁地域住民﹂の満足度も目標値に オーバーツーリズム対策と課題|url=https://news.radiko.jp/article/station/LFR/96379/|website=[[radiko|radiko news]]|accessdate=2023–11–23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231123100957/https://news.radiko.jp/article/station/LFR/96379/|archivedate=2023–11–23|language=ja}}</ref>。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており<ref group="*">[[廿日市市]]発表による[[2008年]]の宮島地区への入り込み観光客数は343万人。[[1998年]]から[[2006年]]までは300万人を割り込んだが、[[2007年]]︵307万人︶以降は再び300万人台となっている。</ref>、[[2011年]]には、[[トリップアドバイザー]]が﹁外国人に人気の日本の観光スポット﹂トップ20の第1位と発表した<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000046.000001853.html トリップアドバイザー﹁外国人に人気の日本の観光スポット﹂トップ20を発表 最も人気の高い日本の観光スポットは、広島県の宮島︵厳島神社︶に!] PRtimes.2020年9月24日閲覧</ref>。[[原爆ドーム]]とならんで[[広島県]]の代名詞的存在の一つである<ref name="itsukushima"/>。
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景勝地としての厳島の中心は、[[厳島神社]]である。海上に浮かぶ朱塗の[[厳島神社大鳥居|大鳥居]]と社殿で知られる厳島神社は、[[平安時代]]末期に[[平清盛]]が厚く庇護したことで大きく発展した。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊︵いずれも[[国宝]]︶などのほか、主要な建造物はすべて[[国宝]]または国の[[重要文化財]]に指定されている。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した﹁[[平家納経]]﹂は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および[[弥山 (広島県)|弥山]][[原始林]]は、[[1996年]]︵平成8年︶に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]に登録されている。海岸の一部 |
景勝地としての厳島の中心は、[[厳島神社]]である<ref name="itsukushima"/>。海上に浮かぶ朱塗の[[厳島神社大鳥居|大鳥居]]と社殿で知られる厳島神社は、[[平安時代]]末期に[[平清盛]]が厚く庇護したことで大きく発展した<ref name="itsukushima"/>。その[[神社建築|社殿群]]の構成は、平安時代の[[寝殿造]]の様式を取り入れた優れた建築景観をなし、敷地内の神社殿は海上に立地し、海と景観に調和して配置され、中央に人工建築、手前に海、背景に山々の三位一体が組み合わさり、人工の成果と自然の要素を組み合わせた景観は他に比類がなく、これらは清盛の卓越した発想によるものである<ref name="itsukushima"/>。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊︵いずれも[[国宝]]︶などのほか、主要な建造物はすべて[[国宝]]または国の[[重要文化財]]に指定されている<ref name="itsukushima"/>。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した﹁[[平家納経]]﹂は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および[[弥山 (広島県)|弥山]][[原始林]]は、[[1996年]]︵平成8年︶に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]に登録されている<ref name="itsukushima"/>。海岸の一部は[[2012年]]︵平成24年︶[[7月3日]]、[[ミヤジマトンボ]]の生息地として[[ラムサール条約]]に登録された<ref>{{Cite web |title=Miyajima {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/2056 |website=rsis.ramsar.org |accessdate=2021-09-15 |date=2012-7-3}}</ref>。
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島の[[最高峰]]・[[弥山_(広島県)|弥山]]([[標高]]535[[メートル]])山頂から望む[[瀬戸内海]]の多島美も人気があり、毎年[[元旦]]未明には[[初日の出]]を目指す人で混み合う。この地を愛した[[伊藤博文]]は「[[日本三景]]の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで[[明治]]時代後期に弥山への一般登山路が整備された。[[1900年]](明治33年)に定期航路が開設されると、旧来の[[渡し船]]に依存していた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。 |
島の[[最高峰]]・[[弥山_(広島県)|弥山]]([[標高]]535[[メートル]])山頂から望む[[瀬戸内海]]の多島美も人気があり、毎年[[元旦]]未明には[[初日の出]]を目指す人で混み合う。この地を愛した[[伊藤博文]]は「[[日本三景]]の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで[[明治]]時代後期に弥山への一般登山路が整備された。[[1900年]](明治33年)に定期航路が開設されると、旧来の[[渡し船]]に依存していた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。 |
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島の全域(周辺海域を含む)が[[1934年]]([[昭和]]9年)に[[瀬戸内海国立公園]]に編入され、[[自然公園法]]が定める特別保護区域となっている。[[1952年]](昭和27年)には国の[[特別史跡]]及び[[特別名勝]]に指定され、弥山の原始林は国の[[天然記念物]]に指定されている。 |
島の全域(周辺海域を含む)が[[1934年]]([[昭和]]9年)に[[瀬戸内海国立公園]]に編入され、[[自然公園法]]が定める特別保護区域となっている。[[1952年]](昭和27年)には国の[[特別史跡]]及び[[特別名勝]]に指定され、弥山の原始林は国の[[天然記念物]]に指定されている。 |
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かつて島全体が[[佐伯郡]][[宮島町]]と一致していたが、[[2005年]]︵平成17年︶に廿日市市と合併した。[[2021年]]︵令和3年︶[[8月2日]]、厳島神社付近の町並みは﹁廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区﹂として[[重要伝統的建造物群保存地区]]に選定された<ref>{{Cite web|url=https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/soshiki/51/66946.html|title=重要伝統的建造物群保存地区選定|accessdate=2021/09/15|publisher=廿日市市}}</ref>。
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かつて島全体が[[佐伯郡]][[宮島町]]と一致していたが、[[2005年]]︵平成17年︶に廿日市市と合併した。[[2021年]]︵令和3年︶[[8月2日]]、厳島神社付近の町並みは﹁廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区﹂として[[重要伝統的建造物群保存地区]]に選定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/soshiki/51/66946.html|title=重要伝統的建造物群保存地区選定|accessdate=2021/09/15|publisher=廿日市市}}</ref>。
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=== 名称 === |
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{{Anchors|厳島 (名称)|厳島 (語源)|厳島の語源}} |
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﹁'''いつくしま'''︵'''厳島'''、{{small|異表記}}‥'''嚴島'''、'''嚴嶋'''ほか︶﹂という地名は、﹁'''イツク'''︵斎く。意‥心身のけがれ<ref group="*">汚れ︵けがれ︶と[[穢れ]]︵けがれ︶。</ref>を除き、身を清めて[[神 (神道)|神]]に仕える︶'''+ [[wikt:しま#名詞:地形|シマ]]'''︵島︶﹂から来ていると考えられており、[[厳島神社]]の[[祭神]]の筆頭に挙げられる[[女神]]・'''[[イチキシマヒメ]]'''︵市杵島姫︶<ref group="*">神社では神の名に[[尊称]]を付けるが、ここでは重要ではなく冗長さを増すだけなので、﹁イチキシマヒメノミコト︵市杵島姫命︶﹂なら﹁イチキシマヒメ︵市杵島姫︶﹂、﹁スサノオノミコト︵素戔男尊︶﹂なら﹁スサノオ︵素戔男尊︶﹂と記すこととする。また、宗像三女神の記載順は厳島神社に準拠する。</ref>の名に由来するか、少なくとも[[同根語]]である。厳島神社[[縁起#転用|縁起]]の伝えるところでは、[[スサノオ]]︵素戔男︶の娘とされる[[宗像三女神]]、すなわち、イチキシマヒメ︵市杵島姫︶、タゴリヒメ︵田心姫。[[タキリビメ]]の別名︶、[[タギツヒメ]]︵湍津姫︶の3柱は、2羽の神鴉︵{{small|しんあ}}。[[神使]]の[[wikt:鴉|鴉]]︿[[カラス]]﹀︶に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。
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﹁'''いつくしま'''︵'''厳島'''、{{small|異表記}}‥'''嚴島'''、'''嚴嶋''' |
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島の名として「嚴嶋大明神」のように[[平安時代]]からの用例がある。{{Anchors|三処奇観|日本国事跡考}}[[江戸時代]]前期の[[寛永]]20年([[1643年]])に[[儒学者]]・林春斎([[林鵞峰]])が著した『日本国事跡考』のうちの[[陸奥国]]のくだりにある、いわゆる「三処奇観({{small|さんじょきかん}})」の一文にもその名が見える。この景観評価は「[[日本三景]]」の由来となった。 |
島の名として「嚴嶋大明神」のように[[平安時代]]からの用例がある。{{Anchors|三処奇観|日本国事跡考}}[[江戸時代]]前期の[[寛永]]20年([[1643年]])に[[儒学者]]・林春斎([[林鵞峰]])が著した『日本国事跡考』のうちの[[陸奥国]]のくだりにある、いわゆる「三処奇観({{small|さんじょきかん}})」の一文にもその名が見える。この景観評価は「[[日本三景]]」の由来となった。 |
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{{Quotation| |
{{Quotation|[[原文]]<br />松島 此島之外有小島若干 殆如盆池月波之景 境致之佳 與 丹後天橋立 陸奧松島 安藝'''嚴島''' 此三處為奇觀── 林春斎﹃日本国事跡考﹄<br /><br />︽[[原文#書き下し|書き下し文]]︾<br />{{ruby|松島|まつしま}}、{{ruby|此|こ}}の{{ruby|島|しま}}の{{ruby|外|ほか}}に{{ruby|小島|をじま}}{{ruby|若干|じやくかん}}あり、{{ruby|殆|ほとん}}ど盆池月波の{{ruby|景|けい}}の{{ruby|如|ごと}}し、{{ruby|境致|きやうち}}の{{ruby|佳|か}}なる、{{ruby|[[丹後国|丹後]]|たんご}}{{ruby|[[天橋立]]|あまのはしだて}}、{{ruby|[[陸奥国|陸奥]]|むつ}}{{ruby|[[松島]]|まつしま}}、{{ruby|[[安芸国|安芸]]|あき}}{{ruby|'''厳島'''|いつくしま}}、{{ruby|此|こ}}の{{ruby|三処|さんじよ}}を{{ruby|奇観|きかん}}と{{ruby|為|な}}す。<br /><br />︽現代日本語訳例︾<br />松島、この島のほかに小さな島がいくつかある。その景色はあたかも池の水面に浮かぶ月の光の波のようだ。景観の美しさ素晴らしさにより、丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の厳島、この3箇所は絶景となっている。}}
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[[ファイル:Miyajima in de provincie Aki-Rijksmuseum RP-P-2008-214.jpeg|thumb|250px|[[歌川国貞]]『紅毛油絵風 安芸の宮島』]] |
[[ファイル:Miyajima in de provincie Aki-Rijksmuseum RP-P-2008-214.jpeg|thumb|250px|[[歌川国貞]]『紅毛油絵風 安芸の宮島』]] |
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[[ファイル:Brooklyn Museum - Itsukushima in Aki Province - Utagawa Hiroshige (Ando).jpg|thumb|180px|歌川広重『日本三景 安芸 厳島』]] |
[[ファイル:Brooklyn Museum - Itsukushima in Aki Province - Utagawa Hiroshige (Ando).jpg|thumb|180px|歌川広重『日本三景 安芸 厳島』]] |
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[[ファイル:Hiroshige II Aki Miyajima.jpg|thumb|180px|[[歌川広重 (2代目)|2代目歌川広重]]﹃諸国名所百景 安芸宮島汐干﹄]]<!-- ※これら4画像は下の節に係る。-->
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[[ファイル:Hiroshige II Aki Miyajima.jpg|thumb|180px|[[歌川広重 (2代目)|2代目歌川広重]]﹃諸国名所百景 安芸宮島汐干﹄]]<!-- ※これら4画像は下の節に係る。-->
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==== 宮島 ==== |
==== 宮島 ==== |
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{{Anchors|宮島 (名称)|宮島 (語源)|宮島の語源}} |
{{Anchors|宮島 (名称)|宮島 (語源)|宮島の語源}} |
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﹁'''みやじま'''︵'''宮島'''、{{small|異表記}}‥'''宮嶋''' |
﹁'''みやじま'''︵'''宮島'''、{{small|異表記}}‥'''宮嶋'''ほか︶﹂という地名は、[[江戸時代]]以降のもので、﹁'''[[wikt:みや#日本語|ミヤ]]'''︵[[wikt:宮|宮]]︵[[神社]]︶+ '''[[wikt:しま#名詞:地形|シマ]]'''︵島︶﹂を意味する。﹁[[宮島]]﹂は同名他所の地名でもあるので、[[安芸国|安芸国︵芸州︶]]の宮島に特定する意をもって﹁'''安芸宮島'''/'''安芸の宮島'''︵あきのみやじま︶﹂などと呼ばれることも多い。江戸時代中期の[[寛保]]2年︵[[1742年]]︶の[[伊予松山藩]]の座頭記録には﹁'''芸州宮嶋'''江参詣……﹂とある。
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=== 「厳島」「宮島」の使い分け === |
=== 「厳島」「宮島」の使い分け === |
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{{Anchors|厳島宮島使い分け}} |
{{Anchors|厳島宮島使い分け}} |
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この島の名称について、﹁厳島﹂と﹁宮島﹂が使い分けられているが、明確な基準はない。 |
この島の名称について、﹁厳島﹂と﹁宮島﹂が使い分けられているが、明確な基準はない。測量を所掌する[[国土地理院]]は﹁'''厳島'''︵いつくしま︶﹂の名称を用いる。一方で島内の約8割を占める[[日本の国有林|国有林]]を管理する[[林野庁]]<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/policy/business/sitasimou/mori_zukuri/recreation/hirosima/miyajima.html |title=宮島(みやじま)風景林 |publisher=近畿中国森林管理局 |accessdate=2020-06-15}}</ref>、周辺海域を含めた国立公園を管理する[[環境省]]<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.env.go.jp/park/setonaikai/ |title=瀬戸内海国立公園 |publisher=近畿地方環境事務所 |accessdate=2020-06-15}}</ref>は﹁'''宮島'''︵みやじま︶﹂の名称を用いている。読みやすさと[[漢字]]の平易さから[[観光]]PR等においては﹁宮島﹂が選ばれやすい傾向がある。
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[[地方公共団体|地方自治体]]としても、[[1889年]](明治22年) |
[[地方公共団体|地方自治体]]としても、[[1889年]](明治22年)の[[町村制|町制]]施行時には「厳島町」であったが、[[第二次世界大戦]]後の[[1950年]](昭和25年)には「[[宮島町]]」へ変更されるなど、[[行政]]地名にも揺れがあった。学術書や[[公文書]]の多くで「厳島」が用いられる一方、観光事業などでは「宮島」が多用される傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って「厳島」を用いる例外もある。これら表記の併存は[[江戸時代]]中期には見られた。以下に実例をあげる。 |
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ここからは、[[地名]]︵藩政村名・[[村#行政村|行政村]]名など︶や作品︵絵図、[[浮世絵]]、[[新版画]]など︶の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている[[旧字体]]︵[[wikt:藝|藝]]、[[wikt:國|國]]、[[wikt:圖|圖]]、[[wikt:繪|繪]]、[[wikt:會|會]]、[[wikt:禮|禮]]︶は全て[[新字体]]に変換する。異字・俗字はそのまま表記する |
ここからは、[[地名]]︵藩政村名・[[村#行政村|行政村]]名など︶や作品︵絵図、[[浮世絵]]、[[新版画]]など︶の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている[[旧字体]]︵[[wikt:藝|藝]]、[[wikt:國|國]]、[[wikt:圖|圖]]、[[wikt:繪|繪]]、[[wikt:會|會]]、[[wikt:禮|禮]]︶は全て[[新字体]]に変換する。異字・俗字はそのまま表記する<ref>一部参考‥[http://miyapri.web.fc2.com/ukiyoe_list.htm 宮島の浮世絵ギャラリー]</ref>。
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* [[源通親]] 『高倉院'''嚴島'''御幸記』/不明 |
* [[源通親]] 『高倉院'''嚴島'''御幸記』/不明 |
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:: [[治承]]4年(1180年)[[高倉天皇|高倉院]]の厳島御幸に随行した源通親の紀行文。表題は厳島表記だが、中の文ではすべて'''宮島'''あるいは'''宮じま'''表記。 |
:: [[治承]]4年(1180年)[[高倉天皇|高倉院]]の厳島御幸に随行した源通親の紀行文。表題は厳島表記だが、中の文ではすべて'''宮島'''あるいは'''宮じま'''表記。 |
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* [[北尾重政]] 『浮絵安芸国佐伯郡'''厳嶋'''図』/[[18世紀]]後期に刊行。 |
* [[北尾重政]] 『浮絵安芸国佐伯郡'''厳嶋'''図』/[[18世紀]]後期に刊行。 |
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* [[歌川豊広]] 『日本三景』/[[文政]]年間([[1818年|1818]]-[[1830年]]間)に刊行。 |
* [[歌川豊広]] 『日本三景』/[[文政]]年間([[1818年|1818]]-[[1830年]]間)に刊行。 |
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:: 添えられている[[狂歌師]]・司馬の屋嘉門 |
:: 添えられている[[狂歌師]]・司馬の屋嘉門(芝の屋山陽の別号)の[[漢詩]]には「夕日輝{{small|レ}}波'''厳島'''山」とある一方で、図中の説明には「安芸州'''宮島'''」とある。 |
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* [[歌川国貞]] 『紅毛油絵風 安芸の'''宮島'''』/文政8年([[1825年]])刊行。 |
* [[歌川国貞]] 『紅毛油絵風 安芸の'''宮島'''』/文政8年([[1825年]])刊行。 |
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* [[歌川広重]] 『[[六十余州名所図会]] 安芸 '''厳島''' 祭礼之図』/[[嘉永]]6年([[1854年]])刊行。 |
* [[歌川広重]] 『[[六十余州名所図会]] 安芸 '''厳島''' 祭礼之図』/[[嘉永]]6年([[1854年]])刊行。 |
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* 歌川広重 『国尽張交図会 十五 安芸'''宮嶋'''』/[[幕末]]直前に刊行。 |
* 歌川広重 『国尽張交図会 十五 安芸'''宮嶋'''』/[[幕末]]直前に刊行。 |
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* 歌川広重 [[団扇絵]]『日本三景 安芸 '''厳島'''』/嘉永5年-[[安政]]4年([[1852年|1852]]-[[1858年]])中に刊行。 |
* 歌川広重 [[団扇絵]]『日本三景 安芸 '''厳島'''』/嘉永5年-[[安政]]4年([[1852年|1852]]-[[1858年]])中に刊行。 |
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:: 広重の場合、神社には「厳島」、島には「宮島」「宮嶋」の字を用いている。その後、2代目広重([[歌川重宣]])や3代目広重([[後藤寅吉]])もこの地を描いているが、いずれも神社をも画題に入れながら「宮島」「宮しま」としており、[[明治維新]]以後急速に「宮島」の名称が広まっていったことを窺わせる。その傾向が、対岸にある[[鉄道駅]]および地区名としての「宮島口」(厳島口ではない)に現れている<ref>江戸時代には[[広島城]][[城下町|下]]や草津村(現・[[広島市]][[西区_(広島市)|西区]])からの渡航が主であり、宮島口という地名は存在していない。[[西日本旅客鉄道|JR]][[宮島口駅]]は開設当初「宮島駅」(当時は[[日本国有鉄道|国鉄]]に買収される前の[[山陽鉄道]])、[[広電宮島口駅]]は「電車宮島駅」といった。</ref>。 |
:: 広重の場合、神社には「厳島」、島には「宮島」「宮嶋」の字を用いている。その後、2代目広重([[歌川重宣]])や3代目広重([[後藤寅吉]])もこの地を描いているが、いずれも神社をも画題に入れながら「宮島」「宮しま」としており、[[明治維新]]以後急速に「宮島」の名称が広まっていったことを窺わせる。その傾向が、対岸にある[[鉄道駅]]および地区名としての「宮島口」(厳島口ではない)に現れている<ref group="*">江戸時代には[[広島城]][[城下町|下]]や草津村(現・[[広島市]][[西区_(広島市)|西区]])からの渡航が主であり、宮島口という地名は存在していない。[[西日本旅客鉄道|JR]][[宮島口駅]]は開設当初「宮島駅」(当時は[[日本国有鉄道|国鉄]]に買収される前の[[山陽鉄道]])、[[広電宮島口駅]]は「電車宮島駅」といった。</ref>。 |
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* [[歌川広重 (2代目)|2代目歌川広重]] 『諸国名所百景 安芸'''宮島'''汐干』/安政6年([[1860年]])刊行。 |
* [[歌川広重 (2代目)|2代目歌川広重]] 『諸国名所百景 安芸'''宮島'''汐干』/安政6年([[1860年]])刊行。 |
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* [[明治元年]]([[1868年]]/[[1869年]])、藩政村<ref>[[江戸幕府|江戸]][[幕藩体制]]の実態が無くなってからも、行政町村([[近代]]行政町村)が制度として整備される1889年(昭和22年)までは“藩政村的な自然町村”が事実上存続していた。それは、[[中世]]の自然村でも近代の行政町村でもない。</ref>として[[安芸国]][[佐伯郡]]に「安芸[[広島藩]][[地方知行|知行]]'''厳島'''」あり/『[[旧高旧領取調帳]]』より。 |
* [[明治元年]]([[1868年]]/[[1869年]])、藩政村<ref group="*">[[江戸幕府|江戸]][[幕藩体制]]の実態が無くなってからも、行政町村([[近代]]行政町村)が制度として整備される1889年(昭和22年)までは“藩政村的な自然町村”が事実上存続していた。それは、[[中世]]の自然村でも近代の行政町村でもない。</ref>として[[安芸国]][[佐伯郡]]に「安芸[[広島藩]][[地方知行|知行]]'''厳島'''」あり/『[[旧高旧領取調帳]]』より。 |
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* [[地方公共団体|地方自治体]]「'''厳島'''町」の成立/[[1889年]]([[明治]]22年)施行。 |
* [[地方公共団体|地方自治体]]「'''厳島'''町」の成立/[[1889年]]([[明治]]22年)施行。 |
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* [[小林清親]] 『日本名勝図会 '''厳島'''』/[[1896年]](明治29年)刊行。 |
* [[小林清親]] 『日本名勝図会 '''厳島'''』/[[1896年]](明治29年)刊行。 |
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== 地理 == |
== 地理 == |
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[[広島湾]]の西の端、[[広島市]]街の南西約20[[キロメートル|km]]に位置する。島は周囲約30km、[[面積]]30.2[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name="Miyajima-geo">[http://www.miyajima-wch.jp/jp/miyajima/01.html 宮島の地理] - 廿日市市</ref>で楕円形の形状をなしている。対岸の[[本州]]([[廿日市市]]阿品~同市大野)に寄り添うように北東から南西に伸びる(島の北東径約9km、南西径約4km)。対岸([[本州]] |
[[広島湾]]の西の端、[[広島市]]街の南西約20[[キロメートル|km]]に位置する。島は周囲約30km、[[面積]]30.2[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name="Miyajima-geo">[http://www.miyajima-wch.jp/jp/miyajima/01.html 宮島の地理] - 廿日市市</ref>で楕円形の形状をなしている。対岸の[[本州]]([[廿日市市]]阿品~同市大野)に寄り添うように北東から南西に伸びる(島の北東径約9km、南西径約4km)。対岸([[本州]])と島を隔てる[[瀬戸]]は「'''大野瀬戸'''(おおのせと)」と呼ばれ、最も狭い所で300[[メートル|m]]しか離れていない(宮島口港~宮島港間の[[フェリー]]航路は1.8km)。大野瀬戸の反対側(島から南東方向)には、[[絵の島]]、[[大奈佐美島]]、[[能美島]]([[江田島]]等と一体)など多くの島が点在する。島の北端・聖崎の先端は[[風化]]によってやや崩落しており、満潮時には「'''蓬莱島'''(ほうらいじま)」と呼ばれる島になる。その沖合に暗礁があり、上には石灯篭が置かれている。 |
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[[ファイル:Itsukushima-island.png|サムネイル|なし|厳島と周辺の島々]] |
[[ファイル:Itsukushima-island.png|サムネイル|なし|厳島と周辺の島々]] |
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=== 気候 === |
=== 気候 === |
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[[瀬戸内海気候]]に分類され、気候は温暖。夏は30{{℃}}を超す日も多くある一方、冬は気温が氷点下となることも多い。積雪は島の山地ではほぼ毎年見られ、沿岸部の[[厳島神社]]周辺でもしばしば雪景色となる。厳島特有の事象として冬季の﹁弥山おろし﹂が知られる。これは[[太田川]]の谷から吹き降ろす風が広島湾を通って弥山に昇り、北西にある市街地に吹き降ろすもので、冬の寒さを引き起こしている<ref>{{ |
[[瀬戸内海気候]]に分類され、気候は温暖。夏は30{{℃}}を超す日も多くある一方、冬は気温が氷点下となることも多い。積雪は島の山地ではほぼ毎年見られ、沿岸部の[[厳島神社]]周辺でもしばしば雪景色となる。厳島特有の事象として冬季の﹁弥山おろし﹂が知られる。これは[[太田川]]の谷から吹き降ろす風が広島湾を通って弥山に昇り、北西にある市街地に吹き降ろすもので、冬の寒さを引き起こしている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/site/kanko/52602.html |title=宮島物知り図鑑:宮島の地理|publisher=廿日市市|accessdate=2020-9-24}}</ref>。
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=== 生物相 === |
=== 生物相 === |
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[[ファイル:Flock of Japanese macaques near Miyajima Ropeway Shishi-iwa station.jpg|thumb|200px|[[ニホンザル]]の群れ/[[広島観光開発|宮島ロープウェー獅子岩駅]]にて撮影。]]
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[[ファイル:Flock of Japanese macaques near Miyajima Ropeway Shishi-iwa station.jpg|thumb|200px|[[ニホンザル]]の群れ/[[広島観光開発|宮島ロープウェー獅子岩駅]]にて撮影。]]
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[[ファイル:A deer of Itsukushima.jpg|thumb|200px|[[ニホンジカ]]/[[弥山_(広島県)|弥山]]にて撮影。]]
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[[ファイル:A deer of Itsukushima.jpg|thumb|200px|[[ニホンジカ]]/[[弥山_(広島県)|弥山]]にて撮影。]]
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[[中国地方]]に一般的に棲息する |
[[中国地方]]に一般的に棲息する[[タヌキ]]、[[ニホンアナグマ]]、[[モグラ]]類のほか、100種を超す[[鳥類]]が確認されている。 |
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厳島に棲息する[[シカ]]と[[サル]]は、[[宮島桟橋|フェリー桟橋]]付近にも現れたり、[[マスコット]][[キャラクター]]として図案化されたりして、「宮島のシンボル」ともいうべき知名度がある。 |
厳島に棲息する[[シカ]]と[[サル]]は、[[宮島桟橋|フェリー桟橋]]付近にも現れたり、[[マスコット]][[キャラクター]]として図案化されたりして、「宮島のシンボル」ともいうべき知名度がある。 |
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{{See also|宮島の鹿|宮島の猿|鹿猿}} |
{{See also|宮島の鹿|宮島の猿|鹿猿}} |
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厳島のシカは |
厳島のシカは、[[第二次世界大戦]]後([[戦後]])に厳島を接収した[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の兵士が[[スポーツハンティング]]の対象として撃っていたために激減した{{要出典|date=2013年8月}}。現在島に棲息する鹿は21世紀初期の[[分子遺伝学]]による分析で、広島と山口と近い宮島固有の歴史を持つ鹿であることが{{いつ|date=2019年6月}}証明されている。また、一部で[[奈良]]の[[春日大社]]から譲り受けたという噂があるが、厳島神社の側には譲渡された記録が残っていない。 |
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サルについては、[[江戸時代]]以前には記録がなく、古い[[絵巻物]]でも猿の絵は[[猿回し]]に現れる程度で非常に少ない。そのため、そうは古くない時期に外部から持ち込まれたものが野生化したとする説が一般的である。一例として、[[1962年]](昭和37年)頃、観光振興・生態研究のために[[小豆島]]にある[[日本モンキーセンター]]から[[ニホンザル]]45頭が移入されている<ref>[http://www.chunichi.co.jp/article/kodomo/closeup/2010/CK2010022102100004.html] 中日新聞2010年2月21日付</ref>。これに関連して、[[2011年]](平成23年)以降5年間の計画で、日本モンキーセンターの協力により[[愛知県]][[犬山市]]へのニホンザルの移送が行われている。 |
サルについては、[[江戸時代]]以前には記録がなく、古い[[絵巻物]]でも猿の絵は[[猿回し]]に現れる程度で非常に少ない。そのため、そうは古くない時期に外部から持ち込まれたものが野生化したとする説が一般的である。一例として、[[1962年]](昭和37年)頃、観光振興・生態研究のために[[小豆島]]にある[[日本モンキーセンター]]から[[ニホンザル]]45頭が移入されている<ref>[http://www.chunichi.co.jp/article/kodomo/closeup/2010/CK2010022102100004.html] 中日新聞2010年2月21日付</ref>。これに関連して、[[2011年]](平成23年)以降5年間の計画で、日本モンキーセンターの協力により[[愛知県]][[犬山市]]へのニホンザルの移送が行われている。 |
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この対策はマスコミで取り上げられたこともあって、全国から意見が寄せられた。 |
この対策はマスコミで取り上げられたこともあって、全国から意見が寄せられた。 |
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⚫ | |||
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餌やり禁止以前は鹿煎餅販売店は一つしかなく、全体の餌量に影響していたとは考えにくい。 |
餌やり禁止以前は鹿煎餅販売店は一つしかなく、全体の餌量に影響していたとは考えにくい。 |
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現在も市街地への依存が強い鹿も、夜は山に帰り、普段から自分で餌を採取している。 |
現在も市街地への依存が強い鹿も、夜は山に帰り、普段から自分で餌を採取している。 |
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9歳、10歳での出産が多く見られることが報告されている。 |
9歳、10歳での出産が多く見られることが報告されている。 |
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頭数管理の方法として避妊を求める声があるが、鹿自身への悪影響や避妊去勢により、分泌物が変化した場合の島の植物への悪影響が考えられ、専門家は否定的である。 |
頭数管理の方法として避妊を求める声があるが、鹿自身への悪影響や避妊去勢により、分泌物が変化した場合の島の植物への悪影響が考えられ、専門家は否定的である。また、もう一つの保護地域の奈良も、野生動物への避妊は効果が見込めないとしている。
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また、もう一つの保護地域の奈良も、野生動物への避妊は効果が見込めないとしている。 |
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現在も餌やりの即時全面中止の方針に反対するボランティアが入島して餌やりを続けている<ref group="*">ウェブサイトやブログ等、ネットで餌やりを公言している団体だけでもNPO法人[[アニマルライツセンター]]、日本動物愛護協会、岡山動物愛護会、宮島の鹿愛護会など多数ある。</ref>など、問題は依然として継続しており、より学術的な調査と論点整理を踏まえた根本的解決を模索する動きが続けられている。 |
現在も餌やりの即時全面中止の方針に反対するボランティアが入島して餌やりを続けている<ref group="*">ウェブサイトやブログ等、ネットで餌やりを公言している団体だけでもNPO法人[[アニマルライツセンター]]、日本動物愛護協会、岡山動物愛護会、宮島の鹿愛護会など多数ある。</ref>など、問題は依然として継続しており、より学術的な調査と論点整理を踏まえた根本的解決を模索する動きが続けられている。 |
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==== 固有種 ==== |
==== 固有種 ==== |
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[[昆虫]]の[[固有種]]として、[[ミヤジマトンボ]] |
[[昆虫]]の[[固有種]]として、[[ミヤジマトンボ]] {{Snamei|Orthetrum poecilops miyajimaenisis}} (Yuki and Doi, 1938) があり、国の[[絶滅危惧種]]に指定されている︵2007年版では﹁絶滅危惧I類(CR+EN)﹂。[[昆虫類レッドリスト (環境省)]]を参照︶。これは[[中国大陸]]南部に分布する[[シオカラトンボ]]属の {{Snamei|en|Orthetrum poecilops|O. poecilops}} (Ris, 1916)を原種とし、遠く離れた日本の厳島にだけ分布している別亜種と考えられている。繁殖地となる湿地が観光開発や台風被害のために減少し、生息環境が脅かされている<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/setouti/seto/11/971108.html 希少 中国南部が原産/ミヤジマトンボ] 中国新聞1997年11月8日付。2011年11月23日閲覧</ref>。環境省や広島県職員、昆虫学・海洋環境学・植物学の研究者からなるミヤジマトンボの保護管理連絡協議会が、生息地の調査と環境保全・修復にあたっている<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201109160028.html ミヤジマトンボ生息地を調査] 中国新聞2011年9月16日付。2011年11月23日閲覧</ref>。
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 先史時代 === |
=== 先史時代 === |
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[[本州]]に人が住み始めた[[日本列島の旧石器時代|旧石器時代]]には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡った。厳島北岸の下室浜で後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている<ref name="Araki_2005">荒木亮司・三枝健二﹁宮島町下室浜遺跡のナイフ形石器﹂﹃研究紀要﹄第5集(2005) 広島県立歴史民俗資料館</ref>。[[広島大学]]による[[考古学]]的調査︵2004年︿平成16年﹀︶では島北西岸の大川浦をはじめ下室浜・御床浦・須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、[[縄文時代|縄文]]から[[弥生時代]]の[[土器]]や[[石器]]が数多く発見されている<ref name="Furuse_2006">古瀬清秀 |
[[本州]]に人が住み始めた[[日本列島の旧石器時代|旧石器時代]]には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡った。厳島北岸の下室浜で後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている<ref name="Araki_2005">荒木亮司・三枝健二﹁宮島町下室浜遺跡のナイフ形石器﹂﹃研究紀要﹄第5集(2005) 広島県立歴史民俗資料館</ref>。[[広島大学]]による[[考古学]]的調査︵2004年︿平成16年﹀︶では島北西岸の大川浦をはじめ下室浜・御床浦・須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、[[縄文時代|縄文]]から[[弥生時代]]の[[土器]]や[[石器]]が数多く発見されている<ref name="Furuse_2006">{{cite journal|和書|author=古瀬清秀, 加藤徹, 今井千佳子 |title=厳島における考古学的踏査とその検討(1) |journal=内海文化研究紀要 |ISSN=03863182 |publisher=広島大学文学部附属内海文化研究施設 |date=2006 |issue=34 |pages=1-22 |id={{CRID|1520853833797331200}}}}</ref>ほか、多々良潟、大江浦、大元園地など島全域で縄文・弥生期の出土例がある。
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厳島は[[縄文海進]]がピークに達した頃に独立した島になったとみられる。それ以前の遺物として赤石{{r|Furuse_2006}}や大川浦<ref name="Furuse_2007">{{cite journal|url= |
厳島は[[縄文海進]]がピークに達した頃に独立した島になったとみられる。それ以前の遺物として赤石{{r|Furuse_2006}}や大川浦<ref name="Furuse_2007">{{cite journal|和書|author=古瀬清秀, 加藤徹, 竹広文明, 脇山佳奈, 荒木亮司 |date=2007-03 |url=https://doi.org/10.15027/25393 |title=厳島における考古学的踏査とその検討(2) : 大川浦遺跡に関する考古学的検討 |journal=内海文化研究紀要 |ISSN=03863182 |publisher=広島大学大学院文学研究科附属内海文化研究施設 |volume=35 |pages=1-54 |doi=10.15027/25393 |id={{CRID|1390290699831241984}}}}</ref>において縄文草創期の有茎尖頭器や槍先型尖頭器が採集されているほか、上室浜<ref>中越利夫﹁大野瀬戸周辺の遺跡・遺物︵2︶-宮島町上室浜遺跡採集の石鏃について﹂﹃内海文化研究紀要﹄第24号(1995) 広島大学文学部内海文化研究施設</ref>や大川浦、御床浦{{r|Furuse_2006}}において縄文早期の鍬形鏃や押型文土器が出土していることからも、陸続きだった頃から厳島地域で人々が生活していたものとみられる。
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[[弥山_(広島県)|弥山]]山頂一帯に見られる巨石群は[[磐座]]とみられる。磐座を祭祀対象とする[[山岳信仰]]の開始は一般に古墳時代以降とされる<ref>時枝務『山岳霊場の考古学的研究』 株式会社雄山閣 2018</ref>。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡<ref>河瀬正利「広島県佐伯郡廿日市町地御前南遺跡出土の遺物について」『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報VII』(1984) 広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室</ref>など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる明瞭な遺物は確認されていない<ref group="*">わずかに大川浦から「石棒の可能性が想定される」片岩製の石製品2点が採集されているが、いずれも破片であり、明確に石棒と言えるものではない。また、片岩製の粗製石棒は西日本の縄文晩期末~弥生前期初頭の遺跡に普遍的に見られ、厳島信仰の存在を示す特異な遺物とは言えない。</ref>。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。 |
[[弥山_(広島県)|弥山]]山頂一帯に見られる巨石群は[[磐座]]とみられる。磐座を祭祀対象とする[[山岳信仰]]の開始は一般に古墳時代以降とされる<ref>時枝務『山岳霊場の考古学的研究』 株式会社雄山閣 2018</ref>。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡<ref>河瀬正利「広島県佐伯郡廿日市町地御前南遺跡出土の遺物について」『[https://sitereports.nabunken.go.jp/108319 広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報VII]』(1984) 広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室</ref>など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる明瞭な遺物は確認されていない<ref group="*">わずかに大川浦から「石棒の可能性が想定される」片岩製の石製品2点が採集されているが、いずれも破片であり、明確に石棒と言えるものではない。また、片岩製の粗製石棒は西日本の縄文晩期末~弥生前期初頭の遺跡に普遍的に見られ、厳島信仰の存在を示す特異な遺物とは言えない。</ref>。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。 |
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=== 古代・中古 === |
=== 古代・中古 === |
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上述の上室浜や下室浜などから[[古墳時代]]後期の[[製塩]]土器が見つかっている<ref>中越利夫「大野瀬戸周辺の遺跡・遺物(1)」『内海文化研究紀要』第23号(1994) 広島大学文学部内海文化研究施設</ref>{{r|Furuse_2006}}ほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の焼塩土器が数多く採集されており{{r|Furuse_2006|Furuse_2007}}、盛んに塩作りが行われていた事が窺える。大川浦からは[[10世紀]]から[[12世紀]]のものとみられる「瑞花双鳥八稜鏡」が採集され、古瀬清秀(広島大学大学院)らは[[古代]][[祭|祭祀]]の場である可能性を指摘している{{r|Furuse_2007}}。下室浜からも、[[古墳時代]]の[[祭祀]]に用いられたとみられる[[滑石]]製[[勾玉]]が採集されている{{r|Araki_2005}}<ref>[http://home.hiroshima-u.ac.jp/miyajima/pdf/Newsletter6_2005.pdf#search=%27%E8%8D%92%E6%9C%A8%E4%BA%AE%E5%8F%B8+%E5%8B%BE%E7%8E%89%27 荒木亮司「下室浜採集の遺物について」『宮島自然植物実験所ニュースレター』第6号(2005) 広島大学大学院理学研究科付属宮島自然植物実験所]</ref>。 |
上述の上室浜や下室浜などから[[古墳時代]]後期の[[製塩]]土器が見つかっている<ref>中越利夫「大野瀬戸周辺の遺跡・遺物(1)」『内海文化研究紀要』第23号(1994) 広島大学文学部内海文化研究施設</ref>{{r|Furuse_2006}}ほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の焼塩土器が数多く採集されており{{r|Furuse_2006|Furuse_2007}}、盛んに塩作りが行われていた事が窺える。大川浦からは[[10世紀]]から[[12世紀]]のものとみられる「瑞花双鳥八稜鏡」が採集され、古瀬清秀(広島大学大学院)らは[[古代]][[祭|祭祀]]の場である可能性を指摘している{{r|Furuse_2007}}。下室浜からも、[[古墳時代]]の[[祭祀]]に用いられたとみられる[[滑石]]製[[勾玉]]が採集されている{{r|Araki_2005}}<ref>[http://home.hiroshima-u.ac.jp/miyajima/pdf/Newsletter6_2005.pdf#search=%27%E8%8D%92%E6%9C%A8%E4%BA%AE%E5%8F%B8+%E5%8B%BE%E7%8E%89%27 荒木亮司「下室浜採集の遺物について」『宮島自然植物実験所ニュースレター』第6号(2005) 広島大学大学院理学研究科付属宮島自然植物実験所]</ref>。 |
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弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、[[古墳時代]]末から[[奈良時代]]にかけての[[須恵器]]や[[土師器]]、[[瑪瑙]]製[[勾玉]]、[[鉄鏃]]などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の[[斎場]]に神を招き降ろす[[祭祀]]が行なわれた[[磐座]]に比定する説がある<ref>妹尾周三 |
弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、[[古墳時代]]末から[[奈良時代]]にかけての[[須恵器]]や[[土師器]]、[[瑪瑙]]製[[勾玉]]、[[鉄鏃]]などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の[[斎場]]に神を招き降ろす[[祭祀]]が行なわれた[[磐座]]に比定する説がある<ref>{{Cite journal|和書|author=妹尾周三 |year=2012 |title=安芸、厳島における新発見の祭祀遺跡 : 弥山の中腹で発見された岩塊群の検討 |journal=Museum |ISSN=00274003 |publisher=東京国立博物館 |issue=639 |pages=5-21 |id={{CRID|1522262180723700736}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/024091296}}</ref>。弥山の本堂付近からは奈良~平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した。弥山水精寺︵[[大聖院_(宮島)|大聖院]]の前身︶は従来[[鎌倉時代]]に対岸から移設したとされていたが、より古い時代に創建された可能性がある<ref>妹尾周三﹁安芸厳島︵伊都岐島︶弥山水精寺の創建について﹂﹃佛教藝術﹄第304号︵2009) 毎日新聞社</ref>。
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[[平安時代]]には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた[[歌枕]]の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。 |
[[平安時代]]には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた[[歌枕]]の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。 |
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厳島神社が現在の威容を構築したのは[[平氏]]一門の後ろ盾を得た[[平安時代]]末期である。 |
厳島神社が現在の威容を構築したのは[[平氏]]一門の後ろ盾を得た[[平安時代]]末期である。 |
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[[ファイル:Heikenoukyou.jpg|サムネイル|『平家納経』 厳島神社所蔵]] |
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[[久安]]2年([[1146年]])、[[安芸国#国司|安芸守]]に任ぜられた[[平清盛]]は、父・[[平忠盛]]の事業を受け継いで[[高野山]]大塔の再建をすすめていたが、[[保元]]6年([[1156年]])の[[落慶|落慶法要]]に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。[[平治の乱]]で[[源頼朝]]が捕らえられ、清盛は[[正三位]]に列せられると、さっそく厳島神社を[[寝殿造]]の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、[[仁治]]2年([[1241年]])の造営による(現在の本社社殿は[[元亀]]2年〈[[1571年]]〉、[[毛利元就]]の再建によるもの)<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝 28(厳島神社)』(朝日新聞社、1997)、pp.'''2''', 231</ref>。さらに[[四天王寺]]から[[舞楽]]を移し入れ、また多くの[[甲冑]]や[[刀剣]]などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した[[平家納経]](国宝)である。また社領も対岸の佐伯郡などに加増されていった。 |
[[久安]]2年([[1146年]])、[[安芸国#国司|安芸守]]に任ぜられた[[平清盛]]は、父・[[平忠盛]]の事業を受け継いで[[高野山]]大塔の再建をすすめていたが、[[保元]]6年([[1156年]])の[[落慶|落慶法要]]に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。[[平治の乱]]で[[源頼朝]]が捕らえられ、清盛は[[正三位]]に列せられると、さっそく厳島神社を[[寝殿造]]の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、[[仁治]]2年([[1241年]])の造営による(現在の本社社殿は[[元亀]]2年〈[[1571年]]〉、[[毛利元就]]の再建によるもの)<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝 28(厳島神社)』(朝日新聞社、1997)、pp.'''2''', 231</ref>。さらに[[四天王寺]]から[[舞楽]]を移し入れ、また多くの[[甲冑]]や[[刀剣]]などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した[[平家納経]](国宝)である。また社領も対岸の佐伯郡などに加増されていった。 |
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1185年の[[壇ノ浦の戦い]]をもって[[平氏]]が滅んだのち、[[鎌倉時代]]に入ると、厳島神社ははじめ[[源氏]]の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、[[承久]]3年︵[[1221年]]︶の[[承久の乱]]で[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]側に属したために争いの後に神主家の座を奪われ、代わって[[御家人]]の[[藤原親実]]が[[厳島神主家]]となった。厳島神社は[[承元]]元年︵[[1207年]]︶と[[貞応]]2年︵[[1223年]]︶に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけては荒廃した時代であったと伝えられる。そうした中でも参詣者は絶えず、例えば[[出家]]して旅路にあった[[後深草院二条]]は[[乾元 (日本)|乾元]]元年︵[[1302年]]︶に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを﹁[[とはずがたり]]﹂に書き留めている。
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1185年の[[壇ノ浦の戦い]]をもって[[平氏]]が滅んだのち、[[鎌倉時代]]に入ると、厳島神社ははじめ[[源氏]]の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、[[承久]]3年︵[[1221年]]︶の[[承久の乱]]で[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]側に属したために争いの後に神主家の座を奪われ、代わって[[御家人]]の[[藤原親実]]が[[厳島神主家]]となった。厳島神社は[[承元]]元年︵[[1207年]]︶と[[貞応]]2年︵[[1223年]]︶に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけては荒廃した時代であったと伝えられる。そうした中でも参詣者は絶えず、例えば[[出家]]して旅路にあった[[後深草院二条]]は[[乾元 (日本)|乾元]]元年︵[[1302年]]︶に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを﹁[[とはずがたり]]﹂に書き留めている。
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[[正安]]2年︵[[1300年]]︶に水精寺の座主坊が対岸の[[地御前神社]]︵厳島神社の境外[[摂末社|摂社]]︶から厳島島内に移されると、厳島神社の社人や供僧が島に定住するようになった。これによって町屋が形成され、厳島の発展がすすんだ。[[天文_(元号)|天文]]7年︵[[1538年]]︶には厳島[[大願寺_(廿日市市)|大願寺]]の僧[[尊海]]が、[[経典#漢訳経典|一切経]]︵[[高麗八万大蔵経]]︶を求めて[[朝鮮半島]]に渡っている。尊海は大蔵経を持ち帰ることはできなかったが、持ち帰った<!--重文指定は一双でなく一隻-->八曲屏風﹁[[瀟湘八景|瀟湘八景図]]﹂の裏面に漢文による紀行文﹁尊海渡海日記﹂︵大願寺所有、国の[[重要文化財]]<ref>[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9604 国指定文化財等データベース‥紙本墨書尊海渡海日記][[文化庁]].2020年9月24日閲覧</ref>︶を遺している。これは日本最古の朝鮮紀行記録として知られるとともに、仮名書きで記した朝鮮語の語彙は[[中期朝鮮語]]研究の貴重な史料となっている<ref>{{cite journal|author=辻星児|url=http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/metadata/10976|title=﹃尊海渡海日記﹄に記された朝鮮語について| |
[[正安]]2年︵[[1300年]]︶に水精寺の座主坊が対岸の[[地御前神社]]︵厳島神社の境外[[摂末社|摂社]]︶から厳島島内に移されると、厳島神社の社人や供僧が島に定住するようになった。これによって町屋が形成され、厳島の発展がすすんだ。[[天文_(元号)|天文]]7年︵[[1538年]]︶には厳島[[大願寺_(廿日市市)|大願寺]]の僧[[尊海]]が、[[経典#漢訳経典|一切経]]︵[[高麗八万大蔵経]]︶を求めて[[朝鮮半島]]に渡っている。尊海は大蔵経を持ち帰ることはできなかったが、持ち帰った<!--重文指定は一双でなく一隻-->八曲屏風﹁[[瀟湘八景|瀟湘八景図]]﹂の裏面に漢文による紀行文﹁尊海渡海日記﹂︵大願寺所有、国の[[重要文化財]]<ref>[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9604 国指定文化財等データベース‥紙本墨書尊海渡海日記][[文化庁]].2020年9月24日閲覧</ref>︶を遺している。これは日本最古の朝鮮紀行記録として知られるとともに、仮名書きで記した朝鮮語の語彙は[[中期朝鮮語]]研究の貴重な史料となっている<ref>{{cite journal|author=辻星児|url=http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/metadata/10976|title=﹃尊海渡海日記﹄に記された朝鮮語について|DOI=10.18926/10976|journal=文化共生学研究 |volume=5 |issue=1 |pages=71-84|year=2007|publisher=[[岡山大学]]院文化科学研究科|accessdate=2023-06-19}}</ref>。
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[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]に入ると、[[安芸国|安芸]]を本拠に勢力を伸ばしていた[[毛利氏]]と、衰退しつつこそあったものの[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]を領有していた[[大内氏]]が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされた。[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])、[[毛利元就]]は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる[[陶晴賢]]を討ち、戦国大名としての躍進のきっかけとなった([[厳島の戦い]]を参照)。以後[[毛利氏]]は中国地方10か国に加え[[豊前国|豊前]]・[[伊予国|伊予]]をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理([[元亀]]2年〈[[1571年]]〉)によるところも大きい。 |
[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]に入ると、[[安芸国|安芸]]を本拠に勢力を伸ばしていた[[毛利氏]]と、衰退しつつこそあったものの[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]を領有していた[[大内氏]]が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされた。[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])、[[毛利元就]]は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる[[陶晴賢]]を討ち、戦国大名としての躍進のきっかけとなった([[厳島の戦い]]を参照)。以後[[毛利氏]]は中国地方10か国に加え[[豊前国|豊前]]・[[伊予国|伊予]]をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理([[元亀]]2年〈[[1571年]]〉)によるところも大きい。 |
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[[ファイル:Battle of Miyajima-2.jpg|中央|サムネイル|1000x1000ピクセル|「藝備義兵防長攻逆勢圖」[[歌川貞秀|玉蘭斎貞秀]]画]] |
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[[ファイル:Senjyou-kaku - Toyokuni shrine , 千畳閣 豊國神社 - panoramio.jpg|サムネイル|千畳閣]] |
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[[天正]]15年︵[[1587年]]︶、すでに[[関白]][[太政大臣]]となっていた[[豊臣秀吉]]は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・[[安国寺恵瓊]]に命じる。建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物を企図していたことが窺える。秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成の形で今日に伝えられている。本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから﹁[[千畳閣]]﹂と通称され、[[明治]]初期の[[廃仏毀釈]]の際には厳島神社末社豊国神社本殿となり現在に至る。
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[[天正]]15年︵[[1587年]]︶、すでに[[関白]][[太政大臣]]となっていた[[豊臣秀吉]]は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・[[安国寺恵瓊]]に命じる。建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物を企図していたことが窺える。秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成の形で今日に伝えられている。本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから﹁[[千畳閣]]﹂と通称され、[[明治]]初期の[[廃仏毀釈]]の際には厳島神社末社豊国神社本殿となり現在に至る。
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西暦[[1595年]]︵日本は[[文禄]]4年︶に現[[ベルギー]]の[[アントウェルペン]]︵アントワープ。当時は[[スペイン]]領[[南ネーデルラント]]︶で刊行された、[[ヨーロッパ]]最初の日本地図とされる﹁[[ルイス・テイセラ|テイセラ]]の日本図﹂<ref>{{ |
西暦[[1595年]]︵日本は[[文禄]]4年︶に現[[ベルギー]]の[[アントウェルペン]]︵アントワープ。当時は[[スペイン]]領[[南ネーデルラント]]︶で刊行された、[[ヨーロッパ]]最初の日本地図とされる﹁[[ルイス・テイセラ|テイセラ]]の日本図﹂<ref>{{Cite web|和書|url=http://kicho.lib.agu.ac.jp/4DACTION/Web_Meisai?kubun=8&seq=3|publisher=愛知学院大学|title=テイセラ日本図|quote=正確には、[[アブラハム・オルテリウス]]がテイセラの原図を基に﹁世界の舞台﹂1595年版に収録したもの。|accessdate=2020-9-24}}</ref>には、厳島が'''Itoqulchima'''として記されている。この地図には[[令制国]]名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえる。
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考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、前述の菩提院遺跡や、祝師(ものもうし)屋敷跡などから中世から近世にかけての遺物が数多く出土している<ref>『祝師屋敷跡発掘調査報告書』(1995) 祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団</ref>。 |
考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、前述の菩提院遺跡や、祝師(ものもうし)屋敷跡などから中世から近世にかけての遺物が数多く出土している<ref>『祝師屋敷跡発掘調査報告書』(1995) 祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団</ref>。 |
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=== 近世 === |
=== 近世 === |
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[[ファイル:誓真釣井 Seishin-Tsurui Wall - panoramio.jpg|サムネイル|誓真釣井]] |
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[[江戸時代]]、厳島は[[広島藩]]に4か所ある町制([[広島市|広島城下]]・[[三原市|三原城下]]・[[尾道市|尾道]]・'''厳島''')の一つとして直轄地とされ、宮島奉行のもと商業や廻船業が保護された。実質的に島を支配していたのは[[厳島神社]]・[[大聖院_(宮島)|大聖院]]・[[大願寺_(廿日市市)|大願寺]]の3寺社および宮島奉行で、厳島神社は島内および[[安芸国]]の寺社を統括する棚守に、大聖院は島内の供僧の統括に、大願寺は寺社の造営修理の統括に位置づけられた。宮島奉行とともに宮島元締役・宮島帳元がおかれ、厳島は神社を中心とした観光地として発展した。厳島を描いた当時の絵図でも参道に並ぶ店々が描かれており、そのにぎわいぶりが窺える。 |
[[江戸時代]]、厳島は[[広島藩]]に4か所ある町制([[広島市|広島城下]]・[[三原市|三原城下]]・[[尾道市|尾道]]・'''厳島''')の一つとして直轄地とされ、宮島奉行のもと商業や廻船業が保護された。実質的に島を支配していたのは[[厳島神社]]・[[大聖院_(宮島)|大聖院]]・[[大願寺_(廿日市市)|大願寺]]の3寺社および宮島奉行で、厳島神社は島内および[[安芸国]]の寺社を統括する棚守に、大聖院は島内の供僧の統括に、大願寺は寺社の造営修理の統括に位置づけられた。宮島奉行とともに宮島元締役・宮島帳元がおかれ、厳島は神社を中心とした観光地として発展した。厳島を描いた当時の絵図でも参道に並ぶ店々が描かれており、そのにぎわいぶりが窺える。 |
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=== 幕末 === |
=== 幕末 === |
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[[尊皇攘夷]]・[[公武合体]]を掲げる[[長州藩]]と[[徳川幕府]]の対立が頂点に達し、[[長州征討]]において厳島対岸も戦場となった。[[慶応]]2年[[8月 (旧暦)|8月]]([[1866年]]9月頃<ref>[[旧暦]]([[和暦]])の慶応2年8月1日と8月30日(同月最終日)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])では1866年9月9日と10月8日。</ref>)、第二次[[長州征討]]の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は[[勝海舟]]、長州藩代表は[[広沢真臣]]と[[井上馨]]。桂小五郎([[木戸孝允]])も加わっている。勝海舟の自著『氷川清話』に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。勝が「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。 |
[[尊皇攘夷]]・[[公武合体]]を掲げる[[長州藩]]と[[徳川幕府]]の対立が頂点に達し、[[長州征討]]において厳島対岸も戦場となった。[[慶応]]2年[[8月 (旧暦)|8月]]([[1866年]]9月頃<ref group="*">[[旧暦]]([[和暦]])の慶応2年8月1日と8月30日(同月最終日)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])では1866年9月9日と10月8日。</ref>)、第二次[[長州征討]]の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は[[勝海舟]]、長州藩代表は[[広沢真臣]]と[[井上馨]]。桂小五郎([[木戸孝允]])も加わっている。勝海舟の自著『氷川清話』に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。勝が「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。 |
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=== 近代 === |
=== 近代 === |
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[[ファイル:NDL-DC 1312720-Toyohara Chikanobu-日本三景之内安芸厳島之図-明治1 -cmb.jpg|サムネイル|『日本三景之内安芸厳島之図』楊洲周延画 [[明治]]元年([[1868年]])]] |
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[[慶応]]4年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]から[[明治元年]][[10月18日 (旧暦)|10月18日]]︵[[1868年]]の[[4月5日]]から[[12月1日]]︶にかけて[[神仏分離令]]が発布されると、民衆を巻き込んだ[[廃仏毀釈]]運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて[[廃寺]]となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われるなどしている。
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[[慶応]]4年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]から[[明治元年]][[10月18日 (旧暦)|10月18日]]︵[[1868年]]の[[4月5日]]から[[12月1日]]︶にかけて[[神仏分離令]]が発布されると、民衆を巻き込んだ[[廃仏毀釈]]運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて[[廃寺]]となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われるなどしている。
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島の東沖合いにある[[江田島]]に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、﹁神聖な島﹂というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。
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島の東沖合いにある[[江田島]]に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、﹁神聖な島﹂というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。
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[[ファイル:Torii ca 1900.jpg|サムネイル|厳島神社大鳥居 1900年ごろ]] |
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[[1889年]](明治22年)、[[佐伯郡]]で[[町村制]]が施行され、厳島では全島を区域とする厳島町([[宮島町]]の前身)が発足する。 |
[[1889年]](明治22年)、[[佐伯郡]]で[[町村制]]が施行され、厳島では全島を区域とする厳島町([[宮島町]]の前身)が発足する。 |
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[[1897年]]︵明治30年︶8月、[[広島湾要塞]]の一翼を担う鷹ノ巣低砲台が島内に着工。翌[[1898年]]︵明治31年︶、鷹ノ巣高砲台を着工。砲台そのものは[[1926年]]︵[[大正]]15年︶に廃止<ref> |
[[1897年]]︵明治30年︶8月、[[広島湾要塞]]の一翼を担う鷹ノ巣低砲台が島内に着工。翌[[1898年]]︵明治31年︶、鷹ノ巣高砲台を着工。砲台そのものは[[1926年]]︵[[大正]]15年︶に廃止<ref>[[土木学会]]﹃日本の近代土木遺産﹄2005年版p220-221︵土木学会出版︶</ref>されたが、砲座や観測所などの遺構群が現存する。
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[[1923年]](大正12年)、厳島は国の[[史跡]][[名勝]]に指定され、以後、近代的な保護・整備体制が充実していく。 |
[[1923年]](大正12年)、厳島は国の[[史跡]][[名勝]]に指定され、以後、近代的な保護・整備体制が充実していく。 |
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[[ファイル:KITLV A959 - Itsukushima jinja (midden), de shinto-schrijn op Itsukushima, een eiland bij Hatsukaichi in Japan, KITLV 107992.tiff|サムネイル|厳島神社とその周辺 [[1930年代の日本|1930年代]]ごろ]] |
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[[第二次世界大戦]]中には、厳島の南沖合いの[[柱島]]沖が[[聯合艦隊]]の泊地となり([[柱島泊地]])、[[呉海軍工廠|海軍工廠]]を持つ[[呉市]]や、[[第2総軍 (日本軍)|第2総軍]]・陸軍[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]司令部が置かれた重要拠点・[[広島市]]の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。 |
[[第二次世界大戦]]中には、厳島の南沖合いの[[柱島]]沖が[[聯合艦隊]]の泊地となり([[柱島泊地]])、[[呉海軍工廠|海軍工廠]]を持つ[[呉市]]や、[[第2総軍 (日本軍)|第2総軍]]・陸軍[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]司令部が置かれた重要拠点・[[広島市]]の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。 |
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[[1936年]]([[昭和]]11年)、日独合作映画『[[新しき土]]』の撮影が行われた。 |
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[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]の[[広島市への原子爆弾投下]]では、爆風によって島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。 |
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=== 現代 === |
=== 現代 === |
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日本の敗戦と共に、厳島は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍・[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に接収された。占領後の[[1954年]](昭和29年)には、新婚旅行代わりの日本訪問中の[[マリリン・モンロー]]と[[ジョー・ディマジオ]]の夫妻が厳島を訪問している。 |
日本の敗戦と共に、厳島は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍・[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に接収された。占領後の[[1954年]](昭和29年)には、新婚旅行代わりの日本訪問中の[[マリリン・モンロー]]と[[ジョー・ディマジオ]]の夫妻が厳島を訪問している。 |
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[[1950年]](昭和25年)には、厳島が[[瀬戸内海国立公園]]の追加指定区域になった。また、同年、厳島町が「[[宮島町]]」に改称した。[[1952年]](昭和27年)には、厳島神社社殿の「昭和大修理」が竣工する。[[1959年]](昭和34年)には[[宮島水族館]]が |
[[1950年]](昭和25年)には、厳島全体が[[瀬戸内海国立公園]]の追加指定区域になった。また、同年、厳島町が「[[宮島町]]」に改称した。[[1952年]](昭和27年)には、厳島神社社殿の「昭和大修理」が竣工する。[[1959年]](昭和34年)には広島県立水産資源研究所(現・[[宮島水族館]])がオープンした。 |
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[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて、厳島周辺の海域の水質悪化はピークを迎えた。[[海上保安庁]]は、直径 |
[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて、厳島周辺の海域の水質悪化はピークを迎えた。[[海上保安庁]]は、直径30cmの白い円盤を海に沈めて透明度を測定していたが、1969年の厳島付近の調査ではわずか20cmで円盤が見えなくなるという、日本屈指の汚染状態となっていた。汚染源は、[[工場排水]]や[[海洋投入|し尿投棄]]によるものであった<ref>﹁広がる海の公害 特にひどい宮島 汚染、四年前の十倍﹂﹃中國新聞﹄昭和45年1月4日15面</ref>。
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[[1991年]]︵[[平成]]3年︶[[9月27日]]に襲来した[[平成3年台風第19号|台風19号]]では、厳島神社左楽房︵国宝の附指定︶や能舞台︵重要文化財︶が倒壊するなど甚大な被害が出た。[[1996年]]︵平成8年︶には、厳島神社が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]︵[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]︶に登録された。[[日本の世界遺産]]としても日本の世界文化遺産しても6件目の物件であった。同年に[[原爆ドーム]]も︵5件目として︶登録されている。
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[[1991年]]([[平成]]3年)[[9月27日]]に襲来した[[平成3年台風第19号|台風19号]]では、厳島神社左楽房(国宝の附指定)や能舞台(重要文化財)が倒壊するなど甚大な被害が出た。 |
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[[1996年]]︵平成8年︶には、厳島神社が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]︵[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]︶に登録された。[[日本の世界遺産]]としても日本の世界文化遺産しても6件目の物件であった。同年に[[原爆ドーム]]も︵5件目として︶登録されている。
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[[ファイル:Secretary Kerry Poses for a Photo With His Counterparts (25742344763).jpg|thumb|250px|2016年G7広島外務大臣会合の際の厳島神社訪問]] |
[[ファイル:Secretary Kerry Poses for a Photo With His Counterparts (25742344763).jpg|thumb|250px|2016年G7広島外務大臣会合の際の厳島神社訪問]] |
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台風による被害は[[2004年]]︵平成16年︶の[[平成16年台風第18号|台風18号]]も大きなもので、厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水した。この頃には、厳島周辺で海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出るようになってきたことが指摘され始めており、大潮のたびに激しく洗われて地盤から危うくなり始めた[[ヴェネツィア]]︵[[イタリア]]︶などと同じく[[地球温暖化]]による悪影響の分かりやすい実例と捉えられ、その意味でも注目を集めるようになった。[[2005年]]︵平成17年︶[[11月3日]]、[[宮島町]]は[[大野町]]とともに[[廿日市市]]に[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]される。これに伴い、厳島神社の住所︵[[社務所]]所在地住所︶は﹁[[佐伯郡]]宮島町1-1﹂から﹁廿日市市宮島町1-1﹂に変わった。[[2016年]]︵平成28年︶のG7伊勢志摩サミット︵[[第42回先進国首脳会議]]︶に伴う広島外務大臣会合の際は、初日 |
台風による被害は[[2004年]]︵平成16年︶の[[平成16年台風第18号|台風18号]]も大きなもので、厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水した。この頃には、厳島周辺で海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出るようになってきたことが指摘され始めており、大潮のたびに激しく洗われて地盤から危うくなり始めた[[ヴェネツィア]]︵[[イタリア]]︶などと同じく[[地球温暖化]]による悪影響の分かりやすい実例と捉えられ、その意味でも注目を集めるようになった。
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[[2005年]]︵平成17年︶[[11月3日]]、[[宮島町]]は[[大野町 (広島県)|大野町]]とともに[[廿日市市]]に[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]される。これに伴い、厳島神社の住所︵[[社務所]]所在地住所︶は﹁[[佐伯郡]]宮島町1-1﹂から﹁廿日市市宮島町1-1﹂に変わった。
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[[2016年]](平成28年)のG7伊勢志摩サミット([[第42回先進国首脳会議]])に伴う広島外務大臣会合の際は、初日にG7の[[外務大臣]]が揃って厳島神社を訪問した。 |
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[[2023年]]([[令和]]5年)、G7広島サミット([[第49回先進国首脳会議]])においては、各国首脳が厳島神社を訪れ、その後「[[岩惣]]」に移動してセッション3「外交・安全保障」をワーキングディナー形式で実施した。 |
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== 風習 == |
== 風習 == |
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島全体が神域([[神体]])とされたため、[[血]]や[[死]]といった[[穢れ]]の忌避は顕著であった。 |
島全体が神域([[神体]])とされたため、[[血]]や[[死]]といった[[穢れ]]の忌避は顕著であった。 |
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『棚守房顕覚書』によれば、島に死人が出ると即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR[[宮島口駅]]のやや西にあり、遺族は[[喪]]が明けるまで島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと「[[あの世]]」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は[[第二次世界大戦]]頃までは続いていた。また、島には[[墓地]]も墓も築いてはならず、現在でも1箇所も1基も存在しない。島の妊婦については、『棚守房顕覚書』に「婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」とあるように、[[出産]]が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち、100日を過ごすことで血の穢れが払われれば、ようやく島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外[[摂末社|摂社]]を「[[地御前神社]]」(所在地:[[廿日市市]]地御前、[[江戸時代]]における[[安芸国]][[佐伯郡]]地御前村)というように、ここでいう「地の方」とは対岸の[[本州]]を指す。また、[[生理]]中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を『棚守房顕覚書』は「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。『あせ山』は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」と記している。 |
﹃棚守房顕覚書﹄によれば、島に死人が出ると即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR[[宮島口駅]]のやや西にあり、遺族は[[喪]]が明けるまで島に戻ることができなかった。﹁~の向こう﹂と言うと﹁[[あの世]]﹂を連想するため、﹁~の前﹂と言い換えていた。この風習は[[第二次世界大戦]]頃までは続いていた。また、島には[[墓地]]も墓も築いてはならず、現在でも1箇所も1基も存在しない。島の妊婦については、﹃棚守房顕覚書﹄に﹁婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり﹂とあるように、[[出産]]が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち、100日を過ごすことで血の穢れが払われれば、ようやく島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外[[摂末社|摂社]]を﹁[[地御前神社]]﹂︵所在地‥[[廿日市市]]地御前、[[江戸時代]]における[[安芸国]][[佐伯郡]][[地御前村]]︶というように、ここでいう﹁地の方﹂とは対岸の[[本州]]を指す。また、[[月経|生理]]中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を﹃棚守房顕覚書﹄は﹁﹃あせ山﹄とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。﹃あせ山﹄は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。﹂と記している。
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=== 耕作・機織の禁止 === |
=== 耕作・機織の禁止 === |
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{{Anchors|耕作・機織りの禁止}} |
{{Anchors|耕作・機織りの禁止}} |
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[[鉄]]の[[農具]]を土に立てることを[[ |
[[鉄]]の[[農具]]を土に立てることを[[タブー|忌み]]、[[耕作]]は禁じられた。また、この島は﹁女神の御[[神体]]内﹂とされたことから、女性の仕事の象徴とみなされていた[[機織]]や布[[晒]]︵ぬのさらし︶も禁忌とされていた︵[[山の神]]﹄を参照︶。﹃棚守房顕覚書﹄は﹁絶えて[[五穀]]を作らず、布織り布さらす事を禁ず﹂と記している。特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸から[[行商人]]が船を出す光景は[[第二次世界大戦]]後まで続いた。[[廿日市市|廿日市]]の町は[[鎌倉時代]]、厳島神社の祭礼最終日︵毎月20日︶に立った[[市場]]から発展した町である。
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=== 鹿・猿との共生 === |
=== 鹿・猿との共生 === |
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[[ファイル:芸州厳島図会 塔岡楊枝店.jpg|サムネイル|﹃芸州厳島図会 塔岡楊枝店﹄ [[天保]]13年︵[[1842年]]︶ 現在の塔の岡。五重塔、千畳閣近辺。]]
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{{Anchors|シカ・サルとの共生}} |
{{Anchors|シカ・サルとの共生}} |
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厳島に棲息する |
厳島に棲息する[[ニホンジカ]]は太古から棲息していたと見られるが、[[歴史時代]]に入ると[[奈良]]の[[春日大社]]にある神鹿︵しんろく︶思想の影響も受けつつ、[[神使]]として大切に扱われるようになった。それ以来、厳島では、鹿が家に入らないように﹁鹿戸﹂を立て、家々で出た残飯は﹁鹿桶﹂に入れて与えるようになった。﹃棚守房顕覚書﹄によると、鹿を害するのを避けるため、島内では犬を飼わず、外から犬が入り込むと島民が捕まえて対岸に放したという。
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厳島に棲息する |
厳島に棲息する[[ニホンザル]]は古くから、彼らが家に入り込んで食べ物を盗っていっても捕まえて罰することはなかったという。 |
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=== 潮汲み === |
=== 潮汲み === |
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町の[[商家]]や民家では、鳥居のある浜で海水を汲み、門前を清める﹁潮汲み﹂という習慣がある。[[元旦]]に行うものを﹁新潮迎︵ |
町の[[商家]]や民家では、鳥居のある浜で海水を汲み、門前を清める「潮汲み」という習慣がある。[[元旦]]に行うものを「新潮迎(わかしおむかえ)」という。[[第二次世界大戦]]後は数人が行うのみにまで減っていたが、21世紀初期には見直されるようになり、行う家や店が増えつつある。 |
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== 文化・施設・観光 == |
== 文化・施設・観光 == |
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[[2007年]]︵平成19年︶から、毎年1回、[[廿日市]][[商工会議所]]主催の[[ご当地検定]]である﹁宮島検定﹂が行われており、宮島の歴史や文化・自然に関する知識を問われる出題がなされ、合格者には認定カードが発行される<ref>[http://www.cci201.or.jp/mk/top.htm 宮島検定︵廿日市商工会議所︶]</ref>。同商工会議所は、宮島に関する多くの情報を網羅した﹃宮島本﹄︵※宮島検定試験の公式参考書も兼ねる︶を発行している。
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[[2007年]]︵平成19年︶から、毎年1回、[[廿日市]][[商工会議所]]主催の[[ご当地検定]]である﹁宮島検定﹂が行われており、宮島の歴史や文化・自然に関する知識を問われる出題がなされ、合格者には認定カードが発行される<ref>[http://www.cci201.or.jp/mk/top.htm 宮島検定︵廿日市商工会議所︶]</ref>。同商工会議所は、宮島に関する多くの情報を網羅した﹃宮島本﹄︵※宮島検定試験の公式参考書も兼ねる︶を発行している。
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=== 宮島訪問税 === |
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厳島が観光地として発展するにつれて地元行政の負担も増大してきたことから、[[2023年]]︵令和5年︶10月1日より、廿日市市が[[法定外普通税]]として﹁宮島訪問税﹂を課すこととなった<ref name="itsukushima"/><ref name="税概要">[https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/soshiki/110/59551.html 宮島訪問税の概要] 廿日市市、2023年7月11日︵2023年9月2日閲覧︶。</ref>。
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来訪者に負担を求める法定外普通税・[[法定外目的税]]は先行していくつか存在するが、宮島訪問税は原因者負担の考え方により設計され<ref name="税概要" />、宮島住民などを課税対象から除外していることに特徴がある<ref name="税概要" /><ref>{{PDFLink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000758653.pdf ﹁宮島訪問税﹂制度の概要]}} 総務省、2023年9月2日閲覧。</ref>。
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課税対象は船舶により宮島に入る行為であるが、上述のように宮島住民や宮島への通勤・通学者は課税対象外となり、未就学児・[[修学旅行]]などの学校行事による団体訪問・障がい者については課税免除とされる<ref name="税概要" />。 |
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税率は「1人1回100円」と「1人1年間で500円」の選択制であり、フェリーを利用して宮島を訪問する場合は、(課税対象外・課税免除に該当せず、後者の方法により納税済みでもない場合)1回分の税金がフェリー運賃とともに[[特別徴収]]される。なお、[[青春18きっぷ]]など、宮島航路を含みつつも広域で販売されるフリーきっぷでは、宮島訪問税を含まずに販売される場合があり、そのような乗車券を利用して宮島航路に乗船する場合は、別途で訪問税分のみのきっぷを購入する形となる<ref>[https://trafficnews.jp/post/127857 青春18きっぷのみで乗船不可に「宮島フェリー」 ICOCA導入の一方で改札方式も変更] 乗りものニュース、2023年8月30日(2023年9月2日閲覧)。</ref>。 |
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== 交通アクセス == |
== 交通アクセス == |
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=== 船 === |
=== 船 === |
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[[ファイル:Miyajima and coast.png|サムネイル|259x259ピクセル|宮島口駅(対岸)と宮島フェリーターミナル]] |
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[[JR西日本宮島フェリー]]︵[[宮島連絡船]]︶と[[宮島松大汽船]]の[[フェリー]]が、宮島口桟橋︵JR[[宮島口駅]]から徒歩3分、[[広電宮島口駅]]から徒歩1分︶から厳島までを結んでいる。所要は約10分。JR宮島航路は[[宮島桟橋]]行きの昼間時間帯のみ、西に少し大回りして厳島神社に近いコースをとり、満潮時には大鳥居に接近する。
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[[JR西日本宮島フェリー]]︵[[宮島連絡船]]︶と[[宮島松大汽船]]の[[フェリー]]が、宮島口桟橋︵JR[[宮島口駅]]から徒歩3分、[[広電宮島口駅]]から徒歩1分︶から厳島までを結んでいる。所要は約10分。JR宮島航路は[[宮島桟橋]]行きの昼間時間帯のみ、西に少し大回りして厳島神社に近いコースをとり、満潮時には大鳥居に接近する。
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[[広島港]]からは[[瀬戸内シーライン]]の[[高速船]](所要約30分)があるほか、[[瀬戸内海汽船]]の客船「銀河」による厳島までのランチクルーズもある(詳細は各社サイト等を参照)。 |
[[広島港]]からは[[瀬戸内シーライン]]の[[高速船]](所要約30分)があるほか、[[瀬戸内海汽船]]の客船「銀河」による厳島までのランチクルーズもある(詳細は各社サイト等を参照)。 |
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[[アクアネット広島]]は、厳島神社と同様に世界遺産である[[原爆ドーム]]と合わせて訪れる観光客も多いことから、広島市内の[[広島平和記念公園|平和記念公園]]近くの[[元安桟橋]]と厳島を結ぶ「世界遺産航路」を就航している。また、[[マリーナホップ]]と宮島の間に高速船を就航している。大野桟橋<ref name="aqua-net-h">{{Cite web|url=http://www.aqua-net-h.co.jp/ohno/|title=宮島行大鳥居遊覧航路 |publisher=アクアネット広島|accessdate=2015-6-19}}</ref>と[[宮島桟橋|宮島港3号桟橋]]間の「宮島行大鳥居遊覧航路」は不定期運航である |
[[アクアネット広島]]は、厳島神社と同様に世界遺産である[[原爆ドーム]]と合わせて訪れる観光客も多いことから、広島市内の[[広島平和記念公園|平和記念公園]]近くの[[元安桟橋]]と厳島を結ぶ﹁世界遺産航路﹂を就航している。また、[[マリーナホップ]]と宮島の間に高速船を就航している。大野桟橋<ref name="aqua-net-h">{{Cite web|和書|url=http://www.aqua-net-h.co.jp/ohno/|title=宮島行大鳥居遊覧航路 |publisher=アクアネット広島|accessdate=2015-6-19}}</ref>と[[宮島桟橋|宮島港3号桟橋]]間の﹁宮島行大鳥居遊覧航路﹂は不定期運航である。
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=== 島内交通 === |
=== 島内交通 === |
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[[ファイル:Miyajima Ropeway (13890461069).jpg|サムネイル|宮島ロープウェイ]] |
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;海岸地区 |
;海岸地区 |
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島内ではかつて[[広電バス]]が運行されていたが廃止されてからは、[[宮島交通]]が﹁メイプルライナー﹂をおおよそ1時間に1本運行している。半数以上の便は宮島桟橋 - [[宮島水族館]]間を往復するのみだが、上杉之浦や包ヶ浦まで行くものもある<ref>http://www.miyajima.or.jp/timetable/newryoukin2.pdf</ref>。2012年に[[宮島交通]]は﹁メイプルライナー﹂を[[カープタクシー]]傘下の[[宮島カープタクシー]]に譲渡した。
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島内ではかつて[[広電バス]]が運行されていたが廃止されてからは、[[宮島交通]]が﹁メイプルライナー﹂をおおよそ1時間に1本運行している。半数以上の便は宮島桟橋 - [[宮島水族館]]間を往復するのみだが、上杉之浦や包ヶ浦まで行くものもある<ref>http://www.miyajima.or.jp/timetable/newryoukin2.pdf</ref>。2012年に[[宮島交通]]は﹁メイプルライナー﹂を[[カープタクシー]]傘下の[[宮島カープタクシー]]に譲渡した。
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;島の内部 |
;島の内部 |
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[[広島観光開発]]が紅葉谷駅から[[弥山 (広島県)|弥山]]山頂に近い獅子岩駅までロープウェイを運行している。また厳島神社裏手にある紅葉谷公園入口から無料の送迎バスも運行している<ref>[http://miyajima-ropeway.info/ropeway/access.html 交通アクセス] - 宮島ロープウェイ</ref>。 |
[[広島観光開発]]が紅葉谷駅から[[弥山 (広島県)|弥山]]山頂に近い獅子岩駅までロープウェイを運行している。また厳島神社裏手にある紅葉谷公園入口から無料の送迎バスも運行している<ref>[http://miyajima-ropeway.info/ropeway/access.html 交通アクセス] - 宮島ロープウェイ</ref>。 |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
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=== 美術 === |
=== 美術 === |
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[[ファイル:厳島八景之図 谷原麋鹿.jpg|サムネイル|『厳島八景之図 谷原麋鹿』 19世紀 [[岳亭一麿]]画]] |
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﹁[[厳島神社#描かれた厳島神社]]﹂は、厳島神社がどのように描かれてきたかを紐解く内容であって、安芸の宮島︵厳島︶を対象としていないが、そもそも画題としての厳島神社と安芸の宮島は多分に重複している。[[絵画]]作品において、厳島神社関連を外して安芸の宮島を描いたものも無いわけではないが、特筆性の高いものを見出すのは難しい。
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﹁[[厳島神社#描かれた厳島神社]]﹂は、厳島神社がどのように描かれてきたかを紐解く内容であって、安芸の宮島︵厳島︶を対象としていないが、そもそも画題としての厳島神社と安芸の宮島は多分に重複している。[[絵画]]作品において、厳島神社関連を外して安芸の宮島を描いたものも無いわけではないが、特筆性の高いものを見出すのは難しい。
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19番の﹁己斐の松原﹂は現在の[[広島市]][[西区 (広島市)|西区]]旧[[己斐町]]地区︵当時の[[佐伯郡]]己斐村︶の己斐橋東詰から別れの茶屋の街道沿いにかけての地域にあった[[松原]]で、しかしその松は[[1967年]]︵昭和42年︶頃に全て[[伐採]]されてしまった。﹁五日市﹂は現在の広島市[[佐伯区]]旧[[五日市町 (広島県)|五日市町]]地区︵当時の佐伯郡五日市村︶。﹁宮島駅﹂は[[山陽本線]]の駅で、当時の[[山陽鉄道]]宮島駅、のちの[[日本国有鉄道]]︵国鉄︶宮島駅、現在の[[西日本旅客鉄道]]︵JR西日本︶[[宮島口駅]]。20番の﹁市杵島姫のまします宮どころ﹂は、女神・市杵島姫︵{{small|[[イチキシマヒメ|いちきしまひめ]]}}︶のいらっしゃる宮所/宮処︵意‥神の鎮座する所︶、すなわち、厳島神社もしくは宮島︵厳島︶を指す。22番は、[[天文 (元号)|天文]]24年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]︵[[1555年]][[10月16日]]︶に起きた[[厳島の戦い]]について歌っている。
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19番の﹁己斐の松原﹂は現在の[[広島市]][[西区 (広島市)|西区]]旧[[己斐町]]地区︵当時の[[佐伯郡]]己斐村︶の己斐橋東詰から別れの茶屋の街道沿いにかけての地域にあった[[松原]]で、しかしその松は[[1967年]]︵昭和42年︶頃に全て[[伐採]]されてしまった。﹁五日市﹂は現在の広島市[[佐伯区]]旧[[五日市町 (広島県)|五日市町]]地区︵当時の佐伯郡五日市村︶。﹁宮島駅﹂は[[山陽本線]]の駅で、当時の[[山陽鉄道]]宮島駅、のちの[[日本国有鉄道]]︵国鉄︶宮島駅、現在の[[西日本旅客鉄道]]︵JR西日本︶[[宮島口駅]]。20番の﹁市杵島姫のまします宮どころ﹂は、女神・市杵島姫︵{{small|[[イチキシマヒメ|いちきしまひめ]]}}︶のいらっしゃる宮所/宮処︵意‥神の鎮座する所︶、すなわち、厳島神社もしくは宮島︵厳島︶を指す。22番は、[[天文 (元号)|天文]]24年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]︵[[1555年]][[10月16日]]︶に起きた[[厳島の戦い]]について歌っている。
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=== 映画 === |
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* [[弥次喜多 前篇 善光寺詣りの巻]](1921年) - 宮島を舞台にした場面に、厳島神社・五重塔・鹿・その他のものが登場。 |
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* [[地獄門]](1953年) - 厳島神社が登場。 |
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* [[太陽、海を染めるとき]](1961年) - 宮島ロープウエーなどが登場。 |
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* [[フランケンシュタイン対地底怪獣]](1965年) |
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* [[夜霧の慕情]](1966年) |
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* [[トラック野郎・爆走一番星]](1975年) |
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== 出身人物・ゆかりのある人物 == |
== 出身人物・ゆかりのある人物 == |
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* [[石原光子]] - 衆議院議員[[石原慎太郎]]の母 |
* [[石原光子]] - 衆議院議員[[石原慎太郎]]の母 |
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* [[向井久子]] - バレーボール選手 |
* [[向井久子]] - バレーボール選手 |
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== 人口・世帯数 == |
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2023年11月1日時点の宮島町の人口は1417人、世帯数は785世帯<ref>[https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/soshiki/126/10971.html 住民基本台帳人口(最新)] 廿日市市 2023年12月9日閲覧。</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
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{{Reflist|group=*}} |
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=== 出典 === |
=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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{{節スタブ}} |
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* [http://www.rcc.net/prewar-film/pref_hiroshima_content.htm ひろしま戦前の風景] - 中国放送(RCC)。戦前の映像がある。 |
* [http://www.rcc.net/prewar-film/pref_hiroshima_content.htm ひろしま戦前の風景] - 中国放送(RCC)。戦前の映像がある。 |
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* {{Cite book|和書|author=祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団 |title=祝師屋敷跡発掘調査報告書 |publisher=祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団 |year=1995 |NCID=BA50705715 |id={{全国書誌番号|20039225}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000002866285 |ref=harv}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{Commonscat}} |
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{{Wikivoyage| |
{{Wikivoyage|ja:宮島|宮島}} |
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* [[日本三大一覧]] |
* [[日本三大一覧]] |
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** [[日本三景]] |
** [[日本三景]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{国指定文化財等データベース|401|2315|厳島}} |
* {{国指定文化財等データベース|401|2315|厳島}} |
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* [ |
* [https://www.miyajima.or.jp/index.php 社団法人宮島観光協会] |
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* [https://www.aqua-net-h.co.jp/ アクアネット広島(世界遺産航路・宮島大野航路を運航)] |
* [https://www.aqua-net-h.co.jp/ アクアネット広島(世界遺産航路・宮島大野航路を運航)] |
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{{日本三景}} |
{{日本三景}} |
2024年6月24日 (月) 23:11時点における版
厳島 | |
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![]() | |
所在地 |
![]() |
所在海域 | 瀬戸内海 安芸灘 |
座標 | 北緯34度16分0秒 東経132度18分0秒 / 北緯34.26667度 東経132.30000度座標: 北緯34度16分0秒 東経132度18分0秒 / 北緯34.26667度 東経132.30000度 |
面積 | 30.39 km² |
海岸線長 | 28.9 km |
最高標高 | 535.0 m |
最高峰 | 弥山 |
![]() |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Itsukushimajinja-5.jpg/280px-Itsukushimajinja-5.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/1167-1_Miyajimach%C5%8D%2C_Hatsukaichi-shi%2C_Hiroshima-ken_739-0588%2C_Japan_-_panoramio_%283%29.jpg/280px-1167-1_Miyajimach%C5%8D%2C_Hatsukaichi-shi%2C_Hiroshima-ken_739-0588%2C_Japan_-_panoramio_%283%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/77/Sanki-gongen-d%C5%8D.jpg/200px-Sanki-gongen-d%C5%8D.jpg)
(弥山山頂付近に所在)
概要
古代より、島そのものが自然崇拝の対象であったと考えられる。平安時代末期以降は、厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場するようになった。江戸時代中期には、丹後国︵現・京都府北部︶の天橋立、陸奥国︵現・東北地方東部の宮城県︶の松島と並ぶ、日本三景の一つに挙げられる景勝地として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった[3]。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており[* 1]、2011年には、トリップアドバイザーが﹁外国人に人気の日本の観光スポット﹂トップ20の第1位と発表した[4]。原爆ドームとならんで広島県の代名詞的存在の一つである[3]。 景勝地としての厳島の中心は、厳島神社である[3]。海上に浮かぶ朱塗の大鳥居と社殿で知られる厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した[3]。その社殿群の構成は、平安時代の寝殿造の様式を取り入れた優れた建築景観をなし、敷地内の神社殿は海上に立地し、海と景観に調和して配置され、中央に人工建築、手前に海、背景に山々の三位一体が組み合わさり、人工の成果と自然の要素を組み合わせた景観は他に比類がなく、これらは清盛の卓越した発想によるものである[3]。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊︵いずれも国宝︶などのほか、主要な建造物はすべて国宝または国の重要文化財に指定されている[3]。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した﹁平家納経﹂は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および弥山原始林は、1996年︵平成8年︶にユネスコ世界遺産に登録されている[3]。海岸の一部は2012年︵平成24年︶7月3日、ミヤジマトンボの生息地としてラムサール条約に登録された[5]。 島の最高峰・弥山︵標高535メートル︶山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があり、毎年元旦未明には初日の出を目指す人で混み合う。この地を愛した伊藤博文は﹁日本三景の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り﹂と絶賛し、それがきっかけで明治時代後期に弥山への一般登山路が整備された。1900年︵明治33年︶に定期航路が開設されると、旧来の渡し船に依存していた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。 島の全域︵周辺海域を含む︶が1934年︵昭和9年︶に瀬戸内海国立公園に編入され、自然公園法が定める特別保護区域となっている。1952年︵昭和27年︶には国の特別史跡及び特別名勝に指定され、弥山の原始林は国の天然記念物に指定されている。 かつて島全体が佐伯郡宮島町と一致していたが、2005年︵平成17年︶に廿日市市と合併した。2021年︵令和3年︶8月2日、厳島神社付近の町並みは﹁廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区﹂として重要伝統的建造物群保存地区に選定された[6]。名称
厳島
﹁いつくしま︵厳島、異表記‥嚴島、嚴嶋ほか︶﹂という地名は、﹁イツク︵斎く。意‥心身のけがれ[* 2]を除き、身を清めて神に仕える︶+ シマ︵島︶﹂から来ていると考えられており、厳島神社の祭神の筆頭に挙げられる女神・イチキシマヒメ︵市杵島姫︶[* 3]の名に由来するか、少なくとも同根語である。厳島神社縁起の伝えるところでは、スサノオ︵素戔男︶の娘とされる宗像三女神、すなわち、イチキシマヒメ︵市杵島姫︶、タゴリヒメ︵田心姫。タキリビメの別名︶、タギツヒメ︵湍津姫︶の3柱は、2羽の神鴉︵しんあ。神使の鴉︿カラス﹀︶に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。 島の名として﹁嚴嶋大明神﹂のように平安時代からの用例がある。江戸時代前期の寛永20年︵1643年︶に儒学者・林春斎︵林鵞峰︶が著した﹃日本国事跡考﹄のうちの陸奥国のくだりにある、いわゆる﹁三処奇観︵さんじょきかん︶﹂の一文にもその名が見える。この景観評価は﹁日本三景﹂の由来となった。 原文 松島 此島之外有小島若干 殆如盆池月波之景 境致之佳 與 丹後天橋立 陸奧松島 安藝嚴島 此三處為奇觀── 林春斎﹃日本国事跡考﹄︽書き下し文︾ 松まつ島しま、此この島しまの外ほかに小をじ島ま若じや干くかんあり、殆ほとんど盆池月波の景けいの如ごとし、境きや致うちの佳かなる、丹た後ん天あま橋のは立しだ、陸む奥つ松まつ島し、安あ芸き厳いつ島くし、此この三さん処じよを奇きか観んと為なす。
︽現代日本語訳例︾ 松島、この島のほかに小さな島がいくつかある。その景色はあたかも池の水面に浮かぶ月の光の波のようだ。景観の美しさ素晴らしさにより、丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の厳島、この3箇所は絶景となっている。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9d/Miyajima_in_de_provincie_Aki-Rijksmuseum_RP-P-2008-214.jpeg/250px-Miyajima_in_de_provincie_Aki-Rijksmuseum_RP-P-2008-214.jpeg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/02/The_Famous_Scenes_of_the_Sixty_States_50_Aki.jpg/180px-The_Famous_Scenes_of_the_Sixty_States_50_Aki.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ee/Brooklyn_Museum_-_Itsukushima_in_Aki_Province_-_Utagawa_Hiroshige_%28Ando%29.jpg/180px-Brooklyn_Museum_-_Itsukushima_in_Aki_Province_-_Utagawa_Hiroshige_%28Ando%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c2/Hiroshige_II_Aki_Miyajima.jpg/180px-Hiroshige_II_Aki_Miyajima.jpg)
宮島
﹁みやじま︵宮島、異表記‥宮嶋ほか︶﹂という地名は、江戸時代以降のもので、﹁ミヤ︵宮︵神社︶+ シマ︵島︶﹂を意味する。﹁宮島﹂は同名他所の地名でもあるので、安芸国︵芸州︶の宮島に特定する意をもって﹁安芸宮島/安芸の宮島︵あきのみやじま︶﹂などと呼ばれることも多い。江戸時代中期の寛保2年︵1742年︶の伊予松山藩の座頭記録には﹁芸州宮嶋江参詣……﹂とある。﹁厳島﹂﹁宮島﹂の使い分け
この島の名称について、﹁厳島﹂と﹁宮島﹂が使い分けられているが、明確な基準はない。測量を所掌する国土地理院は﹁厳島︵いつくしま︶﹂の名称を用いる。一方で島内の約8割を占める国有林を管理する林野庁[7]、周辺海域を含めた国立公園を管理する環境省[8]は﹁宮島︵みやじま︶﹂の名称を用いている。読みやすさと漢字の平易さから観光PR等においては﹁宮島﹂が選ばれやすい傾向がある。 地方自治体としても、1889年︵明治22年︶の町制施行時には﹁厳島町﹂であったが、第二次世界大戦後の1950年︵昭和25年︶には﹁宮島町﹂へ変更されるなど、行政地名にも揺れがあった。学術書や公文書の多くで﹁厳島﹂が用いられる一方、観光事業などでは﹁宮島﹂が多用される傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が﹁宮島﹂を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って﹁厳島﹂を用いる例外もある。これら表記の併存は江戸時代中期には見られた。以下に実例をあげる。 ここからは、地名︵藩政村名・行政村名など︶や作品︵絵図、浮世絵、新版画など︶の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている旧字体︵藝、國、圖、繪、會、禮︶は全て新字体に変換する。異字・俗字はそのまま表記する[9]。 ●源通親 ﹃高倉院嚴島御幸記﹄/不明 治承4年︵1180年︶高倉院の厳島御幸に随行した源通親の紀行文。表題は厳島表記だが、中の文ではすべて宮島あるいは宮じま表記。 ●﹃平家物語﹄/鎌倉時代 巻第四・厳島御幸は﹃高倉院嚴島御幸記﹄を素材として書かれている。すべて厳島表記。 ●貝原益軒 ﹃安芸国厳島図﹄/享保5年︵1720年︶作。 ●長沢芦雪 ﹃絹本淡彩宮島八景図﹄/寛政6年︵1794年︶款記。 ●北尾重政 ﹃浮絵安芸国佐伯郡厳嶋図﹄/18世紀後期に刊行。 ●歌川豊広 ﹃日本三景﹄/文政年間︵1818-1830年間︶に刊行。 添えられている狂歌師・司馬の屋嘉門︵芝の屋山陽の別号︶の漢詩には﹁夕日輝レ波厳島山﹂とある一方で、図中の説明には﹁安芸州宮島﹂とある。 ●歌川国貞 ﹃紅毛油絵風 安芸の宮島﹄/文政8年︵1825年︶刊行。 ●歌川広重 ﹃六十余州名所図会 安芸 厳島 祭礼之図﹄/嘉永6年︵1854年︶刊行。 ●歌川広重 ﹃国尽張交図会 十五 安芸宮嶋﹄/幕末直前に刊行。 ●歌川広重 団扇絵﹃日本三景 安芸 厳島﹄/嘉永5年-安政4年︵1852-1858年︶中に刊行。 広重の場合、神社には﹁厳島﹂、島には﹁宮島﹂﹁宮嶋﹂の字を用いている。その後、2代目広重︵歌川重宣︶や3代目広重︵後藤寅吉︶もこの地を描いているが、いずれも神社をも画題に入れながら﹁宮島﹂﹁宮しま﹂としており、明治維新以後急速に﹁宮島﹂の名称が広まっていったことを窺わせる。その傾向が、対岸にある鉄道駅および地区名としての﹁宮島口﹂︵厳島口ではない︶に現れている[* 4]。 ●2代目歌川広重 ﹃諸国名所百景 安芸宮島汐干﹄/安政6年︵1860年︶刊行。 ●明治元年︵1868年/1869年︶、藩政村[* 5]として安芸国佐伯郡に﹁安芸広島藩知行厳島﹂あり/﹃旧高旧領取調帳﹄より。 ●地方自治体﹁厳島町﹂の成立/1889年︵明治22年︶施行。 ●小林清親 ﹃日本名勝図会 厳島﹄/1896年︵明治29年︶刊行。 ●川瀬巴水 ﹃旅みやげ 第二集﹄﹁晴天の雪︵宮嶋︶﹂/1921年︵大正10年︶刊行。 ●地方自治体﹁厳島町﹂から﹁宮島町﹂への名称変更/1950年︵昭和25年︶施行。地理
広島湾の西の端、広島市街の南西約20kmに位置する。島は周囲約30km、面積30.2km2[10]で楕円形の形状をなしている。対岸の本州︵廿日市市阿品~同市大野︶に寄り添うように北東から南西に伸びる︵島の北東径約9km、南西径約4km︶。対岸︵本州︶と島を隔てる瀬戸は﹁大野瀬戸︵おおのせと︶﹂と呼ばれ、最も狭い所で300mしか離れていない︵宮島口港~宮島港間のフェリー航路は1.8km︶。大野瀬戸の反対側︵島から南東方向︶には、絵の島、大奈佐美島、能美島︵江田島等と一体︶など多くの島が点在する。島の北端・聖崎の先端は風化によってやや崩落しており、満潮時には﹁蓬莱島︵ほうらいじま︶﹂と呼ばれる島になる。その沖合に暗礁があり、上には石灯篭が置かれている。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dd/Itsukushima-island.png)
地質
島は主に花崗岩で構成されている。中国山地の断層運動によって隆起し、最終氷期終焉期の海水面上昇︵c. 海水準変動︶によって本州本島と水域で隔てられた島に変わったと考えられている。平地は少なく弥山や駒ヶ林など500m級の急峻な山が連なっていることから、深い谷や滝が多くある。島の東西方向と南北方向に断層が見られる。弥山の標高
島の最高峰である弥山︵みせん︶の標高値は、国土地理院発行の2万5千分1地形図上では529.8メートルと表記されてきた。これは1892年設置の二等三角点の計測値であるが、現在では三角点より南南西方向約16.8メートルの地点の標高がそれよりも高い535メートルであることが確認されている[2]。気候
瀬戸内海気候に分類され、気候は温暖。夏は30°Cを超す日も多くある一方、冬は気温が氷点下となることも多い。積雪は島の山地ではほぼ毎年見られ、沿岸部の厳島神社周辺でもしばしば雪景色となる。厳島特有の事象として冬季の﹁弥山おろし﹂が知られる。これは太田川の谷から吹き降ろす風が広島湾を通って弥山に昇り、北西にある市街地に吹き降ろすもので、冬の寒さを引き起こしている[11]。生物相
植物相
植生は典型的な暖地温帯常緑広葉樹林である。ただし、一般的な照葉樹林とは趣が異なり、例えば南方系のミミズバイ︵ハイノキの一種。高地性である︶と針葉樹のモミ︵西日本の低海抜地域には通常見られない︶が海岸の同一地点で見られるなど、厳島にしかない特徴がある。 固有種として、ミヤジマカエデとミヤジマシモツケがある。ただし、ミヤジマカエデは島に定着自生しているかどうか議論がある。ミヤジマシモツケは対岸にも分布している。 信仰上の理由から人間活動がほとんど加えられてこなかったこともあって、日本古来の自然の姿が良く残されている。特に弥山山頂付近の原始林は状態が良いため、国の特別天然記念物の指定および世界遺産の登録を受けている。 近年[いつ?]、厳島神社の社殿・大鳥居のある御笠浜に、海藻の一種アオサが大量繁茂している。景観を損ない、また腐敗臭を放つので、宮島観光協会と廿日市市、地元自治会がボランティア活動を主催し、年に数回程度清掃活動を行っている。繁茂の原因は諸説あるが、明らかではない。動物相
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/31/Flock_of_Japanese_macaques_near_Miyajima_Ropeway_Shishi-iwa_station.jpg/200px-Flock_of_Japanese_macaques_near_Miyajima_Ropeway_Shishi-iwa_station.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dc/A_deer_of_Itsukushima.jpg/200px-A_deer_of_Itsukushima.jpg)
シカの頭数管理問題について
シカの生息数増加に伴い、餌の不足から島内で様々な被害が報告されるようになった。早くも1998年には旧宮島町が﹁宮島町シカ対策協議会﹂を設立して、この時点でシカを野生復帰させる方針を決定している。2000年頃の被害としては﹁植物の樹皮や新芽がシカにかじられる﹂﹁雄のシカが樹齢の若い樹で角をとぐために枯死する﹂といったものが主であったが[13]、やがてシカが観光客の持っている飲食物を狙って観光客がケガをするなどの被害が報じられた[14]。被害の原因は議論があり確定的ではない。観光客や住民からの苦情をうけて、地元廿日市市は2008年9月に﹃宮島地域シカ保護管理ガイドライン﹄(PDF)を策定し、シカを野生状態に戻すために餌やりを禁止するとともに栄養状態の悪いシカを保護・手当てした後に山に帰すなどの管理を実施している。 この管理対策により2012年8月までに宮島島内の市街地沿岸でシカが半減したという[15]。市側は餌やり禁止により生息地を分散させる取り組みに一定の成果が出ているとしている。 この対策はマスコミで取り上げられたこともあって、全国から意見が寄せられた。固有種
昆虫の固有種として、ミヤジマトンボ Orthetrum poecilops miyajimaenisis (Yuki and Doi, 1938) があり、国の絶滅危惧種に指定されている︵2007年版では﹁絶滅危惧I類(CR+EN)﹂。昆虫類レッドリスト (環境省)を参照︶。これは中国大陸南部に分布するシオカラトンボ属の O. poecilops (Ris, 1916)を原種とし、遠く離れた日本の厳島にだけ分布している別亜種と考えられている。繁殖地となる湿地が観光開発や台風被害のために減少し、生息環境が脅かされている[16]。環境省や広島県職員、昆虫学・海洋環境学・植物学の研究者からなるミヤジマトンボの保護管理連絡協議会が、生息地の調査と環境保全・修復にあたっている[17]。歴史
厳島神社に関連する文献史料については豊富な研究・考察の実績がある一方、厳島という島そのものの歴史・民俗史については依然として未解明の部分も多い。先史時代
本州に人が住み始めた旧石器時代には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡った。厳島北岸の下室浜で後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている[18]。広島大学による考古学的調査︵2004年︿平成16年﹀︶では島北西岸の大川浦をはじめ下室浜・御床浦・須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、縄文から弥生時代の土器や石器が数多く発見されている[19]ほか、多々良潟、大江浦、大元園地など島全域で縄文・弥生期の出土例がある。 厳島は縄文海進がピークに達した頃に独立した島になったとみられる。それ以前の遺物として赤石[19]や大川浦[20]において縄文草創期の有茎尖頭器や槍先型尖頭器が採集されているほか、上室浜[21]や大川浦、御床浦[19]において縄文早期の鍬形鏃や押型文土器が出土していることからも、陸続きだった頃から厳島地域で人々が生活していたものとみられる。 弥山山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる[22]。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡[23]など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる明瞭な遺物は確認されていない[* 6]。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。古代・中古
上述の上室浜や下室浜などから古墳時代後期の製塩土器が見つかっている[24][19]ほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の焼塩土器が数多く採集されており[19][20]、盛んに塩作りが行われていた事が窺える。大川浦からは10世紀から12世紀のものとみられる﹁瑞花双鳥八稜鏡﹂が採集され、古瀬清秀︵広島大学大学院︶らは古代祭祀の場である可能性を指摘している[20]。下室浜からも、古墳時代の祭祀に用いられたとみられる滑石製勾玉が採集されている[18][25]。 弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、古墳時代末から奈良時代にかけての須恵器や土師器、瑪瑙製勾玉、鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座に比定する説がある[26]。弥山の本堂付近からは奈良~平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した。弥山水精寺︵大聖院の前身︶は従来鎌倉時代に対岸から移設したとされていたが、より古い時代に創建された可能性がある[27]。 平安時代には﹁恩賀︵おんが︶の島﹂と呼ばれた歌枕の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は﹁神の御香が深い﹂ことに由来する。 入いりりう海みの 二はた十う浦らかけて十とし島まなる 中なかに香か深ふかき島しまは七なな浦うら ── 小野篁 恩たぐ賀ひな島きしまの姿すがたは自おのずから 蓬よものぎの山やまも此こ処こにありけり ── 在原業平 伝承では推古天皇元年︵西暦換算︿以下同様﹀‥593年︶、豪族佐伯鞍職がイチキシマヒメの神託によって厳島神社が創建されたと伝えられる。佐伯氏は佐伯直の出で伴造として安芸国佐伯郡を管掌しており、後に厳島神主家となった。文献上の初出は弘仁2年︵811年︶に名神に預かったという記事であり、﹃延喜式神名帳﹄︵平安中期︶において名神大社に列せられた。 厳島神社が現在の威容を構築したのは平氏一門の後ろ盾を得た平安時代末期である。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e6/Heikenoukyou.jpg/220px-Heikenoukyou.jpg)
中世
1185年の壇ノ浦の戦いをもって平氏が滅んだのち、鎌倉時代に入ると、厳島神社ははじめ源氏の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、承久3年︵1221年︶の承久の乱で後鳥羽上皇側に属したために争いの後に神主家の座を奪われ、代わって御家人の藤原親実が厳島神主家となった。厳島神社は承元元年︵1207年︶と貞応2年︵1223年︶に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、戦国時代にかけては荒廃した時代であったと伝えられる。そうした中でも参詣者は絶えず、例えば出家して旅路にあった後深草院二条は乾元元年︵1302年︶に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを﹁とはずがたり﹂に書き留めている。 正安2年︵1300年︶に水精寺の座主坊が対岸の地御前神社︵厳島神社の境外摂社︶から厳島島内に移されると、厳島神社の社人や供僧が島に定住するようになった。これによって町屋が形成され、厳島の発展がすすんだ。天文7年︵1538年︶には厳島大願寺の僧尊海が、一切経︵高麗八万大蔵経︶を求めて朝鮮半島に渡っている。尊海は大蔵経を持ち帰ることはできなかったが、持ち帰った八曲屏風﹁瀟湘八景図﹂の裏面に漢文による紀行文﹁尊海渡海日記﹂︵大願寺所有、国の重要文化財[32]︶を遺している。これは日本最古の朝鮮紀行記録として知られるとともに、仮名書きで記した朝鮮語の語彙は中期朝鮮語研究の貴重な史料となっている[33]。 戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつこそあったものの周防・長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされた。弘治元年︵1555年︶、毛利元就は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる陶晴賢を討ち、戦国大名としての躍進のきっかけとなった︵厳島の戦いを参照︶。以後毛利氏は中国地方10か国に加え豊前・伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理︵元亀2年︿1571年﹀︶によるところも大きい。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bf/Battle_of_Miyajima-2.jpg/1000px-Battle_of_Miyajima-2.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/36/Senjyou-kaku_-_Toyokuni_shrine_%2C_%E5%8D%83%E7%95%B3%E9%96%A3_%E8%B1%8A%E5%9C%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE_-_panoramio.jpg/220px-Senjyou-kaku_-_Toyokuni_shrine_%2C_%E5%8D%83%E7%95%B3%E9%96%A3_%E8%B1%8A%E5%9C%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE_-_panoramio.jpg)
近世
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幕末
尊皇攘夷・公武合体を掲げる長州藩と徳川幕府の対立が頂点に達し、長州征討において厳島対岸も戦場となった。慶応2年8月︵1866年9月頃[* 7]︶、第二次長州征討の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は勝海舟、長州藩代表は広沢真臣と井上馨。桂小五郎︵木戸孝允︶も加わっている。勝海舟の自著﹃氷川清話﹄に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。勝が﹁おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。﹂と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。近代
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現代
日本の敗戦と共に、厳島は連合国軍・GHQに接収された。占領後の1954年︵昭和29年︶には、新婚旅行代わりの日本訪問中のマリリン・モンローとジョー・ディマジオの夫妻が厳島を訪問している。 1950年︵昭和25年︶には、厳島全体が瀬戸内海国立公園の追加指定区域になった。また、同年、厳島町が﹁宮島町﹂に改称した。1952年︵昭和27年︶には、厳島神社社殿の﹁昭和大修理﹂が竣工する。1959年︵昭和34年︶には広島県立水産資源研究所︵現・宮島水族館︶がオープンした。 1960年代から1970年代にかけて、厳島周辺の海域の水質悪化はピークを迎えた。海上保安庁は、直径30cmの白い円盤を海に沈めて透明度を測定していたが、1969年の厳島付近の調査ではわずか20cmで円盤が見えなくなるという、日本屈指の汚染状態となっていた。汚染源は、工場排水やし尿投棄によるものであった[37]。 1991年︵平成3年︶9月27日に襲来した台風19号では、厳島神社左楽房︵国宝の附指定︶や能舞台︵重要文化財︶が倒壊するなど甚大な被害が出た。 1996年︵平成8年︶には、厳島神社がユネスコ世界遺産︵文化遺産︶に登録された。日本の世界遺産としても日本の世界文化遺産しても6件目の物件であった。同年に原爆ドームも︵5件目として︶登録されている。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5c/Secretary_Kerry_Poses_for_a_Photo_With_His_Counterparts_%2825742344763%29.jpg/250px-Secretary_Kerry_Poses_for_a_Photo_With_His_Counterparts_%2825742344763%29.jpg)
風習
厳島は信仰上の理由から、独特の風習を多くもっている。時代とともに薄れたものや行われなくなったものも多いが、今も受け継がれているものもある。中央政権から離れた島の習俗であるために文献として記録されることは少なかったが、戦国時代に陶氏・毛利氏の御師として精神面を支え、大内氏から﹁社奉行﹂に任じられた厳島神主家の棚守房顕が天正8年︵1580年︶に記した﹃棚守房顕覚書﹄には、膨大な業務文書を司る立場ならではの生々しい記録が残っていて価値が高い[* 8]。穢れの忌避
島全体が神域︵神体︶とされたため、血や死といった穢れの忌避は顕著であった。 ﹃棚守房顕覚書﹄によれば、島に死人が出ると即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。﹁~の向こう﹂と言うと﹁あの世﹂を連想するため、﹁~の前﹂と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。また、島には墓地も墓も築いてはならず、現在でも1箇所も1基も存在しない。島の妊婦については、﹃棚守房顕覚書﹄に﹁婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり﹂とあるように、出産が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち、100日を過ごすことで血の穢れが払われれば、ようやく島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外摂社を﹁地御前神社﹂︵所在地‥廿日市市地御前、江戸時代における安芸国佐伯郡地御前村︶というように、ここでいう﹁地の方﹂とは対岸の本州を指す。また、生理中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を﹃棚守房顕覚書﹄は﹁﹃あせ山﹄とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。﹃あせ山﹄は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。﹂と記している。耕作・機織の禁止
鉄の農具を土に立てることを忌み、耕作は禁じられた。また、この島は﹁女神の御神体内﹂とされたことから、女性の仕事の象徴とみなされていた機織や布晒︵ぬのさらし︶も禁忌とされていた︵山の神﹄を参照︶。﹃棚守房顕覚書﹄は﹁絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず﹂と記している。特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸から行商人が船を出す光景は第二次世界大戦後まで続いた。廿日市の町は鎌倉時代、厳島神社の祭礼最終日︵毎月20日︶に立った市場から発展した町である。鹿・猿との共生
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/77/%E8%8A%B8%E5%B7%9E%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E5%9B%B3%E4%BC%9A_%E5%A1%94%E5%B2%A1%E6%A5%8A%E6%9E%9D%E5%BA%97.jpg/220px-%E8%8A%B8%E5%B7%9E%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E5%9B%B3%E4%BC%9A_%E5%A1%94%E5%B2%A1%E6%A5%8A%E6%9E%9D%E5%BA%97.jpg)
潮汲み
町の商家や民家では、鳥居のある浜で海水を汲み、門前を清める﹁潮汲み﹂という習慣がある。元旦に行うものを﹁新潮迎︵わかしおむかえ︶﹂という。第二次世界大戦後は数人が行うのみにまで減っていたが、21世紀初期には見直されるようになり、行う家や店が増えつつある。文化・施設・観光
毎年8月11日には宮島水中花火大会が行われ、県内外から多くの見物客が訪れる。 島内には厳島神社以外にも大聖院をはじめ多くの仏閣がある。また、厳島神社宝物館、宮島水族館、宮島歴史民俗資料館、広島大学大学院理学研究科附属自然植物実験所、宮島町伝統産業会館などの文化施設がある。 国内外から観光客が多く訪れ、その数は年間300万人台︵2009年︿平成21年﹀の船舶運輸実績︿片道﹀は約346万人[38]︶。宮島桟橋から厳島神社へと続く道沿いには多くの旅館が点在している。 弥山などへの登山者も多いが、島には信仰上の理由や文化財・自然保護のために開発されなかった原生林が広がっており、登山道から迷い込むなどする遭難がたびたび発生する[39]。そのため、島を所管する広島県警察廿日市警察署と宮島消防署が十分な装備での入山など注意喚起をしている[39]。 2007年︵平成19年︶から、毎年1回、廿日市商工会議所主催のご当地検定である﹁宮島検定﹂が行われており、宮島の歴史や文化・自然に関する知識を問われる出題がなされ、合格者には認定カードが発行される[40]。同商工会議所は、宮島に関する多くの情報を網羅した﹃宮島本﹄︵※宮島検定試験の公式参考書も兼ねる︶を発行している。宮島訪問税
厳島が観光地として発展するにつれて地元行政の負担も増大してきたことから、2023年︵令和5年︶10月1日より、廿日市市が法定外普通税として﹁宮島訪問税﹂を課すこととなった[3][41]。 来訪者に負担を求める法定外普通税・法定外目的税は先行していくつか存在するが、宮島訪問税は原因者負担の考え方により設計され[41]、宮島住民などを課税対象から除外していることに特徴がある[41][42]。 課税対象は船舶により宮島に入る行為であるが、上述のように宮島住民や宮島への通勤・通学者は課税対象外となり、未就学児・修学旅行などの学校行事による団体訪問・障がい者については課税免除とされる[41]。 税率は﹁1人1回100円﹂と﹁1人1年間で500円﹂の選択制であり、フェリーを利用して宮島を訪問する場合は、︵課税対象外・課税免除に該当せず、後者の方法により納税済みでもない場合︶1回分の税金がフェリー運賃とともに特別徴収される。なお、青春18きっぷなど、宮島航路を含みつつも広域で販売されるフリーきっぷでは、宮島訪問税を含まずに販売される場合があり、そのような乗車券を利用して宮島航路に乗船する場合は、別途で訪問税分のみのきっぷを購入する形となる[43]。交通アクセス
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Miyajima.jpg/250px-Miyajima.jpg)
鉄道
最寄り駅はJR山陽本線の宮島口駅と広島電鉄宮島線の広電宮島口駅。駅前にある桟橋からフェリーが運行している。車
一部の宿が宿泊者専用の駐車場を備えているのを除き、島内に観光客用の駐車場は存在せず、町内の道幅も極めて狭い。また市街地は20km/h、少し内陸にあるうぐいす歩道と杉の浦、包ヶ浦は30km/hの速度制限がかかっている。さらに商店街は毎日10時30分から17時まで車両の通行が禁止される[44]。そのため広島市街地からは西広島バイパス、山陽自動車道からは廿日市ICをそれぞれ経由して国道2号に入り、宮島口駅周辺の有料駐車場で下車、宮島連絡船または宮島松大汽船を利用するのが一般的である。船
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/80/Miyajima_and_coast.png/147px-Miyajima_and_coast.png)
島内交通
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関連作品
美術
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音楽
﹃鉄道唱歌﹄は日本の鉄道沿線の素晴らしさを七五調で詠い込んだ長大な唱歌で、大和田建樹が作詞を手がけたものであるが、その﹁第2集 山陽九州編﹂は、山陽本線がまだ全通していない1900年︵明治33年︶9月3日に刊行された。歴史的意義の大きい場所には1節でなく幾つかの節を割り振る傾向のあった大和田のこと、厳島を詠うのには4節も使っている。 ●山陽九州編19番 己こい斐のまのつ松ば原ら 五いつ日かい市ち いつしか過ぎて厳いつ島くしま 鳥とり居いを前にながめやる 宮みや島じま駅えきにつきにけり ●山陽九州編20番 汽き笛てならして客を待つ 汽き船せに乗れば十五分 早くもここぞ市いち杵き島し 姫ひめのまします宮みやどころ ●山陽九州編21番 海にいでたる廻かい廊ろうの 板を浮かべてさす汐しおに うつる燈とう籠ろの火の影は 星か蛍ほたるか漁いさ火りびか ●山陽九州編22番 毛もう利り 元もと就なこの島に 城をかまえて君の敵あだ 陶すえ晴 は賢るかを誅ちゅうせしは のこす武ぶし臣んの鑑かがみなり 19番の﹁己斐の松原﹂は現在の広島市西区旧己斐町地区︵当時の佐伯郡己斐村︶の己斐橋東詰から別れの茶屋の街道沿いにかけての地域にあった松原で、しかしその松は1967年︵昭和42年︶頃に全て伐採されてしまった。﹁五日市﹂は現在の広島市佐伯区旧五日市町地区︵当時の佐伯郡五日市村︶。﹁宮島駅﹂は山陽本線の駅で、当時の山陽鉄道宮島駅、のちの日本国有鉄道︵国鉄︶宮島駅、現在の西日本旅客鉄道︵JR西日本︶宮島口駅。20番の﹁市杵島姫のまします宮どころ﹂は、女神・市杵島姫︵いちきしまひめ︶のいらっしゃる宮所/宮処︵意‥神の鎮座する所︶、すなわち、厳島神社もしくは宮島︵厳島︶を指す。22番は、天文24年10月1日︵1555年10月16日︶に起きた厳島の戦いについて歌っている。映画
●弥次喜多 前篇 善光寺詣りの巻︵1921年︶ - 宮島を舞台にした場面に、厳島神社・五重塔・鹿・その他のものが登場。 ●地獄門︵1953年︶ - 厳島神社が登場。 ●太陽、海を染めるとき︵1961年︶ - 宮島ロープウエーなどが登場。 ●フランケンシュタイン対地底怪獣︵1965年︶ ●夜霧の慕情︵1966年︶ ●トラック野郎・爆走一番星︵1975年︶出身人物・ゆかりのある人物
●豊嶋弥左衛門 - 能楽師 ●吉田豊作 - 俳優 ●石原光子 - 衆議院議員石原慎太郎の母 ●向井久子 - バレーボール選手人口・世帯数
2023年11月1日時点の宮島町の人口は1417人、世帯数は785世帯[48]。脚注
注釈
出典
参考資料
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