アルゼンチン大統領府、カサ・ロサダ
国会議事堂
2015年10月25日の大統領選挙︵1回目の投票︶では過半数の得票を獲得した候補者が現れず、翌11月22日に実施された上位2候補による決選投票の結果、﹁共和国の提案﹂﹁急進市民同盟﹂︵以下、急進党︶らが推す保守系のマウリシオ・マクリが当選した。ただし、大統領選︵1回目︶と同日に行われた議会選挙︵上院の3分の1と下院の約2分の1を改選︶では正義党が引き続き比較第一党の座を上下両院で維持したため、連立3党︵急進党系の地域政党を含めると4党︶は議会内では少数派となる。
大統領と内閣は行政権を行使し、内閣首席大臣︵Jefe de Gabinete de Ministros︶を含む内閣の大臣は大統領によって任命される。大統領による職務執行が一時的︵療養など︶または永続的︵弾劾・辞任・死去に伴う欠位が発生した場合︶に困難となったときは副大統領がそれを代行、もしくは大統領に昇格する。
内閣首席大臣︵官房長官と和訳される場合も︶職は、閣内の意見集約に加え、行政︵中央政府︶の代表者として立法︵議会︶および地方政府︵連邦構成州・各種自治体︶との渉外・調整も担当する。韓国における国務総理︵首相︶職に類似しているが、アルゼンチンでは副大統領が正職欠位時の代行者であると憲法で既定されているため、その権限はより限られたものとなっている。
下院の与党系会派から選出される場合が多いが、必須条件とはなっておらず、カピタニッチ︵上院議員・州知事などを歴任︶や経済学者のコロンボ︵国立銀行総裁を経てルア政権2人目の首席大臣に就任︶のように、非下院系および民間からの起用事例も存在する。
他の大臣職同様、議会に対しては責任を負わないため、仮に議会内で与党が少数派に転落しても野党側から首相を選ぶ義務はなく、所属勢力の異なる大統領と首相が併存する、いわゆる﹁ねじれ現象﹂は発生しないが、逆転の度合いによっては大統領の求心力が低下し、政情流動化の原因となる可能性はある。
急進党のラウル・アルフォンシンが政権を担当していた80年代後半ごろより首相制導入論︵権限の一部を首相に移譲することで大統領を激務から解放するのがその趣旨︶は存在していたが、構想が具体化したのは正義党︵ペロン党︶出身のカルロス・メネムに政権が引き継がれてからである。1994年に議会を通過、大統領の署名により成立した憲法改正案には、首相ポストの追設のほか、大統領任期の6年から4年への短縮と再選禁止条項の撤廃が含まれていた。施行直後に実施された大統領選挙︵1995年5月︶ではメネムが再選を果たし、翌々月の組閣でエドワルド・バウサを初代首相に任命した。
旧正義党政権︵左派︶を率いたキルチネル夫妻からの信任が厚く、ネストル・キルチネル政権ではネストルの大統領就任から退任まで、クリスティーナ・キルチネル政権でも再任︵成立を目指していた輸出税関連の法案が上院で否決されたことなどを理由に中途辞任︶されているアルベルト・フェルナンデス元内閣首席大臣の約5年2か月︵2003年5月 - 2007年12月、2007年12月 - 2008年7月︶を除くと、内閣首席大臣の平均的な在任期間は現在2年前後となっているが、経済が混乱を極めていた2000年代の初頭には短命の内閣が続き、現政権党︵共和国の提案︶の総裁・ウンベルト・チャボニの首相在任期間はわずか4日となっている。11年ぶりに内閣首席大臣職に復帰したホルヘ・カピタニッチ元首相︵2013年11月 - ︶も、1度目︵エドワルド・ドゥアルデを大統領代理とする暫定政権︶の在任期間は約4か月︵2002年1月 - 2002年5月︶であった。
2015年12月に発足した現連立内閣では、内閣首席大臣を含む全21の大臣ポスト中、政権党の﹁共和国の提案﹂に首相・外相など10ポスト、与党第一党の﹁急進党﹂︵国会の議席数では政権党を上回るため︶に防衛・通信など4ポスト、﹁市民連合﹂には蔵相・公安の2ポストがそれぞれ割り当てられ、残りの5名は民間などからの起用となった。
立法権は代議院︵下院︶と元老院︵上院︶に属し、国民議会は定数257人︵任期4年︶、元老院は定数72人︵任期6年︶である。下院では2年ごとに約半数の議席が、上院も同じく2年ごとに3分の1の議席がそれぞれ改選される。
下院の議席がドント方式によって比例配分︵各州および首都圏を1選挙区とみなし、定数は選挙区ごとに異なる︶されているのに対し、上院では、各州および首都圏にそれぞれ一律で3つの議席が割り当てられており、最大の得票を獲得した政党に3分の2︵2議席︶が、次点の政党に3分の1︵1議席︶がそれぞれ付与される仕組みになっている。
下院の議員総数︵各選挙区の定数︶は、10年ごとに行われる国勢調査の結果に応じて見直される。
2年周期で勢力図が更新されるたびに両院の正副議長ポストの顔ぶれも変わる。下院の議長は政権党会派から選出され、3名の副議長は政権党を除く上位3会派に割り当てられる。上院では、現職の副大統領が議長職を兼任し、上院仮議長及び3名の副議長は下院同様、政権党以外の上位3会派からの選出となる。
司法権は国家最高司法裁判所に属し、行政、立法から独立している。
議会における比較第一党である野党﹁正義党﹂︵統一会派﹁勝利戦線﹂の基軸政党︶のほか、連立関係にある﹁急進党﹂︵比較第二党・与党第一党︶と﹁共和国の提案﹂︵現政権で正副大統領・首席大臣・上下両院の議長を輩出している保守政党︶、﹁市民連合﹂、正義党より分派した保守系の﹁新たなる選択のための連合﹂、穏健左派の﹁拡大進歩戦線﹂︵社会党系の連合体︶、﹁統一﹂︵急進党の分派を含むリベラル勢力︶、﹁左翼労働戦線﹂︵トロツキズム的な極左政党︶、5議席未満の地域政党らが国会に議席を有している。
正義・急進両党によって政界の勢力図が二分されていた時期には、首都圏を中心に﹁中道民主連合﹂︵1982年に故アルバロ・アルソガライが結成した穏健的な保守政党。以下、中民連︶が一定の存在感を有していたが、事実上の与党として旧メネム政権︵正義党︶と協力関係に入った90年代より党勢が徐々に低迷した。2009年1月、過去2回の選挙で2%以上の得票率を獲得することができなかった同党は、司法判断によりブエノスアイレス州での政党資格が剥奪され、同年3月には、党の2007年度版収支報告書に不備があったことを理由に、政党助成金の給付も停止された。なお、前政権で副大統領を務めていたアマド・ボウドウは国政レベルの現役政治家では唯一の中民連出身者である。
相次ぐ国軍の反乱などや度重なるデフォルトなどに見られるように、歴史上﹁中進国﹂とされてきた国々の中ではもっとも政情の安定していない国のひとつであり、この政情不安定さは1983年の民政移管後の失政や、2001年11月の経済破綻など、一連の経済不安や現在の極度に拡大した貧富格差の元凶とされている。この不安定さを国民統合が成功していない︵国民全体に受け入れられる国民文化が成立していない︶ことに求める言説は多い。
2009年3月26日、上院は10月に予定されていた上・下両院の中間選挙を6月28日に行う法案を可決した。クリスティーナ・キルチネル前大統領は国際金融危機に対応する必要から議会選挙の前倒しを提案していた。
2012年4月16日、政府はレプソル傘下のアルゼンチン最大の石油会社YPFの株式の過半数にあたる51%を取得し、同社の経営権を取得する方針を明らかにした[13]。
2023年11月19日︵日本時間11月20日︶行われた大統領選決選投票にて、ハビエル・ミレイ候補の当選が発表された[14]。
ブエノスアイレスのサン・マルティン公園を閲兵する、独立戦争時にサン=マルティン将軍が創設した擲弾騎兵連隊
アルゼンチン軍は国防大臣によって指揮され、大統領が最高指揮官を兼ねる。兵制は志願兵制を採用している。軍隊は陸海空の三軍のほかに国家憲兵隊から構成される。歴史的にアルゼンチン軍はチリやブラジルとの軍拡競争の結果もあり、ラテンアメリカでもっともよく整備された軍隊だった。
アルゼンチンはブラジルと同じように建国以来軍部の力が強く、クーデターが日常的に起きる不安定な国だった。1970年代のクーデター以降、アルゼンチン軍は都市ゲリラ排除のために国内で﹃汚い戦争﹄に従事し、8,000人とも3万人ともいわれる市民の犠牲者を出しており、これは現在でも五月広場の母の会などの訴えにより問題となっている。しかし、建国以来初の敗戦となったマルビナス戦争により軍の威信は落ち、民政移管後の1983年に長らく第一の仮想敵国だったチリとも国境線が確定され、核計画やアメリカ合衆国の肝煎りで進められていたミサイル計画が放棄されると軍は大幅に削減され、その後のいくつかの反乱計画も未然に終わるなど現在は政治力を減らしている。敗戦の結果から徴兵制を敷いていない国でもあるが、一部で復活を求める意見もある。
- 国防予算 : 38億ドル(2000年)
- 兵員 : 7万1,100人(2000年)
アルゼンチン空軍 ︵Fuerza Aérea Argentina︶は兵員1万2,500人からなる。航空旅団8など。作戦機133機、武装ヘリ27機、戦闘機はA-4スカイホークなど。
アルゼンチンが外交使節を派遣している諸国の一覧図(2019年)
2001年の債務不履行以来、アルゼンチンは諸外国に大きく不信感を持たれ、1982年のマルビナス戦争以来の国際的な孤立に陥ったが、現在は債務の返済などを軸に国際社会への復帰が進められている。アルゼンチンは南極条約締結国であるが、南極の領有権を主張している︵アルゼンチン領南極︶。またアルゼンチンは、フォークランド紛争に敗北したのちもなおイギリスが実効支配するマルビナス諸島の領有権も主張している。2007年12月、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領は、多国間主義とテロ根絶を強調した。
戦前はイギリスに周辺国化され半ば属国のような様相を呈していながらも、輸出で蓄えた経済力を背景に、スペイン語圏を代表する国家として旧宗主国スペインをしのぐ勢いで権勢を誇っていた。北米において似たような立場にあったアメリカ合衆国をライバル視し、同国がモンロー主義のもとで中南米を勢力圏に入れようとしていたのに対し、ヨーロッパ諸国を重視する独自外交のもとでアメリカ合衆国とは距離を置き、常にほかのラテンアメリカ諸国とは一線を画していた。
ビーグル水道で領土問題を抱えていたチリとは伝統的に関係が悪く、第二次大戦後は何度か戦争直前にまで陥ったこともあった。1984年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世︵フアン・パブロ2世︶の仲介により、アルゼンチンが係争地のピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ帰属を認め、領土問題において妥協することにより友好関係が確立された。しかしその後、2004年に事前に連絡なくチリへの天然ガスの輸送を停止してしまったことが大きな外交問題となった。
アルゼンチンの最大のライバルは隣の大国ブラジルであり、オリンピックやサッカーの大会があるたび互いに強烈な対抗意識を持って争っていたが、ラウル・アルフォンシンの融和政策が功を奏して両者ともメルコスールに加盟するなどの経済統合が進んでいる。以上のような事情により、現在のアルゼンチンはブラジルを軸としたラテンアメリカ統合を受容し、その主要国として影響力を保っている。また対外政策では一線を画しながらも、石油や天然ガスなどの資源を背景にベネズエラの歴代政権との友好関係が続いている。
ヨーロッパとの関係も重要であり、もっとも関係のよい国家はスペインである。言語が共通するために多くのラテンアメリカ人がスペインに出稼ぎ、移民として居住しているが、アルゼンチンもその例外ではなく多くのアルゼンチン人が移住している。
アルゼンチンは北西部のアンデス山脈周辺から開発が進められたが、独立後は歴史的に外港がブエノスアイレスしか存在しなかったことを反映して、19世紀、20世紀を通して内陸部の開発は進まず、現在も極端なブエノスアイレス一極集中である。1980年代のアルフォンシン時代に、パタゴニアのリオ・ネグロ州州都ビエドマへの遷都計画もあったが、結局実行されないまま計画は凍結された。
2005年におけるアルゼンチンの14の大都市圏
順位 |
都市 |
州
|
人口 |
地域
|
1
|
ブエノスアイレス |
市域 + ブエノスアイレス州 の24の管区
|
11,453,725 |
パンパ
|
2
|
コルドバ |
コルドバ州
|
1,513,200 |
パンパ
|
3
|
ロサリオ |
サンタフェ州
|
1,295,100 |
パンパ
|
4
|
ラ・プラタ |
ブエノスアイレス州
|
857,800 |
パンパ
|
5
|
サン・ミゲル・デ・トゥクマン |
トゥクマン州
|
833,100 |
北西部
|
6
|
マル・デル・プラタ |
ブエノスアイレス州
|
699,600 |
パンパ
|
7
|
サルタ |
サルタ州
|
531,400 |
北西部
|
8
|
サンタフェ |
サンタフェ州
|
524,300 |
パンパ
|
9
|
サン・フアン |
サン・フアン州
|
456,400 |
クージョ
|
10
|
レシステンシア |
チャコ州
|
399,800 |
グラン・チャコ
|
11
|
ネウケン |
ネウケン州
|
391,600 |
パタゴニア
|
12
|
サンティアゴ・デル・エステロ |
サンティアゴ・デル・エステロ州
|
389,200 |
グラン・チャコ
|
13
|
コリエンテス |
コリエンテス州
|
332,400 |
メソポタミア
|
14
|
バイア・ブランカ |
ブエノスアイレス州
|
310,200 |
パンパ
|
ブエノスアイレスの中心にある、世界でもっとも幅が広い道路である7月9日大通り。中央に見えるのはオベリスコ
IMFの統計によると、2018年のアルゼンチンのGDPは約5,194億ドルと世界21位であり、南米ではブラジルに次ぐ2位である。一人当たりのGDPは1万1658ドルで、こちらはウルグアイ、チリに次いで南米3位である。アルゼンチンはメルコスール、南米共同体の加盟国である。
アルゼンチンでは幅広い産業が行われている。農産物は、主要輸出品目は小麦、トウモロコシ、牛肉、ワインなどに加え、2000年代以降は大豆の生産も盛んになっている[15]。2019/2020年度時点で大豆の生産量がブラジル、アメリカに次いで3位の約13%を占めており、大豆輸出量世界第4位である[16]。トウモロコシの生産量はアメリカ、中国、ブラジルに次いで4位[17]。その他にも小麦、ヒマワリ油、グレーンソルガム[18][19]などがある。アルゼンチンは牛肉の生産量が2020年度世界4位[20]で、国内消費も肉類の中では最多である。ただし、同年、豚肉や鶏肉の消費量も増加傾向にある。2020年の1人当たり年間豚肉消費量は10年前と比較して77%増であった[21]。アルゼンチンは世界第8位の国土面積を持つ[22]。その広大な土地を活かし、チリ近郊では鉱業が盛んである。鉱業生産は、パタゴニアの石油と、近年は天然ガスも有望視されている。また、2010年代以降、カタマルカ州やフフイ州の塩湖がリチウムの生産源として注目されている[23]。しかし、水質汚染、先住民の人権侵害、開発に関する事前協議がないことなどの環境保護活動が活発なため、開発が不十分である[24]。アルゼンチン国内にフォード、GM、トヨタなど完成車メーカー10社が自動車を生産している[25]。主に国内農業で使用されるピックアップトラックや多目的車が製造されている。2020年に新型コロナウイルスの影響でバス・トラックを除く自動車生産台数は2004年以降初めての30万台を下回った[26]。
2度の世界大戦にいずれも直接関与せず、各国への農畜産品の輸出により大きな利益を得た20世紀半ばまでは、世界有数の富裕国であった。第二次世界大戦後、国民主義志向のフアン・ペロン政権は、保護主義的な工業化偏重政策をとるが、産業構造の転換に成功せず、次第に経済が低迷した。ペロン以降顕著になった、福祉のための放漫財政や、彼の残した労働組合︵CGT︶の強さにより、投資のしづらい国となり、1960年代以降に頻発した政変に加え、1982年のフォークランド紛争とその敗北、民政移管後も長年の放漫財政のツケや敗戦のショックの影響で混迷する経済状況に安易なポプリスモで対処したため、累積債務は雪だるま式に増えていった。特に1988年から1989年の間には5,000%というハイパーインフレーションを記録、物品の価値は1年間で50倍に跳ね上がり、ペソは紙屑同然と化し、経済は崩壊状態となった。結局、アルゼンチンは1989年に対外債務のデフォルトを宣言した。この間の混迷による富裕層の没落、中産階級の海外流出が続くなど、経済は混迷の度を深めた。
その後、1988年から親米・親IMF路線を掲げたカルロス・メネム政権の新自由主義路線により、1990年代には年率9%にも達する経済成長を遂げるなど、一時的に回復した。しかし、1999年に起きたブラジルのレアル切り下げでペソが相対的に高くなり、輸出競争力を喪失、国際収支は悪化した。結果的に通貨危機︵ペソの対米ドルペッグ制崩壊︶により完全に暗転、2001年11月14日には国債をはじめとした債務のデフォルトを宣言する事態に陥り、経済が再び破綻。国際的な信用や評価は地に落ちた︵アルゼンチン通貨危機︶。
2度目のデフォルトにより国内の貧困も拡大し、1980年代に国民の約60%を占めていた中間層は、2005年には国民の約20%となり[27]、他方貧困率は2002年には53%に達し[28]、イタリアやスペインに職を求め大量の国民が流出、その中には医者・弁護士などの知識層も少なくなかった。かつてラテンアメリカで比類なき中流層の国であり、﹁南米の指導者﹂としての影響力も備えていたアルゼンチンは没落し、政経両面でチリやブラジルに抜かれる形となった。
このようにペロン政権以来、一貫した経済政策がとられなかったツケが回り、21世紀に入って早々に経済が破綻してしまったものの、2002年に変動相場制を導入し、通貨安のために輸出が拡大してからは持ち直し始め、2003年に就任したネストル・キルチネル政権は、IMFの干渉を排除するため、100億ドル近い債務を完済し、2000年末の経済破綻直後の失業率24%を、2006年5月には11.4%にまで改善した。さらに、2003年から2007年まで平均約8%の高成長を続け、2006年7月9日の独立190年記念式典でキルチネルは﹁われわれはIMFにチャオ︵さよなら︶を告げた﹂と演説するなど、経済危機から立ち直りつつあった。しかし、再び対外債務率が上昇、2010年には債務額を大幅にカットする形で債務交換を強行して9割以上の債務を再編、アメリカ合衆国との国際問題に発展した。
現在はメルコスール加盟国であることにより、南米諸国との経済交流の活発化による諸外国からの投資の増大に、経済の復活を賭けている。特にブラジル、ベネズエラとは政治面でも関係を深め、ベネズエラからの南米大陸縦断天然ガス輸送管の設立も計画している。アルゼンチンは一向に回復しない内需、および内需不振の主要な一因である人口の3〜4割に達する貧困層の存在など課題が山積している中で、これらを解消しつつ、どのようにして競争力のある新しい産業を育てるか、あるいは国内の法制度、政治文化などの歪みからくる投資リスクをいかに下げるかなどにかかっている。
2020年12月3日、アルゼンチン・カトリック大学の社会負債調査研究所が調査結果を公表し、貧困層が人口全体の44.2%︵前年同期は40.8%で3.4ポイント増︶に達していること、失業率は14.2%︵前年同期は10.6%で3.6ポイント増︶に悪化していることが示され、景気低迷に加えて新型コロナウイルス感染症の世界的流行の影響が指摘されている[29]。2022年10月には、世界的な物価高騰の影響を受け、物価上昇率は前年同月比+88.0%になっており[30]、年末には100%に達するとの予測が出されている[31]。貧困率は、2022年上半期には36.5%に達した[32]。
アルゼンチンの2021年の名目GDP︵国内総生産︶は4,867億ドル[33]、実質GDP︵国内総生産︶は5,681億ドルである[34]。これは、2021年世界の名目GDPランキングの29位である[35]。2021年のGDP成長率は、前年比10.4%と2017年以来4年ぶりのプラス成長となった[36]。
2021年の貿易収支は黒字で、輸出額は前年比42.0%増の779億3,400万ドル、輸入額は49.2%増の631億8,400万ドルである[37]。
アルゼンチンの主要な輸出相手地域・国は、ブラジル (15.1%)、EU27 (12.7%)、中国 (8.1%) である。一方、アルゼンチンの主要な輸入相手国は、中国 (21.4%) 、ブラジル (19.6%) 、米国 (9.3%) であり、自動車及び同部品、燃料︵ガス、軽油など︶を主に輸入している[36]。
2021年度全期の日本からアルゼンチンへの輸出額は、前年度比54.6%増の988億円で、自動車及び部品を主に輸出している。日本のアルゼンチンからの輸入額は、前年度全期額の約2.3倍の1,157億円で[38]、トウモロコシ、大豆などの穀物、大豆油かすなどの食品加工品を輸入している。︵前年度は新型コロナウイルスの感染拡大で経済が停滞した。︶
日本は、アルゼンチンの輸出相手国として28位、輸入相手国としては11位である[36]。
ロサリオのビクトリア橋を通る貨物船
アルゼンチンのインフラは他のラテンアメリカ諸国に比べると良好である[39]。約21万5,471キロ[40]の道路網と734キロの高速道路[41]があり、その多くが民営化された。多車線の幹線道路は現在いくつかの主要都市を結び、さらに現在工事中である[42]。
アルゼンチンの鉄道網は総延長3万1,000キロ以上である。ブエノスアイレスの地下鉄︵Subte、スブテ︶はスペイン語圏、ラテンアメリカ、南半球全域の中でもっとも早く建設された[43]。
アルゼンチンには約3,000キロに及ぶ水路があり、多くはラ・プラタ川、パラナ川、ウルグアイ川、ネグロ川、パラグアイ川を通行する。
アルゼンチンの国民はヨーロッパ系が85%、メスティーソおよびインディヘナなどが15%である。もっともヨーロッパ系アルゼンチン人の占める比率は89.7%[44]から97%[45]と資料によって大きな差があり、近年の研究では実はアルゼンチン国民の56%に先住民の血が流れていることが明らかになっており[46]、自らを白人だと認識しているアルゼンチン人の過半数に、実は先住民の血が流れていることになる。
ヨーロッパ系アルゼンチン人にはイタリア系、スペイン系、ドイツ系の住民が多く、中でもイタリア系が一番多い。このイタリア系統の荒い言葉遣いが現在のアルゼンチン人全体の性格に受け継がれているため[要出典]、アルゼンチンのスペイン語にはイタリア語のナポリ方言の影響が強く見られる。イタリア移民が多いので第二のイタリアと認識されることもあった[要出典]。
アルゼンチン人はしばしば﹁燃えたぎるような愛国者﹂と形容され、自国への批判に異常に敏感であるが[47]、その一方で概して国を批判する傾向がある。強烈な個人主義者としても知られ、﹁ビベサ・クリオージャ﹂と呼ばれるクリオージョ的な人を出し抜く抜け目のなさと[48]、アミーゴと家族以外の非人間的な政府や社会といった組織は信用できないという心性からくる、人を出し抜くような行為によって不快な思いをさせられ[47]、アルゼンチン人はアミーゴ以外には不親切であるという人間も出るのである。これはアルゼンチン人が国家に代表される抽象的なものよりも、友情といった具体的な対象への強く忠誠を抱くことの裏返しでもある[47]。
ペルーの文学者、マリオ・バルガス・リョサは﹁アルゼンチンの誇り高さは病癖であり、ほかのラテンアメリカ諸国から批判されても仕方がない﹂と述べた[47]。アルゼンチン人は自国を選良であると思ってきたが[47]、こうした優越感と劣等感はその選良意識の裏返しであり[47]、強い愛国心の称揚の一方で行われる自国への強烈な批判は、国家が自分に十分な誇りをもたせてくれるには足りない存在であることの裏返しである[47]。こうしたことの起きる原因としては、19世紀半ば以来の自由主義化、ヨーロッパ化がアルゼンチン国民全体に受け入れられるような国民文化を育てることができなかったためだといわれている[47]。ただしガウチョのような例外もあり、アルゼンチン人はガウチョであることを誇る[47]。
INDECによる1950年から2015年までのアルゼンチンの人口の推移グラフ
五月革命が起きた1810年に70万人だった人口は、ウルキーサがロサスを打倒した直後の1853年には90万人となり、その時点では純粋な白人は6万人ほどで残りはメスティーソや黒人やインディヘナだった。
カセーロス以降自由主義者の政権はヨーロッパから移民を大量導入すると、アルゼンチンの人口は増加し、1869年の初の公的な人口調査では約175万7,000人だった。その後、1900年には454万3,000人、1930年には1,200万5,000人、1940年には1,416万9,000人、1950年には約1,709万人、1960年センサスでは2,006万5,691人、1975年には約2,538万人、1983年年央推計では約2,963万人となった。2005年の見積もりによると、人口は3,874万7,000人と推測され、これは南米大陸の国家で3番目に多い。
2005年度の人口密度は1km²あたり14人になるが、人口は均衡を持って配分されているわけではなく、特にブエノスアイレス市周辺に集中しており、ブエノスアイレス市では人口密度が1万4,000人/km²になるのに対して、パタゴニアの最南部のサンタ・クルス州では1人/km²以下となる。アルゼンチンは南米で唯一純粋な移民の増加率が0.4%を超える国である[49]。
2021年現在では4527.7万人になっている。
19世紀半ばの国家の西欧化=白人化を望んだ自由主義者が勝利し、1853年憲法の第25条や、1876年の移民法の制定によってヨーロッパ移民が大量導入されると、次第に都市からは黒人が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿を消し、以降アルゼンチンは白人国家であることを誇り、アイデンティティにするようになった。
20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、︵ヨーロッパから見れば︶﹁文化のない﹂アメリカ合衆国や、人種的優越感やラテンアメリカ一の経済大国であったことによる自信により、ラテンアメリカ諸国を見下す傾向と、ラテンアメリカとの連帯よりもヨーロッパとのつながりを重視する傾向があり[47][50]、折からのアルゼンチンの経済的な発展への羨望とあいまって、同国がラテンアメリカ諸国から嫌われる大きな原因となった。
純粋な南欧系と比較すると小柄で、風貌も若干異なる人が少なくないことから、先住民系の血も少なからず受け継がれていることがわかるが、それでも現在のところアルゼンチン人の主要意識は白人国家、南米のヨーロッパであることに変わりはない。ただし、マルビナス戦争でヨーロッパ︵EC︶と敵対し、反対にラテンアメリカ諸国の支援を受けたことから、状況は多少変わってきている[47]。
1837年の世代や1880年の世代に代表される19世紀の自由主義者はアングロ・サクソン移民を多く招いてアルゼンチンを非ラテン化したかったようだが、現実的に1871年から1913年までに定着した317万人のヨーロッパ移民としてはイタリア人︵イタリア系アルゼンチン人︶、スペイン人が特に多かった。その他にはフランス人、ロシア人、ドイツ人、オーストリア人、イングランド人、ウェールズ人、クロアチア人、ポーランド人、ポルトガル人、スイス人、ベルギー人、アイルランド人などが続き、ロシア系はほとんどがアシュケナジムだった。そのほかにはレバノン、シリアから移民したアラブ人︵アラブ系アルゼンチン人︶やブラジルなどから再移住した日本人︵日系アルゼンチン人︶、スペイン内戦の共和派の亡命者や、第二次大戦前にナチスに追われて逃げてきたドイツからのユダヤ人、そして戦後ナチスの残党として亡命してきたドイツ人などがいる[51][52]。
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テウエルチェ人の一群 (1832年)
アルゼンチンの不法移民は大多数が国境を接するボリビア、パラグアイから来ており、少数はペルー、エクアドル、ルーマニアなどからもやってきている。アルゼンチン政府はこうした不法移民の数を75万人と見積もっている。
アルゼンチンの都市人口率は昔から非常に高く、それは現在まで変わっていない。353万人がブエノスアイレス市に、1,240万人が大ブエノスアイレス都市圏に住んでいる。第2、第3の都市圏はコルドバとロサリオであり、それぞれ130万人と110万人の都市圏を構成している[要出典]。
19世紀以降に移民したほとんどのヨーロッパ移民は、大土地所有制が崩れずに入植地の所有権が手に入らなかったため、最終的に都市に落ち着き、仕事や教育などさまざまな機会を得て中間層となっていった。多くは鉄道網に沿って成長していた小都市に住み着いたが、1930年代に入ると小都市から大都市への国内移民が行われた。
1990年代に入り国営鉄道民営化が行われた結果、旅客列車の運行が中止された路線が増え、小規模工業が外国製の安い製品との競争に敗れて消えていくと、田舎町にはゴースト・タウンになるものも現れた。また、"Villa Miseria"と呼ばれる不法占拠の建物密集地︵いわゆるスラム︶が大都市の空き地に見られるようになり、鉄道民営化以降増加した。国営企業民営化および民間企業破綻で失業した下層労働者と北西部の小さな町からの移住者が最初にそこに家を建て、次にさらに大きな数の近隣諸国からの移民︵移民の人々が住民の半数以上を占めるといわれる︶がそこに新たに家を建てるか、増築するなどをしながら住んでいる。これらの家の中には電気がひかれ、エア・コンディショナーや冷蔵庫も存在し、営業店舗にもなっている建物もある。ただし、沼地のような場所の上に存在する建物は衛生上に問題があり、密集した環境が犯罪組織の温床になりかねないとして、政府はアパートを建設し、そこに不法占拠の住民を移住させる政策を行っているが、資金不足によりなかなか進んでいない。
アルゼンチンの都市はヨーロッパ移民の影響が反映されているため、非常にヨーロッパ的である。多くの都市はスペイン風に広場を中心に建設され、カテドラルと重要な役所︵カビルド︶は広場に面して建てられる︵ただし、ブエノスアイレスは1850年代以降フランスのパリを忠実にモデルにして改造された︶。一般的に都市の配置はダメロと呼ばれる碁盤目上であるが、19世紀末にワシントンD.C.をモデルに建設されたラ・プラタ市など近代的な計画都市はこの様式からかけ離れていることもある。
2022年度の都市人口率は92.23%である。[53]
20世紀半ばまでは移民受け入れ国だったアルゼンチンも、20世紀中盤以降の社会、経済、政治の混乱により、多くのアルゼンチン人が祖国を離れて海外に移住した。特に国連ラテンアメリカ委員会の報告によると、アルゼンチンからの海外移住者の1,000人のうち191人が大学卒業者であるなど[54]、留学生がそのまま海外移民になってしまうことや、大学卒業者に見合った職業の不足などを原因とした、高学歴者の移民による社会の空洞化が懸念されている。アルゼンチンからの移民先はおもにスペイン、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル、ポルトガル、オーストラリアなどである。
エルネスト・ゲバラはチェ・ゲバラと呼ばれることが多いが、このチェとはアルゼンチンのスペイン語特有の表現のひとつである
言語はスペイン語︵リオプラテンセ・スペイン語︶が公用語であり、アルゼンチンではエスパニョールではなくカステジャーノと呼ばれる。ポルテーニョ︵ブエノスアイレス市民︶のアクセントはイタリア語のナポリ方言の影響が強く、ヨーロッパ移民、特にイタリア移民の影響により、ラ・プラタ地域で話されるルンファルドと呼ばれる独特の俗語が形成されてきた。アルゼンチンはスペイン語圏でも二人称単数においてボセオ︵Voseo︶のみが全土で使用されている数少ない国であり、ボセオはアルゼンチンのアイデンティティとなっている。
スペイン語のほかには英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、および多少の先住民言語なども使用されている。
標準ドイツ語は140万人から150万人のドイツ系アルゼンチン人によって話されているが、180万人以上が話しているともいわれている。ドイツ語は今日のアルゼンチンで第3か第4に多くの人々に話されている言葉である。そのほかにも、調査によると、150万人がイタリア語を話し、100万人がシリア・レバノンのアラビア語を話している。ガリシア語、イディッシュ語、日本語なども話されているが、これらの言語は現在では話されることは少なくなってきている。パタゴニアのトレレウやガイマンといった町にはウェールズ語を話すコミュニティがある。近年のアジア系移民は中国語と韓国語をブエノスアイレスに持ち込んだ。
先住民言語はコリエンテス州、ミシオネス州でグアラニー語が話され、コリエンテス州では公用語となっている。ケチュア語は北西部のサンティアゴ・デル・エステロ州で話され、アイマラ語はボリビアからの移民のコミュニティなどで話されている。パタゴニアではマプーチェ語などが話されている。
英語、ブラジル・ポルトガル語、フランス語はあまり大きな存在感を持たない。英語は学校教育で教えられ、ポルトガル語とフランス語が後に続く。
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266代ローマ教皇フランシスコ(右)とキルチネル大統領(左)。アルゼンチンは新大陸でローマ教皇を出した最初の国となった
国民の多数の93%がカトリック教徒だと申告しているが、教会はより正確には70%ぐらいだと見積もっている。現行憲法第二条によると、アルゼンチン共和国はカトリックを保護すべきであるとなっているが、これはアルゼンチンの国教がカトリックであるということではなく、圧倒的に信徒数が多いカトリックに国家の優先権があることを認めるのみとなっている[55]。2013年に行われたコンクラーベでは、アルゼンチン人のブエノスアイレス大司教ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿がローマ教皇に選出されて第266代教皇フランシスコとなり、アルゼンチンが初のアメリカ大陸出身のローマ教皇を出した国となった。アルゼンチンでは、日曜日に、必ずミサに出向くことが習慣となっており、結婚式なども教会で行うしきたりになっている。[56]
公務員は必ずしもカトリックを信仰しなければならないわけではないが、大統領はキリスト教徒しかなれない法律がある。この法律により、アラブ系だったカルロス・メネムはイスラーム教を棄教しなければならなかった。
1980年代からプロテスタントの福音派が足場を築き、現在総人口の約10%の330万人が信者である。
33万人以上がキリスト教系新宗教の末日聖徒イエス・キリスト教会︵モルモン教︶に所属しており、アルゼンチンは世界で7番目に末日聖徒イエス・キリスト教会の信者が多い国となっている。
ラテンアメリカでもっとも多いユダヤ人人口を抱え、人口の約2%がユダヤ人である。
イスラーム教徒は総人口の1.5%を占め、50万人から80万人がいると推測されている︵93%はスンナ派︶。現在アルゼンチンはラテンアメリカでもっともモスクの多い国のひとつとなっている。
おおよそ12%が無宗教、もしくは世俗派とみなされている。
婚姻の際には夫婦別姓であるが、女性は、自己の姓の後に﹁de+夫の姓﹂を追加することができる。
2010年から、同性同士の結婚︵同性結婚︶が認められるようになった。
街のいたるところで見られる子どもたちの白い制服は、アルゼンチンの学校教育の象徴である
クラリン紙に報じられたエバ・ペロン大統領夫人の葬儀の様子。今日クラリンはスペイン語圏でもっとも多く流通している新聞となっている
アルゼンチンの印刷メディアは高度に発達し、独立している。200以上の新聞が存在し、地元の町や地域に影響を与えている。最主要紙はブエノスアイレスの中道紙﹁クラリン﹂であり、スペイン語圏でもっとも流通している新聞のうちのひとつとなっている。[要出典]そのほかの新聞としては1870年創設の﹁ラ・ナシオン﹂︵中道右派︶、Página/12 ︵左派︶、アンビト・フィナンシエロ ︵保守ビジネス紙︶, ドイツ語新聞のArgentinisches Tageblatt 、スペイン語とフランス語で発行されるLe Monde Diplomatique、クロニカ ︵ポピュリズム︶。地方紙として重要なのは﹁ラ・カピタル﹂︵ロサリオ︶、﹁ロス・アンデス﹂︵メンドーサ︶、﹁内陸部の声﹂︵コルドバ︶、﹁エル・トリブノ﹂︵サルタ︶など。ブエノス・アイレス・ヘラルドは主要日刊英字新聞である。
アルゼンチンの出版業はスペイン・メキシコといったスペイン語圏の主要国の出版業とともにある。アルゼンチンには、エル・アテネオやジェニーといった、独立し、豊富な在庫を抱えたラテンアメリカ最大級の書店のチェーンがある。英語やその他の言語による書籍も多く流通している。雑多な趣味の領域をカバーした100を超える雑誌が出版され、書店や街頭のキオスクで販売されている。
ブエノスアイレスの公共放送局カナル7。アルゼンチンのテレビ放映開始は1951年で、ラテンアメリカ初だった
アルゼンチンはラジオ放送を始めた国家のパイオニアだった。1920年8月27日、Sociedad Radio Argentinaは﹁われわれは今、ブエノスアイレスの下町のコリセオ劇場からのリヒャルト・ワーグナーのパルジファルオペラの実演をあなたの家に送っています﹂と発表した。もっとも市内の20家庭しかラジオ受信機を所持していなかった。世界初の放送局はそのときからRadio Culturaが放送されるようになる1922年まで、アルゼンチン唯一のラジオ局だった。その後、1925年までに12局がブエノスアイレスに、10局がそのほかの都市に開設された。1930年代はバラエティ、ニュース、ソープオペラ、スポーツなどアルゼンチンのラジオにとって﹁黄金時代﹂だった[69]。
現在アルゼンチンでは1,500以上のラジオ局が認可されている。260局がAM局であり、1150局がFM局である。[要出典] ラジオはアルゼンチンでは重要なメディアとなっている。音楽と若者文化番組がFM放送を支配しており、ニュース・討論・スポーツはAM放送の内容として第一に来る。ラジオはいまだに情報、エンターテインメント、さらに最遠隔地のコミュニティーにおける人命救助にさえ重要なサービスとして役立っている。
アルゼンチンのテレビ業界は大きく多様であり、ラテンアメリカで広く見られていると同時に世界中で見ることができる。多くのローカル番組が他国で放送され、そのほかは外国人のプロデューサーが市場で権利を買っている。アルゼンチンには5つの主要ネットワークがある。すべての地方主要都市と大都市には、少なくとも1つの地方局がある。アルゼンチンでは北アメリカとほぼ同じぐらいのパーセンテージでケーブルテレビと衛星放送が浸透している[70]。ケーブルネットワークはアルゼンチンとほかのスペイン語圏からもたらされ、ウルティマ・サテリタル、TyCスポーツ、スペイン語Foxスポーツ︵合衆国、メキシコも同様︶、MTVアルヘンティーナ、コスモポリタンTV、およびニュースネットワークのトド・ノティシアスなどがある。
(一)^ 現行憲法第35条によると、リオ・デ・ラ・プラタ連合州、アルゼンチン連合といった歴史的な国名もまた正式な国名とされている[3]。
(二)^ 貧民を指す。直訳すれば﹁シャツなし﹂だが、ここでは﹁上着なし﹂の意