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ヴェローナの[[ミケーレ・サンミケーリ]]は傑出した軍事エンジニアであり、いくぶんマニエリスムの、特にパラッツォ・デル・テからの影響を受けている。それは年を負うごとに顕著になっていくようにみえるが、パラッツォ・ベヴィラックァのデザインはラファエロの家を規範としたものであるし、マドンナ・ディ・カンパーニャ聖堂のデザインは、テンピエットを基調としたものである。これらを考察するかぎり、彼は本質的には常にブラマンテの思想に忠実であった。 |
ヴェローナの[[ミケーレ・サンミケーリ]]は傑出した軍事エンジニアであり、いくぶんマニエリスムの、特にパラッツォ・デル・テからの影響を受けている。それは年を負うごとに顕著になっていくようにみえるが、パラッツォ・ベヴィラックァのデザインはラファエロの家を規範としたものであるし、マドンナ・ディ・カンパーニャ聖堂のデザインは、テンピエットを基調としたものである。これらを考察するかぎり、彼は本質的には常にブラマンテの思想に忠実であった。 |
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[[アンドレア・パラーディオ]]もまた、一時的にはマニエリスム(特にミケランジェロ)に傾倒した。彼はブラマンテとの直接的なつながりは持たなかったが、ローマ建築とブラマンテの建築を独自に研究し、ウィトルウィウスの比例理論を再構築した。彼の建築手法は数学的調和を基調とし、対称性を重視するもので、その建築理論は『建築四書』に収められている。ヴィラ・ロトンダやバシリカ・パラディアーナは、彼の考古学的知識とルネサンスの伝統的様式が見事に混淆したものである。ヴェネツィアに建設された晩年の傑作、サン・ジョルジョ・マジョーレ聖堂とイル・レデントーレ聖堂は、光の取り入れ方や空間構成は簡素で優しい。マニエリスムの芝居がかった空間とは対照的である。彼の作風は、後にパラーディオ主義として、イギリスの建築に大きな影響を及ぼした。 |
[[アンドレア・パラーディオ]]もまた、一時的にはマニエリスム︵特にミケランジェロ︶に傾倒した。彼はブラマンテとの直接的なつながりは持たなかったが、ローマ建築とブラマンテの建築を独自に研究し、ウィトルウィウスの比例理論を再構築した。彼の建築手法は数学的調和を基調とし、対称性を重視するもので、その建築理論は﹃建築四書﹄に収められている。ヴィラ・ロトンダや[[バシリカ・パラディアーナ]]は、彼の考古学的知識とルネサンスの伝統的様式が見事に混淆したものである。ヴェネツィアに建設された晩年の傑作、サン・ジョルジョ・マジョーレ聖堂とイル・レデントーレ聖堂は、光の取り入れ方や空間構成は簡素で優しい。マニエリスムの芝居がかった空間とは対照的である。彼の作風は、後にパラーディオ主義として、イギリスの建築に大きな影響を及ぼした。
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2015年10月13日 (火) 23:01時点における版
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概説
ルネサンス |
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テーマ別 |
建築 舞踊 文学 音楽 美術 哲学 科学 技術 戦争 |
国別 |
イングランド フランス ドイツ イタリア ネーデルラント 北欧 ポーランド スペイン |
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歴史
初期ルネサンス
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/Rimini044.jpg/250px-Rimini044.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0c/Urbino-palazzo_ducale01.jpg/250px-Urbino-palazzo_ducale01.jpg)
盛期ルネサンス
フィレンツェで開花したルネサンス建築が成熟するのは、1450年頃から1499年までスフォルツァ家によって支配されたミラノ、そしてフランス軍によるミラノ占領の後、ブラマンテが移り住んだローマにおいてである。 1450年以降、スフォルツァ家がフィレンツェと同盟関係を結んだことによって、それまでゴシック様式の段階に留まっていた都市には、まずミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、アントニオ・フィラレーテ、ジョヴァンニ・アントニオ・アマーデオらによってルネサンス建築が取り入れられた。当時のミラノにはまだ多くのローマ建築の遺構が遺っていたらしく、これらがルネサンス建築の発展に果たした役割は大きいと考えられている。しかし、これらの遺物があるにもかかわらず、初期のルネサンス導入にあたっては、職人たちの間にかなりの抵抗があり、彼らが設計したポルティナーリ礼拝堂、オスペダーレ・マッジョーレ、コッレオーニ礼拝堂などは、かなりの修正が加えられ、結果的にルネサンスとは言えない建築に改変された。後期ルネサンス
1520年頃から1620年頃の、いわゆるマニエリスムとよばれる運動には明確な定義があるわけではないが、これは明らかに盛期ルネサンスとは異なる現象である。もともと、マニエリスムとは16世紀中期の特に絵画芸術を指して半ば侮蔑的に与えられた呼称であった。調和比例を重視したそれまのでルネサンス建築の伝統にあって、マニエリスムは故意の不調和と対立、そして自意識過剰性が特徴とされるが、マニエリスムと呼べる範囲については議論があり、必ずしも明確ではないので、一般的には様式として定義されていない。 建築においては、ジュリオ・ロマーノやミケランジェロ・ブオナローティ、そして彼らの追従者の建築はマニエリスムと言えるだろうが、サンソヴィーノの建築はマニエリスムとは呼べず、パラーディオは意識して設計をおこなったときにのみマニエリストである。ここでは北イタリアの建築をブラマンテの理念を直接的に継承しているという意味でマニエリスム建築とは異なる現象として記述する。マニエリスム
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/Palazzo_Te_Mantova_1.jpg/250px-Palazzo_Te_Mantova_1.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c0/Laurentian_Library_vestibule.jpg/250px-Laurentian_Library_vestibule.jpg)
北イタリアの後期ルネサンス建築
ローマで展開された盛期ルネサンスは、ローマ略奪などの中央イタリアの混乱により、ジェノヴァ、ミラノ、ヴェネツィアなど、政治的に安定した北イタリアに継承された。特にヴェネツィアでは、マニエリスムの影響を殆ど受けず、16世紀初期に最も主導的な活動を行ったヤーコポ・サンソヴィーノは、ブラマンテ風の偉大な様式を表現した。彼の代表作であるサンソヴィーノ図書館︵サン・マルコ図書館︶は、ヴェネツィアの最も印象的な風景を形成している。 ヴェローナのミケーレ・サンミケーリは傑出した軍事エンジニアであり、いくぶんマニエリスムの、特にパラッツォ・デル・テからの影響を受けている。それは年を負うごとに顕著になっていくようにみえるが、パラッツォ・ベヴィラックァのデザインはラファエロの家を規範としたものであるし、マドンナ・ディ・カンパーニャ聖堂のデザインは、テンピエットを基調としたものである。これらを考察するかぎり、彼は本質的には常にブラマンテの思想に忠実であった。 アンドレア・パラーディオもまた、一時的にはマニエリスム︵特にミケランジェロ︶に傾倒した。彼はブラマンテとの直接的なつながりは持たなかったが、ローマ建築とブラマンテの建築を独自に研究し、ウィトルウィウスの比例理論を再構築した。彼の建築手法は数学的調和を基調とし、対称性を重視するもので、その建築理論は﹃建築四書﹄に収められている。ヴィラ・ロトンダやバシリカ・パラディアーナは、彼の考古学的知識とルネサンスの伝統的様式が見事に混淆したものである。ヴェネツィアに建設された晩年の傑作、サン・ジョルジョ・マジョーレ聖堂とイル・レデントーレ聖堂は、光の取り入れ方や空間構成は簡素で優しい。マニエリスムの芝居がかった空間とは対照的である。彼の作風は、後にパラーディオ主義として、イギリスの建築に大きな影響を及ぼした。特徴
和音の比例と数的秩序
楽器が奏でる美しい和音の比例が、建築の美しさをも決定するという概念がルネサンス建築を特徴づける要素の一つである。数的秩序によって調和が生まれるという概念は今日においても理解しやすいものであり、その中には普遍的な要素があると言えるであろう。しかし、ルネサンス時代の比例調和の探求は、さらにルネサンス固有の様相を呈していたことに注意する必要がある。 現代では、一般に、あるものを美しいと感じるかどうかは人間の認識に依存し、美とはきわめて主観的なものと認識されている。しかし、ルネサンスの時代には、建築の美というものが単純な整数比に支配された幾何学的な構造によって、厳密に定義されると考えられていた。ルネサンス建築において、比例による数的秩序は音楽調和に関連づけられているが、これは音楽がすでに数学の一分野として、学芸として確立されていたことに起因する[15]。音楽の聴覚比例と建築の視覚比例が密接に関連するという考え方は、単なる理論にとどまらず、実際に建築に応用された。 弦の長さが簡単な整数比になるような弦楽器の音を組み合わせると、心地よい和音になるという考えは古くから知られており、特定の整数比︵1:2や2:3など︶を神聖視する考え方は、万物の原理が数であるとするピタゴラスにまで遡ることができる。このような調和美について、ウィトルウィウスは﹃建築について﹄のなかで、劇場の設計方法として取り上げていた[16]。ウィトルウィウスが整数比を劇場という特定の設計においてのみ語ったのに対し、レオン・バッティスタ・アルベルティはこれをさらに拡張して、2:3、3:4、1:2、1:3、1:4、8:9という数比を挙げ、これが目と耳を歓ばせるものであるとして建築形態の美や調和が生み出されるという考え方を定義した。これは ネオプラトニズムに基づくものであり、建築をより普遍的に記述しようとする意識の現れであった。 音楽の調和比例が視覚的美を決定するというアルベルティの考え方は、彫刻、絵画にも規定され、ルネサンスの学者や芸術家たちによって研究された。ウィトルウィウスの述べる調和比例の根本原理は人体に表されているという記述は特に注目され、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そして彼と親交のあった数学者ルカ・パチョーリらは、人体の比例と数的調和の象徴としてウィトルウィウス的人体図を賞賛した。 アンドレーア・パッラーディオも﹃建築四書﹄で同じようなことを記載している。彼が提示した建築比例はアルベルティほど論理的なものではないが、彼の提示した設計図には詳細にわたって建築比例が書き込まれており、より実践的な効果があった。全ての寸法比が理論的につじつまの合うものではないが、やはりその多くは調和音の比例に基づくものであり、後世に大きな影響を与えた。ルネサンスがフランス、イギリス、スペインに影響を与えるようになると、これら比例調和の概念も継承され、18世紀半ばまで美の体系として維持された。当時の建築家たちは、このような比例を建築に取り入れることが宇宙の秩序と信じ、絶対視していたのである建築論
ルネサンス建築に大きな影響を与えたウィトルウィウスの﹃建築について︵De architectura libri decem︶﹄は、1415年にポッジョによって再発見されたといわれるが、14世紀にはボッカチオが引用するなど、実際にはこの当時よく知られた古典論文のひとつであった。 この建築論は、1432年頃にアルベルティによって詳細に研究され、彼自身の﹃建築論︵De re aedificatoria︶﹄によって再構築された[17]。オーダーに関する理論は、アルベルティによって意味を与えられたが、彼はウィトルウィウスと同じく、オーダーを建築に必須の規則とは見なさず、あくまでも客観的な立場で解説したにすぎなかった。アルベルティが注目したのは、人体比例と建築の比例を同一とみなす理論であり、あらゆる比例尺度の根本が人間の形態であるという思想は、宇宙の全ての調和にも通じるルネサンスの比例システムとなった。アルベルティの著作はルネサンス最初の建築書であり、初は写本であったが、1485年には当時発明された活版印刷技術によって広く読まれた。フランチェスコ・マルティーニの﹃市民建築および軍事建築に関する理論書︵Trattato di Archiettura civile e militare︶﹄︵1482年頃︶は、アルベルティの論文にかなりの部分を負っている。 アントニオ・フィラレーテは、ミラノでルネサンス様式の導入を試みた最初の人物であり、﹃建築論︵Trattato di Archietttura︶﹄において野蛮な現代風の流儀︵ゴシック建築のこと︶の放棄を訴えた。彼の論文に述べられる理想都市スフォルズィンダは、様々な建築を対称に配置した有心的な都市計画を提唱したヨーロッパ最初の例であるが、実際に設計したオスペダーレ・マジョーレにも見られる集中形式に対する関心は、ミラノのサン・サチーロ墳墓祭堂︵875年 ︶やミケロッツォが 1425年にピストイアにおいて設計したサンタ・マリア・デル・グラツィエ聖堂に刺激されたものであろう。 15世紀、16世紀の建築思想にきわめて重要な影響を与えたのは、セバスティアーノ・セルリオが1537年から1551年の間に刊行した﹃建築書︵L’Architettura︶﹄である。彼は、古典建築の理論を全面的に図式化したため、古典的教養を持たない職人や貴族らに広く受け入れられた。オーダーを5つにコード化し、これをラテン語の文法におけるところの四つの活用であると述べるセルリオの語り口は非常に効果的で、建築の手本としてヨーロッパ中で読まれた。 ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラは、オーダーをさらに洗練し、かつ学問的なものとした。はじめてオーダーの名称を用いたのも彼である。﹃建築の5つのオーダー︵Regola delli Cinque Ordini d’Architettura︶﹄︵1562年︶は、精密な銅版画とその注釈、および序文によって構成されるが、様々な建築的課題に対処できる建築原理の体系を確立しようとする彼の努力が現れている。 ﹃建築四書︵Quattro Libri dell’ Architettura︶﹄︵1570年出版︶は、アンドレア・パラーディオによるオーダー、住宅建築、公共建築、神殿の図解や記録であり、古典主義建築家としての声明とも言える[18]。パラーディオのウィトルウィウスに関する知識は当時一級のものであり、彼は考古学的側面でだけではなく、独自の解釈をも見いだしている。パラーディオの比例理論は音階に基づく複雑な調和によって成り立っており、それは一室で独立したものではなく、一連の続き部屋にまで適用されている。ウィトルウィウスとローマの遺跡、そしてブラマンテの建築を詳細に研究したこの著作は、イタリアのみならずヨーロッパ全土に影響を与え、特にイギリスにおいて、特に重要な衝撃を与えることになった︵パラーディオ主義建築︶。 これらルネサンス建築論の集大成は1615年に完成したヴィンチェンツォ・スカモッツィの﹃普遍的建築の理念︵L’idea dell’ architettura universale︶﹄である。これは古代から中世、ルネサンスに至る建築に言及したアカデミックな理論書であり、またアルベルティにはじまるオーダー理論の集大成として、特にイギリスに影響を与えた。主要建築物
初期ルネサンス
- サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドーム(フィリッポ・ブルネレスキ フィレンツェ 1418年設計・1436年完成)
- サン・ロレンツォ聖堂と古聖器室(フィリッポ・ブルネレスキ フィレンツェ 1419年設計・1461年完成)
- サンタ・クローチェ聖堂のパッツィ家礼拝堂(フィリッポ・ブルネレスキ フィレンツェ 1430年設計・1444年完成)
- サント・スピリト聖堂(フィリッポ・ブルネレスキ フィレンツェ 1436年設計・1487年完成)
- パラッツォ・メディチ・リッカルディ(ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ フィレンツェ 1444年起工・1464年完成)
- パラッツォ・ルチェッライ(レオン・バッティスタ・アルベルティ フィレンツェ 1446年頃起工・1451年完成)
- テンピオ・マラスティアーノ(レオン・バッティスタ・アルベルティ リミニ 1446年起工・1468年完成)
- サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂正面(レオン・バティスタ・アルベルティ フィレンツェ 1448年起工・1470年完成)
- オスペダーレ・マッジョーレ(アントニオ・フィラレーテ ミラノ 1456年起工・1465年完成)
- パラッツォ・ピッコロミーニとピエンツァ大聖堂(ピウス2世およびベルナルド・ロッセリーノ ピエンツァ 1459年起工・1464年完成)
- パラッツォ・ドゥカーレ(ルチアーノ・ラウラーナ ウルビーノ 1465年起工・1479年完成)
- サンタンドレア聖堂(レオン・ティスタ・アルベルティ マントヴァ 1471年設計・1494年完成)
- サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂のコレオーニ礼拝堂(ジョヴァンニ・アントニオ・アマーデオ ベルガモ 1473年起工・1499年完成)
- ヴィラ・メディチ(ジュリアーノ・ダ・サンガッロ ポッジョ・ア・カイヤーノ 1480年起工・1485年完成)
- サンタ・マリア・デッレ・カルチェッリ聖堂(ジュリアーノ・ダ・サンガッロ プラート 1484年起工・1491年完成)
- サンタ・マリア・デル・カルチナイオ聖堂(フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ コルトーナ 1485年起工・1501年完成)
- サント・スピリト聖堂の聖器室(ジュリアーノ・ダ・サンガッロ フィレンツェ 1489年起工・1495年完成)
- パラッツォ・ストロッツィ(ベネデット・ダ・マイアーノおよびイル・クローナカ フィレンツェ 1489年起工・1539年完成)
盛期ルネサンス
- サンタ・マリア・プレッソ・サン・サーティ教会(ドナト・ブラマンテ ミラノ 1478年起工・1486年完成)
- サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会(グイニフォルテ・ソラーリおよびドナト・ブラマンテ ミラノ 1466年起工・1499年完成)
- サンタンブロージョ教会のクロイスター(ドナト・ブラマンテおよびクリストフォロ・ソラーリ ミラノ 1497年起工・1513年完成)
- サンタ・マリア・デッラ・パーチェ聖堂のクロイスター(ドナト・ブラマンテ ローマ 1500年起工・1504年完成)
- サン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂のテンピエット(ドナト・ブラマンテ ローマ 1502年起工・1512年成)
- ヴァティカーノ宮殿のベルヴェデーレの中庭(ドナト・ブラマンテ ローマ 1504年起工・1550年頃完成)
- サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のアプス(ドナト・ブラマンテ ローマ 1505年起工・1509年完成)
- サン・ピエトロ大聖堂計画案(ドナト・ブラマンテ ローマ 1506年頃設計)
- サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会(コーラ・ダ・カプラローラ トーディ 1508年起工・1524年完成)
- サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のキージ家礼拝堂(ドナト・ブラマンテ ローマ 1513年頃起工)
- パラッツォ・ファルネーゼ(アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネおよびミケランジェロ・ブオナローティ ローマ 1517年起工・1549年完成)
- ヴィラ・マダマ(ラファエロ・サンティおよびジュリオ・ロマーノ ローマ 1518 年起工・1525年完成)
- マドンナ・ディ・サン・ビアージョ聖堂(アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ モンテプチャーノ 1518年起工・1545年完成)
- パラッツォ・マッシモ・アッレ・コロンネ(バルダッサーレ・ペルッツィ ローマ 1532年起工・1536年完成)
後期ルネサンス
マニエリスム
- サン・ロレンツォ聖堂の新聖器室(ミケランジェロ・ブオナローティ フィレンツェ 1520年起工・1534年完成)
- パラッツォ・ドゥカーレのコルテ・ヌォヴァ(ジュリオ・ロマーノ マントヴァ 1524年起工・1546年完成)
- ロレンツォ図書館(ミケランジェロ・ブオナローティ フィレンツェ 1524年頃起工・1559年完成)
- パラッツォ・デル・テ(ジュリオ・ロマーノ マントヴァ 1526年起工・1535年完成)
- カンピドリオ広場とパラッツォ・セナトリオおよびパラッツォ・ヌォヴォ(ミケランジェロ・ブオナローティおよびジャコモ・デッラ・ポルタ ローマ 1536年頃設計・1655年完成)
- サント・スピリト・イン・サッシァ聖堂(アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ ローマ 1540年起工)
- ジュリオ・ロマーノ自邸(ジュリオ・ロマーノ マントヴァ 1544年起工・1546年完成)
- サン・ピエトロ大聖堂(ミケランジェロ・ブオナローティ ローマ 1546年設計・1589年完成)
- サンタ・マリア・ディ・カリニャーノ聖堂(ガレアッツォ・アレッシ ジェノヴァ 1549年設計・1603年完成)
- サンタンドレア・ヴィア・フラミア聖堂(ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ ローマ 1550年起工・1554年完成)
- ヴィラ・ジュリア(ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラおよびバルトロメオ・アンマナーティ ローマ 1550年設計・1555年完成)
- パラッツォ・マリーノ(ガレアッツォ・アレッシ ミラノ 1553年起工・1892年完成)
- パラッツォ・ピッティ(バルトロメオ・アンマナーティ フィレンツェ 1558年起工・1640年完成)
- パラッツォ・ファルネーゼ(ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ カプラローラ 1559年起工・1573年完成)
- パラッツォ・ウフィッツィ(現ウフィッツィ美術館 ジョルジョ・ヴァザーリ フィレンツェ 1560年起工)
- サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のスフォルツァ家礼拝堂(ミケランジェロ・ブオナローティ ローマ 1560年頃設計)
- イル・ジェス聖堂(ジャコモ・パロッツィ・ダ・ヴィニョーラ ローマ 1568年着工・1577年完成)
- パラッツォ・ラテラセンネ(ドメニコ・フォンターナ ローマ 1586年起工・1589年完成)
- サンタ・トリニタ聖堂(ベルナルド・ブオンタレンティ フィレンツェ 1593年起工・1594年完成)
北イタリアの後期ルネサンス
- パラッツォ・ポンペイ(ミケーレ・サンミケーリ ヴェローナ 1527年起工・1535年完成)
- カ・グランデ(ヤーコポ・サンソヴィーノ ヴェネツィア 1533年起工・1556年完成)
- 造幣局(ヤーコポ・サンソヴィーノ ヴェネツィア 1535年起工・1547年完成)
- サンソヴィノ図書館とロジェッタ(ヤーコポ・サンソヴィーノ ヴェネツィア 1537年起工・1591年完成)
- ポルタ・パーリオ(ミケーレ・サンミケーリ ヴェローナ 1548年起工・1559年完成)
- バシリカ・パラディアーナ(アンドレーア・パッラーディオ ヴィチェンツァ 1549年着工・1617年完成)
- パラッツォ・グリマーニ(ミケーレ・サンミケーリ ヴェネツィア 1556年起工・1575年完成)
- ヴィッラ・バルバロ(アンドレーア・パッラーディオ マゼール 1557年起工・1558年完成)
- マドンナ・ディ・カンパーニア聖堂(ミケーレ・サンミケーリ ヴェローナ 1559年起工・1561年完成)
- サン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院聖堂(アンドレーア・パッラーディオ ヴェネツィア 1564年起工・1589年完成)
- ヴィラ・ロトンダ(アンドレーア・パッラーディオおよびヴィンチェンツォ・スカモッツィ ヴィチェンツァ 1565年起工・1569年完成)
- イル・レデントーレ教会(アンドレーア・パッラーディオ ヴェネツィア 1577年起工・1592年完成)
- テアトロ・オリンピコ(アンドレーア・パッラーディオ ヴィチェンツァ 1579年設計・1583年完成)
脚注
注釈
出典
参考文献
- ピーター・マレー、桐敷真次郎訳『図説世界建築史 ルネサンス建築』(本の友社)ISBN 9784894391550
- ピーター・マレー、長尾重武訳『イタリア・ルネッサンスの建築』(SDライブラリー・鹿島出版会)ISBN 9784306061088
- ヴォルフガング・ロッツ、飛ケ谷潤一郎訳『イタリア・ルネサンス建築研究』(中央公論美術出版 2008年)ISBN 978-4805505809
- ヴィトルト・リプチンスキ、渡辺真弓訳『完璧な家 パラーディオのヴィラをめぐる旅』(白水社 2005年) ISBN 978-4560027028
- コーリン・ロウ、レオン・ザトコウスキ、稲川直樹訳『イタリア十六世紀の建築』(六耀社 2006年) ISBN 978-4897375540
- ヤーコプ・ブルクハルト、瀧内槙雄訳『チチェローネ イタリア美術作品享受の案内 建築篇』(中央公論美術出版 2004年)
- アンドレ・シャステル 小島久和訳『ルネサンスの危機 1520-1600年』ISBN 978-4582238358
- パウル・フランクル、香山寿夫監訳『建築史の基礎概念 ルネサンスから新古典主義まで』(SD選書:鹿島出版会)
- ルドルフ・ウィットコウアー 中森義宗訳『ヒューマニズム建築の源流』(彰国社)
- レオン・バティスタ・アルベルティ、相川浩訳『建築論』(中央公論美術出版)ISBN 9784805500101
- ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ 長尾重武編『建築の五つのオーダー』(中央公論美術出版 1984年)
- ベルトッティ・スカモッツィ、桐敷真次郎訳『「アンドレア・パラーディオの建築と図面」解説』(本の友社 1998年)ISBN 978-4894391420
- ジョルジョ・ヴァザーリ 森田義之監訳『ルネサンス彫刻家建築家列伝』(白水社 2003年) ISBN 9784560039304
- アントーニオ・マネッティ 浅井朋子訳『ブルネッレスキ伝』(中央公論美術出版 1989年) ISBN 978-4805501870
- ジュリオ・カルロ・アルガン 浅井朋子訳『ブルネッレスキ-ルネサンス建築の開花』(SD選書:鹿島出版会 1981年) ISBN 978-4306051706
- 福田晴虔 『イタリア・ルネサンス建築ノート1<1>ブルネッレスキ』(中央公論美術出版 2011年) ISBN 978-4805506677
- アルナルド・ブルスキ、稲川直樹訳『ブラマンテ ルネサンス建築の完成者』(中央公論美術出版) ISBN 978-4805504123
- 長尾重武 『パラディオへの招待』(SD選書:鹿島出版会)ISBN 978-4306052222
- ジーン・A・ブラッカー 森田義之・松本典昭訳『ルネサンス都市フィレンツェ』(岩波書店 2011年) ISBN 978-4000024679
- ニコラス・ペヴスナー他 鈴木博之監訳『世界建築辞典』(鹿島出版会)ISBN 9784306041615
- ニコラス・ペヴスナー 小林文次・山口廣・竹本碧訳『新版ヨーロッパ建築序説』(彰国社 1989年) ISBN 978-4395050833