「中院定平」の版間の差分
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
4行目: | 4行目: | ||
| 画像サイズ = |
| 画像サイズ = |
||
| 画像説明 = |
| 画像説明 = |
||
| 時代 = [[鎌倉時代]]末 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] |
| 時代 = [[鎌倉時代]]末期 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] |
||
| 生誕 = 不 |
| 生誕 = 不明 |
||
| 死没 = 不 |
| 死没 = 不明 |
||
| 改名 = 良定 |
| 改名 = 良定(初名)→定平 |
||
| 別名 = |
| 別名 = |
||
| 諡号 = |
| 諡号 = |
||
15行目: | 15行目: | ||
| 官位 = [[大納言]]([[南朝 (日本)|南朝]]) |
| 官位 = [[大納言]]([[南朝 (日本)|南朝]]) |
||
| 主君 = [[後醍醐天皇]]→[[後村上天皇]] |
| 主君 = [[後醍醐天皇]]→[[後村上天皇]] |
||
| 氏族 = [[村上源氏]][[源定房|定房 |
| 氏族 = [[村上源氏]][[源定房|定房]]流 |
||
| 父母 = 父:源定成 |
| 父母 = 父:[[源定成]] |
||
| 兄弟 = 家房、'''定平''' |
| 兄弟 = 家房、'''定平''' |
||
| 妻 = |
| 妻 = |
||
| 子 = [[中院定清|定清]]、[[中院雅平|雅平]]、 |
| 子 = [[中院定清|定清]]、[[中院雅平|雅平]]、[[北畠顕能]]? |
||
| 特記事項 = [[中院義定]]と同一人か |
| 特記事項 = [[中院義定]]と同一人か |
||
}} |
}} |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
なお、[[征西将軍]]府の要人として[[懐良親王]]に随従した'''[[中院義定]]'''(― よしさだ)と同一人と見なす説もある。 |
|||
__TOC__ |
|||
[[元弘の乱]]の際は[[護良親王]]に属して[[鎌倉幕府|幕府]]軍と戦い、[[建武の新政|建武政権]]とその後の[[南朝 (日本)|南朝]]でも[[公家大将]]の1人として軍忠を抜きん出たとされる。なお、[[征西将軍]]府の要人として[[懐良親王]]に随従した'''[[中院義定]]'''(― よしさだ)と同一人と見なす説もある。 |
|||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[後醍醐天皇]]の倒幕計画に早くから関わったとみられ、[[元弘]]元年︵[[1331年]]︶8月天皇の[[笠置山 (京都府)|笠置]]潜幸に及んで、[[四条隆資]]・[[二条為明]]と |
初名は'''良定'''︵よしさだ︶。[[後醍醐天皇]]の倒幕計画に早くから関わったとみられ、[[元弘]]元年︵[[1331年]]︶8月天皇の[[笠置山 (京都府)|笠置]]潜幸に及んで、[[四条隆資]]・[[二条為明]]と共に天皇に扮した[[花山院師賢]]を供奉する態で[[比叡山]]に登った。この謀略が露見した後、下山して天皇と合流した[[公家]]の中に定平の名はないが、恐らく彼も同行し、9月笠置陥落の折に[[河内国]]辺りへ逐電したのであろう。
|
||
やがて[[護良親王]]の側近となり、数通の[[令旨]]に奉者として[[花押]]を据えている。元弘3年/[[正慶]]2年︵[[1333年]]︶初め、[[左少将]]から |
やがて[[護良親王]]の側近となり、数通の[[令旨]]に奉者として[[花押]]を据えている。元弘3年/[[正慶]]2年︵[[1333年]]︶初め、[[近衛府|左少将]]から右中将に遷任。2月の[[吉野城#吉野城攻防戦|吉野合戦]]では、[[木本宗元]]・[[高間行秀]]・[[松尾寺 (和泉市)|松尾寺]][[衆徒]]らを率いて東方に逃れ、[[吉野山]]麓の波津坂の合戦を経て[[宇陀郡]]一帯で[[二階堂道蘊]]率いる[[鎌倉幕府|幕府]]軍を翻弄した<ref>元弘3年2月25日付護良親王令旨案︵﹃[[師守記]]﹄[[紙背文書]]︶、﹃[[松尾寺文書]]﹄建武元年5月日付松尾寺住侶等言上状案︵﹃[[徴古雑抄]]﹄所収︶</ref>。3月には[[赤松円心]]に擁されて﹁聖護院宮﹂と僭称し、山崎・八幡に陣して西国との往還を阻止し、翌月には[[良忠 (二条家)|良忠]]と共に一方の大将として3000余騎を率い、[[鳥羽街道|鳥羽]]・[[竹田]]方面から[[六波羅]]へ攻め込んだが、幕府軍に敗れて気力と体力を消耗した赤松勢は八幡に退却したという。6月[[千早城]]から[[奈良|南都]]に引き揚げた[[北条治時|阿曾治時]]・[[北条高直|大仏高直]]らが京都を攻めようとしているとの噂が立ったため、定平は大将に任じられて大軍を率い、搦手の[[楠木正成]]と共に[[大和路]]へ向かうも、戦わずしてたちまちに平定し、高直らを捕縛して京都へ凱旋した。8月までには[[能登国]]の[[知行国主]]護良親王の申任によって[[能登国司]]に任じられた。またこの頃、九州武士らから提出された[[軍忠状]]・[[着到状]]にも証判︵花押︶を加えている<ref>﹃[[松浦文書]]﹄元弘3年7月8日付[[相知蓮賀]]軍忠状、﹃三原文書﹄同年10月25日付三原種昭着到状など︵[[森茂暁]]による︶。</ref>。
|
||
以上の軍功が認められ、[[建武政権]]下の[[建武 (日本)|建武]]元年︵[[1334年]]︶5月には[[恩賞方]]寄人として一番局︵[[東海道]]・[[東山道]]担当︶を務めた。当時既に護良の許を離れていたが、能登国司の地位には依然留まったと思われ、護良失脚後の同2年︵[[1335年]]︶4月勅裁に因んで[[永光寺]]に下した[[国宣]]には定平が[[袖判]]を加えた<ref>﹃永光寺文書﹄建武2年4月15日付能登国宣</ref>。同年6月[[西園寺公宗]]らによる[[北条氏]]再興の陰謀が露見するや、[[結城親光]]・[[名和長年]]らを率い、公宗を逮捕して自邸に幽閉するも、その後生まれた遺児︵後の[[西園寺実俊|実俊]]︶については、[[昭訓門院春日局|昭訓門院春日]]の嘆願により助命を上奏した。[[延元]]元年︵[[1336年]]︶5月の[[湊川の戦い]]では、[[新田義貞]]軍の一部将として[[生田神社|生田森]]で[[足利氏|足利]]方の[[高氏]]や[[上杉氏]]と交戦したが<ref>ただし、[[安井久善]]によれば、[[楠木正成]][[戦死]]後のこの後衛戦は﹃[[太平記]]﹄による虚構の可能性が高いとされる。</ref>、衆寡敵せずして[[京都]]へ敗走し、[[後醍醐天皇]]の避難していた[[近江国 |
以上の軍功が認められ、[[建武政権]]下の[[建武 (日本)|建武]]元年︵[[1334年]]︶5月には[[恩賞方]]寄人として一番局︵[[東海道]]・[[東山道]]担当︶を務めた。当時既に護良の許を離れていたが、能登国司の地位には依然留まったと思われ、護良失脚後の同2年︵[[1335年]]︶4月勅裁に因んで[[永光寺]]に下した[[国宣]]には定平が[[袖判]]を加えた<ref>﹃永光寺文書﹄建武2年4月15日付能登国宣</ref>。同年6月[[西園寺公宗]]らによる[[北条氏]]再興の陰謀が露見するや、[[結城親光]]・[[名和長年]]らを率い、公宗を逮捕して自邸に幽閉するも、その後生まれた遺児︵後の[[西園寺実俊|実俊]]︶については、[[昭訓門院春日局|昭訓門院春日]]の嘆願により助命を上奏した。[[延元]]元年︵[[1336年]]︶5月の[[湊川の戦い]]では、[[新田義貞]]軍の一部将として[[生田神社|生田森]]で[[足利氏|足利]]方の[[高氏]]や[[上杉氏]]と交戦したが<ref>ただし、[[安井久善]]によれば、[[楠木正成]][[戦死]]後のこの後衛戦は﹃[[太平記]]﹄による虚構の可能性が高いとされる。</ref>、衆寡敵せずして[[京都]]へ敗走し、[[後醍醐天皇]]の避難していた[[近江国]]東坂本に参候。6月入京した[[足利尊氏]]を挟撃するため、[[宇治郡|宇治]]へ派遣されて南方から流入する兵糧を阻止し、洛中合戦にも参戦したらしい。10月に天皇が尊氏と和睦して帰洛すると、命を受けて[[河内国]]東条に下り、[[北陸朝廷]]の義貞、[[伊勢国]]の[[北畠親房]]、[[紀伊国]]の隆資らと呼応して再挙を期した。
|
||
これを最後に﹃[[太平記]]﹄には定平の活動が見えなくなるため、﹁以後消息不明﹂と結ぶ辞典類が少なくない。ただし同年中には[[従三位]]に叙されて |
これを最後に﹃[[太平記]]﹄には定平の活動が見えなくなるため、﹁以後消息不明﹂と結ぶ辞典類が少なくない。ただし同年中には[[従三位]]に叙されて公卿に列していたらしく<ref>﹃[[公卿補任]]﹄建武4年︵[[1337年]]︶項に非参議従三位﹁源良定﹂として初出するが、[[暦応]]2年︵[[1339年]]︶以降不見。南朝に仕えたためであろう。</ref>、翌[[延元]]2年/[[建武 (日本)|建武]]4年︵[[1337年]]︶3月河内[[鷲尾城 (河内国)|鷲尾]]と[[神感寺城|神感寺]]︵ともに[[東大阪市]]︶に城を構えて北軍を撃退したという﹁中院[[兵衛府|右兵衛督]]﹂<ref>﹃[[南狩遺文]]﹄所収[[紀伊国]][[海部郡 (和歌山県)|海部郡]][[性応寺]]所蔵文書</ref>とは恐らく定平のことであろう。また、延元3年︵[[1338年]]︶[[1月7日 (旧暦)|正月7日]]付で[[観心寺]]に自筆[[願文]]を納めた﹁右兵衛督﹂も定平に比定され、天下泰平・家門繁昌が成就すれば私領を寄進すると約している。
|
||
[[1340年]]代には[[征西将軍|征西府]]関係の文書に定平の花押を確認できるものが若干あるが<ref>﹃[[忽那文書]]﹄[[興国]]3年4月28日付中院定平[[奉書]]、﹃[[相良家文書]]﹄[[正平 (日本)|正平]]2年11月12日付中院定平[[御教書]]。</ref>、定平が[[懐良親王]]に属して |
[[1340年]]代には[[征西将軍|征西府]]関係の文書に定平の花押を確認できるものが若干あるが<ref>﹃[[忽那文書]]﹄[[興国]]3年4月28日付中院定平[[奉書]]、﹃[[相良家文書]]﹄[[正平 (日本)|正平]]2年11月12日付中院定平[[御教書]]。</ref>、定平が[[懐良親王]]に属して九州に下っていたとすれば、同じく親王従者として軍事活動を展開した[[公家大将]]'''[[中院義定]]'''との関係が無視できない。[[正平一統]]の[[正平 (日本)|正平]]7年︵[[1352年]]︶1月には、かつての能登国司の権限に基づくものであろう、[[總持寺祖院|惣持寺]]の敷地について元弘3年の[[宣旨]]・国宣に任せる旨の[[安堵状]]を下しており<ref>﹃[[総持寺文書]]﹄正平7年正月11日付中院定平安堵状</ref>、これによれば時に[[中納言]]であった。以後の活動は管見に入らず、その終焉も定かでないが、﹃[[新葉和歌集]]﹄に前[[大納言]]として2首入集しているから、これが極官と思われ、しかもその内容からは80余歳まで存命したことを窺い得る︵雑上・1109︶。定平の年齢については他に確証がない。なお、﹃[[尊卑分脈]]﹄の定平の袖書には﹁伺候南朝、元弘以来致軍忠--''遁世''﹂と見えているので、晩年の80代には恐らく[[出家]]していたと考えられる。
|
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
52行目: | 49行目: | ||
* [[東京大学史料編纂所]]編 『[[花押かがみ]]6(南北朝時代2)』 吉川弘文館、2004年、ISBN 9784642010177 |
* [[東京大学史料編纂所]]編 『[[花押かがみ]]6(南北朝時代2)』 吉川弘文館、2004年、ISBN 9784642010177 |
||
⚫ | |||
== 関連項目 == |
|||
⚫ | |||
* [[中院義定]] |
|||
* [[中院定清]] |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
[[Category:鎌倉時代の公家]] |
[[Category:鎌倉時代の公家]] |
||
[[Category:室町・安土桃山時代の公家]] |
[[Category:室町・安土桃山時代の公家]] |
2018年8月25日 (土) 09:24時点における版
中院定平 | |
---|---|
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 良定(初名)→定平 |
官位 | 大納言(南朝) |
主君 | 後醍醐天皇→後村上天皇 |
氏族 | 村上源氏定房流 |
父母 | 父:源定成 |
兄弟 | 家房、定平 |
子 | 定清、雅平、北畠顕能? |
特記 事項 | 中院義定と同一人か |
経歴
初名は良定︵よしさだ︶。後醍醐天皇の倒幕計画に早くから関わったとみられ、元弘元年︵1331年︶8月天皇の笠置潜幸に及んで、四条隆資・二条為明と共に天皇に扮した花山院師賢を供奉する態で比叡山に登った。この謀略が露見した後、下山して天皇と合流した公家の中に定平の名はないが、恐らく彼も同行し、9月笠置陥落の折に河内国辺りへ逐電したのであろう。 やがて護良親王の側近となり、数通の令旨に奉者として花押を据えている。元弘3年/正慶2年︵1333年︶初め、左少将から右中将に遷任。2月の吉野合戦では、木本宗元・高間行秀・松尾寺衆徒らを率いて東方に逃れ、吉野山麓の波津坂の合戦を経て宇陀郡一帯で二階堂道蘊率いる幕府軍を翻弄した[1]。3月には赤松円心に擁されて﹁聖護院宮﹂と僭称し、山崎・八幡に陣して西国との往還を阻止し、翌月には良忠と共に一方の大将として3000余騎を率い、鳥羽・竹田方面から六波羅へ攻め込んだが、幕府軍に敗れて気力と体力を消耗した赤松勢は八幡に退却したという。6月千早城から南都に引き揚げた阿曾治時・大仏高直らが京都を攻めようとしているとの噂が立ったため、定平は大将に任じられて大軍を率い、搦手の楠木正成と共に大和路へ向かうも、戦わずしてたちまちに平定し、高直らを捕縛して京都へ凱旋した。8月までには能登国の知行国主護良親王の申任によって能登国司に任じられた。またこの頃、九州武士らから提出された軍忠状・着到状にも証判︵花押︶を加えている[2]。 以上の軍功が認められ、建武政権下の建武元年︵1334年︶5月には恩賞方寄人として一番局︵東海道・東山道担当︶を務めた。当時既に護良の許を離れていたが、能登国司の地位には依然留まったと思われ、護良失脚後の同2年︵1335年︶4月勅裁に因んで永光寺に下した国宣には定平が袖判を加えた[3]。同年6月西園寺公宗らによる北条氏再興の陰謀が露見するや、結城親光・名和長年らを率い、公宗を逮捕して自邸に幽閉するも、その後生まれた遺児︵後の実俊︶については、昭訓門院春日の嘆願により助命を上奏した。延元元年︵1336年︶5月の湊川の戦いでは、新田義貞軍の一部将として生田森で足利方の高氏や上杉氏と交戦したが[4]、衆寡敵せずして京都へ敗走し、後醍醐天皇の避難していた近江国東坂本に参候。6月入京した足利尊氏を挟撃するため、宇治へ派遣されて南方から流入する兵糧を阻止し、洛中合戦にも参戦したらしい。10月に天皇が尊氏と和睦して帰洛すると、命を受けて河内国東条に下り、北陸朝廷の義貞、伊勢国の北畠親房、紀伊国の隆資らと呼応して再挙を期した。 これを最後に﹃太平記﹄には定平の活動が見えなくなるため、﹁以後消息不明﹂と結ぶ辞典類が少なくない。ただし同年中には従三位に叙されて公卿に列していたらしく[5]、翌延元2年/建武4年︵1337年︶3月河内鷲尾と神感寺︵ともに東大阪市︶に城を構えて北軍を撃退したという﹁中院右兵衛督﹂[6]とは恐らく定平のことであろう。また、延元3年︵1338年︶正月7日付で観心寺に自筆願文を納めた﹁右兵衛督﹂も定平に比定され、天下泰平・家門繁昌が成就すれば私領を寄進すると約している。 1340年代には征西府関係の文書に定平の花押を確認できるものが若干あるが[7]、定平が懐良親王に属して九州に下っていたとすれば、同じく親王従者として軍事活動を展開した公家大将中院義定との関係が無視できない。正平一統の正平7年︵1352年︶1月には、かつての能登国司の権限に基づくものであろう、惣持寺の敷地について元弘3年の宣旨・国宣に任せる旨の安堵状を下しており[8]、これによれば時に中納言であった。以後の活動は管見に入らず、その終焉も定かでないが、﹃新葉和歌集﹄に前大納言として2首入集しているから、これが極官と思われ、しかもその内容からは80余歳まで存命したことを窺い得る︵雑上・1109︶。定平の年齢については他に確証がない。なお、﹃尊卑分脈﹄の定平の袖書には﹁伺候南朝、元弘以来致軍忠--遁世﹂と見えているので、晩年の80代には恐らく出家していたと考えられる。脚注
参考文献
- 松本新八郎 「源定平」(『日本歴史大辞典(新装増補改訂版) 第9巻』 河出書房新社、1979年、ISBN 9784309609096)
- 安井久善 『太平記合戦譚の研究』 桜楓社、1981年、NCID BN02825376
- 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815
- 森茂暁 「大塔宮護良親王令旨について」(小川信編 『中世古文書の世界』 吉川弘文館、1991年、ISBN 9784642026352)
- 東四柳史明 「建武政権と能登国」(加能史料編纂委員会 『加賀・能登 歴史の窓』 青史出版、1999年、ISBN 9784921145019)
- 東京大学史料編纂所編 『花押かがみ6(南北朝時代2)』 吉川弘文館、2004年、ISBN 9784642010177