南部利恭
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南部 利恭 | |
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南部利恭 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 安政2年10月9日(1855年11月18日) |
死没 | 明治36年(1903年)10月9日[1] |
改名 | 彦太郎(幼名)、剛毅(初名)、利恭 |
墓所 | 東京都文京区大塚の護国寺 |
官位 | 従五位下・甲斐守、従三位、正三位 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 陸奥盛岡藩主→白石藩知事 |
氏族 | 南部氏 |
父母 | 父:南部利剛、母:倭子(しづこ、宮氏の娘) |
兄弟 | 利恭、郁子、大隈英麿、麻子、信方、慶麿、剛護、利克、稠子、宗子、倫子、貴子ら |
妻 |
正室:伊達宗城の六女・煕 継室:溝口直溥の七女・幾姫 継々室:浅野懋昭の娘・喜久子 |
子 | 利祥、利淳、庸子、恭子 |
南部 利恭︵なんぶ としゆき︶は、江戸時代後期の陸奥国盛岡藩の第15代︵最後︶の藩主。のち伯爵。
略歴[編集]
第14代藩主・南部利剛の長男として誕生した。幼名は彦太郎、初名は剛毅。 文久3年︵1863年︶9月、幕府に丈夫届を提出する。明治元年︵1868年︶10月9日、戊辰戦争に際し、南部信民と共に明治政府軍に降伏を申し入れる。同年12月2日、父・利剛と共に東京に護送されて、金地院で謹慎する。同年12月17日、利剛が明治政府から隠居を命じられたため家督を相続した。同年12月24日、戊辰戦争で明治政府と交戦して敗北したため、陸奥国白石13万石に減転封された。 明治2年︵1869年︶6月18日、版籍奉還により白石藩知事に就任する。同年6月28日、従五位下・甲斐守に叙任する。同年7月22日、盛岡藩知事に転任する。盛岡復帰のため、政府に70万両の献金を約束した。しかし、大半は調達できず、政府は廃藩の圧力をかけて、利恭は辞表を提出するにいたった。明治3年︵1870年︶7月、政府は辞表を受理し、盛岡県を設置した。 明治17年︵1884年︶7月、伯爵となる。栄典[編集]
家族[編集]
- 父:南部利剛(1827年 - 1896年)
- 母:宮倭子(しづこ)[5]
- 正室:煕、照子 - 伊達宗城の六女、のち離縁
- 継室:幾姫 - 溝口直溥の七女
- 継室:喜久子(1856年 - 1902年)、浅野懋昭(としてる)の娘 - 長勲の実妹にあたる
脚注[編集]
外部リンク[編集]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 (盛岡)南部家初代 1884年 - 1903年 |
次代 南部利祥 |