「土佐日記」の版間の差分
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== 参考文献 == |
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* [[池田亀鑑]]『[[古典の批判的処置に関する研究]]』岩波書店、1941年 |
* [[池田亀鑑]]『[[古典の批判的処置に関する研究]]』[[岩波書店]]、1941年 |
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* [[萩谷朴]]『土佐日記 紀貫之全集』 朝日新聞社、1950年(日本古典全書) |
* [[萩谷朴]]『土佐日記 紀貫之全集』 [[朝日新聞社]]、1950年(日本古典全書) |
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*鈴木知太郎ほか校注『土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記』〈『日本古典文学大系』20〉岩波書店、1960年 ※『土左日記』は鈴木知太郎が校注・解説を担当 |
* [[鈴木知太郎]]ほか校注『土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記』〈『[[日本古典文学大系]]』20〉岩波書店、1960年 ※『土左日記』は鈴木知太郎が校注・解説を担当 |
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* 萩谷朴『土佐日記全注釈』[[角川書店]]、1967年(日本古典評釈・全注釈叢書) |
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*鈴木知太郎・伊坂裕次校注『土左日記・おくのほそ道』笠間書院、1976年 ※「解説」鈴木知太郎 |
* 鈴木知太郎・伊坂裕次校注『土左日記・おくのほそ道』[[笠間書院]]、1976年 ※「解説」鈴木知太郎 |
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* {{cite book|和書 |
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|title=土左日記 |
|title=土左日記 |
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|author=鈴木知太郎(校注) |
|author=鈴木知太郎(校注) |
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|year=1979 |
|year=1979 |
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|publisher=岩波書店 |
|publisher=岩波書店 |
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|series=岩波文庫}} (青谿書屋本を底本とする。仮名を漢字に改めたり、歴史的仮名遣いに直すなどはされていない。)<!-- 安価で、そのような本が他にもいくらでもあるならば、特に残す理由もないが、書いておく。 -->
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|series=[[岩波文庫]]}} (青谿書屋本を底本とする。仮名を漢字に改めたり、歴史的仮名遣いに直すなどはされていない。)<!-- 安価で、そのような本が他にもいくらでもあるならば、特に残す理由もないが、書いておく。 -->
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* [[木村正中]]『土佐日記 [[貫之集]]』 (新潮日本古典集成)1988年 |
* [[木村正中]]『土佐日記 [[貫之集]]』 ([[新潮日本古典集成]])1988年 |
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*長谷川政春ほか校注 『土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』〈『新日本古典文学大系』24〉 岩波書店、1989年 ※『土佐日記』は長谷川政春が校注・解説を担当 |
* [[長谷川政春]]ほか校注 『土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』〈『新日本古典文学大系』24〉 岩波書店、1989年 ※『土佐日記』は長谷川政春が校注・解説を担当 |
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<!-- * [[田村秀行|大伴茫人]] 『姫様と紀貫之のおしゃべりしながら土佐日記』洋泉社、1999年。学習研究社〈『学研M文庫』〉、2002年 |
<!-- * [[田村秀行|大伴茫人]] 『姫様と紀貫之のおしゃべりしながら土佐日記』[[洋泉社]]、1999年。[[学習研究社]]〈『学研M文庫』〉、2002年 |
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* 西山秀人編『土佐日記(全)』〈『角川文庫』〉角川書店、2007年 |
* 西山秀人編『土佐日記(全)』〈『角川文庫』〉角川書店、2007年 |
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2022年5月3日 (火) 08:22時点における版
内容
日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。﹃蜻蛉日記﹄、﹃和泉式部日記﹄、﹃紫式部日記﹄、﹃更級日記﹄などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。 延長8年︵930年︶から承平4年︵934年︶にかけての時期、貫之は土佐国に国司として赴任していた。その任期を終えて土佐から京へ帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を、書き手を女性に仮託し、ほとんどを仮名で日記風に綴った作品である。57首の和歌を含む内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。諧謔表現︵ジョーク、駄洒落などといったユーモア︶を多く用いていることも特筆される。 成立の過程は不明である。貫之はおそらく帰京の途上で漢文の日記をつけ、土佐日記を執筆する際にはそれを参照したと考えられるが、土佐日記そのものは虚構を交えたものであり、また明らかに実録の日記そのものではなく文学作品である。 小松英雄は、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は﹁漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう﹂という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものだとしている[2][疑問点]。ただしこの説は広く受け入れられるには至っていない。娘を亡くした悲しみを書くにあたって、﹁男が日記を書く場合、普通は漢文です。しかし漢文では、﹁泣血︵きゅうけつ︶﹂のような固いことばでしか悲しみを表現できません。自分の悲しみ、細やかな心のひだ、そういうものでは書き尽くせない。そう思ったときにおそらく、貫之は仮名で書くことを思いついたのです﹂という見方もある[3]。 橋本治は仮名文字を使用した理由について、紀貫之が歌人であったことを挙げている[4]。当時の男性の日記︵そもそも当時の日記は日々の公務を綴るもの︶は漢文であったが、和歌は男女ともに仮名文字を用いていた。そのため和歌の専門家でもある貫之が自分の得意な文字である仮名文字を用いた、というものである。旅程
綴られる主な旅程は以下の通り。日付は原本に記す旧暦の日付である。日付 | 到着地(通過地) | 現在の地名 |
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12月21日 | 国府(発) | 高知県南国市比江周辺 |
12月21日 - 26日 | 大津 | 高知県高知市大津 |
12月27日 | 浦戸 | 高知県高知市浦戸 |
12月29日 | 大湊 | 高知県南国市前浜 |
1月9日 | 宇多の松原 | 高知県香南市岸本周辺 |
1月10日 | 奈半の泊 | 高知県安芸郡奈半利町 |
1月11日 | 羽根 | 高知県室戸市羽根町 |
1月12日 | 室津 | 高知県室戸市室津 |
1月29日 | 土佐の泊 | 徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦 |
1月30日 | 阿波の水門 | 鳴門海峡 |
〃 | 沼島 | 兵庫県南あわじ市沼島 |
〃 | 和泉の灘 | (大阪府南西部) |
2月1日 | 黒崎の松原 | 大阪府泉南郡岬町淡輪 |
〃 | 箱の浦 | 大阪府阪南市箱作 |
2月5日 | 石津 | 大阪府堺市浜寺 |
〃 | 住吉 | 大阪府大阪市住吉区 |
2月6日 | 難波 | 大阪府大阪市 |
2月8日 | 鳥飼の御牧 | 大阪府摂津市鳥飼 |
2月9日 | 渚の院 | 大阪府枚方市渚元町 |
〃 | 鵜殿 | 大阪府高槻市鵜殿 |
2月11日 | 八幡の宮 | 石清水八幡宮 |
〃 | 山崎 | 京都府乙訓郡大山崎町 |
2月16日 | 島坂 | 京都府向日市上植野町御塔道 |
〃 | 京(着) | 京都府京都市 |
写本群
享受と研究
﹃土佐日記﹄はその成立から二、三十年ほどすると、その内容が注目され読まれていたらしく、﹃後撰和歌集﹄には﹃土佐日記﹄に記されたうちの和歌2首が、語句に異同はあるものの貫之の作として採られている。ちなみに﹃後撰和歌集﹄の撰者のひとりである紀時文は貫之の息子である。その時文と親交のあった恵慶法師の私家集﹃恵慶集﹄には、﹃土佐日記﹄を絵にしたものがあったことが記されている。 研究史においてもっとも古いものは、文暦2年の定家書写時の鑑定であろう。定家は原本である貫之自筆本について、その形態が巻子本だったこと、またその紙の寸法や枚数、紙質等を定家本の巻末に書き記している。三条西実隆は筆写の折、句読点や声点を施し、ほかにも校合が試みられている。 元和・寛永のころになって註釈的研究が盛んになり、岸本由豆流が諸抄論においてあげた﹃土佐日記聞書﹄などは、その最初のものである。加藤磐斎の﹃土佐日記見聞抄﹄は年代がなく成立年は不明であるが、万治4年︵1661年︶の跋がある人見卜幽の﹃土佐日記附注﹄、北村季吟の﹃土佐日記抄﹄などと同時期のものであるらしい。 本居宣長は﹃土佐日記抄﹄には﹃土佐日記附注﹄の影響が見られるとするが、岸本由豆流は、両書で引用している古典籍の相違が説明できないと指摘している。寛永4年︵1627年︶5月に刊行された﹃土佐日記首書﹄は、ほとんど﹃土佐日記抄﹄のままである。加藤宇万伎は、契沖と賀茂真淵との説を併記した﹃土佐日記註﹄を書いた。また上田秋成は、真淵の説に自らの説を添えたものを刊行している。さらに真淵の説は、楫取魚彦によって別に書き記され、﹃土佐日記打聞﹄や﹃土佐日記聞書﹄となった。﹃土佐日記註﹄と﹃土佐日記打聞﹄とで説の相違があるのを、岸本は﹁魚彦がしるせるは県居翁の早くの説、宇万伎がしるせるは、後の説なるべし﹂としている。 岸本由豆流はのちに﹃土佐日記考証﹄︵文化12年︿1815年﹀ごろか︶を著し、諸抄を取捨選択、綿密な考証を試み、富士谷御杖は﹃土佐日記灯﹄をあらわして一大研究をうちたてた。香川景樹も﹃土佐日記創見﹄︵文政6年︿1823年﹀︶を著し、綿密な考証をなしている。この3著は研究史上重要なものである。これらの研究は本文批評や諸本研究上高い成果をもたらしただけでなく、文体、動機などにまで論を推し進めている。 明治になると前田家蔵の定家本や三条西家本が公開され、橘純一や山田孝雄などによって本文研究が進められた。為家筆本はこの当時所在が知られていなかったが、為家本を忠実に写したとされる青谿書屋本などをもとにして池田亀鑑がなした﹃古典の批判的処置に関する研究﹄︵1941年︶にいたって本文研究はほとんど完成するに至った。池田は諸本の研究の上、120種以上に及ぶ写本群から貫之自筆本再構のために証本を選んだ。 為家筆本は1984年に再発見され、青谿書屋本における誤写が確認された。その他
2004年、ペルー・カトリカ大学︵東洋文庫︶から、日本語の原文から直接スペイン語に翻訳された初めての完訳本が出版された。日本語の原文がローマ字によって記載され、それに対応するスペイン語訳があてられているのが特徴である。- Iván Pinto RománとHiroko Izumi Shimono[下野 泉]によるスペイン語全訳 Diario de Tosa - Fondo Editorial de la Pontificia Universidad de Católica del Perú (ISBN 9972-42-639-4)