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[[塩の道 (日本)|塩の道]]と呼ばれる三州︵伊那,飯田︶街道の分岐点でもあり、[[三河国]]からは'''南塩'''が、また[[糸魚川市|糸魚川]]からは松本経由で'''北塩'''が運ばれた。
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[[塩の道 (日本)|塩の道]]と呼ばれる三州︵伊那,飯田︶街道の分岐点でもあり、[[三河国]]からは'''南塩'''が、また[[糸魚川市|糸魚川]]からは松本経由で'''北塩'''が運ばれた。
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[[天保]]14年︵[[1843年]]︶の﹃中山道宿村大概帳﹄によれば、塩尻宿の宿内家数は166軒、うち[[本陣]]1軒、[[脇本陣]]1軒、[[旅籠]]75軒で宿内人口は794人であった。
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== 最寄り駅 == |
== 最寄り駅 == |
2010年12月3日 (金) 22:35時点における版
塩尻宿︵しおじりしゅく︶とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて三十番目にあたる宿場。
現在の長野県塩尻市中心部。中山道が江戸時代初期の慶長年間に大久保長安によって整備された当初は、当所を通らず下諏訪宿から贄川宿を結ぶ最短経路であったが、この区間が難所続きであったため大久保長安の死後に経路が変更され、宿場として整備された。最盛期には旅籠が70軒以上あり、松本藩六万石の玄関口として栄えたとされる。
慶長10年︵1726年︶以降は天領になり、幕府の塩尻陣屋が置かれた。明治16年の大火で町の大部分を焼失したため往時の様子を留めるものは少ないが、堀内家住宅など貴重な文化財も残されている。
塩の道と呼ばれる三州︵伊那,飯田︶街道の分岐点でもあり、三河国からは南塩が、また糸魚川からは松本経由で北塩が運ばれた。
洗馬宿までの史跡・みどころ
特徴
天保14年︵1843年︶の﹃中山道宿村大概帳﹄によれば、塩尻宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒で宿内人口は794人であった。最寄り駅
●JR中央本線・篠ノ井線 塩尻駅史跡・見どころ
●小野家住宅︵重要文化財︶‥平入り、かつての旅籠 ●本陣跡 ●脇本陣跡 ●堀内家住宅︵重要文化財︶‥妻入りの本棟造り、屋根の雀おどりが特徴洗馬宿までの史跡・みどころ
- 大門神社
- 耳塚
- 平出一里塚
- 平出遺跡・平出博物館