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精神科医として[[青山脳病院]](現在の[[東京都立梅ヶ丘病院]]や藤病院)の院長を務めた。長男は精神科医で[[随筆家]]の「モタさん」こと[[斎藤茂太]]、次男は精神科医・随筆家・[[小説家]]の「どくとるマンボウ」こと[[北杜夫]]、随筆家の[[斎藤由香]]はこの北杜夫の娘にあたる


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== 概要 ==

== 概要 ==

[[1882年]]([[明治]]15年)、守谷伝右衛門熊次郎の三男として、[[山形県]][[南村山郡]]金瓶(かなかめ)村(現在の[[上山市]]金瓶)に生まれた。

[[1882年]]([[明治]]15年)、[[山形県]][[南村山郡]]金瓶(かなかめ)村(現[[上山市]]金瓶)の守谷伝右衛門熊次郎といくの間三男として生まれた。




[[]][[]][[]]15[[|]][[|]][[]]<ref>[http://www.tsuboi-clinic.org/essay.shtml   5710 ] 123113</ref>

[[]][[]][[]]14[[|]][[|]][[]]<ref>[http://www.tsuboi-clinic.org/essay.shtml   5710 ] 123113</ref>190523婿10

1905年斎藤家に婿養子として入籍。当時、妻となる輝子は19歳であった。




31[[婿]]

31[[婿]]
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== 年譜 ==

== 年譜 ==

{{年譜のみの経歴|date=1989年3月6日 (月) 20:44 (UTC)}}

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* [[1882年]]([[明治]]15年):5月14日、山形県南村山郡堀田大字金瓶に出生(戸籍上は届出遅れにより7月27日)

* [[1882年]]([[明治]]15年):5月14日、山形県[[南村山郡]]金瓶(現:[[上山市]]金瓶に出生(戸籍上は届出遅れにより7月27日)

* [[1896年]](明治29年):[[上山市立上山小学校|上山尋常高等小学校]][[高等科]]卒業。恩師佐原窿応の紹介と東京浅草で開業していた親戚の医師[[斎藤紀一]]の勧めで医者を志す。8月父に連れられ上京し斎藤方に寄寓。9月東京府開成中学校(現[[開成中学校・高等学校|開成高校]])に編入

* [[1896年]](明治29年):[[上山市立上山小学校|上山尋常高等小学校]][[高等科]]卒業。恩師佐原窿応の紹介と東京浅草で開業していた親戚の医師[[斎藤紀一]]の勧めで医者を志す。8月父に連れられ上京し斎藤方に寄寓。9月東京府開成中学校(現[[開成中学校・高等学校]])に編入

* [[1898年]](明治31年):同級生に刺激され、このころから歌を詠むようになる。[[幸田露伴]]、[[森鷗外]]などを愛読。とくに露伴の影響は大きかった。

* [[1898年]](明治31年):同級生に刺激され、このころから歌を詠むようになる。[[幸田露伴]]、[[森鷗外]]などを愛読。に露伴の影響は大きかった。


* [[1901]]3437[[|]]

* [[1901年]](明治34年):3月開成中学校を卒業。7月第一高等学校を受験して失敗、開成中学校補習科、正則中学校(現[[正則学園高等学校]])に通う。

* [[1902年]](明治35年):[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](現在の[[東京大学]][[教養学部]])第三部入学

* [[1902年]](明治35年):[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](現[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]])第三部入学


* [[1905]]38[[]]稿<!--婿10 191144 婿13-->

* [[1905]]38[[]]稿<!--婿10 191144 婿13-->

* [[1906年]](明治39年):[[伊藤左千夫]]の門下となる

* [[1906年]](明治39年):[[伊藤左千夫]]の門下となる

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* [[1908年]](明治41年):子規派の雑誌「[[馬酔木 (短歌雑誌)|馬酔木]]」廃刊、かわって創刊された「[[アララギ]]」に短歌を発表するようになる。同人の[[中村憲吉]]、[[土屋文明]]と相識る

* [[1908年]](明治41年):子規派の雑誌「[[馬酔木 (短歌雑誌)|馬酔木]]」廃刊、かわって創刊された「[[アララギ]]」に短歌を発表するようになる。同人の[[中村憲吉]]、[[土屋文明]]と相識る

* [[1909年]](明治42年):森鴎外の観潮楼歌会に初めて出席、[[与謝野鉄幹]]、[[北原白秋]]、[[石川啄木]]、[[上田敏]]、[[佐佐木信綱]]などの歌人を知る。チフスに罹り卒業を一年延期。

* [[1909年]](明治42年):森鴎外の観潮楼歌会に初めて出席、[[与謝野鉄幹]]、[[北原白秋]]、[[石川啄木]]、[[上田敏]]、[[佐佐木信綱]]などの歌人を知る。チフスに罹り卒業を一年延期。

* [[1910年]](明治43年):東京帝国大学医科大学(現在の東大[[医学部]])医学科卒業

* [[1910年]](明治43年):東京帝国大学医科大学(現[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東大医学部]])医学科卒業


* [[1911]]447[[]]3[[]]

* [[1911]]447[[]]3[[]]

* [[1912年]](明治45年/[[大正]]元年):学会で「麻痺性痴呆と[[ワッセルマン反応]]」の研究報告。東大医科大学助手となる

* [[1912年]](明治45年/[[大正]]元年):学会で「麻痺性痴呆と[[ワッセルマン反応]]」の研究報告。東大医科大学助手となる

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* [[1923年]](大正12年):学位論文「麻痺性[[痴呆]]者の脳図」完成。(誰ひとり此処にゐざれば論文の頁を閉ぢて涙ぐみたり)イタリア旅行を経て7月、[[ミュンヘン大学]]に転学。[[エミール・クレペリン]]の臨床講義を聴きに行き握手を求めたが拒否される<ref name="MACHIAISHITSU"/>。実父守谷伝衛門死去。11月、[[アドルフ・ヒトラー]]の[[ミュンヘン一揆]]に遭遇する。(行進の歌ごゑきこゆHitlerの演説すでに果てたるころか)

* [[1923年]](大正12年):学位論文「麻痺性[[痴呆]]者の脳図」完成。(誰ひとり此処にゐざれば論文の頁を閉ぢて涙ぐみたり)イタリア旅行を経て7月、[[ミュンヘン大学]]に転学。[[エミール・クレペリン]]の臨床講義を聴きに行き握手を求めたが拒否される<ref name="MACHIAISHITSU"/>。実父守谷伝衛門死去。11月、[[アドルフ・ヒトラー]]の[[ミュンヘン一揆]]に遭遇する。(行進の歌ごゑきこゆHitlerの演説すでに果てたるころか)

* [[1924年]](大正13年):5月「家兎の[[大脳皮質]]における壊死、軟化及組織化に就ての実験的研究」を完成。兎の脳を解剖し組織を顕微鏡で観察し写生するという地味で根気のいる作業の日々だった。10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、[[青山脳病院]]全焼の電報を船上で受け取る。(もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麦を食ひたり)

* [[1924年]](大正13年):5月「家兎の[[大脳皮質]]における壊死、軟化及組織化に就ての実験的研究」を完成。兎の脳を解剖し組織を顕微鏡で観察し写生するという地味で根気のいる作業の日々だった。10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、[[青山脳病院]]全焼の電報を船上で受け取る。(もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麦を食ひたり)

* [[1925年]](大正14年):1月、帰国。病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。(とどろきてすさまじき火をものがたるをさなごのかうべわれは撫でたり) 同病院の再建に奔走<ref name="kinennkan">「藤茂吉略年譜」 財団法人 [[斎藤茂吉記念館]]</ref>

* [[1925年]](大正14年):1月、帰国。病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。(とどろきてすさまじき火をものがたるをさなごのかうべわれは撫でたり) 同病院の再建に奔走<ref name="kinennkan">「藤茂吉略年譜」 財団法人 [[斎藤茂吉記念館]]</ref>


* [[1926]]15345

* [[1926]]15345

* [[1927年]]([[昭和]]2年):4月、養父紀一が引退し、青山脳病院院長の職を継ぐ<ref name="kinennkan"/>。5月、次男宗吉([[北杜夫]])誕生。7月芥川龍之介が茂吉にもらっていた睡眠薬を飲み自殺。大きな衝撃を受ける。

* [[1927年]]([[昭和]]2年):4月、養父紀一が引退し、青山脳病院院長の職を継ぐ<ref name="kinennkan"/>。5月、次男宗吉([[北杜夫]])誕生。7月芥川龍之介が茂吉にもらっていた睡眠薬を飲み自殺。大きな衝撃を受ける。

* [[1928年]](昭和3年):11月、養父紀一死去。以後病院経営はすべて茂吉が負うこととなった。(おしなべてつひに貧しく生きたりしものぐるひ等はここに起臥す)

* [[1928年]](昭和3年):11月、養父紀一死去、家督は紀一の実子西洋が相続<ref>人事興信録14版上サ75-76</ref>。以後病院経営はすべて茂吉が負うこととなった。(おしなべてつひに貧しく生きたりしものぐるひ等はここに起臥す)

* [[1929年]](昭和4年):11月、[[朝日新聞]]社機[[ドルニエ コメット|コメット]]102号機で東京、箱根等の上空を約2時間飛翔。(電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾)

* [[1929年]](昭和4年):11月、[[朝日新聞]]社機[[ドルニエ コメット|コメット]]102号機で東京、箱根等の上空を約2時間飛翔。(電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾)

* [[1930年]](昭和5年):10月、[[満鉄]]の招きで[[満州]]、北支方面を2ヶ月旅行。

* [[1930年]](昭和5年):10月、[[満鉄]]の招きで[[満州]]、北支方面を2ヶ月旅行。

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* [[1942]]1721934,59,10

* [[1942]]1721934,59,10

* [[1943年]](昭和18年):歌集「のぼり路」刊行。

* [[1943年]](昭和18年):歌集「のぼり路」刊行。


* [[1945]]20[[]][[]]4[[|]]<ref name="kinennkan"/>5[[]]

* [[1945年]](昭和20年):[[太平洋戦争]]の悪化による人員や資材不足で経営困難となり病院を東京都に移譲し(後の[[東京都立梅ヶ丘病院]])院長職を辞職。4月、郷里である山形県[[南村]]堀田村金瓶(かなかめ)に疎開<ref name="kinennkan"/>。5月、青山脳病院および東京の自宅が、アメリカ軍による[[東京大空襲]]により全焼。(のがれ来し吾を思はばうしろぐらし心は痛し子等しほゆ)

* [[1946年]](昭和21年):2月、山形県大石田町に移る<ref name="kinennkan"/>。(最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片)8月、歌集「つゆじも」刊行。1947年(昭和22年)度以降1951年(26年度)迄歌会始選者。

* [[1946年]](昭和21年):2月、山形県[[北村山郡]][[大石田町]]に移る<ref name="kinennkan"/>。(最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片)8月、歌集「つゆじも」刊行。1947年(昭和22年)度以降1951年(26年度)迄歌会始選者。


* [[1947]]22811[[ ()|]]<ref name="kinennkan"/>

* [[1947]]22811[[ ()|]]<ref name="kinennkan"/>

* [[1948]]23退

* [[1948]]23退

* [[1949]]248

* [[1949]]248

* [[1950年]](昭和25年):1月、歌集「ともしび」(帰朝後から昭和4年までの歌)刊行。これにより第1回[[読売文学賞]]詩歌賞受賞。6月、1929・1930年(昭和4,5年)の歌を収めた「たかはら」刊行。11月、1930年(昭和5年)の満州旅行の歌を収めた「連山」を刊行。同年、新宿区[[大京町]]の新居に移る<ref name="kinennkan"/>

* [[1950年]](昭和25年):1月、歌集「ともしび」(帰朝後から昭和4年までの歌)刊行。これにより第1回[[読売文学賞]]詩歌賞受賞。6月、1929・1930年(昭和4,5年)の歌を収めた「たかはら」刊行。11月、1930年(昭和5年)の満州旅行の歌を収めた「連山」を刊行。同年、新宿区[[大京町]]の新居に移る<ref name="kinennkan"/>


* [[1951]]2661932711[[]]121941,216,17

* [[1951]]2661932711[[]]121941,216,17

* [[1952年]](昭和27年):「斎藤茂吉全集」(岩波書店)配本開始。全56巻は1957年(昭和32年)に完結。このころから[[痴呆]]が進み創作活動がとみに衰退

* [[1952年]](昭和27年):「斎藤茂吉全集」(岩波書店)配本開始。全56巻は1957年(昭和32年)に完結。このころから[[痴呆]]が進み創作活動がとみに衰退

* [[1953年]](昭和28年):2月25日、心臓喘息のため新宿区大京町の自宅で死去。同26日、[[東京大学]]の病理学教室において[[三宅仁]]教授執刀の下、解剖に付せられる。

* [[1953年]](昭和28年):2月25日、心臓喘息のため新宿区大京町の自宅で死去。同26日、[[東京大学]]の病理学教室において[[三宅仁]]教授執刀の下、解剖に付せられる。

* [[1953年]](昭和28年):3月2日[[築地本願寺]]にて葬儀び告別式。戒名は自ら作っておいた「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。墓地は[[青山霊園]]にある

* [[1953年]](昭和28年):3月2日[[築地本願寺]]にて葬儀および告別式。戒名は自ら作っておいた「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。墓地は[[青山霊園]]のほか、[[上山市]]金瓶の宝泉寺、[[大石田町]]の乗舩寺にある



==私生活==

== 私生活 ==

[[1914年]](大正3年)4月、養父・[[斎藤紀一]]の長女で13歳年下で当時19歳だった齋藤輝子と結婚、斎藤家の[[婿養子]]となった。結婚2年後の[[1916年]](大正5年)には、長男茂太が誕生している。

[[1914年]](大正3年)4月、養父・[[斎藤紀一]]の長女で13歳年下で当時19歳だった齋藤輝子と結婚、斎藤家の[[婿養子]]となった。結婚2年後の[[1916年]](大正5年)には、長男茂太が誕生している。



養父・紀一は茂吉の才能を早くから見抜いており、愛娘輝子に、婚約者茂吉は「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたという。

養父・紀一は茂吉の才能を早くから見抜いており、愛娘輝子に、婚約者茂吉は「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたという。



しかしながら、性格や育ち、価値観の違いから、夫婦の関係は芳しくなかった<ref>このことは茂吉の日記や次男宗吉(北杜夫)や孫由香の証言にも残っている</ref>。輝子は茂吉の体臭を嫌い、「おお臭い」と舌打ちしてこれ見よがしに部屋を出たり、娘の百子の育児を放棄して映画を見に行くなどし、これら輝子の自分勝手な行為には茂吉も憤慨、しばしば衝突し家庭内暴力に及ぶことも度々であった。

しかしながら、性格や育ち、価値観の違いから、夫婦の関係は芳しくなかった<ref group="注">このことは茂吉の日記や次男宗吉(北杜夫)や孫由香の証言にも残っている</ref>。輝子は茂吉の体臭を嫌い、「おお臭い」と舌打ちしてこれ見よがしに部屋を出たり、娘の百子の育児を放棄して映画を見に行くなどし、これら輝子の自分勝手な行為には茂吉も憤慨、しばしば衝突し家庭内暴力に及ぶことも度々であった。



欧州留学中の[[1924年]]([[大正]]13年)7月には現地に輝子を迎え、共にヨーロッパ各地を旅行(「歯をもちて割るはしばみの白き実を従ひてくる妻に食はしむ」)、滞欧中は各地で美術作品を実見し詳細な描写を手帳に記している。帰国後の[[1925年]]([[大正]]14年)2月には長女百子、[[1929年]]([[昭和]]4年)10月には次女昌子が誕生した。次男[[北杜夫|宗吉]]は年譜の通り。

欧州留学中の[[1924年]]([[大正]]13年)7月には現地に輝子を迎え、共にヨーロッパ各地を旅行(「歯をもちて割るはしばみの白き実を従ひてくる妻に食はしむ」)、滞欧中は各地で美術作品を実見し詳細な描写を手帳に記している。帰国後の[[1925年]]([[大正]]14年)2月には長女百子、[[1929年]]([[昭和]]4年)10月には次女昌子が誕生した。次男[[北杜夫|宗吉]]は年譜の通り。



[[1933年]]([[昭和]]8年)、ダンス教師が華族や上流階級の婦人らとの不倫や集団遊興を繰り広げていたとする[[不祥事|スキャンダル]]、「[[不良華族事件|ダンスホール事件]]」が発生した。この事件では、逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性のひとりとして輝子がいたことが[[新聞|大新聞]]をはじめとするメディアに報じられ<ref>この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名もあげられ、醜い数々の場面を係官の前に晒している 『東京朝日新聞』 昭和8年11月8日</ref>、実際に輝子も警察の取調べを受けるなどに至った。

[[1933年]]([[昭和]]8年)、ダンス教師が[[華族]]や上流階級の婦人らとの不倫や集団遊興を繰り広げていたとする[[不祥事|スキャンダル]]、「[[不良華族事件|ダンスホール事件]]」が発生した。この事件では、逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性のひとりとして輝子がいたことが[[新聞|大新聞]]をはじめとするメディアに報じられ<ref group="注">この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名もあげられ、醜い数々の場面を係官の前に晒している 『東京朝日新聞』 昭和8年11月8日</ref>、実際に輝子も警察の取調べを受けるなどに至った。



この事件の結果、夫婦は以後約10年ほどに渡って別居することになった。輝子は、母の生家がある[[秩父]]や、茂吉の実弟・高橋四郎兵衛が経営する山形・[[上山市|上山]]の旅館 「山城」に預けられ、最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院本院で生活、一方の茂吉は青山の分院での生活を続けた<ref>山上次郎 文芸春秋 p359</ref>。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記している。

この事件の結果、夫婦は以後約10年ほどに渡って別居することになった。輝子は、母の生家がある[[秩父]]や、茂吉の実弟・高橋四郎兵衛が経営する山形・[[上山市|上山]]の旅館 「山城」に預けられ、最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院本院で生活、一方の茂吉は青山の分院での生活を続けた<ref>山上次郎 文芸春秋 p359</ref>。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記している。




[[1934]]99[[]][[|]][[]]19101993 <ref name=sarai>[https://web.archive.org/web/20191014083855/https://serai.jp/hobby/297706 356jp]</ref> <ref name=tamai>{{Cite journal| |author= |title=-  |journal= |issn=03895882 |publisher= |year=2005 |issue=96 |pages=119-126 |naid=120001439682 |url=https://hdl.handle.net/10291/3582}}</ref>

[[1934]]99[[]][[|]][[]]19101993<ref name=sarai>[https://web.archive.org/web/20191014083855/https://serai.jp/hobby/297706 356jp]</ref> <ref name="tamai">{{Cite journal| |author= |title=-  |journal= |issn=03895882 |publisher= |year=2005 |issue=96 |pages=119-126 |naid=120001439682 |url=https://hdl.handle.net/10291/3582}}</ref>


茂吉とふさ子の逢瀬は誰に知られる事も無く続けられていたが、三年後、ふさ子は[[岡山県|岡山]]の医師との縁談話を受け茂吉への想いを断とうとした。しかし翌年[[婚約]]を破棄し、その後生涯独身を貫いた<ref>[https://web.archive.org/web/20191014070323/https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2017/02/25/20601.html 永遠の少年!? 近代を代表する歌人・斎藤茂吉、その妻と美しき愛人 日本気象協会]</ref>。茂吉ほどの人に愛された以上、他の人の愛を受け入れることはできない、というのがふさ子の信念であった<ref name=ehime>{{Cite web|url=http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2006/0612.htm |title=斎藤茂吉と永井ふさ子の愛 ~四国なるをとめ恋しも~|publisher=愛媛CATV|accessdate=2019-10-14}}</ref>。


[[|]][[]]<ref>[https://web.archive.org/web/20191014070323/https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2017/02/25/20601.html !? ]</ref><ref name="ehime">{{Cite web||url=http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2006/0612.htm |title=  |publisher=CATV |accessdate=2019-10-14}}</ref>


輝子とは[[太平洋戦争]]中に茂吉の故郷・[[山形県|山形]]に[[疎開]]することになったのを機に[[1945年]](昭和20年)から同居を再開した。茂吉はふさ子と会うことも文をやり取りすることも無くなり、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。ふさ子が茂吉の死を知ったのはテレビの報道で、ということである。茂吉はふさ子に、自分からの手紙は読み終えたら直ちに焼却するよう念を押していたが、ふさ子が焼いたのはごく一部で、120通以上の手紙を大切に手元に置いていた。「先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました」<ref name=ehime/>。そして茂吉の十周忌を機に、雑誌上で公開に踏み切った。この事は茂吉の遺族をはじめ世間にも非常な驚きを持って迎えられた<ref name=sarai/>。晩年の輝子は、80歳を超えても世界中を旅行し、[[エベレスト]]登山にまで挑むような活発な老後を送った。ふさ子は晩年、「茂吉から受けた愛のよろこびは一瞬のように短かったのに反して、その後の耐え難かった苦悩を思うと、よくぞ生きのびてきたと思う」と語っていた<ref name=tamai/>。


[[]][[|]][[]][[1945]]20120<ref name="ehime"/><ref name="sarai"/>80[[]]<ref name="tamai"/>


== 性格 ==

== 性格 ==

{{独自研究|section=1|date=2013年3月12日 (火) 20:25 (UTC)|ソートキー=人1953年没}}

{{独自研究|section=1|date=2013-03|ソートキー=人1953年没}}

* かなりの食いしん坊であった。中でも[[鰻]]が大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の[[缶詰]]を食べていた<ref>齋藤茂吉全集第三十一巻P540およびP681(岩波書店)</ref>。[[味噌汁]]の具にも口うるさく注文し、家人から[[ネギ]]もあるので入れるかと聞かれた時は「うーむ。」としばらく熟考するほど拘った。


* [[]][[]]<ref> p.540p.681</ref>[[]][[]]

* 非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった<ref>北杜夫『どくどるマンボウ青春記』</ref>。茂吉が風邪で寝ていた時、是非ともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て「俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。」と怒鳴りつけた。あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産の[[カステラ]]を食べた茂吉は「あんまり叱るんじゃなかったな。」と反省したという。

* 非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった<ref>北杜夫『どくどるマンボウ青春記』</ref>。茂吉が風邪で寝ていた時、是非ともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て「俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。」と怒鳴りつけた。あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産の[[カステラ]]を食べた茂吉は「あんまり叱るんじゃなかったな。」と反省したという。

* 癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起して紙を丸めて捨てたこともあった。

* 癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起して紙を丸めて捨てたこともあった。

* 根に持つタイプで、「病雁論争」では自身の作品をこき下ろした[[太田水穂]]に対し「水穂征伐」なる反論を書き「僕にかりそめにも刃向かうごとき者がゐたなら必ず死ぬ。水穂もそろそろ要心せよ。」「そんな低級魯鈍者流ではもはや僕の論敵にはなれぬ。」などと云ったかなりどぎつい表現を用いて相手に挑んだことがあった。入院患者に頬を平手打ちされたとき、どのようにして仕返ししてやろうか一人妄想にふけっていたと随筆「瞬間」に記している。留学時代ミュンヘンで[[エミール・クレペリン]]に握手を求めて拒絶されたことを晩年まで恨みに思い、「毛唐め!」と悪口を言い続けていた。

* 根に持つタイプで、「病雁論争」では自身の作品をこき下ろした[[太田水穂]]に対し「水穂征伐」なる反論を書き「僕にかりそめにも刃向かうごとき者がゐたなら必ず死ぬ。水穂もそろそろ要心せよ。」「そんな低級魯鈍者流ではもはや僕の論敵にはなれぬ。」などと云ったかなりどぎつい表現を用いて相手に挑んだことがあった。入院患者に頬を平手打ちされたとき、どのようにして仕返ししてやろうか一人妄想にふけっていたと随筆「瞬間」に記している。留学時代ミュンヘンで[[エミール・クレペリン]]に握手を求めて拒絶されたことを晩年まで恨みに思い、「毛唐め!」と悪口を言い続けていた。

* 粘着性気質で、[[ウイーン]]滞在中、偶然にキスする男女を見つけ、あまりの長さに「長いなあ。実に長いなあ。」と独り言を言いながら物陰から一時間近くも覗いていた。

* 粘着性気質で、[[ウイーン]]滞在中、偶然にキスする男女を見つけ、あまりの長さに「長いなあ。実に長いなあ。」と独り言を言いながら物陰から一時間近くも覗いていた。

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== 逸話 ==

== 逸話 ==

{{複数の問題|section=1|ソートキー=人1953年没|雑多な内容の箇条書き=2013年3月12日 (火) 20:25 (UTC)

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* 戦時中、戦意高揚の和歌を多く作成していたが、茂吉自身は狂信的な国粋主義者でもなく、戦争や[[皇室]]に関しては平均的な日本人の感情を持っていた。それでも[[昭和天皇]]と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]元帥との有名な会見の写真が新聞に掲載された時は、憤慨し「ウヌ、マッカーサーの野郎」と日記に書きしるしている。

* 戦時中、戦意高揚の和歌を多く作成していたが、茂吉自身は狂信的な国粋主義者でもなく、戦争や[[皇室]]に関しては平均的な日本人の感情を持っていた。それでも[[昭和天皇]]と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]元帥との有名な会見の写真が新聞に掲載された時は、憤慨し「ウヌ、マッカーサーの野郎」と日記に書きしるしている。

* 「もきち」という名前は当時としても古臭いイメージがあったため、養父の勧めにより「しげよし」と読ませていた時期がある。

* 「もきち」という名前は当時としても古臭いイメージがあったため、養父の勧めにより「しげよし」と読ませていた時期がある。

* 医者としても、かなりの腕を持ち、患者には優しく接して評判が良かった。ドイツ留学時代から膨大な精神医学書を購入し、論文を著述する計画であったが、これらの既に日本に送り届けてあった書籍を留学からの帰朝直前に青山脳病院の火災で焼いてしまった。この火災の原因は茂吉の帰朝を祝う餅つきの残り火であった。茂吉は、保険失効状態で全焼という、ほぼゼロからの再起で病院を全盛期以上の規模にまで復興させ、経営者としても尋常でない手腕を示している。

* 医者としても、かなりの腕を持ち、患者には優しく接して評判が良かった。ドイツ留学時代から膨大な精神医学書を購入し、論文を著述する計画であったが、これらの既に日本に送り届けてあった書籍を留学からの帰朝直前に青山脳病院の火災で焼いてしまった。この火災の原因は茂吉の帰朝を祝う餅つきの残り火であった。茂吉は、保険失効状態で全焼という、ほぼゼロからの再起で病院を全盛期以上の規模にまで復興させ、経営者としても尋常でない手腕を示している。

* 文学関係者では[[永井荷風]]や[[芥川龍之介]]、[[宇野浩二]]も診察を受けた。とくに芥川の[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]から来る[[不眠症]]には真剣に接し、さまざまな療養法を手紙でアドバイスしたり、臭素加里や[[アヘンチンキ]]、ドイツ[[バイエル (企業)|バイエル]]社製のベロナール([[バルビタール]])などの睡眠薬を施した。それだけに芥川の睡眠薬自殺は茂吉には大きな衝撃で、日記には、第一報には「驚愕倒レンバカリニナリタレドモ」、通夜からの帰宅後「ソレデモナカナカネムレズ。芥川ノ顔ガ見エテ仕方ナイ」とそれぞれ書かれている。

* 文学関係者では[[永井荷風]]や[[芥川龍之介]]、[[宇野浩二]]も診察を受けた。に芥川の[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]から来る[[不眠症]]には真剣に接し、さまざまな療養法を手紙でアドバイスしたり、臭素加里や[[アヘンチンキ]]、ドイツ[[バイエル (企業)|バイエル]]社製のベロナール([[バルビタール]])などの睡眠薬を施した。それだけに芥川の睡眠薬自殺は茂吉には大きな衝撃で、日記には、第一報には「驚愕倒レンバカリニナリタレドモ」、通夜からの帰宅後「ソレデモナカナカネムレズ。芥川ノ顔ガ見エテ仕方ナイ」とそれぞれ書かれている。

* 文人との交友関係としては、歌人の[[吉井勇]]と交流があったことが知られている。国文学者の[[細川光洋]]により、茂吉が吉井に宛てた葉書が発見されている<ref name="kyodo20140430">[[共同通信社|共同]]「斎藤茂吉のはがき24通発見――吉井勇の再婚うらやむ」『[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/04/30/kiji/K20140430008071150.html 斎藤茂吉のはがき24通発見 吉井勇の再婚うらやむ ― スポニチ Sponichi Annex 社会]』[[スポーツニッポン新聞社]]、[[2014年]][[4月30日]]。</ref>。吉井は妻が不倫騒動を起こしたため離婚し、のちに思いを寄せていた別の女性と再婚した<ref name="kyodo20140430"/>。その際、茂吉は吉井の再婚を祝福しつつも羨むかのような歌を詠み、それを葉書にしたため吉井に送っていた<ref name="kyodo20140430"/>。

* 文人との交友関係としては、歌人の[[吉井勇]]と交流があったことが知られている。国文学者の[[細川光洋]]により、茂吉が吉井に宛てた葉書が発見されている<ref name="kyodo20140430">[[共同通信社|共同]]「斎藤茂吉のはがき24通発見――吉井勇の再婚うらやむ」『[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/04/30/kiji/K20140430008071150.html 斎藤茂吉のはがき24通発見 吉井勇の再婚うらやむ ― スポニチ Sponichi Annex 社会]』[[スポーツニッポン新聞社]]、[[2014年]][[4月30日]]。</ref>。吉井は妻が不倫騒動を起こしたため離婚し、のちに思いを寄せていた別の女性と再婚した<ref name="kyodo20140430"/>。その際、茂吉は吉井の再婚を祝福しつつも羨むかのような歌を詠み、それを葉書にしたため吉井に送っていた<ref name="kyodo20140430"/>。

* [[夜尿症]]で中学時まで寝小便が治らなかった。息子の[[斎藤茂太]]やその孫にまで遺伝していた。普段も頻繁な便意に悩まされ、疎開中には、バケツを借りて用を足していた。バケツには「極楽」と名付けていたが、使用後、「洗えばいい。」とそのバケツに野菜などを入れて周囲を驚かせた。

* [[夜尿症]]で中学時まで寝小便が治らなかった。息子の[[斎藤茂太]]やその孫にまで遺伝していた。普段も頻繁な便意に悩まされ、疎開中には、バケツを借りて用を足していた。バケツには「極楽」と名付けていたが、使用後、「洗えばいい。」とそのバケツに野菜などを入れて周囲を驚かせた。

*学生時代の北杜夫(宗吉)が短歌を作って茂吉に手紙で送ると、二重丸などをつけて「父の『赤光』時代の歌に似ている。勉学の間に少し作ってみるといい。」と批評文を返信していた。だが、成績が悪いことを知ると態度が一変して「大馬鹿者!短歌などすぐやめよ!」と激しい言葉を書き連ねた手紙を書き送り、その後も北が文筆活動を続けると知ると、「文学なぞ絶対にやらせん。」と言い続けていた<ref>北杜夫「マンボウ最後の大バクチ」新潮社</ref>。

*学生時代の北杜夫(宗吉)が短歌を作って茂吉に手紙で送ると、二重丸などをつけて「父の『赤光』時代の歌に似ている。勉学の間に少し作ってみるといい。」と批評文を返信していた。だが、成績が悪いことを知ると態度が一変して「大馬鹿者!短歌などすぐやめよ!」と激しい言葉を書き連ねた手紙を書き送り、その後も北が文筆活動を続けると知ると、「文学なぞ絶対にやらせん。」と言い続けていた<ref>北杜夫「マンボウ最後の大バクチ」新潮社</ref>。

* 1933年(昭和8年)、歌友であった[[平福百穂]]が[[秋田県]][[横手市|横手町]]を訪問中、脳溢血で倒れる。茂吉は一報を聞くと、東京から横手へ駆けつけて手当を行っている<ref>日本画壇の重鎮、死去『東京朝日新聞』昭和8年10月31日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p603 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。



== 代表歌 ==

== 代表歌 ==

* 「赤光」

* 「赤光」

** はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に (1905年(明治38年))

** はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に(1905年(明治38年))

** 蚕の部屋に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし (1906年(明治39年))

** 蚕の部屋に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし(1906年(明治39年))

** 月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも (1907年(明治40年))

** 月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも(1907年(明治40年))

** 高ひかる日の母を恋ひ地の廻り廻り極まりて天新たなり (1908年(明治41年))

** 高ひかる日の母を恋ひ地の廻り廻り極まりて天新たなり(1908年(明治41年))

** 萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ (1909年(明治42年))

** 萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ(1909年(明治42年))

** 墓はらのとほき森よりほろほろと上るけむりに行かむとおもふ (1910年(明治43年))

** 墓はらのとほき森よりほろほろと上るけむりに行かむとおもふ(1910年(明治43年))

** 生きてゐる汝がすがたのありありと何に今頃見えきたるかや (1911年(明治44年))

** 生きてゐる汝がすがたのありありと何に今頃見えきたるかや(1911年(明治44年))

** けだものは食もの恋ひて啼き居たり何といふやさしさぞこれは (1912年(大正元年))

** けだものは食もの恋ひて啼き居たり何といふやさしさぞこれは(1912年(大正元年))

** 啼くこゑは悲しけれども夕鳥は木に眠るなりわれは寝なくに (1913年(大正2年))

** 啼くこゑは悲しけれども夕鳥は木に眠るなりわれは寝なくに(1913年(大正2年))

** みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる

** みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる

** 死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

** 死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

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* 「あらたま」

* 「あらたま」

** あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

** あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

** 夕されば大根の葉に降るしぐれいたく寂しく降りにけるかも (1914年(大正3年))

** 夕されば大根の葉に降るしぐれいたく寂しく降りにけるかも(1914年(大正3年))

** 朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山 (1917年(大正6年))

** 朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山(1917年(大正6年))

* 「つゆじも」

* 「つゆじも」

** あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして

** あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして

168行目: 168行目:

** 家出てわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり

** 家出てわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり

* 「たかはら」

* 「たかはら」

** はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方くひぬ (1929年(昭和4年))

** はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方くひぬ(1929年(昭和4年))

** 電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾

** 電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾

* 「連山」

* 「連山」

** 機関銃の音をはじめて聞きたりし東北兵をわれは思ほゆ (1930年(昭和5年))

** 機関銃の音をはじめて聞きたりし東北兵をわれは思ほゆ(1930年(昭和5年))

* 「石泉」

* 「石泉」

** おほつぴらに軍服を着て侵入し来るものを何と思はねばならぬか (1932年(昭和7年))

** おほつぴらに軍服を着て侵入し来るものを何と思はねばならぬか(1932年(昭和7年))

* 「白桃」

* 「白桃」

** 新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり (1934年(昭和9年))

** 新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり(1934年(昭和9年))

** ヒツトラのこゑ聞きしとき何か悲し前行したりし樂も悲しも

** ヒツトラのこゑ聞きしとき何か悲し前行したりし樂も悲しも

** 陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

** 陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

* 「暁紅」

* 「暁紅」

** ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり (1935年(昭和10年))

** ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり(1935年(昭和10年))

* 「寒雲」

* 「寒雲」

** 歓喜天の前に行きつつ唇をのぞきなどしてしづかに帰る (1937年(昭和12年))

** 歓喜天の前に行きつつ唇をのぞきなどしてしづかに帰る(1937年(昭和12年))

* 「のぼり路」

* 「のぼり路」

** 交尾期は大切にしてもろもろの馬ももろ人も一心となる (1939年(昭和14年))

** 交尾期は大切にしてもろもろの馬ももろ人も一心となる(1939年(昭和14年))

* 「霜」

* 「霜」

** 肉体に自浄作用のあることを吾聞きしより三十三年経たり (1941年(昭和16年))

** 肉体に自浄作用のあることを吾聞きしより三十三年経たり(1941年(昭和16年))

** 楢の花垂りて咲けるが幽かなる心をわれに与へてやまず (1942年(昭和17年))

** 楢の花垂りて咲けるが幽かなる心をわれに与へてやまず(1942年(昭和17年))

* 「小園」

* 「小園」

** どしや降りの午後になりつつものをいふことさへもなく木瓜の実煮たり (1943年(昭和18年))

** どしや降りの午後になりつつものをいふことさへもなく木瓜の実煮たり(1943年(昭和18年))

** 鈍痛のごとき内在を感じたるけふの日頃をいかに遣らはむ (1944年(昭和19年))

** 鈍痛のごとき内在を感じたるけふの日頃をいかに遣らはむ(1944年(昭和19年))

** この雪の中にこもれる村々にたたかひの世のうづくがごとし (1945年(昭和20年))

** この雪の中にこもれる村々にたたかひの世のうづくがごとし(1945年(昭和20年))

** このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね (1945年(昭和20年))

** このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね(1945年(昭和20年))

** 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ([[今昔秀歌百撰]] 78)

** 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ([[今昔秀歌百撰]] 78)

* 「白き山」

* 「白き山」

** 水すまし流にむかひさかのぼる汝がいきほひよ微かなれども (1946年(昭和21年))

** 水すまし流にむかひさかのぼる汝がいきほひよ微かなれども(1946年(昭和21年))

** 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも (1946年(昭和21年))

** 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも(1946年(昭和21年))

** 勝ちたりといふ放送に興奮し眠られざりし吾にあらずきや (1947年(昭和22年))

** 勝ちたりといふ放送に興奮し眠られざりし吾にあらずきや(1947年(昭和22年))

* 「つきかげ」

* 「つきかげ」

** たかむらの中ににほへる一木あり柿なるやといへば「応」とこそいへ (1948年(昭和23年))

** たかむらの中ににほへる一木あり柿なるやといへば「応」とこそいへ(1948年(昭和23年))

** 時としてベルリン郊外のワン・ゼエにも心の及ぶ老人(おいびと)われは (1949年(昭和24年))

** 時としてベルリン郊外のワン・ゼエにも心の及ぶ老人(おいびと)われは(1949年(昭和24年))

** 円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ (1950年(昭和25年))

** 円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ(1950年(昭和25年))

** おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震(なゐ)ふるふころ (1951年(昭和26年))

** おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震(なゐ)ふるふころ(1951年(昭和26年))

** 梅の花うすくれなゐにひろがりしその中心(なかど)にてもの栄(は)ゆるらし (1952年(昭和27年))

** 梅の花うすくれなゐにひろがりしその中心(なかど)にてもの栄(は)ゆるらし(1952年(昭和27年))



== 著書 ==

== 著書 ==

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=== 歌集 ===

=== 歌集 ===

以下は歌の制作年順に配列したもの。上梓年とは順序が違うことに注意。

以下は歌の制作年順に配列したもの。上梓年とは順序が違うことに注意。

* 歌集名 制作年 (発行所、上梓年)

* 歌集名 制作年(発行所、上梓年)

* 『[[赤光]]』明治38 - 大正2 (東雲堂書店、1913年(大正2年)10月)

* 『[[赤光]]』明治38 - 大正2(東雲堂書店、1913年(大正2年)10月)

* 『[[あらたま (歌集)|あらたま]]』 大正2 - 6([[春陽堂書店|春陽堂]]、1921年(大正10年)1月)

* 『[[あらたま (歌集)|あらたま]]』 大正2 - 6([[春陽堂書店|春陽堂]]、1921年(大正10年)1月)

* 『朝の蛍』?([[改造社]]、1925年(大正14年)4月) 自選歌集

* 『朝の蛍』?([[改造社]]、1925年(大正14年)4月) 自選歌集

* 『つゆじも』 大正6 - 11([[岩波書店]]、1946年(昭和21年)8月)

* 『つゆじも』 大正6 - 11([[岩波書店]]、1946年(昭和21年)8月)

* 『遠遊』 大正11 - 12 (岩波書店、1947年(昭和22年)8月)

* 『遠遊』 大正11 - 12(岩波書店、1947年(昭和22年)8月)

* 『遍歴』 大正12 - 14 (岩波書店、1948年(昭和23年)4月)

* 『遍歴』 大正12 - 14(岩波書店、1948年(昭和23年)4月)

* 『ともしび』 大正14 - 昭和3(岩波書店、1950年(昭和25年)1月)

* 『ともしび』 大正14 - 昭和3(岩波書店、1950年(昭和25年)1月)

* 『たかはら』 昭和4 - 5(岩波書店、1950年(昭和25年)6月)

* 『たかはら』 昭和4 - 5(岩波書店、1950年(昭和25年)6月)

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* 『歌壇夜叉語』([[中央公論新社|中央公論社]]、1951年(昭和26年)4月)

* 『歌壇夜叉語』([[中央公論新社|中央公論社]]、1951年(昭和26年)4月)



===文庫===

=== 文庫 ===

* 『斎藤茂吉歌集』 岩波文庫、1978年(昭和53年)(改版)

* 『斎藤茂吉歌集』 岩波文庫、1978年(昭和53年)(改版)

* 『斎藤茂吉歌論集』 [[柴生田稔]]編、岩波文庫、1978年(昭和53年)

* 『斎藤茂吉歌論集』 [[柴生田稔]]編、岩波文庫、1978年(昭和53年)

287行目: 287行目:

* [[土屋文明]]編 『斎藤茂吉短歌合評』 明治書院(上・下) 1985年(昭和60年)

* [[土屋文明]]編 『斎藤茂吉短歌合評』 明治書院(上・下) 1985年(昭和60年)

* [[佐藤佐太郎]] 『斎藤茂吉秀歌』(中央公論社)

* [[佐藤佐太郎]] 『斎藤茂吉秀歌』(中央公論社)

** 斎藤茂吉秀歌選(寶文館)、斎藤茂吉研究(宝文館)、斎藤茂吉言行(角川書店)

* キンチャンス マスク詐欺

** 童馬山房隨聞(岩波書店)、茂吉解説(彌生書房)、茂吉秀歌(岩波新書 上・下)

* KINNTYANNU TADANOIKEMENN

* [[岡井隆]] 『斎藤茂吉と中野重治』 砂子屋書房 1993年(平成5年)

* [[塚本邦雄]] 『茂吉秀歌』全5冊、各・[[文藝春秋]]、のち[[講談社学術文庫]]

* [[塚本邦雄]] 『茂吉秀歌』全5冊、各・[[文藝春秋]]、のち[[講談社学術文庫]]

** 「茂吉秀歌『赤光』百首」、「茂吉秀歌『あらたま』百首」、「茂吉秀歌『つゆじも』『遠遊』『遍歴』『ともしび』『たかはら』『連山』『石泉』百首」

** 「茂吉秀歌『赤光』百首」、「茂吉秀歌『あらたま』百首」、「茂吉秀歌『つゆじも』『遠遊』『遍歴』『ともしび』『たかはら』『連山』『石泉』百首」

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* [[秋葉四郎]] 『新論 歌人茂吉』([[角川書店]])

* [[秋葉四郎]] 『新論 歌人茂吉』([[角川書店]])

** 『歌人茂吉 人間茂吉』(NHK出版)、『茂吉 幻の歌集『萬軍』』(岩波書店)

** 『歌人茂吉 人間茂吉』(NHK出版)、『茂吉 幻の歌集『萬軍』』(岩波書店)

* 高橋良『斎藤茂吉からの系譜』[[文芸社]]、2021年(令和3年)



== 伝記文献 ==

== 伝記文献 ==

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== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

* [[斎藤茂吉文化賞]]

* [[斎藤茂吉短歌文学賞]]

* [[斎藤茂吉短歌文学賞]]

* [[茂吉記念館前駅]]

* [[茂吉記念館前駅]]

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== 脚注 ==

== 脚注 ==

{{脚注ヘルプ}}

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=== 注釈 ===

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=== 出典 ===

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* [http://www.mokichi.or.jp/ 斎藤茂吉記念館]

* [http://www.mokichi.or.jp/ 斎藤茂吉記念館]

* {{青空文庫著作者|1059}}

* {{青空文庫著作者|1059}}

* [http://researchmap.jp/jo6xnvb0i-1787586/#_1787586/ 今昔秀歌百撰] [http://researchmap.jp/jo7eehhck-1787586/ 78齋藤茂吉]

* [https://archive.md/Y5AL 今昔秀歌百撰] [https://web.archive.org/web/20120519161740/http://researchmap.jp/jo7eehhck-1787586/ 78齋藤茂吉][https://archive.is/yOfgH]

* [https://www.pref.yamagata.jp/020073/bunkyo/bunka/shinko/bunkasyou/index.html 齋藤茂吉文化賞] 山形県ホームページ

* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/bunkasyou/index.html 齋藤茂吉文化賞] 山形県ホームページ

* [https://www.pref.yamagata.jp/020073/bunkyo/bunka/shinko/mokititannkatop/index.html 齋藤茂吉短歌文学賞] 山形県ホームページ

* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/mokititannkatop/index.html 齋藤茂吉短歌文学賞] 山形県ホームページ

* [http://aizuyaichi.or.jp/person/524/ 斎藤茂吉 | 新潟市會津八一記念館]

* [https://aizuyaichi.or.jp/person/524/ 斎藤茂吉 | 新潟市會津八一記念館]



{{Normdaten}}

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[[Category:ウィーン大学出身の人物]]

[[Category:ウィーン大学出身の人物]]

[[Category:東京大学出身の人物]]

[[Category:東京大学出身の人物]]

[[Category:開成高等学校出身の人物]]

[[Category:旧制第一高等学校出身の人物]]

[[Category:開成中学校・高等学校出身の人物]]

[[Category:山形県出身の人物]]

[[Category:山形県出身の人物]]

[[Category:1882年生]]

[[Category:1882年生]]

[[Category:1953年没]]

[[Category:1953年没]]

[[Category:青山霊園に埋葬されている人物]]


2024年3月31日 (日) 07:30時点における最新版

斎藤さいとう 茂吉もきち
1952年頃
誕生 1882年明治15年)5月14日
山形県南村山郡金瓶村
(現:山形県上山市
死没 (1953-02-25) 1953年2月25日(70歳没)
東京都新宿区大京町
墓地 青山霊園
職業 歌人、評論家、随想家、精神科医
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 医学博士
最終学歴 東京帝国大学医科大学卒業
活動期間 1908年 - 1953年
ジャンル 短歌
随筆
文学活動 アララギ派
実相観入
代表作赤光』(1913年)
主な受賞歴 学士院賞『柿本人麿』(1940年)
読売文学賞詩歌賞『ともしび』(1949年)
文化勲章(1951年)
文化功労者(1952年)
子供 斎藤茂太(長男)
北杜夫(次男)
親族 斎藤紀一 (養父)
斎藤輝子(妻)
斎藤由香 (孫)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

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年譜[編集]


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性格[編集]


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 197853

 197853

 198661

 200416

 19200618

201022

[]


   ISBN 4006020279

   ISBN 4006020287

   ISBN 4006020295

   ISBN 4006020309

  

 19532810

  ISBN 4003104420

  ISBN 4003104439

   ISBN 4-480-08180-1

   198560

 


 

   19935

 5




  
 NHK 

20213

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  1964391982
200012

 198055

  1993519979

  197954 198156

   ︿201022

   ︿201628

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注釈[編集]

  1. ^ 戸籍上は明治15年7月27日。
  2. ^ このことは茂吉の日記や次男宗吉(北杜夫)や孫由香の証言にも残っている
  3. ^ この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名もあげられ、醜い数々の場面を係官の前に晒している 『東京朝日新聞』 昭和8年11月8日

出典[編集]



(一)^   5710  123113

(二)^ ,1989212

(三)^ ab 19783

(四)^ 24491920930

(五)^ abcdef  

(六)^ 1475-76

(七)^   p359

(八)^ ab356jp

(九)^ ab- 962005119-126ISSN 03895882NAID 120001439682 

(十)^ !? 

(11)^ ab .  CATV. 20191014

(12)^  p.540p.681

(13)^ 

(14)^ abc2424    Sponichi Annex 2014430

(15)^ 

(16)^ 810314 8-9p603   1994

外部リンク[編集]