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== 概要 ==

== 概要 ==

[[1882年]]([[明治]]15年)、守谷伝右衛門熊次郎の三男として、[[山形県]][[南村山郡]]金瓶(かなかめ)村(現在の[[上山市]]金瓶)に生まれた。

[[1882年]]([[明治]]15年)、[[山形県]][[南村山郡]]金瓶(かなかめ)村(現[[上山市]]金瓶)の守谷伝右衛門熊次郎といくの間三男として生まれた。




[[]][[]][[]]15[[|]][[|]][[]]<ref>[http://www.tsuboi-clinic.org/essay.shtml   5710 ] 123113</ref>

[[]][[]][[]]14[[|]][[|]][[]]<ref>[http://www.tsuboi-clinic.org/essay.shtml   5710 ] 123113</ref>190523婿10

1905年斎藤家に婿養子として入籍。当時、妻となる輝子は19歳であった。




31[[婿]]

31[[婿]]
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== 年譜 ==

== 年譜 ==

{{年譜のみの経歴|date=1989年3月6日 (月) 20:44 (UTC)}}

{{年譜のみの経歴|date=2023-01}}

* [[1882年]]([[明治]]15年):5月14日、山形県南村山郡堀田大字金瓶に出生(戸籍上は届出遅れにより7月27日)

* [[1882年]]([[明治]]15年):5月14日、山形県[[南村山郡]]金瓶(現:[[上山市]]金瓶に出生(戸籍上は届出遅れにより7月27日)


* [[1896]]29[[|]][[]]窿[[]]89[[|]]

* [[1896]]29[[|]][[]]窿[[]]89[[]]

* [[1898]]31[[]][[]]

* [[1898]]31[[]][[]]

* [[1901]]3437[[|]]

* [[1901年]](明治34年):3月開成中学校を卒業。7月第一高等学校を受験して失敗、開成中学校補習科、正則中学校(現[[正則学園高等学校]])に通う。

* [[1902年]](明治35年):[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](現在の[[東京大学]][[教養学部]])第三部入学

* [[1902年]](明治35年):[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](現[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]])第三部入学


* [[1905]]38[[]]稿<!--婿10 191144 婿13-->

* [[1905]]38[[]]稿<!--婿10 191144 婿13-->

* [[1906年]](明治39年):[[伊藤左千夫]]の門下となる

* [[1906年]](明治39年):[[伊藤左千夫]]の門下となる

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* [[1908年]](明治41年):子規派の雑誌「[[馬酔木 (短歌雑誌)|馬酔木]]」廃刊、かわって創刊された「[[アララギ]]」に短歌を発表するようになる。同人の[[中村憲吉]]、[[土屋文明]]と相識る

* [[1908年]](明治41年):子規派の雑誌「[[馬酔木 (短歌雑誌)|馬酔木]]」廃刊、かわって創刊された「[[アララギ]]」に短歌を発表するようになる。同人の[[中村憲吉]]、[[土屋文明]]と相識る


* [[1909]]42[[]][[]][[]][[]][[]]

* [[1909]]42[[]][[]][[]][[]][[]]

* [[1910年]](明治43年):東京帝国大学医科大学(現在の東大[[医学部]])医学科卒業

* [[1910年]](明治43年):東京帝国大学医科大学(現[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東大医学部]])医学科卒業


* [[1911]]447[[]]3[[]]

* [[1911]]447[[]]3[[]]

* [[1912年]](明治45年/[[大正]]元年):学会で「麻痺性痴呆と[[ワッセルマン反応]]」の研究報告。東大医科大学助手となる

* [[1912年]](明治45年/[[大正]]元年):学会で「麻痺性痴呆と[[ワッセルマン反応]]」の研究報告。東大医科大学助手となる

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* [[1923]]12[[]]7[[]][[]]<ref name="MACHIAISHITSU"/>11[[]][[]]Hitler

* [[1923]]12[[]]7[[]][[]]<ref name="MACHIAISHITSU"/>11[[]][[]]Hitler

* [[1924年]](大正13年):5月「家兎の[[大脳皮質]]における壊死、軟化及組織化に就ての実験的研究」を完成。兎の脳を解剖し組織を顕微鏡で観察し写生するという地味で根気のいる作業の日々だった。10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、[[青山脳病院]]全焼の電報を船上で受け取る。(もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麦を食ひたり)

* [[1924年]](大正13年):5月「家兎の[[大脳皮質]]における壊死、軟化及組織化に就ての実験的研究」を完成。兎の脳を解剖し組織を顕微鏡で観察し写生するという地味で根気のいる作業の日々だった。10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、[[青山脳病院]]全焼の電報を船上で受け取る。(もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麦を食ひたり)

* [[1925年]](大正14年):1月、帰国。病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。(とどろきてすさまじき火をものがたるをさなごのかうべわれは撫でたり) 同病院の再建に奔走<ref name="kinennkan">「藤茂吉略年譜」 財団法人 [[斎藤茂吉記念館]]</ref>

* [[1925年]](大正14年):1月、帰国。病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。(とどろきてすさまじき火をものがたるをさなごのかうべわれは撫でたり) 同病院の再建に奔走<ref name="kinennkan">「藤茂吉略年譜」 財団法人 [[斎藤茂吉記念館]]</ref>


* [[1926]]15345

* [[1926]]15345

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* [[1928年]](昭和3年):11月、養父紀一死去。以後病院経営はすべて茂吉が負うこととなった。(おしなべてつひに貧しく生きたりしものぐるひ等はここに起臥す)

* [[1928年]](昭和3年):11月、養父紀一死去、家督は紀一の実子西洋が相続<ref>人事興信録14版上サ75-76</ref>。以後病院経営はすべて茂吉が負うこととなった。(おしなべてつひに貧しく生きたりしものぐるひ等はここに起臥す)

* [[1929年]](昭和4年):11月、[[朝日新聞]]社機[[ドルニエ コメット|コメット]]102号機で東京、箱根等の上空を約2時間飛翔。(電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾)

* [[1929年]](昭和4年):11月、[[朝日新聞]]社機[[ドルニエ コメット|コメット]]102号機で東京、箱根等の上空を約2時間飛翔。(電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾)

* [[1930年]](昭和5年):10月、[[満鉄]]の招きで[[満州]]、北支方面を2ヶ月旅行。

* [[1930年]](昭和5年):10月、[[満鉄]]の招きで[[満州]]、北支方面を2ヶ月旅行。

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* [[1942]]1721934,59,10

* [[1942]]1721934,59,10

* [[1943年]](昭和18年):歌集「のぼり路」刊行。

* [[1943年]](昭和18年):歌集「のぼり路」刊行。


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* [[1948]]23退

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* [[1951]]2661932711[[]]121941,216,17

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* [[1952年]](昭和27年):「斎藤茂吉全集」(岩波書店)配本開始。全56巻は1957年(昭和32年)に完結。このころから[[痴呆]]が進み創作活動がとみに衰退

* [[1952年]](昭和27年):「斎藤茂吉全集」(岩波書店)配本開始。全56巻は1957年(昭和32年)に完結。このころから[[痴呆]]が進み創作活動がとみに衰退


* [[1953]]28225宿26[[]][[]]

* [[1953]]28225宿26[[]][[]]

* [[1953年]](昭和28年):3月2日[[築地本願寺]]にて葬儀び告別式。戒名は自ら作っておいた「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。墓地は[[青山霊園]]にある


* [[1953]]2832[[]][[]][[]][[]]


==私生活==

== 私生活 ==


[[1914]]34[[]]1319[[婿]]2[[1916]]5

[[1914]]34[[]]1319[[婿]]2[[1916]]5


養父・紀一は茂吉の才能を早くから見抜いており、愛娘輝子に、婚約者茂吉は「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたという。

養父・紀一は茂吉の才能を早くから見抜いており、愛娘輝子に、婚約者茂吉は「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたという。




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== 性格 ==

== 性格 ==

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* 癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起して紙を丸めて捨てたこともあった。

* 癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起して紙を丸めて捨てたこともあった。


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== 逸話 ==

== 逸話 ==

{{複数の問題|section=1|ソートキー=人1953年没|雑多な内容の箇条書き=2013年3月12日 (火) 20:25 (UTC)

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|出典の明記=2013-03

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* [[]][[]][[|]]

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* 「もきち」という名前は当時としても古臭いイメージがあったため、養父の勧めにより「しげよし」と読ませていた時期がある。

* 「もきち」という名前は当時としても古臭いイメージがあったため、養父の勧めにより「しげよし」と読ませていた時期がある。


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* 文学関係者では[[永井荷風]]や[[芥川龍之介]]、[[宇野浩二]]も診察を受けた。とくに芥川の[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]から来る[[不眠症]]には真剣に接し、さまざまな療養法を手紙でアドバイスしたり、臭素加里や[[アヘンチンキ]]、ドイツ[[バイエル (企業)|バイエル]]社製のベロナール([[バルビタール]])などの睡眠薬を施した。それだけに芥川の睡眠薬自殺は茂吉には大きな衝撃で、日記には、第一報には「驚愕倒レンバカリニナリタレドモ」、通夜からの帰宅後「ソレデモナカナカネムレズ。芥川ノ顔ガ見エテ仕方ナイ」とそれぞれ書かれている。

* 文学関係者では[[永井荷風]]や[[芥川龍之介]]、[[宇野浩二]]も診察を受けた。に芥川の[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]から来る[[不眠症]]には真剣に接し、さまざまな療養法を手紙でアドバイスしたり、臭素加里や[[アヘンチンキ]]、ドイツ[[バイエル (企業)|バイエル]]社製のベロナール([[バルビタール]])などの睡眠薬を施した。それだけに芥川の睡眠薬自殺は茂吉には大きな衝撃で、日記には、第一報には「驚愕倒レンバカリニナリタレドモ」、通夜からの帰宅後「ソレデモナカナカネムレズ。芥川ノ顔ガ見エテ仕方ナイ」とそれぞれ書かれている。


* [[]][[]]<ref name="kyodo20140430">[[|]]24[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/04/30/kiji/K20140430008071150.html 24    Sponichi Annex ][[]][[2014]][[430]]</ref><ref name="kyodo20140430"/><ref name="kyodo20140430"/>

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* [[夜尿症]]で中学時まで寝小便が治らなかった。息子の[[斎藤茂太]]やその孫にまで遺伝していた。普段も頻繁な便意に悩まされ、疎開中には、バケツを借りて用を足していた。バケツには「極楽」と名付けていたが、使用後、「洗えばいい。」とそのバケツに野菜などを入れて周囲を驚かせた。

* [[夜尿症]]で中学時まで寝小便が治らなかった。息子の[[斎藤茂太]]やその孫にまで遺伝していた。普段も頻繁な便意に悩まされ、疎開中には、バケツを借りて用を足していた。バケツには「極楽」と名付けていたが、使用後、「洗えばいい。」とそのバケツに野菜などを入れて周囲を驚かせた。

*学生時代の北杜夫(宗吉)が短歌を作って茂吉に手紙で送ると、二重丸などをつけて「父の『赤光』時代の歌に似ている。勉学の間に少し作ってみるといい。」と批評文を返信していた。だが、成績が悪いことを知ると態度が一変して「大馬鹿者!短歌などすぐやめよ!」と激しい言葉を書き連ねた手紙を書き送り、その後も北が文筆活動を続けると知ると、「文学なぞ絶対にやらせん。」と言い続けていた<ref>北杜夫「マンボウ最後の大バクチ」新潮社</ref>。

*学生時代の北杜夫(宗吉)が短歌を作って茂吉に手紙で送ると、二重丸などをつけて「父の『赤光』時代の歌に似ている。勉学の間に少し作ってみるといい。」と批評文を返信していた。だが、成績が悪いことを知ると態度が一変して「大馬鹿者!短歌などすぐやめよ!」と激しい言葉を書き連ねた手紙を書き送り、その後も北が文筆活動を続けると知ると、「文学なぞ絶対にやらせん。」と言い続けていた<ref>北杜夫「マンボウ最後の大バクチ」新潮社</ref>。


* 19338[[]][[]][[|]]<ref>810314 8-9p603   1994</ref>


== 代表歌 ==

== 代表歌 ==

* 「赤光」

* 「赤光」

** はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に (1905年(明治38年))

** はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に(1905年(明治38年))

** 蚕の部屋に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし (1906年(明治39年))

** 蚕の部屋に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし(1906年(明治39年))

** 月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも (1907年(明治40年))

** 月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも(1907年(明治40年))

** 高ひかる日の母を恋ひ地の廻り廻り極まりて天新たなり (1908年(明治41年))

** 高ひかる日の母を恋ひ地の廻り廻り極まりて天新たなり(1908年(明治41年))

** 萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ (1909年(明治42年))

** 萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ(1909年(明治42年))

** 墓はらのとほき森よりほろほろと上るけむりに行かむとおもふ (1910年(明治43年))

** 墓はらのとほき森よりほろほろと上るけむりに行かむとおもふ(1910年(明治43年))

** 生きてゐる汝がすがたのありありと何に今頃見えきたるかや (1911年(明治44年))

** 生きてゐる汝がすがたのありありと何に今頃見えきたるかや(1911年(明治44年))

** けだものは食もの恋ひて啼き居たり何といふやさしさぞこれは (1912年(大正元年))

** けだものは食もの恋ひて啼き居たり何といふやさしさぞこれは(1912年(大正元年))

** 啼くこゑは悲しけれども夕鳥は木に眠るなりわれは寝なくに (1913年(大正2年))

** 啼くこゑは悲しけれども夕鳥は木に眠るなりわれは寝なくに(1913年(大正2年))

** みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる

** みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる

** 死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

** 死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

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* 「あらたま」

* 「あらたま」

** あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

** あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

** 夕されば大根の葉に降るしぐれいたく寂しく降りにけるかも (1914年(大正3年))

** 夕されば大根の葉に降るしぐれいたく寂しく降りにけるかも(1914年(大正3年))

** 朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山 (1917年(大正6年))

** 朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山(1917年(大正6年))

* 「つゆじも」

* 「つゆじも」

** あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして

** あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして

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** 家出てわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり

** 家出てわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり

* 「たかはら」

* 「たかはら」

** はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方くひぬ (1929年(昭和4年))

** はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方くひぬ(1929年(昭和4年))

** 電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾

** 電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾

* 「連山」

* 「連山」

** 機関銃の音をはじめて聞きたりし東北兵をわれは思ほゆ (1930年(昭和5年))

** 機関銃の音をはじめて聞きたりし東北兵をわれは思ほゆ(1930年(昭和5年))

* 「石泉」

* 「石泉」

** おほつぴらに軍服を着て侵入し来るものを何と思はねばならぬか (1932年(昭和7年))

** おほつぴらに軍服を着て侵入し来るものを何と思はねばならぬか(1932年(昭和7年))

* 「白桃」

* 「白桃」

** 新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり (1934年(昭和9年))

** 新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり(1934年(昭和9年))

** ヒツトラのこゑ聞きしとき何か悲し前行したりし樂も悲しも

** ヒツトラのこゑ聞きしとき何か悲し前行したりし樂も悲しも

** 陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

** 陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

* 「暁紅」

* 「暁紅」

** ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり (1935年(昭和10年))

** ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり(1935年(昭和10年))

* 「寒雲」

* 「寒雲」

** 歓喜天の前に行きつつ唇をのぞきなどしてしづかに帰る (1937年(昭和12年))

** 歓喜天の前に行きつつ唇をのぞきなどしてしづかに帰る(1937年(昭和12年))

* 「のぼり路」

* 「のぼり路」

** 交尾期は大切にしてもろもろの馬ももろ人も一心となる (1939年(昭和14年))

** 交尾期は大切にしてもろもろの馬ももろ人も一心となる(1939年(昭和14年))

* 「霜」

* 「霜」

** 肉体に自浄作用のあることを吾聞きしより三十三年経たり (1941年(昭和16年))

** 肉体に自浄作用のあることを吾聞きしより三十三年経たり(1941年(昭和16年))

** 楢の花垂りて咲けるが幽かなる心をわれに与へてやまず (1942年(昭和17年))

** 楢の花垂りて咲けるが幽かなる心をわれに与へてやまず(1942年(昭和17年))

* 「小園」

* 「小園」

** どしや降りの午後になりつつものをいふことさへもなく木瓜の実煮たり (1943年(昭和18年))

** どしや降りの午後になりつつものをいふことさへもなく木瓜の実煮たり(1943年(昭和18年))

** 鈍痛のごとき内在を感じたるけふの日頃をいかに遣らはむ (1944年(昭和19年))

** 鈍痛のごとき内在を感じたるけふの日頃をいかに遣らはむ(1944年(昭和19年))

** この雪の中にこもれる村々にたたかひの世のうづくがごとし (1945年(昭和20年))

** この雪の中にこもれる村々にたたかひの世のうづくがごとし(1945年(昭和20年))

** このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね (1945年(昭和20年))

** このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね(1945年(昭和20年))

** 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ([[今昔秀歌百撰]] 78)

** 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ([[今昔秀歌百撰]] 78)

* 「白き山」

* 「白き山」

** 水すまし流にむかひさかのぼる汝がいきほひよ微かなれども (1946年(昭和21年))

** 水すまし流にむかひさかのぼる汝がいきほひよ微かなれども(1946年(昭和21年))

** 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも (1946年(昭和21年))

** 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも(1946年(昭和21年))

** 勝ちたりといふ放送に興奮し眠られざりし吾にあらずきや (1947年(昭和22年))

** 勝ちたりといふ放送に興奮し眠られざりし吾にあらずきや(1947年(昭和22年))

* 「つきかげ」

* 「つきかげ」

** たかむらの中ににほへる一木あり柿なるやといへば「応」とこそいへ (1948年(昭和23年))

** たかむらの中ににほへる一木あり柿なるやといへば「応」とこそいへ(1948年(昭和23年))

** 時としてベルリン郊外のワン・ゼエにも心の及ぶ老人(おいびと)われは (1949年(昭和24年))

** 時としてベルリン郊外のワン・ゼエにも心の及ぶ老人(おいびと)われは(1949年(昭和24年))

** 円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ (1950年(昭和25年))

** 円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ(1950年(昭和25年))

** おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震(なゐ)ふるふころ (1951年(昭和26年))

** おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震(なゐ)ふるふころ(1951年(昭和26年))

** 梅の花うすくれなゐにひろがりしその中心(なかど)にてもの栄(は)ゆるらし (1952年(昭和27年))

** 梅の花うすくれなゐにひろがりしその中心(なかど)にてもの栄(は)ゆるらし(1952年(昭和27年))



== 著書 ==

== 著書 ==

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=== 歌集 ===

=== 歌集 ===

以下は歌の制作年順に配列したもの。上梓年とは順序が違うことに注意。

以下は歌の制作年順に配列したもの。上梓年とは順序が違うことに注意。

* 歌集名 制作年 (発行所、上梓年)

* 歌集名 制作年(発行所、上梓年)

* 『[[赤光]]』明治38 - 大正2 (東雲堂書店、1913年(大正2年)10月)

* 『[[赤光]]』明治38 - 大正2(東雲堂書店、1913年(大正2年)10月)

* 『[[あらたま (歌集)|あらたま]]』 大正2 - 6([[春陽堂書店|春陽堂]]、1921年(大正10年)1月)

* 『[[あらたま (歌集)|あらたま]]』 大正2 - 6([[春陽堂書店|春陽堂]]、1921年(大正10年)1月)

* 『朝の蛍』?([[改造社]]、1925年(大正14年)4月) 自選歌集

* 『朝の蛍』?([[改造社]]、1925年(大正14年)4月) 自選歌集

* 『つゆじも』 大正6 - 11([[岩波書店]]、1946年(昭和21年)8月)

* 『つゆじも』 大正6 - 11([[岩波書店]]、1946年(昭和21年)8月)

* 『遠遊』 大正11 - 12 (岩波書店、1947年(昭和22年)8月)

* 『遠遊』 大正11 - 12(岩波書店、1947年(昭和22年)8月)

* 『遍歴』 大正12 - 14 (岩波書店、1948年(昭和23年)4月)

* 『遍歴』 大正12 - 14(岩波書店、1948年(昭和23年)4月)

* 『ともしび』 大正14 - 昭和3(岩波書店、1950年(昭和25年)1月)

* 『ともしび』 大正14 - 昭和3(岩波書店、1950年(昭和25年)1月)

* 『たかはら』 昭和4 - 5(岩波書店、1950年(昭和25年)6月)

* 『たかはら』 昭和4 - 5(岩波書店、1950年(昭和25年)6月)

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* 『歌壇夜叉語』([[中央公論新社|中央公論社]]、1951年(昭和26年)4月)

* 『歌壇夜叉語』([[中央公論新社|中央公論社]]、1951年(昭和26年)4月)



===文庫===

=== 文庫 ===

* 『斎藤茂吉歌集』 岩波文庫、1978年(昭和53年)(改版)

* 『斎藤茂吉歌集』 岩波文庫、1978年(昭和53年)(改版)

* 『斎藤茂吉歌論集』 [[柴生田稔]]編、岩波文庫、1978年(昭和53年)

* 『斎藤茂吉歌論集』 [[柴生田稔]]編、岩波文庫、1978年(昭和53年)

295行目: 295行目:

* [[秋葉四郎]] 『新論 歌人茂吉』([[角川書店]])

* [[秋葉四郎]] 『新論 歌人茂吉』([[角川書店]])

** 『歌人茂吉 人間茂吉』(NHK出版)、『茂吉 幻の歌集『萬軍』』(岩波書店)

** 『歌人茂吉 人間茂吉』(NHK出版)、『茂吉 幻の歌集『萬軍』』(岩波書店)

* 高橋良『斎藤茂吉からの系譜』[[文芸社]]、2021年(令和3年)



== 伝記文献 ==

== 伝記文献 ==

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== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

* [[斎藤茂吉文化賞]]

* [[斎藤茂吉短歌文学賞]]

* [[斎藤茂吉短歌文学賞]]

* [[茂吉記念館前駅]]

* [[茂吉記念館前駅]]

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== 脚注 ==

== 脚注 ==

{{脚注ヘルプ}}

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=== 注釈 ===

{{Notelist2}}

=== 出典 ===

{{Reflist}}

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* [http://www.mokichi.or.jp/ 斎藤茂吉記念館]

* [http://www.mokichi.or.jp/ 斎藤茂吉記念館]

* {{青空文庫著作者|1059}}

* {{青空文庫著作者|1059}}

* [http://researchmap.jp/jo6xnvb0i-1787586/#_1787586/ 今昔秀歌百撰] [http://researchmap.jp/jo7eehhck-1787586/ 78齋藤茂吉]

* [https://archive.md/Y5AL 今昔秀歌百撰] [https://web.archive.org/web/20120519161740/http://researchmap.jp/jo7eehhck-1787586/ 78齋藤茂吉][https://archive.is/yOfgH]

* [https://www.pref.yamagata.jp/020073/bunkyo/bunka/shinko/bunkasyou/index.html 齋藤茂吉文化賞] 山形県ホームページ

* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/bunkasyou/index.html 齋藤茂吉文化賞] 山形県ホームページ

* [https://www.pref.yamagata.jp/020073/bunkyo/bunka/shinko/mokititannkatop/index.html 齋藤茂吉短歌文学賞] 山形県ホームページ

* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/mokititannkatop/index.html 齋藤茂吉短歌文学賞] 山形県ホームページ

* [http://aizuyaichi.or.jp/person/524/ 斎藤茂吉 | 新潟市會津八一記念館]

* [https://aizuyaichi.or.jp/person/524/ 斎藤茂吉 | 新潟市會津八一記念館]



{{Normdaten}}

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[[Category:ウィーン大学出身の人物]]

[[Category:ウィーン大学出身の人物]]

[[Category:東京大学出身の人物]]

[[Category:東京大学出身の人物]]

[[Category:開成高等学校出身の人物]]

[[Category:旧制第一高等学校出身の人物]]

[[Category:開成中学校・高等学校出身の人物]]

[[Category:山形県出身の人物]]

[[Category:山形県出身の人物]]

[[Category:1882年生]]

[[Category:1882年生]]

[[Category:1953年没]]

[[Category:1953年没]]

[[Category:青山霊園に埋葬されている人物]]


2024年3月31日 (日) 07:30時点における版

斎藤さいとう 茂吉もきち
1952年頃
誕生 1882年明治15年)5月14日
山形県南村山郡金瓶村
(現:山形県上山市
死没 (1953-02-25) 1953年2月25日(70歳没)
東京都新宿区大京町
墓地 青山霊園
職業 歌人、評論家、随想家、精神科医
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 医学博士
最終学歴 東京帝国大学医科大学卒業
活動期間 1908年 - 1953年
ジャンル 短歌
随筆
文学活動 アララギ派
実相観入
代表作赤光』(1913年)
主な受賞歴 学士院賞『柿本人麿』(1940年)
読売文学賞詩歌賞『ともしび』(1949年)
文化勲章(1951年)
文化功労者(1952年)
子供 斎藤茂太(長男)
北杜夫(次男)
親族 斎藤紀一 (養父)
斎藤輝子(妻)
斎藤由香 (孫)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

  1882︿15514[ 1] - 1953︿28225



188215

14[1]190523婿10

31婿

40窿49窿




1923西[2][3]



1717,907姿

年譜


188215514727

189629窿89

189831

19013437

190235

190538稿

190639

190740

190841

190942

191043

19114473

191245/

1913245710

1914341319婿

1917612

19198

1920967退
927[4]

192110101111220

19221111

1923127[3]11Hitler

19241351012

1925141 [5]

192615345

192724退[5]57

1928311西[6]

19294111022

19305102

19316

193278

19338麿3000

19351010

193712

193813

19401535麿61935,610,11

19421721934,59,10

194318

1945204[5]5

1946212[5]8194722195126

194722811[5]

194823退

1949248

1950251416192919304,51119305宿[5]

19512661932711121941,216,17

19522756195732退

195328225宿26

19532832


1914341319婿219165



[ 2]

192413719251421929410

19338[ 3]調

10 西[7]

19349919101993[8] [9]

[10][11]

194520120[11][8]80[9]

性格


[12]

[13]

















[14][14][14]

尿便便使

鹿[15]

19338[16]



190538

190639

190740

190841

190942

191043

191144

1912

19132














19143

19176





Prater








19294




19305


19327


宿19349






193510


193712


193914


194116

194217


194318

194419

194520

194520

78


194621

194621

194722


194823

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195025

195126

195227


5626-32

361973-76




 

38 - 21913210

 2 - 61921101

?1925144 

 6 - 111946218

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 14 - 31950251

 4 - 51950256

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 6 - 71951266

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 14 - 1519431811

 16 - 1719512612

 18 - 211949244

 21 - 221949248

 23 - 271954292 


191654

191764

191988

1926154

192944

193058

193385

麿1934911

麿19351010

麿 1937125

19381311

麿 1939142

1940154

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麿19401512

1942178

1943186

19431811

1944197

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1945204

1947221

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1947227

1949242

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1949249

19502510

1951263

1951264


 197853

 197853

 198661

 200416

 19200618

201022


   ISBN 4006020279

   ISBN 4006020287

   ISBN 4006020295

   ISBN 4006020309

  

 19532810

  ISBN 4003104420

  ISBN 4003104439

   ISBN 4-480-08180-1

   198560

 


 

   19935

 5




  
 NHK 

20213


  1964391982
200012

 198055

  1993519979

  197954 198156

   ︿201022

   ︿201628














 - 

注釈

  1. ^ 戸籍上は明治15年7月27日。
  2. ^ このことは茂吉の日記や次男宗吉(北杜夫)や孫由香の証言にも残っている
  3. ^ この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名もあげられ、醜い数々の場面を係官の前に晒している 『東京朝日新聞』 昭和8年11月8日

出典



(一)^   5710  123113

(二)^ ,1989212

(三)^ ab 19783

(四)^ 24491920930

(五)^ abcdef  

(六)^ 1475-76

(七)^   p359

(八)^ ab356jp

(九)^ ab- 962005119-126ISSN 03895882NAID 120001439682 

(十)^ !? 

(11)^ ab .  CATV. 20191014

(12)^  p.540p.681

(13)^ 

(14)^ abc2424    Sponichi Annex 2014430

(15)^ 

(16)^ 810314 8-9p603   1994

外部リンク