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'''斎藤 茂吉'''(さいとう もきち、[[1882年]]〈[[明治]]15年〉[[5月14日]]<ref group="注">戸籍上は明治15年7月27日。</ref> - [[1953年]]〈[[昭和]]28年〉[[2月25日]])は、[[日本]]の[[歌人]]・[[精神科医]]。[[伊藤左千夫]]門下。[[大正]]から昭和前期にかけて活躍した[[アララギ]]の中心人物。

'''斎藤 茂吉'''(さいとう もきち、[[1882年]]〈[[明治]]15年〉[[5月14日]]<ref group="注">戸籍上は明治15年7月27日。</ref> - [[1953年]]〈[[昭和]]28年〉[[2月25日]])は、[[日本]]の[[歌人]]・[[精神科医]]。[[伊藤左千夫]]門下。[[大正]]から昭和前期にかけて活躍した[[アララギ]]の中心人物。[[日本芸術院]]会員、[[文化功労者]]、[[文化勲章]]受章者




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== 概要 ==

== 概要 ==

[[1882年]]([[明治]]15年)、守谷伝右衛門熊次郎の三男として、[[山形県]][[南村山郡]]金瓶(かなかめ)村(現:[[上山市]]金瓶)に生まれた。

[[1882年]]([[明治]]15年)、[[山形県]][[南村山郡]]金瓶(かなかめ)村(現:[[上山市]]金瓶)の守谷伝右衛門熊次郎といくの間三男として生まれた。




[[]][[]][[]]14[[|]][[|]][[]]<ref>[http://www.tsuboi-clinic.org/essay.shtml   5710 ] 123113</ref>1905婿19

[[]][[]][[]]14[[|]][[|]][[]]<ref>[http://www.tsuboi-clinic.org/essay.shtml   5710 ] 123113</ref>190523婿10



31[[婿]]

31[[婿]]
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== 年譜 ==

== 年譜 ==

{{年譜のみの経歴|date=2023-01}}

{{年譜のみの経歴|date=2023-01}}

* [[1882年]]([[明治]]15年):5月14日、山形県南村山郡金瓶村(現:[[上山市]]金瓶)に出生(戸籍上は届出遅れにより7月27日)

* [[1882年]]([[明治]]15年):5月14日、山形県[[南村山郡]]金瓶村(現:[[上山市]]金瓶)に出生(戸籍上は届出遅れにより7月27日)

* [[1896年]](明治29年):[[上山市立上山小学校|上山尋常高等小学校]][[高等科]]卒業。恩師佐原窿応の紹介と東京浅草で開業していた親戚の医師[[斎藤紀一]]の勧めで医者を志す。8月父に連れられ上京し斎藤方に寄寓。9月東京府開成中学校(現:[[開成中学校・高等学校]])に編入

* [[1896年]](明治29年):[[上山市立上山小学校|上山尋常高等小学校]][[高等科]]卒業。恩師佐原窿応の紹介と東京浅草で開業していた親戚の医師[[斎藤紀一]]の勧めで医者を志す。8月父に連れられ上京し斎藤方に寄寓。9月東京府開成中学校(現:[[開成中学校・高等学校]])に編入

* [[1898年]](明治31年):同級生に刺激され、このころから歌を詠むようになる。[[幸田露伴]]、[[森鷗外]]などを愛読。特に露伴の影響は大きかった。

* [[1898年]](明治31年):同級生に刺激され、このころから歌を詠むようになる。[[幸田露伴]]、[[森鷗外]]などを愛読。特に露伴の影響は大きかった。

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* [[1923年]](大正12年):学位論文「麻痺性[[痴呆]]者の脳図」完成。(誰ひとり此処にゐざれば論文の頁を閉ぢて涙ぐみたり)イタリア旅行を経て7月、[[ミュンヘン大学]]に転学。[[エミール・クレペリン]]の臨床講義を聴きに行き握手を求めたが拒否される<ref name="MACHIAISHITSU"/>。実父守谷伝衛門死去。11月、[[アドルフ・ヒトラー]]の[[ミュンヘン一揆]]に遭遇する。(行進の歌ごゑきこゆHitlerの演説すでに果てたるころか)

* [[1923年]](大正12年):学位論文「麻痺性[[痴呆]]者の脳図」完成。(誰ひとり此処にゐざれば論文の頁を閉ぢて涙ぐみたり)イタリア旅行を経て7月、[[ミュンヘン大学]]に転学。[[エミール・クレペリン]]の臨床講義を聴きに行き握手を求めたが拒否される<ref name="MACHIAISHITSU"/>。実父守谷伝衛門死去。11月、[[アドルフ・ヒトラー]]の[[ミュンヘン一揆]]に遭遇する。(行進の歌ごゑきこゆHitlerの演説すでに果てたるころか)

* [[1924年]](大正13年):5月「家兎の[[大脳皮質]]における壊死、軟化及組織化に就ての実験的研究」を完成。兎の脳を解剖し組織を顕微鏡で観察し写生するという地味で根気のいる作業の日々だった。10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、[[青山脳病院]]全焼の電報を船上で受け取る。(もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麦を食ひたり)

* [[1924年]](大正13年):5月「家兎の[[大脳皮質]]における壊死、軟化及組織化に就ての実験的研究」を完成。兎の脳を解剖し組織を顕微鏡で観察し写生するという地味で根気のいる作業の日々だった。10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、[[青山脳病院]]全焼の電報を船上で受け取る。(もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麦を食ひたり)

* [[1925年]](大正14年):1月、帰国。病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。(とどろきてすさまじき火をものがたるをさなごのかうべわれは撫でたり) 同病院の再建に奔走<ref name="kinennkan">「藤茂吉略年譜」 財団法人 [[斎藤茂吉記念館]]</ref>

* [[1925年]](大正14年):1月、帰国。病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。(とどろきてすさまじき火をものがたるをさなごのかうべわれは撫でたり) 同病院の再建に奔走<ref name="kinennkan">「藤茂吉略年譜」 財団法人 [[斎藤茂吉記念館]]</ref>


* [[1926]]15345

* [[1926]]15345

* [[1927年]]([[昭和]]2年):4月、養父紀一が引退し、青山脳病院院長の職を継ぐ<ref name="kinennkan"/>。5月、次男宗吉([[北杜夫]])誕生。7月芥川龍之介が茂吉にもらっていた睡眠薬を飲み自殺。大きな衝撃を受ける。

* [[1927年]]([[昭和]]2年):4月、養父紀一が引退し、青山脳病院院長の職を継ぐ<ref name="kinennkan"/>。5月、次男宗吉([[北杜夫]])誕生。7月芥川龍之介が茂吉にもらっていた睡眠薬を飲み自殺。大きな衝撃を受ける。

* [[1928年]](昭和3年):11月、養父紀一死去。以後病院経営はすべて茂吉が負うこととなった。(おしなべてつひに貧しく生きたりしものぐるひ等はここに起臥す)

* [[1928年]](昭和3年):11月、養父紀一死去、家督は紀一の実子西洋が相続<ref>人事興信録14版上サ75-76</ref>。以後病院経営はすべて茂吉が負うこととなった。(おしなべてつひに貧しく生きたりしものぐるひ等はここに起臥す)

* [[1929年]](昭和4年):11月、[[朝日新聞]]社機[[ドルニエ コメット|コメット]]102号機で東京、箱根等の上空を約2時間飛翔。(電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾)

* [[1929年]](昭和4年):11月、[[朝日新聞]]社機[[ドルニエ コメット|コメット]]102号機で東京、箱根等の上空を約2時間飛翔。(電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾)

* [[1930年]](昭和5年):10月、[[満鉄]]の招きで[[満州]]、北支方面を2ヶ月旅行。

* [[1930年]](昭和5年):10月、[[満鉄]]の招きで[[満州]]、北支方面を2ヶ月旅行。

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* [[1943年]](昭和18年):歌集「のぼり路」刊行。

* [[1943年]](昭和18年):歌集「のぼり路」刊行。

* [[1945年]](昭和20年):[[太平洋戦争]]の悪化による人員や資材不足で経営困難となり病院を東京都に移譲し(後の[[東京都立梅ヶ丘病院]])院長職を辞職。4月、郷里である山形県[[南村山郡]]堀田村金瓶(かなかめ)に疎開<ref name="kinennkan"/>。5月、青山脳病院および東京の自宅が、アメリカ軍による[[東京大空襲]]により全焼。(のがれ来し吾を思はばうしろぐらし心は痛し子等しほゆ)

* [[1945年]](昭和20年):[[太平洋戦争]]の悪化による人員や資材不足で経営困難となり病院を東京都に移譲し(後の[[東京都立梅ヶ丘病院]])院長職を辞職。4月、郷里である山形県[[南村山郡]]堀田村金瓶(かなかめ)に疎開<ref name="kinennkan"/>。5月、青山脳病院および東京の自宅が、アメリカ軍による[[東京大空襲]]により全焼。(のがれ来し吾を思はばうしろぐらし心は痛し子等しほゆ)

* [[1946年]](昭和21年):2月、山形県[[北村山郡]]大石田町に移る<ref name="kinennkan"/>。(最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片)8月、歌集「つゆじも」刊行。1947年(昭和22年)度以降1951年(26年度)迄歌会始選者。

* [[1946年]](昭和21年):2月、山形県[[北村山郡]][[大石田町]]に移る<ref name="kinennkan"/>。(最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片)8月、歌集「つゆじも」刊行。1947年(昭和22年)度以降1951年(26年度)迄歌会始選者。


* [[1947]]22811[[ ()|]]<ref name="kinennkan"/>

* [[1947]]22811[[ ()|]]<ref name="kinennkan"/>

* [[1948]]23退

* [[1948]]23退

* [[1949]]248

* [[1949]]248

* [[1950年]](昭和25年):1月、歌集「ともしび」(帰朝後から昭和4年までの歌)刊行。これにより第1回[[読売文学賞]]詩歌賞受賞。6月、1929・1930年(昭和4,5年)の歌を収めた「たかはら」刊行。11月、1930年(昭和5年)の満州旅行の歌を収めた「連山」を刊行。同年、新宿区[[大京町]]の新居に移る<ref name="kinennkan"/>

* [[1950年]](昭和25年):1月、歌集「ともしび」(帰朝後から昭和4年までの歌)刊行。これにより第1回[[読売文学賞]]詩歌賞受賞。6月、1929・1930年(昭和4,5年)の歌を収めた「たかはら」刊行。11月、1930年(昭和5年)の満州旅行の歌を収めた「連山」を刊行。同年、新宿区[[大京町]]の新居に移る<ref name="kinennkan"/>


* [[1951]]2661932711[[]]121941,216,17

* [[1951]]2661932711[[]]121941,216,17

* [[1952年]](昭和27年):「斎藤茂吉全集」(岩波書店)配本開始。全56巻は1957年(昭和32年)に完結。このころから[[痴呆]]が進み創作活動がとみに衰退

* [[1952年]](昭和27年):「斎藤茂吉全集」(岩波書店)配本開始。全56巻は1957年(昭和32年)に完結。このころから[[痴呆]]が進み創作活動がとみに衰退

* [[1953年]](昭和28年):2月25日、心臓喘息のため新宿区大京町の自宅で死去。同26日、[[東京大学]]の病理学教室において[[三宅仁]]教授執刀の下、解剖に付せられる。

* [[1953年]](昭和28年):2月25日、心臓喘息のため新宿区大京町の自宅で死去。同26日、[[東京大学]]の病理学教室において[[三宅仁]]教授執刀の下、解剖に付せられる。

* [[1953年]](昭和28年):3月2日[[築地本願寺]]にて葬儀および告別式。戒名は自ら作っておいた「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。墓地は[[青山霊園]]にある

* [[1953年]](昭和28年):3月2日[[築地本願寺]]にて葬儀および告別式。戒名は自ら作っておいた「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。墓地は[[青山霊園]]のほか、[[上山市]]金瓶の宝泉寺、[[大石田町]]の乗舩寺にある



== 私生活 ==

== 私生活 ==

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[[1933年]]([[昭和]]8年)、ダンス教師が[[華族]]や上流階級の婦人らとの不倫や集団遊興を繰り広げていたとする[[不祥事|スキャンダル]]、「[[不良華族事件|ダンスホール事件]]」が発生した。この事件では、逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性のひとりとして輝子がいたことが[[新聞|大新聞]]をはじめとするメディアに報じられ<ref group="注">この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名もあげられ、醜い数々の場面を係官の前に晒している 『東京朝日新聞』 昭和8年11月8日</ref>、実際に輝子も警察の取調べを受けるなどに至った。

[[1933年]]([[昭和]]8年)、ダンス教師が[[華族]]や上流階級の婦人らとの不倫や集団遊興を繰り広げていたとする[[不祥事|スキャンダル]]、「[[不良華族事件|ダンスホール事件]]」が発生した。この事件では、逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性のひとりとして輝子がいたことが[[新聞|大新聞]]をはじめとするメディアに報じられ<ref group="注">この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名もあげられ、醜い数々の場面を係官の前に晒している 『東京朝日新聞』 昭和8年11月8日</ref>、実際に輝子も警察の取調べを受けるなどに至った。



この事件の結果、夫婦は以後約10年ほどに渡って別居することになった。輝子は、母の生家がある[[秩父]]や、茂吉の実弟・高橋四郎兵衛が経営する山形・[[上山市|上山]]の旅館 「山城」に預けられ、最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院本院で生活、一方の茂吉は青山の分院での生活を続けた<ref>山上次郎 文芸春秋 p359</ref>。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記している。

この事件の結果、夫婦は以後約10年ほどに渡って別居することになった。輝子は、母の生家がある[[秩父]]や、茂吉の実弟・高橋四郎兵衛が経営する山形・[[上山市|上山]]の旅館 「山城」に預けられ、最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院本院で生活、一方の茂吉は青山の分院での生活を続けた<ref>山上次郎 文芸春秋 p359</ref>。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記している。




[[1934]]99[[]][[|]][[]]19101993<ref name=sarai>[https://web.archive.org/web/20191014083855/https://serai.jp/hobby/297706 356jp]</ref> <ref name="tamai">{{Cite journal| |author= |title=-  |journal= |issn=03895882 |publisher= |year=2005 |issue=96 |pages=119-126 |naid=120001439682 |url=https://hdl.handle.net/10291/3582}}</ref>

[[1934]]99[[]][[|]][[]]19101993<ref name=sarai>[https://web.archive.org/web/20191014083855/https://serai.jp/hobby/297706 356jp]</ref> <ref name="tamai">{{Cite journal| |author= |title=-  |journal= |issn=03895882 |publisher= |year=2005 |issue=96 |pages=119-126 |naid=120001439682 |url=https://hdl.handle.net/10291/3582}}</ref>



[[|]][[]]<ref>[https://web.archive.org/web/20191014070323/https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2017/02/25/20601.html !? ]</ref><ref name="ehime">{{Cite web |url=http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2006/0612.htm |title=  |publisher=CATV |accessdate=2019-10-14}}</ref>

[[|]][[]]<ref>[https://web.archive.org/web/20191014070323/https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2017/02/25/20601.html !? ]</ref><ref name="ehime">{{Cite web||url=http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2006/0612.htm |title=  |publisher=CATV |accessdate=2019-10-14}}</ref>


輝子とは[[太平洋戦争]]中に茂吉の故郷・[[山形県|山形]]に[[疎開]]することになったのを機に[[1945年]](昭和20年)から同居を再開した。茂吉はふさ子と会うことも文をやり取りすることも無くなり、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。ふさ子が茂吉の死を知ったのはテレビの報道で、ということである。茂吉はふさ子に、自分からの手紙は読み終えたら直ちに焼却するよう念を押していたが、ふさ子が焼いたのはごく一部で、120通以上の手紙を大切に手元に置いていた。「先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました」<ref name="ehime"/>。そして茂吉の十周忌を機に、雑誌上で公開に踏み切った。この事は茂吉の遺族をはじめ世間にも非常な驚きを持って迎えられた<ref name="sarai"/>。晩年の輝子は、80歳を超えても世界中を旅行し、[[エベレスト]]登山にまで挑むような活発な老後を送った。ふさ子は晩年、「茂吉から受けた愛のよろこびは一瞬のように短かったのに反して、その後の耐え難かった苦悩を思うと、よくぞ生きのびてきたと思う」と語っていた<ref name="tamai"/>。

輝子とは[[太平洋戦争]]中に茂吉の故郷・[[山形県|山形]]に[[疎開]]することになったのを機に[[1945年]](昭和20年)から同居を再開した。茂吉はふさ子と会うことも文をやり取りすることも無くなり、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。ふさ子が茂吉の死を知ったのはテレビの報道で、ということである。茂吉はふさ子に、自分からの手紙は読み終えたら直ちに焼却するよう念を押していたが、ふさ子が焼いたのはごく一部で、120通以上の手紙を大切に手元に置いていた。「先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました」<ref name="ehime"/>。そして茂吉の十周忌を機に、雑誌上で公開に踏み切った。この事は茂吉の遺族をはじめ世間にも非常な驚きを持って迎えられた<ref name="sarai"/>。晩年の輝子は、80歳を超えても世界中を旅行し、[[エベレスト]]登山にまで挑むような活発な老後を送った。ふさ子は晩年、「茂吉から受けた愛のよろこびは一瞬のように短かったのに反して、その後の耐え難かった苦悩を思うと、よくぞ生きのびてきたと思う」と語っていた<ref name="tamai"/>。

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== 性格 ==

== 性格 ==

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{{独自研究|section=1|date=2013-03|ソートキー=人1953年没}}

* かなりの食いしん坊であった。[[鰻]]が大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の[[缶詰]]を食べていた<ref>齋藤茂吉全集第三十一巻 p.540およびp.681(岩波書店)</ref>。[[味噌汁]]の具にも口うるさく注文し、家人から[[ネギ]]もあるので入れるかと聞かれた時は「うーむ。」としばらく熟考するほど拘った。

* かなりの食いしん坊であった。[[鰻]]が大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の[[缶詰]]を食べていた<ref>齋藤茂吉全集第三十一巻 p.540およびp.681(岩波書店)</ref>。[[味噌汁]]の具にも口うるさく注文し、家人から[[ネギ]]もあるので入れるかと聞かれた時は「うーむ。」としばらく熟考するほど拘った。終戦直後、疎開先で講演を頼まれお礼に鰻をご馳走すると聞いて、元来講演嫌いなのに快諾し、予定時間を超過して話し続けた。

* 非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった<ref>北杜夫『どくどるマンボウ青春記』</ref>。茂吉が風邪で寝ていた時、是非ともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て「俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。」と怒鳴りつけた。あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産の[[カステラ]]を食べた茂吉は「あんまり叱るんじゃなかったな。」と反省したという。

* 非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった<ref>北杜夫『どくどるマンボウ青春記』</ref>。茂吉が風邪で寝ていた時、是非ともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て「俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。」と怒鳴りつけた。あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産の[[カステラ]]を食べた茂吉は「あんまり叱るんじゃなかったな。」と反省したという。

* 癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起こして紙を丸めて捨てたこともあった。

* 癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起こして紙を丸めて捨てたこともあった。

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* [[秋葉四郎]] 『新論 歌人茂吉』([[角川書店]])

* [[秋葉四郎]] 『新論 歌人茂吉』([[角川書店]])

** 『歌人茂吉 人間茂吉』(NHK出版)、『茂吉 幻の歌集『萬軍』』(岩波書店)

** 『歌人茂吉 人間茂吉』(NHK出版)、『茂吉 幻の歌集『萬軍』』(岩波書店)

* 高橋良『斎藤茂吉からの系譜』[[文芸社]]、2021年(令和3年)



== 伝記文献 ==

== 伝記文献 ==

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== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

* [[斎藤茂吉文化賞]]

* [[斎藤茂吉短歌文学賞]]

* [[斎藤茂吉短歌文学賞]]

* [[茂吉記念館前駅]]

* [[茂吉記念館前駅]]

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* [http://www.mokichi.or.jp/ 斎藤茂吉記念館]

* [http://www.mokichi.or.jp/ 斎藤茂吉記念館]

* {{青空文庫著作者|1059}}

* {{青空文庫著作者|1059}}

* [http://researchmap.jp/jo6xnvb0i-1787586/#_1787586/ 今昔秀歌百撰] [http://researchmap.jp/jo7eehhck-1787586/ 78齋藤茂吉]

* [https://archive.md/Y5AL 今昔秀歌百撰] [https://web.archive.org/web/20120519161740/http://researchmap.jp/jo7eehhck-1787586/ 78齋藤茂吉][https://archive.is/yOfgH]

* [https://www.pref.yamagata.jp/020073/bunkyo/bunka/shinko/bunkasyou/index.html 齋藤茂吉文化賞] 山形県ホームページ

* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/bunkasyou/index.html 齋藤茂吉文化賞] 山形県ホームページ

* [https://www.pref.yamagata.jp/020073/bunkyo/bunka/shinko/mokititannkatop/index.html 齋藤茂吉短歌文学賞] 山形県ホームページ

* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/mokititannkatop/index.html 齋藤茂吉短歌文学賞] 山形県ホームページ

* [http://aizuyaichi.or.jp/person/524/ 斎藤茂吉 | 新潟市會津八一記念館]

* [https://aizuyaichi.or.jp/person/524/ 斎藤茂吉 | 新潟市會津八一記念館]



{{Normdaten}}

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[[Category:1882年生]]

[[Category:1882年生]]

[[Category:1953年没]]

[[Category:1953年没]]

[[Category:青山霊園に埋葬されている人物]]


2024年3月31日 (日) 07:30時点における最新版

斎藤さいとう 茂吉もきち
1952年頃
誕生 1882年明治15年)5月14日
山形県南村山郡金瓶村
(現:山形県上山市
死没 (1953-02-25) 1953年2月25日(70歳没)
東京都新宿区大京町
墓地 青山霊園
職業 歌人、評論家、随想家、精神科医
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 医学博士
最終学歴 東京帝国大学医科大学卒業
活動期間 1908年 - 1953年
ジャンル 短歌
随筆
文学活動 アララギ派
実相観入
代表作赤光』(1913年)
主な受賞歴 学士院賞『柿本人麿』(1940年)
読売文学賞詩歌賞『ともしび』(1949年)
文化勲章(1951年)
文化功労者(1952年)
子供 斎藤茂太(長男)
北杜夫(次男)
親族 斎藤紀一 (養父)
斎藤輝子(妻)
斎藤由香 (孫)
ウィキポータル 文学
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  1882︿15514[ 1] - 1953︿28225


[]


188215

14[1]190523婿10

31婿

40窿49窿

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1923西[2][3]



1717,907姿

年譜[編集]


188215514727

189629窿89

189831

19013437

190235

190538稿

190639

190740

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性格[編集]


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 197853

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 198661

 200416

 19200618

201022

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   ISBN 4006020279

   ISBN 4006020287

   ISBN 4006020295

   ISBN 4006020309

  

 19532810

  ISBN 4003104420

  ISBN 4003104439

   ISBN 4-480-08180-1

   198560

 


 

   19935

 5




  
 NHK 

20213

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  1964391982
200012

 198055

  1993519979

  197954 198156

   ︿201022

   ︿201628

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注釈[編集]

  1. ^ 戸籍上は明治15年7月27日。
  2. ^ このことは茂吉の日記や次男宗吉(北杜夫)や孫由香の証言にも残っている
  3. ^ この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名もあげられ、醜い数々の場面を係官の前に晒している 『東京朝日新聞』 昭和8年11月8日

出典[編集]



(一)^   5710  123113

(二)^ ,1989212

(三)^ ab 19783

(四)^ 24491920930

(五)^ abcdef  

(六)^ 1475-76

(七)^   p359

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(九)^ ab- 962005119-126ISSN 03895882NAID 120001439682 

(十)^ !? 

(11)^ ab .  CATV. 20191014

(12)^  p.540p.681

(13)^ 

(14)^ abc2424    Sponichi Annex 2014430

(15)^ 

(16)^ 810314 8-9p603   1994

外部リンク[編集]