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'''斎藤 茂吉'''︵さいとう もきち、[[1882年]]︿[[明治]]15年﹀[[5月14日]]<ref group="注">戸籍上は明治15年7月27日。</ref> - [[1953年]]︿[[昭和]]28年﹀[[2月25日]]︶は、[[日本]]の[[歌人]]・[[精神科医]]。[[伊藤左千夫]]門下。[[大正]]から昭和前期にかけて活躍した[[アララギ]]の中心人物。
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'''斎藤 茂吉'''︵さいとう もきち、[[1882年]]︿[[明治]]15年﹀[[5月14日]]<ref group="注">戸籍上は明治15年7月27日。</ref> - [[1953年]]︿[[昭和]]28年﹀[[2月25日]]︶は、[[日本]]の[[歌人]]・[[精神科医]]。[[伊藤左千夫]]門下。[[大正]]から昭和前期にかけて活躍した[[アララギ]]の中心人物。[[日本芸術院]]会員、[[文化功労者]]、[[文化勲章]]受章者。
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精神科医として、[[青山脳病院]]︵現在の[[東京都立梅ヶ丘病院]]や斎藤病院︶の院長を務めた。長男は精神科医で[[随筆家]]の[[斎藤茂太]]、次男は精神科医・随筆家・[[小説家]]の[[北杜夫]]、孫は随筆家の[[斎藤由香]]。
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精神科医として、[[青山脳病院]]︵現在の[[東京都立梅ヶ丘病院]]や斎藤病院︶の院長を務めた。長男は精神科医で[[随筆家]]の[[斎藤茂太]]、次男は精神科医・随筆家・[[小説家]]の[[北杜夫]]、孫は随筆家の[[斎藤由香]]。
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[[1882年]]([[明治]]15年)、[[山形県]][[南村山郡]]金瓶(かなかめ)村(現:[[上山市]]金瓶)の守谷伝右衛門熊次郎といくの間に三男として生まれた。 |
[[1882年]]([[明治]]15年)、[[山形県]][[南村山郡]]金瓶(かなかめ)村(現:[[上山市]]金瓶)の守谷伝右衛門熊次郎といくの間に三男として生まれた。 |
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守谷家には、茂吉が尋常高等小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、[[画家]]になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、東京・[[浅草]]で医院を開業するも跡継ぎの無かった同郷の精神科医、[[斎藤紀一]]の家に養子候補として厄介になることとなった。上京したのは満14歳の時で、途中の[[仙台市|仙台]]の旅館では菓子、[[最中|もなか]]を生まれて初めて食べ、﹁こんなうまいものがあるのか﹂と思い、夜に到着した東京・[[上野駅]]では、﹁こんなに明るい夜があるものだろうか﹂と驚いたという<ref>[http://www.tsuboi-clinic.org/essay.shtml 斎藤茂太 ﹁赤いレンガ﹂﹃医学芸術﹄ 昭和57年10月号 斎藤茂吉生誕百年] 坪井医院︵千代田区神田和泉町1︶のウェブサイトへの転載、平成23年11月3日閲覧</ref>。1905年斎藤家に婿養子として入籍。当時、妻となる輝子は |
守谷家には、茂吉が尋常高等小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、[[画家]]になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、東京・[[浅草]]で医院を開業するも跡継ぎの無かった同郷の精神科医、[[斎藤紀一]]の家に養子候補として厄介になることとなった。上京したのは満14歳の時で、途中の[[仙台市|仙台]]の旅館では菓子、[[最中|もなか]]を生まれて初めて食べ、﹁こんなうまいものがあるのか﹂と思い、夜に到着した東京・[[上野駅]]では、﹁こんなに明るい夜があるものだろうか﹂と驚いたという<ref>[http://www.tsuboi-clinic.org/essay.shtml 斎藤茂太 ﹁赤いレンガ﹂﹃医学芸術﹄ 昭和57年10月号 斎藤茂吉生誕百年] 坪井医院︵千代田区神田和泉町1︶のウェブサイトへの転載、平成23年11月3日閲覧</ref>。1905年、23歳で斎藤家に婿養子として入籍。当時、妻となる輝子は10歳であった。
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医師となった後、31歳のときに紀一の次女・輝子と結婚して斎藤家の[[婿養子]]となった。しかしながら東京のお嬢さん育ちであった輝子は派手好きで活発な女性で、律儀な茂吉とは価値観や性格があわず、輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。
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医師となった後、31歳のときに紀一の次女・輝子と結婚して斎藤家の[[婿養子]]となった。しかしながら東京のお嬢さん育ちであった輝子は派手好きで活発な女性で、律儀な茂吉とは価値観や性格があわず、輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。
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翌[[1934年]]︵昭和9年︶9月、傷心の茂吉は[[正岡子規]]三十三回忌の歌会で[[松山市|松山]]出身の[[永井ふさ子]]︵1910年生~1993年没︶と出会う。ふさ子は前年にアララギに入会したばかりの美貌の未婚女性であった。茂吉はふさ子の才能を愛で、ふさ子も茂吉に尊崇の念を抱き、程なく二人は師匠と弟子の間柄を越えて深い仲になった。合作の歌が遺っている。﹁︵茂吉︶光放つ神に守られもろともに︵ふさ子︶あはれひとつの息を息づく﹂<ref name=sarai>[https://web.archive.org/web/20191014083855/https://serai.jp/hobby/297706 ﹁あはれひとつの息を息づく﹂︵永井ふさ子︶︻漱石と明治人のことば356︼サライjp]</ref>。さらに茂吉は短歌ばかりでなく、青年のように赤裸々で率直な恋文を贈っている。﹁ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。﹂﹁銀座などでどんなひとにあひましても体に変化は起こらないのに、お手紙の一行でも読んでゐるうちに体に変化が起こつてまゐります。﹂<ref name="tamai">{{Cite journal|和書 |author=玉井崇夫 |title=茂吉の観音さま-歌人 永井ふさ子 |journal=文芸研究 |issn=03895882 |publisher=明治大学文芸研究会 |year=2005 |issue=96 |pages=119-126 |naid=120001439682 |url=https://hdl.handle.net/10291/3582}}</ref>
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翌[[1934年]]︵昭和9年︶9月、傷心の茂吉は[[正岡子規]]三十三回忌の歌会で[[松山市|松山]]出身の[[永井ふさ子]]︵1910年生~1993年没︶と出会う。ふさ子は前年にアララギに入会したばかりの美貌の未婚女性であった。茂吉はふさ子の才能を愛で、ふさ子も茂吉に尊崇の念を抱き、程なく二人は師匠と弟子の間柄を越えて深い仲になった。合作の歌が遺っている。﹁︵茂吉︶光放つ神に守られもろともに︵ふさ子︶あはれひとつの息を息づく﹂<ref name=sarai>[https://web.archive.org/web/20191014083855/https://serai.jp/hobby/297706 ﹁あはれひとつの息を息づく﹂︵永井ふさ子︶︻漱石と明治人のことば356︼サライjp]</ref>。さらに茂吉は短歌ばかりでなく、青年のように赤裸々で率直な恋文を贈っている。﹁ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。﹂﹁銀座などでどんなひとにあひましても体に変化は起こらないのに、お手紙の一行でも読んでゐるうちに体に変化が起こつてまゐります。﹂<ref name="tamai">{{Cite journal|和書 |author=玉井崇夫 |title=茂吉の観音さま-歌人 永井ふさ子 |journal=文芸研究 |issn=03895882 |publisher=明治大学文芸研究会 |year=2005 |issue=96 |pages=119-126 |naid=120001439682 |url=https://hdl.handle.net/10291/3582}}</ref>
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茂吉とふさ子の逢瀬は誰に知られる事も無く続けられていたが、三年後、ふさ子は[[岡山県|岡山]]の医師との縁談話を受け茂吉への想いを断とうとした。しかし翌年[[婚約]]を破棄し、その後生涯独身を貫いた<ref>[https://web.archive.org/web/20191014070323/https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2017/02/25/20601.html 永遠の少年!?近代を代表する歌人・斎藤茂吉、その妻と美しき愛人 日本気象協会]</ref>。茂吉ほどの人に愛された以上、他の人の愛を受け入れることはできない、というのがふさ子の信念であった<ref name="ehime">{{Cite web |
茂吉とふさ子の逢瀬は誰に知られる事も無く続けられていたが、三年後、ふさ子は[[岡山県|岡山]]の医師との縁談話を受け茂吉への想いを断とうとした。しかし翌年[[婚約]]を破棄し、その後生涯独身を貫いた<ref>[https://web.archive.org/web/20191014070323/https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2017/02/25/20601.html 永遠の少年!?近代を代表する歌人・斎藤茂吉、その妻と美しき愛人 日本気象協会]</ref>。茂吉ほどの人に愛された以上、他の人の愛を受け入れることはできない、というのがふさ子の信念であった<ref name="ehime">{{Cite web|和書|url=http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2006/0612.htm |title=斎藤茂吉と永井ふさ子の愛 ~四国なるをとめ恋しも~ |publisher=愛媛CATV |accessdate=2019-10-14}}</ref>。
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輝子とは[[太平洋戦争]]中に茂吉の故郷・[[山形県|山形]]に[[疎開]]することになったのを機に[[1945年]]︵昭和20年︶から同居を再開した。茂吉はふさ子と会うことも文をやり取りすることも無くなり、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。ふさ子が茂吉の死を知ったのはテレビの報道で、ということである。茂吉はふさ子に、自分からの手紙は読み終えたら直ちに焼却するよう念を押していたが、ふさ子が焼いたのはごく一部で、120通以上の手紙を大切に手元に置いていた。﹁先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました﹂<ref name="ehime"/>。そして茂吉の十周忌を機に、雑誌上で公開に踏み切った。この事は茂吉の遺族をはじめ世間にも非常な驚きを持って迎えられた<ref name="sarai"/>。晩年の輝子は、80歳を超えても世界中を旅行し、[[エベレスト]]登山にまで挑むような活発な老後を送った。ふさ子は晩年、﹁茂吉から受けた愛のよろこびは一瞬のように短かったのに反して、その後の耐え難かった苦悩を思うと、よくぞ生きのびてきたと思う﹂と語っていた<ref name="tamai"/>。
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輝子とは[[太平洋戦争]]中に茂吉の故郷・[[山形県|山形]]に[[疎開]]することになったのを機に[[1945年]]︵昭和20年︶から同居を再開した。茂吉はふさ子と会うことも文をやり取りすることも無くなり、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。ふさ子が茂吉の死を知ったのはテレビの報道で、ということである。茂吉はふさ子に、自分からの手紙は読み終えたら直ちに焼却するよう念を押していたが、ふさ子が焼いたのはごく一部で、120通以上の手紙を大切に手元に置いていた。﹁先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました﹂<ref name="ehime"/>。そして茂吉の十周忌を機に、雑誌上で公開に踏み切った。この事は茂吉の遺族をはじめ世間にも非常な驚きを持って迎えられた<ref name="sarai"/>。晩年の輝子は、80歳を超えても世界中を旅行し、[[エベレスト]]登山にまで挑むような活発な老後を送った。ふさ子は晩年、﹁茂吉から受けた愛のよろこびは一瞬のように短かったのに反して、その後の耐え難かった苦悩を思うと、よくぞ生きのびてきたと思う﹂と語っていた<ref name="tamai"/>。
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== 性格 == |
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{{独自研究|section=1|date=2013-03|ソートキー=人1953年没}} |
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* かなりの食いしん坊であった。[[鰻]]が大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の[[缶詰]]を食べていた<ref>齋藤茂吉全集第三十一巻 p.540およびp.681︵岩波書店︶</ref>。[[味噌汁]]の具にも口うるさく注文し、家人から[[ネギ]]もあるので入れるかと聞かれた時は﹁うーむ。﹂としばらく熟考するほど拘った。
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* かなりの食いしん坊であった。[[鰻]]が大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の[[缶詰]]を食べていた<ref>齋藤茂吉全集第三十一巻 p.540およびp.681︵岩波書店︶</ref>。[[味噌汁]]の具にも口うるさく注文し、家人から[[ネギ]]もあるので入れるかと聞かれた時は﹁うーむ。﹂としばらく熟考するほど拘った。終戦直後、疎開先で講演を頼まれお礼に鰻をご馳走すると聞いて、元来講演嫌いなのに快諾し、予定時間を超過して話し続けた。
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* 非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった<ref>北杜夫﹃どくどるマンボウ青春記﹄</ref>。茂吉が風邪で寝ていた時、是非ともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て﹁俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。﹂と怒鳴りつけた。あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産の[[カステラ]]を食べた茂吉は﹁あんまり叱るんじゃなかったな。﹂と反省したという。
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* 非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった<ref>北杜夫﹃どくどるマンボウ青春記﹄</ref>。茂吉が風邪で寝ていた時、是非ともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て﹁俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。﹂と怒鳴りつけた。あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産の[[カステラ]]を食べた茂吉は﹁あんまり叱るんじゃなかったな。﹂と反省したという。
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* 癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起こして紙を丸めて捨てたこともあった。 |
* 癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起こして紙を丸めて捨てたこともあった。 |
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* [http://www.mokichi.or.jp/ 斎藤茂吉記念館] |
* [http://www.mokichi.or.jp/ 斎藤茂吉記念館] |
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* {{青空文庫著作者|1059}} |
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* [https://archive.md/Y5AL 今昔秀歌百撰] [https://web.archive.org/web/20120519161740/http://researchmap.jp/jo7eehhck-1787586/ 78齋藤茂吉][https://archive.is/yOfgH] |
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* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/bunkasyou/index.html 齋藤茂吉文化賞] 山形県ホームページ |
* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/bunkasyou/index.html 齋藤茂吉文化賞] 山形県ホームページ |
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* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/mokititannkatop/index.html 齋藤茂吉短歌文学賞] 山形県ホームページ |
* [https://www.pref.yamagata.jp/020074/bunkyo/bunka/shinko/mokititannkatop/index.html 齋藤茂吉短歌文学賞] 山形県ホームページ |
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2024年3月31日 (日) 07:30時点における最新版
1952年頃 | |
誕生 |
1882年(明治15年)5月14日 山形県南村山郡金瓶村 (現:山形県上山市) |
死没 |
1953年2月25日(70歳没) 東京都新宿区大京町 |
墓地 | 青山霊園 |
職業 | 歌人、評論家、随想家、精神科医 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 医学博士 |
最終学歴 | 東京帝国大学医科大学卒業 |
活動期間 | 1908年 - 1953年 |
ジャンル |
短歌 随筆 |
文学活動 |
アララギ派 実相観入 |
代表作 | 『赤光』(1913年) |
主な受賞歴 |
学士院賞『柿本人麿』(1940年) 読売文学賞詩歌賞『ともしび』(1949年) 文化勲章(1951年) 文化功労者(1952年) |
子供 |
斎藤茂太(長男) 北杜夫(次男) |
親族 |
斎藤紀一 (養父) 斎藤輝子(妻) 斎藤由香 (孫) |
ウィキポータル 文学 |
概要[編集]
1882年︵明治15年︶、山形県南村山郡金瓶︵かなかめ︶村︵現‥上山市金瓶︶の守谷伝右衛門熊次郎といくの間に三男として生まれた。 守谷家には、茂吉が尋常高等小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、東京・浅草で医院を開業するも跡継ぎの無かった同郷の精神科医、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になることとなった。上京したのは満14歳の時で、途中の仙台の旅館では菓子、もなかを生まれて初めて食べ、﹁こんなうまいものがあるのか﹂と思い、夜に到着した東京・上野駅では、﹁こんなに明るい夜があるものだろうか﹂と驚いたという[1]。1905年、23歳で斎藤家に婿養子として入籍。当時、妻となる輝子は10歳であった。 医師となった後、31歳のときに紀一の次女・輝子と結婚して斎藤家の婿養子となった。しかしながら東京のお嬢さん育ちであった輝子は派手好きで活発な女性で、律儀な茂吉とは価値観や性格があわず、輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。 守谷家は隣接する時宗︵のち浄土宗︶宝泉寺の檀家であり、茂吉も40世住職・佐原窿応の薫陶を受けた。第一歌集﹃赤光﹄の題名は﹁阿弥陀経﹂に因んでいる。また時宗大本山︵のち浄土宗本山︶蓮華寺49世貫主となった晩年の窿応を訪ねている。養子に入った斎藤家は、皮肉にも、蓮華寺の一向派を抑圧する側であった遊行派の檀林日輪寺の檀家であった。茂吉の分骨墓が宝泉寺境内に遺されている。生前自ら作っていた戒名は、一向派の法式になっている。創作活動[編集]
中学時代、佐佐木信綱の﹃歌の栞﹄を読んで短歌の世界に入り、友人たちの勧めで創作を開始する。高校時代に正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りした。 精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学や青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。また、文才に優れ、柿本人麻呂、源実朝らの研究書や、﹃ドナウ源流行﹄﹃念珠集﹄﹃童馬山房夜話﹄などのすぐれた随筆も残しており、その才能は宇野浩二、芥川龍之介に高く評価された。芥川が一番小説を書かせたいのは誰かと聞かれた際には、即座に茂吉の名を出したという。1923年、ミュンヘン留学中には長年憧れの対象であったエミール・クレペリンの臨床講義を聴きに行った際に握手を求めたところ、他の東南アジアの留学生とはにこやかに握手をしたにもかかわらず、握手を拒否され︵西丸四方は、大戦での敵国であった日本への遺恨が取らせた反応と推理している[2]︶、その無念の思いを歌と随筆に残した[3]。 太平洋戦争中の創作活動は積極的に戦争協力していた。 生涯に全17冊の歌集を発表し、全17,907首の歌を詠んだ。ただし、あくまでも精神科医を本来の生業とする姿勢は崩さず、﹁歌は業余のすさび﹂と称していた。しかし、息子の北杜夫は﹁心の九割は歌に、文学に打ち込んでいたと思う。﹂とし、茂吉の性格上、臨床医は合わず口説療法を主とする診察は苦手であったと評している。年譜[編集]
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
私生活[編集]
性格[編集]
逸話[編集]
代表歌[編集]
●﹁赤光﹂ ●はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に︵1905年︵明治38年︶︶ ●蚕の部屋に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし︵1906年︵明治39年︶︶ ●月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも︵1907年︵明治40年︶︶ ●高ひかる日の母を恋ひ地の廻り廻り極まりて天新たなり︵1908年︵明治41年︶︶ ●萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ︵1909年︵明治42年︶︶ ●墓はらのとほき森よりほろほろと上るけむりに行かむとおもふ︵1910年︵明治43年︶︶ ●生きてゐる汝がすがたのありありと何に今頃見えきたるかや︵1911年︵明治44年︶︶ ●けだものは食もの恋ひて啼き居たり何といふやさしさぞこれは︵1912年︵大正元年︶︶ ●啼くこゑは悲しけれども夕鳥は木に眠るなりわれは寝なくに︵1913年︵大正2年︶︶ ●みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる ●死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる ●のど赤き玄鳥︵つばくらめ︶ふたつ屋梁︵はり︶にゐて垂乳根の母は死にたまふなり ●どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも ●めんどりら砂浴びゐたれひつそりと剃刀研人︵かみそりとぎ︶は過ぎ行きにけり ●﹁あらたま﹂ ●あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり ●夕されば大根の葉に降るしぐれいたく寂しく降りにけるかも︵1914年︵大正3年︶︶ ●朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山︵1917年︵大正6年︶︶ ●﹁つゆじも﹂ ●あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして ●﹁遠遊﹂ ●Praterにひとり来たりて奇術師と蚤戦争と泣く小劇と ●﹁遍歴﹂ ●体ぢゆうが空︵から︶になりしごと楽にして途中靴墨とマッチとを買ふ ●﹁ともしび﹂ ●家出てわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり ●﹁たかはら﹂ ●はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方くひぬ︵1929年︵昭和4年︶︶ ●電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾 ●﹁連山﹂ ●機関銃の音をはじめて聞きたりし東北兵をわれは思ほゆ︵1930年︵昭和5年︶︶ ●﹁石泉﹂ ●おほつぴらに軍服を着て侵入し来るものを何と思はねばならぬか︵1932年︵昭和7年︶︶ ●﹁白桃﹂ ●新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり︵1934年︵昭和9年︶︶ ●ヒツトラのこゑ聞きしとき何か悲し前行したりし樂も悲しも ●陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ ●﹁暁紅﹂ ●ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり︵1935年︵昭和10年︶︶ ●﹁寒雲﹂ ●歓喜天の前に行きつつ唇をのぞきなどしてしづかに帰る︵1937年︵昭和12年︶︶ ●﹁のぼり路﹂ ●交尾期は大切にしてもろもろの馬ももろ人も一心となる︵1939年︵昭和14年︶︶ ●﹁霜﹂ ●肉体に自浄作用のあることを吾聞きしより三十三年経たり︵1941年︵昭和16年︶︶ ●楢の花垂りて咲けるが幽かなる心をわれに与へてやまず︵1942年︵昭和17年︶︶ ●﹁小園﹂ ●どしや降りの午後になりつつものをいふことさへもなく木瓜の実煮たり︵1943年︵昭和18年︶︶ ●鈍痛のごとき内在を感じたるけふの日頃をいかに遣らはむ︵1944年︵昭和19年︶︶ ●この雪の中にこもれる村々にたたかひの世のうづくがごとし︵1945年︵昭和20年︶︶ ●このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね︵1945年︵昭和20年︶︶ ●沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ︵今昔秀歌百撰78︶ ●﹁白き山﹂ ●水すまし流にむかひさかのぼる汝がいきほひよ微かなれども︵1946年︵昭和21年︶︶ ●最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも︵1946年︵昭和21年︶︶ ●勝ちたりといふ放送に興奮し眠られざりし吾にあらずきや︵1947年︵昭和22年︶︶ ●﹁つきかげ﹂ ●たかむらの中ににほへる一木あり柿なるやといへば﹁応﹂とこそいへ︵1948年︵昭和23年︶︶ ●時としてベルリン郊外のワン・ゼエにも心の及ぶ老人︵おいびと︶われは︵1949年︵昭和24年︶︶ ●円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ︵1950年︵昭和25年︶︶ ●おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震︵なゐ︶ふるふころ︵1951年︵昭和26年︶︶ ●梅の花うすくれなゐにひろがりしその中心︵なかど︶にてもの栄︵は︶ゆるらし︵1952年︵昭和27年︶︶著書[編集]
全集[編集]
●﹃斎藤茂吉全集﹄︵全56巻︶、岩波書店、昭和26-32年 ●﹃斎藤茂吉全集﹄︵新版・全36巻︶、岩波書店、1973-76年歌集[編集]
以下は歌の制作年順に配列したもの。上梓年とは順序が違うことに注意。 ●歌集名 制作年︵発行所、上梓年︶ ●﹃赤光﹄明治38 - 大正2︵東雲堂書店、1913年︵大正2年︶10月︶ ●﹃あらたま﹄ 大正2 - 6︵春陽堂、1921年︵大正10年︶1月︶ ●﹃朝の蛍﹄?︵改造社、1925年︵大正14年︶4月︶ 自選歌集 ●﹃つゆじも﹄ 大正6 - 11︵岩波書店、1946年︵昭和21年︶8月︶ ●﹃遠遊﹄ 大正11 - 12︵岩波書店、1947年︵昭和22年︶8月︶ ●﹃遍歴﹄ 大正12 - 14︵岩波書店、1948年︵昭和23年︶4月︶ ●﹃ともしび﹄ 大正14 - 昭和3︵岩波書店、1950年︵昭和25年︶1月︶ ●﹃たかはら﹄ 昭和4 - 5︵岩波書店、1950年︵昭和25年︶6月︶ ●﹃連山﹄ 昭和5︵岩波書店、1950年︵昭和25年︶11月︶ ●﹃石泉﹄ 昭和6 - 7︵岩波書店、1951年︵昭和26年︶6月︶ ●﹃白桃﹄ 昭和8 - 9︵岩波書店、1942年︵昭和17年︶2月︶ ●﹃暁紅﹄ 昭和10 - 11︵岩波書店、1940年︵昭和15年︶6月︶ ●﹃寒雲﹄ 昭和12 - 14︵古今書院、1940年︵昭和15年︶3月︶ ●﹃のぼり路﹄ 昭和14 - 15︵岩波書店、1943年︵昭和18年︶11月︶ ●﹃霜﹄ 昭和16 - 17︵岩波書店、1951年︵昭和26年︶12月︶ ●﹃小園﹄ 昭和18 - 21︵岩波書店、1949年︵昭和24年︶4月︶ ●﹃白き山﹄ 昭和21 - 22︵岩波書店、1949年︵昭和24年︶8月︶ ●﹃つきかげ﹄ 昭和23 - 27︵岩波書店、1954年︵昭和29年︶2月︶ 遺作歌論・随筆[編集]
●﹃短歌私鈔﹄︵白日社、1916年︵大正5年︶4月︶ ●﹃続短歌私鈔﹄︵岩波書店、1917年︵大正6年︶4月︶ ●﹃童馬漫語﹄︵春陽堂、1919年︵大正8年︶8月︶ ●﹃金塊集私抄﹄︵春陽堂、1926年︵大正15年︶4月︶ ●﹃短歌写生の説﹄︵鉄塔書院、1929年︵昭和4年︶4月︶ ●﹃念珠集﹄︵鉄塔書院、1930年︵昭和5年︶8月︶ ●﹃新選秀歌百首﹄︵改造文庫、1933年︵昭和8年︶5月︶ ●﹃柿本人麿︵総論篇︶﹄︵岩波書店、1934年︵昭和9年︶11月︶ ●﹃柿本人麿︵鴨山考補注篇︶﹄︵岩波書店、1935年︵昭和10年︶10月︶ ●﹃柿本人麿︵評釈篇巻之 上︶﹄︵岩波書店、1937年︵昭和12年︶5月︶ ●﹃万葉秀歌︵上下︶﹄︵岩波新書、1938年︵昭和13年︶11月︶-※数度改版され重刷。 ●﹃柿本人麿︵評釈篇巻之 下︶﹄︵岩波書店、1939年︵昭和14年︶2月︶ ●﹃不断経﹄︵書物展望社、1940年︵昭和15年︶4月︶ ●﹃高千穂峰﹄︵改造社、1940年︵昭和15年︶6月︶ ●﹃柿本人麿︵雑纂篇︶﹄︵岩波書店、1940年︵昭和15年︶12月︶ ●﹃伊藤左千夫﹄︵中央公論社、1942年︵昭和17年︶8月︶ ●﹃源実朝﹄︵岩波書店、1943年︵昭和18年︶6月︶ ●﹃小歌論﹄︵第一書房、1943年︵昭和18年︶11月︶ ●﹃童馬山房夜話第一﹄︵八雲書店、1944年︵昭和19年︶7月︶ ●﹃童馬山房夜話第二﹄︵八雲書店、1944年︵昭和19年︶9月︶ ●﹃文学直路﹄︵青磁社、1945年︵昭和20年︶4月︶ ●﹃短歌一家言﹄︵斎藤書店、1947年︵昭和22年︶1月︶ ●﹃作歌実語抄﹄︵要書房、1947年︵昭和22年︶4月︶ ●﹃万葉の歌境﹄︵青磁社、1947年︵昭和22年︶4月︶ ●﹃童牛漫語﹄︵斎藤書店、1947年︵昭和22年︶7月︶ ●﹃茂吉小文﹄︵朝日新聞社、1949年︵昭和24年︶2月︶ ●﹃島木赤彦﹄︵角川書店、1949年︵昭和24年︶3月︶ ●﹃幸田露伴﹄︵洗心書林、1949年︵昭和24年︶7月︶ ●﹃近世歌人評伝﹄︵要書房、1949年︵昭和24年︶9月︶ ●﹃明治大正短歌史﹄︵中央公論社、1950年︵昭和25年︶10月︶ ●﹃続明治大正短歌史﹄︵中央公論社、1951年︵昭和26年︶3月︶ ●﹃歌壇夜叉語﹄︵中央公論社、1951年︵昭和26年︶4月︶文庫[編集]
●﹃斎藤茂吉歌集﹄ 岩波文庫、1978年︵昭和53年︶︵改版︶ ●﹃斎藤茂吉歌論集﹄ 柴生田稔編、岩波文庫、1978年︵昭和53年︶ ●﹃斎藤茂吉随筆集﹄ 阿川弘之・北杜夫編、岩波文庫、1986年︵昭和61年︶ ●﹃念珠集﹄ 講談社文芸文庫、2004年︵平成16年︶ ●﹃島木赤彦/斎藤茂吉﹄ 近代浪漫派文庫19‥新学社、2006年︵平成18年︶ ●﹃赤光﹄新潮文庫、2010年︵平成22年︶︵改版︶参考文献[編集]
●北杜夫 ﹃青年茂吉――﹁赤光﹂﹁あらたま﹂時代﹄ 岩波書店、のち岩波現代文庫 ISBN 4006020279 ●北杜夫 ﹃壮年茂吉――﹁つゆじも﹂〜﹁ともしび﹂時代﹄ 岩波現代文庫 ISBN 4006020287 ●北杜夫 ﹃茂吉彷徨――﹁たかはら﹂〜﹁小園﹂時代﹄ 岩波現代文庫 ISBN 4006020295 ●北杜夫 ﹃茂吉晩年――﹁白き山﹂﹁つきかげ﹂時代﹄ 岩波現代文庫 ISBN 4006020309 ●北杜夫 ﹃楡家の人びと﹄ 新潮社、のち新潮文庫 ●﹁アララギ 斎藤茂吉追悼号﹂︵1953年︵昭和28年︶10月号︶ ●﹃斎藤茂吉歌集﹄ 岩波文庫 ISBN 4003104420、山口茂吉・柴生田稔・佐藤佐太郎編 ●﹃斎藤茂吉歌論集﹄ 岩波文庫 ISBN 4003104439、柴生田稔編 ●中野重治 ﹃斎藤茂吉ノート﹄ 新版・ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08180-1 ●土屋文明編 ﹃斎藤茂吉短歌合評﹄ 明治書院︵上・下︶ 1985年︵昭和60年︶ ●佐藤佐太郎 ﹃斎藤茂吉秀歌﹄︵中央公論社︶ ●斎藤茂吉秀歌選︵寶文館︶、斎藤茂吉研究︵宝文館︶、斎藤茂吉言行︵角川書店︶ ●童馬山房隨聞︵岩波書店︶、茂吉解説︵彌生書房︶、茂吉秀歌︵岩波新書 上・下︶ ●岡井隆 ﹃斎藤茂吉と中野重治﹄ 砂子屋書房 1993年︵平成5年︶ ●塚本邦雄 ﹃茂吉秀歌﹄全5冊、各・文藝春秋、のち講談社学術文庫 ●﹁茂吉秀歌﹃赤光﹄百首﹂、﹁茂吉秀歌﹃あらたま﹄百首﹂、﹁茂吉秀歌﹃つゆじも﹄﹃遠遊﹄﹃遍歴﹄﹃ともしび﹄﹃たかはら﹄﹃連山﹄﹃石泉﹄百首﹂ ●﹁茂吉秀歌﹃白桃﹄﹃暁紅﹄﹃寒雲﹄﹃のぼり路﹄百首﹂、﹁茂吉秀歌﹃霜﹄﹃小園﹄﹃白き山﹄﹃つきかげ﹄百首﹂ ●秋葉四郎 ﹃新論 歌人茂吉﹄︵角川書店︶ ●﹃歌人茂吉 人間茂吉﹄︵NHK出版︶、﹃茂吉 幻の歌集﹃萬軍﹄﹄︵岩波書店︶ ●高橋良﹃斎藤茂吉からの系譜﹄文芸社、2021年︵令和3年︶伝記文献[編集]
●斎藤茂太 ﹃茂吉の体臭﹄ 岩波書店、1964年︵昭和39年︶、復刊1982年ほか ●岩波現代文庫︵改訂版︶、2000年︵平成12年︶ ●斎藤茂太・北杜夫﹃この父にして 素顔の斎藤茂吉﹄講談社文庫、1980年︵昭和55年︶ ●斎藤茂太 ﹃回想の父茂吉 母輝子﹄中央公論社、1993年︵平成5年︶/中公文庫、1997年︵平成9年︶ ●柴生田稔 ﹃斎藤茂吉伝﹄ 新潮社︵正・続︶、1979年︵昭和54年︶‐ 1981年︵昭和56年︶ ●品田悦一 ﹃斎藤茂吉 あかあかと一本の道とほりたり﹄ ミネルヴァ書房︿日本評伝選﹀、2010年︵平成22年︶ ●小泉博明 ﹃斎藤茂吉 悩める精神病医の眼差し﹄ ミネルヴァ書房︿人と文化の探究﹀、2016年︵平成28年︶関連項目[編集]
●斎藤茂吉文化賞 ●斎藤茂吉短歌文学賞 ●茂吉記念館前駅 ●歌会始 ●万葉学者 ●歌人一覧︵歌壇︶ ●出羽ヶ嶽文治郎 - 大正から昭和初期に活躍した大相撲力士。茂吉と同じ山形出身で斎藤紀一の養子の一人。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
外部リンク[編集]
- 斎藤茂吉記念館
- 斎藤茂吉:作家別作品リスト - 青空文庫
- 今昔秀歌百撰 78齋藤茂吉[1]
- 齋藤茂吉文化賞 山形県ホームページ
- 齋藤茂吉短歌文学賞 山形県ホームページ
- 斎藤茂吉 | 新潟市會津八一記念館