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「白村江の戦い」の版間の差分

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百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済[[義慈王]]は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた<ref>森,1998,p96</ref>。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の[[成忠]](浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している<ref>斉明6年7月乙卯</ref>。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる<ref name="mori97" />。このような百済の情勢について唐は既に643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『[[冊府元亀]]』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた<ref name="mori97" />。

百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済[[義慈王]]は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた<ref>森,1998,p96</ref>。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の[[成忠]](浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している<ref>斉明6年7月乙卯</ref>。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる<ref name="mori97" />。このような百済の情勢について唐は既に643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『[[冊府元亀]]』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた<ref name="mori97" />。




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=== 倭国の情勢 ===

=== 倭国の情勢 ===

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;新羅征討進言

;新羅征討進言

[[白雉]]2年([[651年]])に[[左大臣]][[巨勢徳陀子]]が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の[[天智天皇]])に新羅征討を進言したが、採用されなかった。

[[白雉]]2年([[651年]])に[[左大臣]][[巨勢徳陀子]]が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。



;遣唐使

;遣唐使

白雉4年([[653年]])・白雉5年([[654年]])と2年連続で[[遣唐使]]が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。

白雉4年([[653年]])・白雉5年([[654年]])と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。



;蝦夷・粛慎討伐

;蝦夷・粛慎討伐

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;黄山の戦い

;黄山の戦い


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=== 百済復興運動 ===

=== 百済復興運動 ===


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しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信・黒歯常之・[[道琛|僧道琛]]らの任存城や、達率[[余自信]]の[[周留城]]などが抵抗拠点であった<ref name="mori105" />。

しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信・黒歯常之・[[道琛|僧道琛]]らの任存城や、達率[[余自信]]の[[周留城]]などが抵抗拠点であった<ref name="mori105" />。



=== 倭国による百済救援 ===

=== 倭国による百済救援 ===


[[|]]

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中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに唐・新羅との対立を深めた。

中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに唐・新羅との対立を深めた。




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[[661]]{{|date=201595 () 01:18 (UTC)|}}[[]][[]]






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104[[663]]828

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この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんなものであった(『[[日本書紀]]』)。

この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて杜撰なものであった(『[[日本書紀]]』)。



=== 陸上戦 ===

=== 陸上戦 ===

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白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および[[亡命]]を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。

白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および[[亡命]]を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。



援軍が近くと豊璋は城兵らを見捨てて拠点であった[[周留城]]から脱出し、8月13日に大和朝廷軍に合流したが、敗色が濃くなるとここも脱出し、数人の従者と共に[[高句麗]]に亡命した。

援軍が近くと豊璋は城兵らを見捨てて拠点であった[[周留城]]から脱出し、8月13日に大和朝廷軍に合流した。しかし敗色が濃くなるとここも脱出し、数人の従者と共に[[高句麗]]に亡命した。



== 戦後の朝鮮半島と倭国 ==

== 戦後の朝鮮半島と倭国 ==

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==== 新羅による半島統一 ====

==== 新羅による半島統一 ====


[[]]使669670西[[]][[]]使[[]]675

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=== 倭国 ===

=== 倭国 ===

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==== 戦後交渉および唐との友好関係の樹立 ====

==== 戦後交渉および唐との友好関係の樹立 ====

[[665年]]に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の[[劉徳高]]が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は[[守大石]]らの送唐客使(実質[[遣唐使]])を派遣した。

[[665年]]に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の[[劉徳高]]が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は[[守大石]]らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。



[[667年]]には、唐の百済鎮将[[劉仁願]]が、熊津[[都督府]](唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた<ref>『[[日本書紀]]』「十一月丁巳朔乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」</ref>。

[[667年]]には、唐の百済鎮将[[劉仁願]]が、熊津[[都督府]](唐が百済を占領後に置いた5都督府の1つ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた<ref>『[[日本書紀]]』「十一月丁巳朔乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」</ref>。



[[天智天皇]]は唐との関係の正常化を図り、669年に[[河内鯨]]らを正式な遣唐使として派遣した。


[[]]669[[]]使670使<ref>[[]]</ref>[[|]][[|]]使使調

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==== 捕虜の帰還 ====

==== 捕虜の帰還 ====

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==== 防衛体制の整備 ====

==== 防衛体制の整備 ====


<ref>-- 2022 ISBN 978-4-8406-2257-8 P207-213.</ref>[[]]<ref>(2017) P157.</ref>

白村江における倭国軍の実態は国造軍による連合軍であったが、過去にも何度も朝鮮半島への出兵も経験していることから、必ずしも動員や兵站の面で過小評価は出来ないが、指揮系統の未確立・慣れない組織戦などで唐・新羅連合軍に圧倒された<ref>五十嵐喜善「白村江敗戦と軍事力の組織化-軍防令の理念と実像-」吉村武彦 編『律令制国家の理念と実像』八木書店、2022年 ISBN 978-4-8406-2257-8 P207-213.</ref>。倉本一宏は仮説としながらも「とんでもない可能性」として、天智天皇は旧態依然の豪族の排除と軍制の解体を目論んで、勝てないのを承知の上で開戦に踏み切ったとする可能性もあるとする<ref>倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書、2017年) P157.</ref>。




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==== 中央集権体制への移行と国号の変更 ====

==== 中央集権体制への移行と国号の変更 ====


671[[]]<ref>[[]]        </ref>[[]]672[[]]'''[[]]'''[[]]686

671年に天智天皇が急死<ref>『[[扶桑略記]]』では、異説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」と紹介し、山中での狩の途中に行方不明となり暗殺されたことを示唆している</ref>すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子([[弘文天皇]])と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の[[内戦]]である'''[[壬申の乱]]'''が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。




使使[[使]]14686

使使[[使]]14686



[[]]701[[]][[]][[8|702]][[]][[使]][[]]

天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年の[[大宝律令]]制定により倭国から[[日本]]へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。「日本」の枠組みがほぼ完成した[[8世紀|702年]]以後は、[[文武天皇]]によって遣唐使が再開され、[[粟田真人]]を派遣して唐との国交を回復している。



==== 百済遺民の四散 ====

==== 百済遺民の四散 ====


2024年6月11日 (火) 04:21時点における最新版

白村江の戦い

戦争:白村江の戦い
年月日
旧暦天智天皇2年8月27日 - 同年8月28日
ユリウス暦663年10月4日 - 10月5日
場所:朝鮮半島、白村江(現在の錦江近郊)
結果新羅連合軍の大勝[要出典]朝鮮半島におけるの勢力圏の完全消滅[要出典]
交戦勢力

新羅

百済遺民勢力
耽羅
指導者・指揮官
劉仁軌
文武王
上毛野稚子
阿倍比羅夫
扶余豊璋
戦力
唐軍:13,000[要出典]
唐船舶:170余[1]
新羅軍:数千[要出典]
日本軍:総勢27,000[2]
日本船舶:800余[要出典]
百済軍:数千[要出典]
損害
不明 船舶:400[3]
兵:10,000
馬:1,000
[要出典]
(中国)白江口の戦い
各種表記
繁体字 白江口之戰
簡体字 白江口之战
拼音 Báijiāngkǒu zhī zhàn
注音符号 ㄅㄞˊ ㄐㄧㄤ ㄎㄡˇ ㄓ ㄓㄢˋ
英文 Battle of Baijiangkou
テンプレートを表示
(朝鮮)白江の戦い
各種表記
ハングル 백강 전투
漢字 白江戰鬪
発音 ペッカンチョントゥ
日本語読み: はっこうせんとう
2000年式
MR式
英語表記:
Baekgang jeontu
Paekkang chŏnt'u
Battle of Baekgang
テンプレートを表示

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい[4][5]、はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本百済遺民の連合軍と新羅連合軍との間の戦争のことである。

名称

[編集]

[6]20[6][6]

[7][7][7]

[7]

背景

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朝鮮半島と中国大陸の情勢

[編集]

67

562

475538[8]

58146186283644661667

唐による新羅冊封

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627632647654661648[9]649

百済の情勢

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6426546552殿退[10]6563退[11]6574[12]6439[12]

6594使[12]

倭国の情勢

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2651

使

465356542使



6584465936603

百済の役

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660663[13]

百済滅亡

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660313[14][15][15]156[][16]

西[15][15][15]



50003[]  53[]79[15]710[17][18]

[19][19]

712[19]713718[19]

66068 [14]退[12][7]

百済復興運動

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[20]82826[21]93[21]退4520[21][21]

1091820[22]10301500[22]

西[22]

倭国による百済救援

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661[]


軍事力

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唐・新羅連合軍

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660135[16][7]



7,000[]170[23]




倭国軍

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1170[]

27[]

1[][24]

戦いの経過

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66151701[]

6623

6632

7,000[]170沿


海上戦

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104663828

退

陸上戦

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1,000[]4008



813

戦後の朝鮮半島と倭国

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朝鮮半島

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高句麗の滅亡

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6663668[25]

渤海の建国

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698使沿

新羅による半島統一

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使669670西使675

倭国

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総説

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[26]

戦後交渉および唐との友好関係の樹立

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665使3使使使

66751[27]

669使670使[28]使使調

捕虜の帰還

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67111使使()24[29]

68413使宿

6904[25]30[30]

707[31]696[32]

防衛体制の整備

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[33][34]

沿西沿667()

中央集権体制への移行と国号の変更

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671[35]672686

使使使14686

701702使

百済遺民の四散

[編集]

106701



[36]

脚注

[編集]


(一)^ 28663

(二)^  ()[1]

(三)^ 

(四)^   18. . (1967) 

(五)^  . . (2004) 

(六)^ abc11974215-242CRID 1574231876989890816ISSN 03850439 

(七)^ abcdef[2]7,

(八)^ 

(九)^ 

(十)^ ,1998,p96

(11)^ 67

(12)^ abcd,1998,p97

(13)^ ,1998,p92

(14)^ ab

(15)^ abcdef,1998,p98-9

(16)^ ab6601351998,p146

(17)^ 

(18)^ 1998,p100

(19)^ abcd1998,p102

(20)^ 1998,p104

(21)^ abcd1998,p104

(22)^ abc1998,p105

(23)^ 28663

(24)^ .  . 2014822202153

(25)^ ab1998,p118

(26)^   .   (201768). 2018320

(27)^   

(28)^ 

(29)^ 10671

(30)^ 4690

(31)^ 1998,p11945

(32)^ 10696

(33)^ -- 2022 ISBN 978-4-8406-2257-8 P207-213.

(34)^ (2017) P157.

(35)^         

(36)^ 

参考文献

[編集]
  • 北山茂夫『萬葉集とその世紀』新潮社、1985年
  • 岡本顕實『防人』さわらび社
  • 岡本顕實『大宰府』さわらび社
  • 鈴木治『白村江』学生社、1986年
  • 『福岡県の歴史散歩』山川出版社、1984年
  • 森公章『「白村江」以後――国家危機と東アジア外交』(講談社選書メチエ、1998年)
  • 森弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
  • 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6
  • 李在碩「孝徳朝権力闘争の国際的契機」 所収:『律令国家史論集』塙書房、2010年、ISBN 978-4-8273-1231-7 P99-120
  • 中村修「天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ」 NHKブックス、2015年
  • 杉山二郎「藤原鎌足」思索社、1993年(梅原猛、田辺昭三との共著)

外部リンク

[編集]