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百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済[[義慈王]]は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた<ref>森,1998,p96</ref>。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の[[成忠]](浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している<ref>斉明6年7月乙卯</ref>。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる<ref name="mori97" />。このような百済の情勢について唐は既に643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『[[冊府元亀]]』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた<ref name="mori97" />。 |
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済[[義慈王]]は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた<ref>森,1998,p96</ref>。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の[[成忠]](浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している<ref>斉明6年7月乙卯</ref>。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる<ref name="mori97" />。このような百済の情勢について唐は既に643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『[[冊府元亀]]』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた<ref name="mori97" />。 |
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659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年﹁国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず﹂として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した<ref name="mori97" />。
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659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年﹁国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず﹂として倭国が送った[[遣唐使]]を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した<ref name="mori97" />。
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=== 倭国の情勢 === |
=== 倭国の情勢 === |
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;新羅征討進言 |
;新羅征討進言 |
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[[白雉]]2年([[651年]])に[[左大臣]][[巨勢徳陀子]]が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の |
[[白雉]]2年([[651年]])に[[左大臣]][[巨勢徳陀子]]が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。 |
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;遣唐使 |
;遣唐使 |
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白雉4年([[653年]])・白雉5年([[654年]])と2年連続で |
白雉4年([[653年]])・白雉5年([[654年]])と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。 |
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;蝦夷・粛慎討伐 |
;蝦夷・粛慎討伐 |
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;黄山の戦い |
;黄山の戦い |
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百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、将軍[[階伯]]の{{要出典範囲|date=2023年6月|決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた}}。新羅側は太子金法敏︵後の[[文武王]]︶・金欽純︵きん きんじゅん︶将軍・金品日︵きん ひんじつ︶将軍らが{{要出典範囲|date=2023年6月|兵5万を3つにわけて}}黄山を突破しようとしたが、百済軍に |
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、将軍[[階伯]]の{{要出典範囲|date=2023年6月|決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた}}。新羅側は太子金法敏︵後の[[文武王]]︶・金欽純︵きん きんじゅん︶将軍・金品日︵きん ひんじつ︶将軍らが{{要出典範囲|date=2023年6月|兵5万を3つにわけて}}黄山を突破しようとしたが、百済軍に阻まれた。7月9日の激戦[[黄山の戦い]]で階伯ら百済軍は新羅軍を阻み四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した<ref name="mori98" />。この黄山の戦いで新羅軍も多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れた。唐の[[蘇定方]]はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち、斬られそうになったが蘇定方の部下が取り成し罪を許された<ref>三国史記新羅本記五</ref><ref>森1998,p100</ref>。
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唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、[[熊津]]口の防衛線を破り王都に迫った<ref name="mori102" />。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した<ref name="mori102">森1998,p102</ref>。
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唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、[[熊津]]口の防衛線を破り王都に迫った<ref name="mori102" />。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した<ref name="mori102">森1998,p102</ref>。
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7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否<ref name="mori102" />。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し |
7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否<ref name="mori102" />。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏した。7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した<ref name="mori102" />。
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[[660年]]︵斉明天皇6年︶8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を[[羈縻]]支配の下に置いた。唐は[[劉仁願]]将軍に王都[[泗沘]]城を守備させ、王文度︵おう ぶんたく︶を熊津都督として派遣した<ref name="名前なし-1"/>︵[[熊津都督府]]︶。唐はまた戦勝記念碑である﹁大唐平百済国碑銘︵だいとうへいくだらこくひめい︶﹂を建て、そこでも戦前の百済の退廃について﹁外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり﹂と彫られた<ref name="mori97">森,1998,p97</ref>。大唐平百済国碑銘は、現在も[[扶餘郡]]の定林寺の五重石塔に残っている<ref name="kawaba" />。
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[[660年]]︵斉明天皇6年︶8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を[[羈縻]]支配の下に置いた。唐は[[劉仁願]]将軍に王都[[泗沘]]城を守備させ、王文度︵おう ぶんたく︶を熊津都督として派遣した<ref name="名前なし-1"/>︵[[熊津都督府]]︶。唐はまた戦勝記念碑である﹁大唐平百済国碑銘︵だいとうへいくだらこくひめい︶﹂を建て、そこでも戦前の百済の退廃について﹁外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり﹂と彫られた<ref name="mori97">森,1998,p97</ref>。大唐平百済国碑銘は、現在も[[扶餘郡]]の定林寺の五重石塔に残っている<ref name="kawaba" />。
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=== 百済復興運動 === |
=== 百済復興運動 === |
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唐の目 |
唐の目的は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去するためのものだった。唐軍の主力が高句麗に向かう<ref>森1998,p104</ref>と、百済遺民[[鬼室福信]]・[[黒歯常之]]らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模な反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存︵にんぞん、現在の忠南[[礼山郡]]大興面︶を防衛した<ref name="mori104">森1998,p104</ref>。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した<ref name="mori104" />。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4、5個の柵を作って駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して、20余城が百済復興運動に応じた<ref name="mori104" />。熊津都督王文度も着任後に急死している<ref name="mori104" />。
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唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できず |
唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できず、新羅軍が百済残党の掃討を行った。10月9日にニレ城を攻撃し18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した<ref name="mori105">森1998,p105</ref>。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した<ref name="mori105" />。
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しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信・黒歯常之・[[道琛|僧道琛]]らの任存城や、達率[[余自信]]の[[周留城]]などが抵抗拠点であった<ref name="mori105" />。 |
しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信・黒歯常之・[[道琛|僧道琛]]らの任存城や、達率[[余自信]]の[[周留城]]などが抵抗拠点であった<ref name="mori105" />。 |
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=== 倭国による百済救援 === |
=== 倭国による百済救援 === |
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百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵を |
百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵を挙げ、倭国に滞在していた百済王の太子[[扶余豊璋|豊璋]]を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
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中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに |
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに唐・新羅との対立を深めた。 |
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[[661年]]、斉明天皇は自ら九州へ出兵するも那の津にて急死した︵{{要追加記述範囲|date=2015年9月5日 (土) 01:18 (UTC)|暗殺説あり}}︶。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに[[称制]]し、[[朴市秦造田来津]] |
[[661年]]、斉明天皇は自ら九州へ出兵するも那の津にて急死した︵{{要追加記述範囲|date=2015年9月5日 (土) 01:18 (UTC)|暗殺説あり}}︶。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに[[称制]]し、造船の責任者の[[朴市秦造田来津]]を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
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だがこの時点で、百済陣営は全く統率が取れていなかった。豊璋は戦乱への自覚が足らず、黒歯常之ら将は当初から豊璋を侮る状態であった。道琛は鬼室福信によって殺害され、鬼室福信は豊璋によって殺害された。
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だがこの時点で、百済陣営は全く統率が取れていなかった。豊璋は戦乱への自覚が足らず、黒歯常之ら将は当初から豊璋を侮る状態であった。道琛は鬼室福信によって殺害され、鬼室福信は豊璋によって殺害された。
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倭国・百済連合軍は、福信殺害事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、[[663年]]8月28日、唐・新羅水軍に大敗した。
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倭国・百済連合軍は、福信殺害事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、[[663年]]8月28日、唐・新羅水軍に大敗した。
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この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて |
この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて杜撰なものであった(『[[日本書紀]]』)。 |
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=== 陸上戦 === |
=== 陸上戦 === |
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白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および[[亡命]]を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。 |
白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および[[亡命]]を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。 |
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援軍が近 |
援軍が近付くと、豊璋は城兵らを見捨てて拠点であった[[周留城]]から脱出し、8月13日に大和朝廷軍に合流した。しかし敗色が濃くなるとここも脱出し、数人の従者と共に[[高句麗]]に亡命した。 |
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== 戦後の朝鮮半島と倭国 == |
== 戦後の朝鮮半島と倭国 == |
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==== 新羅による半島統一 ==== |
==== 新羅による半島統一 ==== |
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戦後、唐は百済・高句麗の故地に[[羈縻州]]を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で[[吐蕃]]と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津[[都督府]]を襲撃し、唐の官吏と兵士を多数捕虜した。他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の[[清川江]]以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一︵現在の朝鮮半島の大部分︶がなされた。
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戦後、唐は百済・高句麗の故地に[[羈縻州]]を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で[[吐蕃]]と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津[[都督府]]を襲撃し、唐の官吏と兵士を多数捕虜にした。他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の[[清川江]]以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一︵現在の朝鮮半島の大部分︶がなされた。
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=== 倭国 === |
=== 倭国 === |
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==== 戦後交渉および唐との友好関係の樹立 ==== |
==== 戦後交渉および唐との友好関係の樹立 ==== |
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[[665年]]に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の[[劉徳高]]が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は[[守大石]]らの送唐客使(実質 |
[[665年]]に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の[[劉徳高]]が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は[[守大石]]らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。 |
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[[667年]]には、唐の百済鎮将[[劉仁願]]が、熊津[[都督府]](唐が百済を占領後に置いた5都督府の |
[[667年]]には、唐の百済鎮将[[劉仁願]]が、熊津[[都督府]](唐が百済を占領後に置いた5都督府の1つ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた<ref>『[[日本書紀]]』「十一月丁巳朔乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」</ref>。 |
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[[天智天皇]]は唐との関係の正常化を図り、669年に[[河内鯨]]らを正式な遣唐使として派遣した。 |
[[天智天皇]]は唐との関係の正常化を図り、669年に[[河内鯨]]らを正式な遣唐使として派遣した。670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている<ref>﹃[[三国史記]]﹄</ref>。後述するように[[天武天皇|天武期]]・[[持統天皇|持統期]]に一時的に中断したものの、遣唐使は長らく継続され唐からの使者も訪れ、その後の日本の外交は唐との友好関係を基調とした。
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670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている<ref>﹃[[三国史記]]﹄</ref>。後述するように[[天武天皇|天武期]]・[[持統天皇|持統期]]に一時的な中断を見たものの、遣唐使は長らく継続され、唐からの使者も訪れ、その後の日本の外交は唐との友好関係を基調とした。
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==== 捕虜の帰還 ==== |
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==== 防衛体制の整備 ==== |
==== 防衛体制の整備 ==== |
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白村江における倭国軍の実態は国造軍による連合軍であったが、過去にも何度も朝鮮半島への出兵も経験していることから、必ずしも動員や兵站の面で過小評価は出来ないが、指揮系統の未確立・慣れない組織戦などで唐・新羅連合軍に圧倒された<ref>五十嵐喜善﹁白村江敗戦と軍事力の組織化-軍防令の理念と実像-﹂吉村武彦 編﹃律令制国家の理念と実像﹄八木書店、2022年 ISBN 978-4-8406-2257-8 P207-213.</ref>。倉本一宏は仮説としながらも﹁とんでもない可能性﹂として、 |
白村江における倭国軍の実態は国造軍による連合軍であったが、過去にも何度も朝鮮半島への出兵も経験していることから、必ずしも動員や兵站の面で過小評価は出来ないが、指揮系統の未確立・慣れない組織戦などで唐・新羅連合軍に圧倒された<ref>五十嵐喜善「白村江敗戦と軍事力の組織化-軍防令の理念と実像-」吉村武彦 編『律令制国家の理念と実像』八木書店、2022年 ISBN 978-4-8406-2257-8 P207-213.</ref>。倉本一宏は仮説としながらも「とんでもない可能性」として、天智天皇は旧態依然の豪族の排除と軍制の解体を目論んで、勝てないのを承知の上で開戦に踏み切ったとする可能性もあるとする<ref>倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書、2017年) P157.</ref>。 |
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白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、[[対馬]]や北部九州の[[大宰府]]の[[水城]]︵みずき︶や瀬戸内海沿いの西日本各地︵[[長門国|長門]]、[[屋嶋城]]、岡山など︶に朝鮮式[[古代山城]]の防衛砦を築き、北部九州沿岸には[[防人]]︵さきもり︶を配備した。さらに、[[667年]]に天智天皇は都を[[難波宮|難波]]から内陸の[[近江宮#近江京と﹁大津京﹂|近江京]](大津宮)へ移し、ここに防衛体制は完成した。
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白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、[[対馬]]や北部九州の[[大宰府]]の[[水城]]︵みずき︶や瀬戸内海沿いの西日本各地︵[[長門国|長門]]、[[屋嶋城]]、岡山など︶に朝鮮式[[古代山城]]の防衛砦を築き、北部九州沿岸には[[防人]]︵さきもり︶を配備した。さらに、[[667年]]に天智天皇は都を[[難波宮|難波]]から内陸の[[近江宮#近江京と﹁大津京﹂|近江京]](大津宮)へ移し、ここに防衛体制は完成した。
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==== 中央集権体制への移行と国号の変更 ==== |
==== 中央集権体制への移行と国号の変更 ==== |
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671年に |
671年に天智天皇が急死<ref>『[[扶桑略記]]』では、異説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」と紹介し、山中での狩の途中に行方不明となり暗殺されたことを示唆している</ref>すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子([[弘文天皇]])と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の[[内戦]]である'''[[壬申の乱]]'''が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。 |
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皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めた。遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への[[遣新羅使]]も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没︵686年︶後は両国の関係が次第に悪化した。
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皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めた。遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への[[遣新羅使]]も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没︵686年︶後は両国の関係が次第に悪化した。
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天武天皇の死後もその専制的統治路線は |
天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年の[[大宝律令]]制定により倭国から[[日本]]へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。「日本」の枠組みがほぼ完成した[[8世紀|702年]]以後は、[[文武天皇]]によって遣唐使が再開され、[[粟田真人]]を派遣して唐との国交を回復している。 |
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==== 百済遺民の四散 ==== |
==== 百済遺民の四散 ==== |
2024年6月11日 (火) 04:21時点における最新版
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白村江の戦い | |
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戦争:白村江の戦い | |
年月日: (旧暦)天智天皇2年8月27日 - 同年8月28日 (ユリウス暦)663年10月4日 - 10月5日 | |
場所:朝鮮半島、白村江(現在の錦江近郊) | |
結果:唐・新羅連合軍の大勝[要出典]、朝鮮半島における倭の勢力圏の完全消滅[要出典] | |
交戦勢力 | |
唐 新羅 |
倭 百済遺民勢力 耽羅 |
指導者・指揮官 | |
劉仁軌 文武王 |
上毛野稚子 阿倍比羅夫 扶余豊璋 |
戦力 | |
唐軍:13,000[要出典] 唐船舶:170余[1] 新羅軍:数千[要出典] |
日本軍:総勢27,000[2] 日本船舶:800余[要出典] 百済軍:数千[要出典] |
損害 | |
不明 | 船舶:400[3] 兵:10,000 馬:1,000[要出典] |
(中国)白江口の戦い | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 白江口之戰 |
簡体字: | 白江口之战 |
拼音: | Báijiāngkǒu zhī zhàn |
注音符号: | ㄅㄞˊ ㄐㄧㄤ ㄎㄡˇ ㄓ ㄓㄢˋ |
英文: | Battle of Baijiangkou |
(朝鮮)白江の戦い | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 백강 전투 |
漢字: | 白江戰鬪 |
発音: | ペッカンチョントゥ |
日本語読み: | はっこうせんとう |
2000年式: MR式: 英語表記: |
Baekgang jeontu Paekkang chŏnt'u Battle of Baekgang |
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい[4][5]、はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。
名称
[編集]背景
[編集]朝鮮半島と中国大陸の情勢
[編集]唐による新羅冊封
[編集]百済の情勢
[編集]倭国の情勢
[編集]百済の役
[編集]百済滅亡
[編集]百済復興運動
[編集]倭国による百済救援
[編集]軍事力
[編集]唐・新羅連合軍
[編集]倭国軍
[編集]戦いの経過
[編集]海上戦
[編集]陸上戦
[編集]戦後の朝鮮半島と倭国
[編集]朝鮮半島
[編集]高句麗の滅亡
[編集]渤海の建国
[編集]新羅による半島統一
[編集]倭国
[編集]総説
[編集]戦後交渉および唐との友好関係の樹立
[編集]捕虜の帰還
[編集]防衛体制の整備
[編集]中央集権体制への移行と国号の変更
[編集]百済遺民の四散
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 北山茂夫『萬葉集とその世紀』新潮社、1985年
- 岡本顕實『防人』さわらび社
- 岡本顕實『大宰府』さわらび社
- 鈴木治『白村江』学生社、1986年
- 『福岡県の歴史散歩』山川出版社、1984年
- 森公章『「白村江」以後――国家危機と東アジア外交』(講談社選書メチエ、1998年)
- 森弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
- 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6
- 李在碩「孝徳朝権力闘争の国際的契機」 所収:『律令国家史論集』塙書房、2010年、ISBN 978-4-8273-1231-7 P99-120
- 中村修「天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ」 NHKブックス、2015年
- 杉山二郎「藤原鎌足」思索社、1993年(梅原猛、田辺昭三との共著)