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|氏名 = 西田 厚聰 |
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|ふりがな = にしだ あつとし |
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|画像 = Atsutoshi Nishida 20130124 1.jpg |
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|画像説明 = [[ダボス]]にて([[2013年]][[1月24日]]) |
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|生年月日 |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1943|12|29|2017|12|8}} |
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|職業 = 会社員 |
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|著名な実績 = [[東芝]]社長<br />[[日本経済団体連合会]]副会長 |
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|国籍 = {{JPN}} |
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|出身校 |
|出身校 = [[早稲田大学第一政治経済学部]]卒業<br />[[東京大学大学院]][[東京大学大学院法学政治学研究科|法学政治学研究科]]<br />修士課程修了 |
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'''西田 厚聰'''︵にしだ あつとし、[[1943年]][[12月29日]] - [[2017年]][[12月8日]]<ref name="nikkei20171209">{{Cite news|title=西田厚聡氏が死去 |
'''西田 厚聰'''︵にしだ あつとし、[[1943年]][[12月29日]] - [[2017年]][[12月8日]]<ref name="nikkei20171209">{{Cite news|title=西田厚聡氏が死去 元東芝社長、73歳|newspaper=日本経済新聞|date=2017-12-09|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24464240Z01C17A2CC1000/|accessdate=2017-12-09}}</ref>︶は、日本の[[実業家]]。[[学位]]は[[法学修士]]︵[[東京大学]]・[[1970年]]︶。名の﹁聰﹂は[[旧字体]]のため、報道等においては'''西田 厚聡'''︵にしだ あつとし︶とも表記される。[[株式会社]][[東芝]][[取締役]][[代表執行役]]社長、株式会社東芝取締役会長、社団法人[[日本経済団体連合会]]副会長、[[学校法人]][[学校法人沖縄科学技術大学院大学学園|沖縄科学技術大学院大学学園]]理事、[[公益財団法人]]国際研修協力機構[[代表理事]]会長などを歴任した。
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== 概要 == |
== 概要 == |
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東芝のイラン現地法人にて採用され、31歳の時に東芝本社に入社。日・米・欧にまたがる東芝の海外PC事業を長く担当。海外現地法人出身・PC部門出身でありながら、PC部門における顕著な功績によって、伝統的に重電部門出身者が重用される東芝のトップにまで上り詰めるという異色の経歴を持つ。
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東芝の[[イラン]]現地法人にて採用され、31歳の時に東芝本社に入社。日・米・欧にまたがる東芝の海外PC事業を長く担当。海外現地法人出身・PC部門出身でありながら、PC部門における顕著な功績によって、伝統的に重電部門出身者が重用される東芝のトップにまで上り詰めるという異色の経歴を持つ。
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東芝ヨーロッパの上級副社長時代には、欧州で東芝のノート |
東芝ヨーロッパの上級副社長時代には、欧州で東芝のノートPC︵日本では﹁[[Dynabook (企業)#dynabook|ダイナブック]]﹂の商標で知られる︶のセールスマンとして、ノートPC︵当時は﹁ラップトップ﹂とも呼ばれた︶の黎明期であるこの時代に欧州で﹁TOSHIBA﹂ブランドを確立させ、1986年には東芝をノートPC市場で世界1位のシェアにのし上げる。東芝アメリカ情報システム社の社長時代には、﹁コンパック・ショック﹂によるPCの急激な低価格化に揺れる東芝アメリカのPC事業を立て直し、1993年に世界2位に転落した東芝を翌1994年には再び世界一のシェアとする。西田の働きにより、東芝は1986年から2000年(1993年を除く)の長期にわたってノートPC市場でシェア世界1位を維持するという、極めて強力なブランドを確立するに至った。
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アメリカ時代の上司だった[[西室泰三]]︵のち東芝社長︶に重用され、東芝の海外における[[パーソナルコンピューター]][[事業]]を興した功績者の一人として、1995年に[[東芝]]本社のパソコン事業部の |
アメリカ時代の上司だった[[西室泰三]]︵のち東芝社長︶に重用され、東芝の海外における[[パーソナルコンピューター]][[事業]]を興した功績者の一人として、1995年に[[東芝]]本社のパソコン事業部の部長に就任。その後は[[取締役]]となり、[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|常務]]、上席常務、執行専務を経て、2004年には赤字となった東芝のPC事業を建て直すべく、PC事業を担う社内カンパニーのトップに就任。わずか1年でPC事業を黒字に転換した功績が評価され、[[2005年]]に東芝の社長に就任した。
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社長在任中、社内に過剰な業績改善を指示し︵これを西田は﹁ストレッチ﹂と称した︶、出身母体であるパソコン事業に圧力をかけた結果︵特に、ダイナブックの生みの親である[[溝口哲也]]を慕う技術畑の人間が弾圧された︶、同事業の利益は50億円水増しされることになった。これ以降、東芝では利益の水増しが常態化することとなった。また原子力産業とメモリー事業の2つに経営資源を集中させる﹁選択と集中﹂を推し進め<ref name="asahi20171209"/>、2006年には大手原発メーカーの[[ウェスチングハウス]]を6400億円で買収することを決断したが<ref name="asahi20171209">{{Cite news|title=東芝の元会長・西田厚聡さん死去 |
社長在任中、社内に過剰な業績改善を指示し︵これを西田は﹁ストレッチ﹂と称した︶、出身母体であるパソコン事業に圧力をかけた結果︵特に、ダイナブックの生みの親である[[溝口哲也]]を慕う技術畑の人間が弾圧された︶、同事業の利益は50億円水増しされることになった。これ以降、東芝では利益の水増しが常態化することとなった。また[[原子力産業]]とメモリー事業の2つに経営資源を集中させる﹁選択と集中﹂を推し進め<ref name="asahi20171209"/>、2006年には大手原発メーカーの[[ウェスチングハウス]]を6400億円で買収することを決断したが<ref name="asahi20171209">{{Cite news|title=東芝の元会長・西田厚聡さん死去 米原発WH買収を決断|newspaper=朝日新聞|date=2017年12月9日22時49分|url=http://www.asahi.com/articles/ASKD95RGMKD9ULFA003.html|accessdate=2017-12-09}}</ref>、これによって東芝が世界一の原発メーカーになるという﹁原子力ルネッサンス﹂の目論見は[[福島第一原子力発電所事故]]によって崩壊。2017年には東芝を[[債務超過]]に陥れる<ref name="asahi20171209"/>ことになったため、東芝崩壊の﹁戦犯<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/53482?page=1&imp=0|title=西田厚聰元会長・東芝のドンの告白﹁戦犯と呼ばれて﹂|publisher=[[週刊現代]]|accessdate=2021-11-15|date=2017-12-06}}</ref>﹂の一人と目されている。
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[[2009年]]、代表権のない |
[[2009年]]、代表権のない会長に退くが、後任の社長である[[佐々木則夫 (実業家)|佐々木則夫]]と度々対立し<ref name="asahi20171209"/>、佐々木社長派と西田・西室派による派閥争いによって、福島原発事故後における﹁原子力見直し﹂の時代の動きに揺れる東芝をさらなる混乱に陥れた。2014年には[[相談役]]に退くが、社長在任中の利益水増し問題が発覚して引責辞任した。
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自らが育てたPC部門も売却が取りだたされるなど、東芝の解体が進む中、2017年12月に死去。73歳没。 |
自らが育てたPC部門も売却が取りだたされるなど、東芝の解体が進む中、2017年12月に死去。73歳没。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[三重県]]出身。[[三重県立尾鷲高等学校]]を経て、1968年3月に[[早稲田大学 |
[[三重県]]出身。[[三重県立尾鷲高等学校]]を経て、1968年3月に[[早稲田大学政治経済学部]]を卒業し、[[東京大学大学院]][[東京大学大学院法学政治学研究科|法学政治学研究科]]で[[福田歓一]]の指導を受け、[[西洋政治思想史]]を研究した<ref>{{Cite web|和書|url=http://president.jp/articles/-/2947|title=東芝・西田厚聰|世界を震撼させる﹁鯨﹂と﹁鰯﹂の二刀流経営(3)|work=PRESIDENT Online|publisher=PRESIDENT|author=児玉博|accessdate=2015-07-21|date=2008-10-24}}</ref>。[[1970年]]3月に修士課程を修了<ref>[http://www.oist.jp/ja/page/20343 西田厚聰東芝相談役] 沖縄科学技術大学院大学。閲覧する際のアクセスは限られている。</ref>。同年の[[岩波書店]]﹃[[思想 (雑誌)|思想]]﹄8月号には﹁フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論﹂という論文が掲載されている<ref>{{Cite journal|last=厚聡|first=西田|date=1970-08|title=フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1523106604581996800|journal=思想|issue=554|pages=1–13}}</ref>。博士課程に進学し、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]の研究を手掛けていたが、[[日本政治史]]の研究で来日したイラン出身の女性と出会い、恋に落ちて<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20171211_636599.html?DETAIL|title=元東芝社長・西田厚聰氏﹁死去2か月前の“遺言”﹂|publisher=NEWSポストセブン|date=2017-12-11|accessdate=2019-12-14}}</ref>結婚。イランに渡り、[[東京芝浦電気]]︵現・[[東芝]]︶と現地資本の合弁会社に入社、[[1975年]]5月に東京芝浦電気に入社する<ref name="oist20150331_9">﹃平成26年度事業報告書﹄沖縄科学技術大学院大学学園、2015年3月31日、9頁。</ref><ref name="shokureki">[http://www.oist.jp/ja/page/20343 職歴] 沖縄科学技術大学院大学。閲覧する際のアクセスは限られている。</ref>。
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=== 実業家として === |
=== 実業家として === |
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[[ファイル:Atsutoshi Nishida 20130126 3.jpg|thumb|200px|[[2013年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]]年次総会にて]] |
[[ファイル:Atsutoshi Nishida 20130126 3.jpg|thumb|200px|[[2013年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]]年次総会にて]] |
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[[1984年]]3月から[[1992年]]4月にかけて東芝ヨーロッパの上級副社長を務め<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、パソコン事業の創始に携わる。1992年4月に東芝アメリカ情報システム社の |
[[1984年]]3月から[[1992年]]4月にかけて東芝ヨーロッパの上級副社長を務め<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、パソコン事業の創始に携わる。1992年4月に東芝アメリカ情報システム社の社長に就任すると<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、業績不振に陥ったアメリカのパソコン事業を1年で立て直す。[[1995年]]6月に東芝のパソコン事業部の部長に就任すると<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、[[1997年]]6月まで双方を兼任した<ref name="shokureki"/>。1997年6月に[[取締役]]となり、[[1998年]]6月から[[2000年]]6月まで常務、2000年6月から[[2003年]]6月まで上席常務を務めた<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>。2003年6月には取締役執行[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|専務]]に就任した<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>。パソコン事業を興した功績者として、社長候補の本命となる。2003年度にパソコン事業が[[黒字と赤字|赤字]]に転落すると、西田が手腕を発揮。2003年度第3四半期に142億円の赤字であった[[決算]]を、2004年同期に84億円の[[黒字]]に転換し、驚異的な回復を果たす。これが決め手となり、[[2005年]]6月に[[岡村正]]に代わり東芝の社長に就任した。なお、岡村は会長に就任した。
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[[2009年]]3月、[[サブプライムローン]]を発端とした[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]により、2009年3月期決算で2800億円の赤字に転落した結果、2009年6月の[[株主総会]]後に社長職の退任と会長への就任が発表された。なお、東芝が設置した[[第三者委員会]]の調査により、社長在任時に出身母体であるパソコン事業[[幹部]]に対し[[圧力]]をかけた結果、2008年に50億円の[[利益]]水増しが行われたことが明らかになっている<ref name="itoOmori20150721_3">伊藤弘喜・大森準﹁業績誇示へ利益操作――前社長、前任者との対立で焦り――東芝第三者委報告――リーマン、原発事故で加速﹂﹃東京新聞﹄26109号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月21日、3面。</ref>。後任の社長には佐々木則夫が就任したが、西田と佐々木は度々対立した<ref name="itoOmori20150721_3"/>。2013年の役員報酬は1億2700万円<ref>{{Cite news|title="年収1億円超"の上場企業役員443人リスト|newspaper=東洋経済オンライン|date=2015-03-18|url=http://toyokeizai.net/articles/-/63485?page=3}}</ref>。[[2014年]]6月25日に会長から[[相談役]]に退いた<ref>{{Cite news|title=東芝、室町氏の会長就任発表 |
[[2009年]]3月、[[サブプライムローン]]を発端とした[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]により、2009年3月期決算で2800億円の赤字に転落した結果、2009年6月の[[株主総会]]後に社長職の退任と会長への就任が発表された。なお、東芝が設置した[[第三者委員会]]の調査により、社長在任時に出身母体であるパソコン事業[[幹部]]に対し[[圧力]]をかけた結果、2008年に50億円の[[利益]]水増しが行われたことが明らかになっている<ref name="itoOmori20150721_3">伊藤弘喜・大森準﹁業績誇示へ利益操作――前社長、前任者との対立で焦り――東芝第三者委報告――リーマン、原発事故で加速﹂﹃東京新聞﹄26109号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月21日、3面。</ref>。後任の社長には佐々木則夫が就任したが、西田と佐々木は度々対立した<ref name="itoOmori20150721_3"/>。2013年の役員報酬は1億2700万円<ref>{{Cite news|title="年収1億円超"の上場企業役員443人リスト|newspaper=東洋経済オンライン|date=2015-03-18|url=http://toyokeizai.net/articles/-/63485?page=3}}</ref>。[[2014年]]6月25日に会長から[[相談役]]に退いた<ref>{{Cite news|title=東芝、室町氏の会長就任発表 西田氏は相談役に|newspaper=日本経済新聞|date=2014-05-08|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ080E8_Y4A500C1TJ3000/}}</ref>。[[2015年]]、社長在任当時の利益水増し問題が明るみに出て、同年7月21日に相談役を引責辞任した<ref>﹁﹃経営判断で不正﹄――東芝歴代3社長辞任――第三者委断定利益水増し1562億円――後任室町会長兼務﹂﹃東京新聞﹄26110号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月22日、1面。</ref>。なお、[[2010年]]6月より[[日本原燃]]にて[[監査役]]を兼任し<ref name="nikkei20150724">{{Cite news|title=東芝前相談役の西田氏、日本原燃の非常勤監査役辞任|newspaper=日本経済新聞|date=2015-07-24|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ24HGU_U5A720C1TI1000/}}</ref>、2014年6月からは[[商船三井]]の取締役も兼任していたが<ref name="mainichi20150724">{{Cite news|title=商船三井‥東芝前相談役が社外取締役辞任|newspaper=毎日新聞|date=2015-07-24|url=http://mainichi.jp/shimen/news/20150724ddm008020106000c.html}}{{リンク切れ|date=2017年12月}}</ref>、2015年7月21日に双方とも辞任した<ref name="nikkei20150724"/><ref name="mainichi20150724"/>。
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また、東芝での役職以外にも、いくつかの公職を務めている。2013年3月には、[[第2次安倍内閣]]が発足させた[[日本経済再生本部]]において、[[産業競争力会議]]の代表幹事に就任した<ref name="shakaikatsudoreki">[http://www.oist.jp/ja/page/20343 社会活動歴] 沖縄科学技術大学院大学。閲覧する際のアクセスは限られている。</ref>。2014年10月には、[[沖縄科学技術大学院大学学園法]]に基づく[[特殊法人]]である[[学校法人沖縄科学技術大学院大学学園|沖縄科学技術大学院大学学園]]において、 |
また、東芝での役職以外にも、いくつかの公職を務めている。2011年から[[デジタルコンテンツ協会]]会長<ref>[https://www.dcaj.or.jp/outline/pdf/business_report23.pdf]デジタルコンテンツ協会</ref>。2013年3月には、[[第2次安倍内閣]]が発足させた[[日本経済再生本部]]において、[[産業競争力会議]]の代表幹事に就任した<ref name="shakaikatsudoreki">[http://www.oist.jp/ja/page/20343 社会活動歴] 沖縄科学技術大学院大学。閲覧する際のアクセスは限られている。</ref>。2014年10月には、[[沖縄科学技術大学院大学学園法]]に基づく[[特殊法人]]である[[学校法人沖縄科学技術大学院大学学園|沖縄科学技術大学院大学学園]]において、理事に選任された<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shakaikatsudoreki"/>。この[[特殊法人]]は、国が運営資金を提供する特別な[[私立大学]]と位置づけられる[[沖縄科学技術大学院大学]]を設置、運営する法人である。なお、2015年7月22日付で同法人の理事を辞任している。また、経済三団体の一角を占める社団法人︵のちに[[一般社団法人]]に移行︶である[[日本経済団体連合会]]においては、2009年5月より副会長を務めた<ref name="nakazawa20150722_3">中沢幸彦﹁﹃公家の東芝﹄変貌――競争激化で利益至上﹂﹃東京新聞﹄26110号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月22日、3面。</ref>。そのほか、[[科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム]]を運営している[[STSフォーラム]]の理事や<ref name="shakaikatsudoreki"/><ref>[http://www.stsforum.org/aboutus/board-of-directors/ Board of Directors] NPO STS forum(英語)</ref>、[[技能実習制度]]・研修制度の適正かつ円滑な推進を図る[[国際人材協力機構|国際研修協力機構]]の会長なども務めた<ref name="shakaikatsudoreki"/><ref>[http://www.jitco.or.jp/press/detail/240.html 公益財団法人国際研修協力機構新会長の就任について] 国際研修協力機構 2013年6月11日{{リンク切れ|date=2017年12月}}</ref>。なお、2015年7月24日付で国際研修協力機構の会長を辞任している<ref>[http://www.jitco.or.jp/press/detail/587.html 役員異動のお知らせ] 国際研修協力機構 2015年8月5日</ref>。
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2017年12月8日午後1時53分、[[急性心筋梗塞]]により[[東京都]]内の |
2017年12月8日午後1時53分、[[急性心筋梗塞]]により[[東京都]]内の病院で死去した。73歳没<ref name="nikkei20171209"/>。東芝により12月9日にその死去が明らかにされた。
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== 経営手腕 == |
== 経営手腕 == |
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: 社長に就任後は、事業整理によって財務体質を改善した岡村時代の経営基盤を引き継ぎ、東芝として前例がないほどの積極的な設備投資に打って出た。銀座の東芝ビルや東芝EMIを売却する一方で<ref name="asahi20171209"/>、[[原子炉]]技術大手の[[ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニー]]を54億ドル(約6210億円、1ドル115円で換算)で買収することを決定するなど、2006年度からの3年間で2兆4000億円の投資計画(2003年度から2005年度の設備投資は1兆1323億円)を発表した。しかし西田の退任後、ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニーを中心とした原子力事業で2016年3月期に約2500億円の減損損失が計上された。さらに、同社が2015年末に米[[シカゴ・ブリッジ・アンド・アイアン]](CB&I)から買収した米原子力サービス会社[[ストーン・アンド・ウェブスター]]社の資産価値が想定額を大幅に下回り、2017年3月期に経営破綻した<ref name="asahi20171209"/>。西田のウェスティングハウスの買収によって東芝も債務超過に陥り<ref name="asahi20171209"/>、主要な利益部門の売却を迫られることになる。 |
: 社長に就任後は、事業整理によって財務体質を改善した岡村時代の経営基盤を引き継ぎ、東芝として前例がないほどの積極的な設備投資に打って出た。銀座の東芝ビルや東芝EMIを売却する一方で<ref name="asahi20171209"/>、[[原子炉]]技術大手の[[ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニー]]を54億ドル(約6210億円、1ドル115円で換算)で買収することを決定するなど、2006年度からの3年間で2兆4000億円の投資計画(2003年度から2005年度の設備投資は1兆1323億円)を発表した。しかし西田の退任後、ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニーを中心とした原子力事業で2016年3月期に約2500億円の減損損失が計上された。さらに、同社が2015年末に米[[シカゴ・ブリッジ・アンド・アイアン]](CB&I)から買収した米原子力サービス会社[[ストーン・アンド・ウェブスター]]社の資産価値が想定額を大幅に下回り、2017年3月期に経営破綻した<ref name="asahi20171209"/>。西田のウェスティングハウスの買収によって東芝も債務超過に陥り<ref name="asahi20171209"/>、主要な利益部門の売却を迫られることになる。 |
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; 佐々木則夫との対立 |
; 佐々木則夫との対立 |
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: 後任の東芝社長である佐々木則夫を当初は高く評価していたが、のちに反目しあうようになった。会長であるにもかかわらず、後任の社長である佐々木の批判を公の場で繰り返したことから、両者の対立が注目されるようになった<ref name="shimazaki20131001_164">島崎雄高﹁東芝、NEC、川崎重工――長老経営者﹃内紛﹄が会社を滅ぼす﹂﹃文藝春秋﹄91巻11号、2013年10月1日、164頁。</ref>。東芝の後任の社長を人選する際、西田は﹁この人以外にはいない﹂<ref name="itoOmori20150721_3"/>と述べて佐々木を推していた。しかし、佐々木が社長に就任して以降、両者は対立しあうようになった<ref name="itoOmori20150721_3"/>。[[2013年]]に佐々木の後任として[[田中久雄 (実業家)|田中久雄]]が社長に昇格することが発表されたが、その[[記者会見]]の場で、西田は田中に対し﹁東芝をもう一度、[[成長]] |
: 後任の東芝社長である佐々木則夫を当初は高く評価していたが、のちに反目しあうようになった。会長であるにもかかわらず、後任の社長である佐々木の批判を公の場で繰り返したことから、両者の対立が注目されるようになった<ref name="shimazaki20131001_164">島崎雄高﹁東芝、NEC、川崎重工――長老経営者﹃内紛﹄が会社を滅ぼす﹂﹃文藝春秋﹄91巻11号、2013年10月1日、164頁。</ref>。東芝の後任の社長を人選する際、西田は﹁この人以外にはいない﹂<ref name="itoOmori20150721_3"/>と述べて佐々木を推していた。しかし、佐々木が社長に就任して以降、両者は対立しあうようになった<ref name="itoOmori20150721_3"/>。[[2013年]]に佐々木の後任として[[田中久雄 (実業家)|田中久雄]]が社長に昇格することが発表されたが、その[[記者会見]]の場で、西田は田中に対し﹁東芝をもう一度、[[成長]]軌道に乗せて欲しい﹂<ref name="shimazaki20131001_164"/>と述べるなど、あたかも今までの佐々木の[[経営]]が失敗であったかのような口調で発言した。これに対し、佐々木が﹁業績を回復し、成長軌道に乗せる私の役割は果たした﹂<ref name="shimazaki20131001_164"/>と反論するなど、公の場で対立が露わになった。記者会見が終わったあとのぶら下がり取材でも、西田は﹁東芝の社長は幅広い事業領域を[[バランス]]よく舵取りでき、なおかつ豊富な[[グローバル]]経験を持った人がいい﹂<ref name="shimazaki20131001_166">島崎雄高﹁東芝、NEC、川崎重工――長老経営者﹃内紛﹄が会社を滅ぼす﹂﹃文藝春秋﹄91巻11号、2013年10月1日、166頁。</ref>などと発言し、[[原発]]一筋で国外経験の乏しい佐々木をくさしたため、それに対し佐々木が﹁西田さんも︵[[キャリア]]は︶パソコンばかり。そんなことを言ったら東芝の社長ができる人がいなくなる﹂<ref name="shimazaki20131001_166"/>などと反論した。
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; 利益の水増し |
; 利益の水増し |
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: 2015年、東芝の利益かさ上げ問題を調査するため、[[上田廣一]]らを中心とする第三者委員会が設置された<ref name="tokyo20150721_1">﹁東芝歴代3社長が圧力――1500億円利益水増し組織的――第三者委報告﹂﹃東京新聞﹄26109号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月21日、1面。</ref>。この第三者委員会が |
: 2015年、東芝の利益かさ上げ問題を調査するため、[[上田廣一]]らを中心とする第三者委員会が設置された<ref name="tokyo20150721_1">「東芝歴代3社長が圧力――1500億円利益水増し組織的――第三者委報告」『東京新聞』26109号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月21日、1面。</ref>。この第三者委員会が調査した結果、西田が社長在任中にパソコン事業幹部に対して圧力をかけており、その結果、2008年に50億円の利益水増しが行われたと指摘された<ref name="itoOmori20150721_3"/>。2008年度はパソコン事業の目標として[[営業利益]]312億円の達成を掲げていたが、製造トラブルにより利益が大幅に減少していた<ref name="omoriShiroyama20150722_7">大森準・白山泉「社員追い詰めた『チャレンジ』――東芝不正会計報告書からみた実態」『東京新聞』26110号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月22日、7面。</ref>。この事態を受け、西田は全社月例報告会が開かれる度に「こんな[[数字]]恥ずかしくて公表できない」<ref name="omoriShiroyama20150722_7"/>「死に物狂いでやってくれ」<ref name="omoriShiroyama20150722_7"/>と繰り返した。2009年1月の全社月例報告会においては、パソコン事業の幹部に対し100億円以上の利益かさ上げを要求した<ref name="omoriShiroyama20150722_7"/>。追い込まれた幹部らは、利益を前倒しして計上することで不正なかさ上げを行うに至った<ref name="omoriShiroyama20150722_7"/>。その後も西田は圧力をかけ続けたため、幹部が「実力以外の前倒し効果で利益をかさ上げしている」<ref name="omoriShiroyama20150722_7"/>と述べてその実情を説明したにもかかわらず、その後も西田は態度を改めることはなかった<ref name="omoriShiroyama20150722_7"/>。 |
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: 第三者委員会はこうした過去の経緯について調査を行い、西田ら歴代社長は直接の指示はしていないものの、実現するのは到底難しいと思われる業績目標の達成を﹁チャレンジ﹂と称して幹部らに強く迫っていたと指摘した<ref name="tokyo20150721_1"/>。その結果、西田、佐々木則夫、田中久雄の3代の社長の下で、不正な |
: 第三者委員会はこうした過去の経緯について調査を行い、西田ら歴代社長は直接の指示はしていないものの、実現するのは到底難しいと思われる業績目標の達成を﹁チャレンジ﹂と称して幹部らに強く迫っていたと指摘した<ref name="tokyo20150721_1"/>。その結果、西田、佐々木則夫、田中久雄の3代の社長の下で、不正な会計処理が組織的に行われていたと結論づけた<ref name="tokyo20150721_1"/>。第三者委員会を率いた上田廣一は、東芝における一連の不正会計の内容に驚き、調査終了後に﹁日本を代表する会社がこういうことをやっていたということで、それなりに衝撃を受けた﹂<ref>﹁調査振り返り﹃衝撃受けた﹄――東芝第三者委員長﹂﹃東京新聞﹄26110号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月22日、3面。</ref>と回顧している。なお、西田が圧力をかけた理由としては、ライバルである[[日立製作所]]に比べて業績が見劣りしたからだとされている<ref name="nakazawa20150722_3"/>。
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== エピソード == |
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[[ファイル:Atsutoshi Nishida 20130126 1.jpg|thumb|200px|[[2013年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]]年次総会にて]] |
[[ファイル:Atsutoshi Nishida 20130126 1.jpg|thumb|200px|[[2013年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]]年次総会にて]] |
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[[Twitter]]に「TOSHIBA_Nishida」名義のアカウントが登録されており、会長としての視点からビジネスのあり方についての考えなどが綴られていた。そのため、日本の製造業では珍しいTwitterを開始した経営者だと思われていたが、記者の取材に対し東芝広報室では西田本人のアカウントではないと回答した<ref>[ |
[[Twitter]]に「TOSHIBA_Nishida」名義のアカウントが登録されており、会長としての視点からビジネスのあり方についての考えなどが綴られていた。そのため、日本の製造業では珍しいTwitterを開始した経営者だと思われていたが、記者の取材に対し東芝広報室では西田本人のアカウントではないと回答した<ref>[https://x.com/kamematsu/status/9180873613 ツイート内容] Taro Kamematsu(Twitter) 2010年月16日</ref>。その後、同アカウントは何者かによるなりすましであることが判明し、削除された<ref>[https://x.com/kamematsu/status/9277858443 ツイート内容] Taro Kamematsu(Twitter) 2010年2月18日</ref>。 |
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== 出典 == |
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== 関連人物 == |
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2024年6月24日 (月) 16:30時点における最新版
にしだ あつとし 西田 厚聰 | |
---|---|
![]() | |
生誕 |
1943年12月29日![]() |
死没 |
2017年12月8日(73歳没)![]() |
出身校 |
早稲田大学第一政治経済学部卒業 東京大学大学院法学政治学研究科 修士課程修了 |
職業 | 会社員 |
著名な実績 |
東芝社長 日本経済団体連合会副会長 |
概要[編集]
東芝のイラン現地法人にて採用され、31歳の時に東芝本社に入社。日・米・欧にまたがる東芝の海外PC事業を長く担当。海外現地法人出身・PC部門出身でありながら、PC部門における顕著な功績によって、伝統的に重電部門出身者が重用される東芝のトップにまで上り詰めるという異色の経歴を持つ。 東芝ヨーロッパの上級副社長時代には、欧州で東芝のノートPC︵日本では﹁ダイナブック﹂の商標で知られる︶のセールスマンとして、ノートPC︵当時は﹁ラップトップ﹂とも呼ばれた︶の黎明期であるこの時代に欧州で﹁TOSHIBA﹂ブランドを確立させ、1986年には東芝をノートPC市場で世界1位のシェアにのし上げる。東芝アメリカ情報システム社の社長時代には、﹁コンパック・ショック﹂によるPCの急激な低価格化に揺れる東芝アメリカのPC事業を立て直し、1993年に世界2位に転落した東芝を翌1994年には再び世界一のシェアとする。西田の働きにより、東芝は1986年から2000年(1993年を除く)の長期にわたってノートPC市場でシェア世界1位を維持するという、極めて強力なブランドを確立するに至った。 アメリカ時代の上司だった西室泰三︵のち東芝社長︶に重用され、東芝の海外におけるパーソナルコンピューター事業を興した功績者の一人として、1995年に東芝本社のパソコン事業部の部長に就任。その後は取締役となり、常務、上席常務、執行専務を経て、2004年には赤字となった東芝のPC事業を建て直すべく、PC事業を担う社内カンパニーのトップに就任。わずか1年でPC事業を黒字に転換した功績が評価され、2005年に東芝の社長に就任した。 社長在任中、社内に過剰な業績改善を指示し︵これを西田は﹁ストレッチ﹂と称した︶、出身母体であるパソコン事業に圧力をかけた結果︵特に、ダイナブックの生みの親である溝口哲也を慕う技術畑の人間が弾圧された︶、同事業の利益は50億円水増しされることになった。これ以降、東芝では利益の水増しが常態化することとなった。また原子力産業とメモリー事業の2つに経営資源を集中させる﹁選択と集中﹂を推し進め[2]、2006年には大手原発メーカーのウェスチングハウスを6400億円で買収することを決断したが[2]、これによって東芝が世界一の原発メーカーになるという﹁原子力ルネッサンス﹂の目論見は福島第一原子力発電所事故によって崩壊。2017年には東芝を債務超過に陥れる[2]ことになったため、東芝崩壊の﹁戦犯[3]﹂の一人と目されている。 2009年、代表権のない会長に退くが、後任の社長である佐々木則夫と度々対立し[2]、佐々木社長派と西田・西室派による派閥争いによって、福島原発事故後における﹁原子力見直し﹂の時代の動きに揺れる東芝をさらなる混乱に陥れた。2014年には相談役に退くが、社長在任中の利益水増し問題が発覚して引責辞任した。 自らが育てたPC部門も売却が取りだたされるなど、東芝の解体が進む中、2017年12月に死去。73歳没。経歴[編集]
生い立ち[編集]
三重県出身。三重県立尾鷲高等学校を経て、1968年3月に早稲田大学政治経済学部を卒業し、東京大学大学院法学政治学研究科で福田歓一の指導を受け、西洋政治思想史を研究した[4]。1970年3月に修士課程を修了[5]。同年の岩波書店﹃思想﹄8月号には﹁フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論﹂という論文が掲載されている[6]。博士課程に進学し、フィヒテの研究を手掛けていたが、日本政治史の研究で来日したイラン出身の女性と出会い、恋に落ちて[7]結婚。イランに渡り、東京芝浦電気︵現・東芝︶と現地資本の合弁会社に入社、1975年5月に東京芝浦電気に入社する[8][9]。実業家として[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Atsutoshi_Nishida_20130126_3.jpg/200px-Atsutoshi_Nishida_20130126_3.jpg)
経営手腕[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Atsutoshi_Nishida_20130126_4.jpg/200px-Atsutoshi_Nishida_20130126_4.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Atsutoshi_Nishida_20130126_2.jpg/200px-Atsutoshi_Nishida_20130126_2.jpg)
エピソード[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Atsutoshi_Nishida_20130126_1.jpg/200px-Atsutoshi_Nishida_20130126_1.jpg)
出典[編集]
関連人物[編集]
関連項目[編集]
ビジネス | ||
---|---|---|
先代 岡村正 |
東芝会長 2009年 - 2014年 |
次代 室町正志 |
先代 岡村正 |
東芝社長 2005年 - 2009年 |
次代 佐々木則夫 |
公職 | ||
先代 大歳卓麻 |
![]() 情報通信審議会会長 2012年 - 2015年 |
次代 内山田竹志 |
その他の役職 | ||
先代 野間口有 |
日本防衛装備工業会会長 2010年 - 2012年 |
次代 佐藤育男 |
先代 北島義俊 |
デジタルコンテンツ協会会長 2011年 - 2012年 |
次代 足立直樹 |
非営利団体 | ||
先代 中村徹 |
日本観光振興協会会長 2010年 - 2013年 |
次代 山口範雄 |
先代 金井務 |
国際研修協力機構会長 2013年 - 2015年 |
次代 下村節宏 |