「西田厚聰」の版間の差分
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加 |
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (www.nikkei.com) (Botによる編集) |
||
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
37行目: | 37行目: | ||
[[1984年]]3月から[[1992年]]4月にかけて東芝ヨーロッパの上級副社長を務め<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、パソコン事業の創始に携わる。1992年4月に東芝アメリカ情報システム社の社長に就任すると<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、業績不振に陥ったアメリカのパソコン事業を1年で立て直す。[[1995年]]6月に東芝のパソコン事業部の部長に就任すると<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、[[1997年]]6月まで双方を兼任した<ref name="shokureki"/>。1997年6月に[[取締役]]となり、[[1998年]]6月から[[2000年]]6月まで常務、2000年6月から[[2003年]]6月まで上席常務を務めた<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>。2003年6月には取締役執行[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|専務]]に就任した<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>。パソコン事業を興した功績者として、社長候補の本命となる。2003年度にパソコン事業が[[黒字と赤字|赤字]]に転落すると、西田が手腕を発揮。2003年度第3四半期に142億円の赤字であった[[決算]]を、2004年同期に84億円の[[黒字]]に転換し、驚異的な回復を果たす。これが決め手となり、[[2005年]]6月に[[岡村正]]に代わり東芝の社長に就任した。なお、岡村は会長に就任した。
|
[[1984年]]3月から[[1992年]]4月にかけて東芝ヨーロッパの上級副社長を務め<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、パソコン事業の創始に携わる。1992年4月に東芝アメリカ情報システム社の社長に就任すると<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、業績不振に陥ったアメリカのパソコン事業を1年で立て直す。[[1995年]]6月に東芝のパソコン事業部の部長に就任すると<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>、[[1997年]]6月まで双方を兼任した<ref name="shokureki"/>。1997年6月に[[取締役]]となり、[[1998年]]6月から[[2000年]]6月まで常務、2000年6月から[[2003年]]6月まで上席常務を務めた<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>。2003年6月には取締役執行[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|専務]]に就任した<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shokureki"/>。パソコン事業を興した功績者として、社長候補の本命となる。2003年度にパソコン事業が[[黒字と赤字|赤字]]に転落すると、西田が手腕を発揮。2003年度第3四半期に142億円の赤字であった[[決算]]を、2004年同期に84億円の[[黒字]]に転換し、驚異的な回復を果たす。これが決め手となり、[[2005年]]6月に[[岡村正]]に代わり東芝の社長に就任した。なお、岡村は会長に就任した。
|
||
[[2009年]]3月、[[サブプライムローン]]を発端とした[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]により、2009年3月期決算で2800億円の赤字に転落した結果、2009年6月の[[株主総会]]後に社長職の退任と会長への就任が発表された。なお、東芝が設置した[[第三者委員会]]の調査により、社長在任時に出身母体であるパソコン事業[[幹部]]に対し[[圧力]]をかけた結果、2008年に50億円の[[利益]]水増しが行われたことが明らかになっている<ref name="itoOmori20150721_3">伊藤弘喜・大森準﹁業績誇示へ利益操作――前社長、前任者との対立で焦り――東芝第三者委報告――リーマン、原発事故で加速﹂﹃東京新聞﹄26109号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月21日、3面。</ref>。後任の社長には佐々木則夫が就任したが、西田と佐々木は度々対立した<ref name="itoOmori20150721_3"/>。2013年の役員報酬は1億2700万円<ref>{{Cite news|title="年収1億円超"の上場企業役員443人リスト|newspaper=東洋経済オンライン|date=2015-03-18|url=http://toyokeizai.net/articles/-/63485?page=3}}</ref>。[[2014年]]6月25日に会長から[[相談役]]に退いた<ref>{{Cite news|title=東芝、室町氏の会長就任発表 西田氏は相談役に|newspaper=日本経済新聞|date=2014-05-08|url= |
[[2009年]]3月、[[サブプライムローン]]を発端とした[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]により、2009年3月期決算で2800億円の赤字に転落した結果、2009年6月の[[株主総会]]後に社長職の退任と会長への就任が発表された。なお、東芝が設置した[[第三者委員会]]の調査により、社長在任時に出身母体であるパソコン事業[[幹部]]に対し[[圧力]]をかけた結果、2008年に50億円の[[利益]]水増しが行われたことが明らかになっている<ref name="itoOmori20150721_3">伊藤弘喜・大森準﹁業績誇示へ利益操作――前社長、前任者との対立で焦り――東芝第三者委報告――リーマン、原発事故で加速﹂﹃東京新聞﹄26109号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月21日、3面。</ref>。後任の社長には佐々木則夫が就任したが、西田と佐々木は度々対立した<ref name="itoOmori20150721_3"/>。2013年の役員報酬は1億2700万円<ref>{{Cite news|title="年収1億円超"の上場企業役員443人リスト|newspaper=東洋経済オンライン|date=2015-03-18|url=http://toyokeizai.net/articles/-/63485?page=3}}</ref>。[[2014年]]6月25日に会長から[[相談役]]に退いた<ref>{{Cite news|title=東芝、室町氏の会長就任発表 西田氏は相談役に|newspaper=日本経済新聞|date=2014-05-08|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ080E8_Y4A500C1TJ3000/}}</ref>。[[2015年]]、社長在任当時の利益水増し問題が明るみに出て、同年7月21日に相談役を引責辞任した<ref>﹁﹃経営判断で不正﹄――東芝歴代3社長辞任――第三者委断定利益水増し1562億円――後任室町会長兼務﹂﹃東京新聞﹄26110号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月22日、1面。</ref>。なお、[[2010年]]6月より[[日本原燃]]にて[[監査役]]を兼任し<ref name="nikkei20150724">{{Cite news|title=東芝前相談役の西田氏、日本原燃の非常勤監査役辞任|newspaper=日本経済新聞|date=2015-07-24|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ24HGU_U5A720C1TI1000/}}</ref>、2014年6月からは[[商船三井]]の取締役も兼任していたが<ref name="mainichi20150724">{{Cite news|title=商船三井‥東芝前相談役が社外取締役辞任|newspaper=毎日新聞|date=2015-07-24|url=http://mainichi.jp/shimen/news/20150724ddm008020106000c.html}}{{リンク切れ|date=2017年12月}}</ref>、2015年7月21日に双方とも辞任した<ref name="nikkei20150724"/><ref name="mainichi20150724"/>。
|
||
また、東芝での役職以外にも、いくつかの公職を務めている。2011年から[[デジタルコンテンツ協会]]会長<ref>[https://www.dcaj.or.jp/outline/pdf/business_report23.pdf]デジタルコンテンツ協会</ref>。2013年3月には、[[第2次安倍内閣]]が発足させた[[日本経済再生本部]]において、[[産業競争力会議]]の代表幹事に就任した<ref name="shakaikatsudoreki">[http://www.oist.jp/ja/page/20343 社会活動歴] 沖縄科学技術大学院大学。閲覧する際のアクセスは限られている。</ref>。2014年10月には、[[沖縄科学技術大学院大学学園法]]に基づく[[特殊法人]]である[[学校法人沖縄科学技術大学院大学学園|沖縄科学技術大学院大学学園]]において、理事に選任された<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shakaikatsudoreki"/>。この[[特殊法人]]は、国が運営資金を提供する特別な[[私立大学]]と位置づけられる[[沖縄科学技術大学院大学]]を設置、運営する法人である。なお、2015年7月22日付で同法人の理事を辞任している。また、経済三団体の一角を占める社団法人︵のちに[[一般社団法人]]に移行︶である[[日本経済団体連合会]]においては、2009年5月より副会長を務めた<ref name="nakazawa20150722_3">中沢幸彦﹁﹃公家の東芝﹄変貌――競争激化で利益至上﹂﹃東京新聞﹄26110号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月22日、3面。</ref>。そのほか、[[科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム]]を運営している[[STSフォーラム]]の理事や<ref name="shakaikatsudoreki"/><ref>[http://www.stsforum.org/aboutus/board-of-directors/ Board of Directors] NPO STS forum(英語)</ref>、[[技能実習制度]]・研修制度の適正かつ円滑な推進を図る[[国際人材協力機構|国際研修協力機構]]の会長なども務めた<ref name="shakaikatsudoreki"/><ref>[http://www.jitco.or.jp/press/detail/240.html 公益財団法人国際研修協力機構新会長の就任について] 国際研修協力機構 2013年6月11日{{リンク切れ|date=2017年12月}}</ref>。なお、2015年7月24日付で国際研修協力機構の会長を辞任している<ref>[http://www.jitco.or.jp/press/detail/587.html 役員異動のお知らせ] 国際研修協力機構 2015年8月5日</ref>。
|
また、東芝での役職以外にも、いくつかの公職を務めている。2011年から[[デジタルコンテンツ協会]]会長<ref>[https://www.dcaj.or.jp/outline/pdf/business_report23.pdf]デジタルコンテンツ協会</ref>。2013年3月には、[[第2次安倍内閣]]が発足させた[[日本経済再生本部]]において、[[産業競争力会議]]の代表幹事に就任した<ref name="shakaikatsudoreki">[http://www.oist.jp/ja/page/20343 社会活動歴] 沖縄科学技術大学院大学。閲覧する際のアクセスは限られている。</ref>。2014年10月には、[[沖縄科学技術大学院大学学園法]]に基づく[[特殊法人]]である[[学校法人沖縄科学技術大学院大学学園|沖縄科学技術大学院大学学園]]において、理事に選任された<ref name="oist20150331_9"/><ref name="shakaikatsudoreki"/>。この[[特殊法人]]は、国が運営資金を提供する特別な[[私立大学]]と位置づけられる[[沖縄科学技術大学院大学]]を設置、運営する法人である。なお、2015年7月22日付で同法人の理事を辞任している。また、経済三団体の一角を占める社団法人︵のちに[[一般社団法人]]に移行︶である[[日本経済団体連合会]]においては、2009年5月より副会長を務めた<ref name="nakazawa20150722_3">中沢幸彦﹁﹃公家の東芝﹄変貌――競争激化で利益至上﹂﹃東京新聞﹄26110号、12版、中日新聞東京本社、2015年7月22日、3面。</ref>。そのほか、[[科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム]]を運営している[[STSフォーラム]]の理事や<ref name="shakaikatsudoreki"/><ref>[http://www.stsforum.org/aboutus/board-of-directors/ Board of Directors] NPO STS forum(英語)</ref>、[[技能実習制度]]・研修制度の適正かつ円滑な推進を図る[[国際人材協力機構|国際研修協力機構]]の会長なども務めた<ref name="shakaikatsudoreki"/><ref>[http://www.jitco.or.jp/press/detail/240.html 公益財団法人国際研修協力機構新会長の就任について] 国際研修協力機構 2013年6月11日{{リンク切れ|date=2017年12月}}</ref>。なお、2015年7月24日付で国際研修協力機構の会長を辞任している<ref>[http://www.jitco.or.jp/press/detail/587.html 役員異動のお知らせ] 国際研修協力機構 2015年8月5日</ref>。
|
||
56行目: | 56行目: | ||
== エピソード == |
== エピソード == |
||
[[ファイル:Atsutoshi Nishida 20130126 1.jpg|thumb|200px|[[2013年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]]年次総会にて]] |
[[ファイル:Atsutoshi Nishida 20130126 1.jpg|thumb|200px|[[2013年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]]年次総会にて]] |
||
[[Twitter]]に「TOSHIBA_Nishida」名義のアカウントが登録されており、会長としての視点からビジネスのあり方についての考えなどが綴られていた。そのため、日本の製造業では珍しいTwitterを開始した経営者だと思われていたが、記者の取材に対し東芝広報室では西田本人のアカウントではないと回答した<ref>[ |
[[Twitter]]に「TOSHIBA_Nishida」名義のアカウントが登録されており、会長としての視点からビジネスのあり方についての考えなどが綴られていた。そのため、日本の製造業では珍しいTwitterを開始した経営者だと思われていたが、記者の取材に対し東芝広報室では西田本人のアカウントではないと回答した<ref>[https://x.com/kamematsu/status/9180873613 ツイート内容] Taro Kamematsu(Twitter) 2010年月16日</ref>。その後、同アカウントは何者かによるなりすましであることが判明し、削除された<ref>[https://x.com/kamematsu/status/9277858443 ツイート内容] Taro Kamematsu(Twitter) 2010年2月18日</ref>。 |
||
== 出典 == |
== 出典 == |
2024年6月24日 (月) 16:30時点における最新版
にしだ あつとし 西田 厚聰 | |
---|---|
![]() | |
生誕 |
1943年12月29日![]() |
死没 |
2017年12月8日(73歳没)![]() |
出身校 |
早稲田大学第一政治経済学部卒業 東京大学大学院法学政治学研究科 修士課程修了 |
職業 | 会社員 |
著名な実績 |
東芝社長 日本経済団体連合会副会長 |
概要[編集]
東芝のイラン現地法人にて採用され、31歳の時に東芝本社に入社。日・米・欧にまたがる東芝の海外PC事業を長く担当。海外現地法人出身・PC部門出身でありながら、PC部門における顕著な功績によって、伝統的に重電部門出身者が重用される東芝のトップにまで上り詰めるという異色の経歴を持つ。 東芝ヨーロッパの上級副社長時代には、欧州で東芝のノートPC︵日本では﹁ダイナブック﹂の商標で知られる︶のセールスマンとして、ノートPC︵当時は﹁ラップトップ﹂とも呼ばれた︶の黎明期であるこの時代に欧州で﹁TOSHIBA﹂ブランドを確立させ、1986年には東芝をノートPC市場で世界1位のシェアにのし上げる。東芝アメリカ情報システム社の社長時代には、﹁コンパック・ショック﹂によるPCの急激な低価格化に揺れる東芝アメリカのPC事業を立て直し、1993年に世界2位に転落した東芝を翌1994年には再び世界一のシェアとする。西田の働きにより、東芝は1986年から2000年(1993年を除く)の長期にわたってノートPC市場でシェア世界1位を維持するという、極めて強力なブランドを確立するに至った。 アメリカ時代の上司だった西室泰三︵のち東芝社長︶に重用され、東芝の海外におけるパーソナルコンピューター事業を興した功績者の一人として、1995年に東芝本社のパソコン事業部の部長に就任。その後は取締役となり、常務、上席常務、執行専務を経て、2004年には赤字となった東芝のPC事業を建て直すべく、PC事業を担う社内カンパニーのトップに就任。わずか1年でPC事業を黒字に転換した功績が評価され、2005年に東芝の社長に就任した。 社長在任中、社内に過剰な業績改善を指示し︵これを西田は﹁ストレッチ﹂と称した︶、出身母体であるパソコン事業に圧力をかけた結果︵特に、ダイナブックの生みの親である溝口哲也を慕う技術畑の人間が弾圧された︶、同事業の利益は50億円水増しされることになった。これ以降、東芝では利益の水増しが常態化することとなった。また原子力産業とメモリー事業の2つに経営資源を集中させる﹁選択と集中﹂を推し進め[2]、2006年には大手原発メーカーのウェスチングハウスを6400億円で買収することを決断したが[2]、これによって東芝が世界一の原発メーカーになるという﹁原子力ルネッサンス﹂の目論見は福島第一原子力発電所事故によって崩壊。2017年には東芝を債務超過に陥れる[2]ことになったため、東芝崩壊の﹁戦犯[3]﹂の一人と目されている。 2009年、代表権のない会長に退くが、後任の社長である佐々木則夫と度々対立し[2]、佐々木社長派と西田・西室派による派閥争いによって、福島原発事故後における﹁原子力見直し﹂の時代の動きに揺れる東芝をさらなる混乱に陥れた。2014年には相談役に退くが、社長在任中の利益水増し問題が発覚して引責辞任した。 自らが育てたPC部門も売却が取りだたされるなど、東芝の解体が進む中、2017年12月に死去。73歳没。経歴[編集]
生い立ち[編集]
三重県出身。三重県立尾鷲高等学校を経て、1968年3月に早稲田大学政治経済学部を卒業し、東京大学大学院法学政治学研究科で福田歓一の指導を受け、西洋政治思想史を研究した[4]。1970年3月に修士課程を修了[5]。同年の岩波書店﹃思想﹄8月号には﹁フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論﹂という論文が掲載されている[6]。博士課程に進学し、フィヒテの研究を手掛けていたが、日本政治史の研究で来日したイラン出身の女性と出会い、恋に落ちて[7]結婚。イランに渡り、東京芝浦電気︵現・東芝︶と現地資本の合弁会社に入社、1975年5月に東京芝浦電気に入社する[8][9]。実業家として[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Atsutoshi_Nishida_20130126_3.jpg/200px-Atsutoshi_Nishida_20130126_3.jpg)
経営手腕[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Atsutoshi_Nishida_20130126_4.jpg/200px-Atsutoshi_Nishida_20130126_4.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Atsutoshi_Nishida_20130126_2.jpg/200px-Atsutoshi_Nishida_20130126_2.jpg)
エピソード[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Atsutoshi_Nishida_20130126_1.jpg/200px-Atsutoshi_Nishida_20130126_1.jpg)
出典[編集]
関連人物[編集]
関連項目[編集]
ビジネス | ||
---|---|---|
先代 岡村正 |
東芝会長 2009年 - 2014年 |
次代 室町正志 |
先代 岡村正 |
東芝社長 2005年 - 2009年 |
次代 佐々木則夫 |
公職 | ||
先代 大歳卓麻 |
![]() 情報通信審議会会長 2012年 - 2015年 |
次代 内山田竹志 |
その他の役職 | ||
先代 野間口有 |
日本防衛装備工業会会長 2010年 - 2012年 |
次代 佐藤育男 |
先代 北島義俊 |
デジタルコンテンツ協会会長 2011年 - 2012年 |
次代 足立直樹 |
非営利団体 | ||
先代 中村徹 |
日本観光振興協会会長 2010年 - 2013年 |
次代 山口範雄 |
先代 金井務 |
国際研修協力機構会長 2013年 - 2015年 |
次代 下村節宏 |