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アメリカ時代の上司だった[[西室泰三]]︵のち東芝社長︶に重用され、東芝の海外における[[パーソナルコンピューター]][[事業]]を興した功績者の一人として、1995年に[[東芝]]本社のパソコン事業部の部長に就任。その後は[[取締役]]となり、[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|常務]]、上席常務、執行専務を経て、2004年には赤字となった東芝のPC事業を建て直すべく、PC事業を担う社内カンパニーのトップに就任。わずか1年でPC事業を黒字に転換した功績が評価され、[[2005年]]に東芝の社長に就任した。
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アメリカ時代の上司だった[[西室泰三]]︵のち東芝社長︶に重用され、東芝の海外における[[パーソナルコンピューター]][[事業]]を興した功績者の一人として、1995年に[[東芝]]本社のパソコン事業部の部長に就任。その後は[[取締役]]となり、[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|常務]]、上席常務、執行専務を経て、2004年には赤字となった東芝のPC事業を建て直すべく、PC事業を担う社内カンパニーのトップに就任。わずか1年でPC事業を黒字に転換した功績が評価され、[[2005年]]に東芝の社長に就任した。
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社長在任中、社内に過剰な業績改善を指示し(これを西田は「ストレッチ」と称した)、出身母体であるパソコン事業に圧力をかけた結果(特に、ダイナブックの生みの親である[[溝口哲也]]を慕う技術畑の人間が弾圧された)、同事業の利益は50億円水増しされることになった。これ以降、東芝では利益の水増しが常態化することとなった。また[[原子力産業]]とメモリー事業の2つに経営資源を集中させる「選択と集中」を推し進め<ref name="asahi20171209"/>、2006年には大手原発メーカーの[[ウェスチングハウス]]を6400億円で買収することを決断したが<ref name="asahi20171209">{{Cite news|title=東芝の元会長・西田厚聡さん死去 米原発WH買収を決断|newspaper=朝日新聞|date=2017年12月9日22時49分|url=http://www.asahi.com/articles/ASKD95RGMKD9ULFA003.html|accessdate=2017-12-09}}</ref>、これによって東芝が世界一の原発メーカーになるという「原子力ルネッサンス」の目論見は[[福島第一原子力発電所事故]]によって崩壊。2017年には東芝を[[債務超過]]に陥れる<ref name="asahi20171209"/>ことになったため、東芝崩壊の「戦犯<ref>{{Cite web|url=https://gendai.media/articles/-/53482?page=1&imp=0|title=西田厚聰元会長・東芝のドンの告白「戦犯と呼ばれて」|publisher=[[週刊現代]]|accessdate=2021-11-15|date=2017-12-06}}</ref>」の一人と目されている。 |
社長在任中、社内に過剰な業績改善を指示し︵これを西田は﹁ストレッチ﹂と称した︶、出身母体であるパソコン事業に圧力をかけた結果︵特に、ダイナブックの生みの親である[[溝口哲也]]を慕う技術畑の人間が弾圧された︶、同事業の利益は50億円水増しされることになった。これ以降、東芝では利益の水増しが常態化することとなった。また[[原子力産業]]とメモリー事業の2つに経営資源を集中させる﹁選択と集中﹂を推し進め<ref name="asahi20171209"/>、2006年には大手原発メーカーの[[ウェスチングハウス]]を6400億円で買収することを決断したが<ref name="asahi20171209">{{Cite news|title=東芝の元会長・西田厚聡さん死去 米原発WH買収を決断|newspaper=朝日新聞|date=2017年12月9日22時49分|url=http://www.asahi.com/articles/ASKD95RGMKD9ULFA003.html|accessdate=2017-12-09}}</ref>、これによって東芝が世界一の原発メーカーになるという﹁原子力ルネッサンス﹂の目論見は[[福島第一原子力発電所事故]]によって崩壊。2017年には東芝を[[債務超過]]に陥れる<ref name="asahi20171209"/>ことになったため、東芝崩壊の﹁戦犯<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/53482?page=1&imp=0|title=西田厚聰元会長・東芝のドンの告白﹁戦犯と呼ばれて﹂|publisher=[[週刊現代]]|accessdate=2021-11-15|date=2017-12-06}}</ref>﹂の一人と目されている。
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[[2009年]]、代表権のない会長に退くが、後任の社長である[[佐々木則夫 (実業家)|佐々木則夫]]と度々対立し<ref name="asahi20171209"/>、佐々木社長派と西田・西室派による派閥争いによって、福島原発事故後における﹁原子力見直し﹂の時代の動きに揺れる東芝をさらなる混乱に陥れた。2014年には[[相談役]]に退くが、社長在任中の利益水増し問題が発覚して引責辞任した。
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[[2009年]]、代表権のない会長に退くが、後任の社長である[[佐々木則夫 (実業家)|佐々木則夫]]と度々対立し<ref name="asahi20171209"/>、佐々木社長派と西田・西室派による派閥争いによって、福島原発事故後における﹁原子力見直し﹂の時代の動きに揺れる東芝をさらなる混乱に陥れた。2014年には[[相談役]]に退くが、社長在任中の利益水増し問題が発覚して引責辞任した。
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[三重県]]出身。[[三重県立尾鷲高等学校]]を経て、1968年3月に[[早稲田大学政治経済学部]]を卒業し、[[東京大学大学院]][[東京大学大学院法学政治学研究科|法学政治学研究科]]で[[福田歓一]]の指導を受け、[[西洋政治思想史]]を研究した<ref>{{Cite web|url=http://president.jp/articles/-/2947|title=東芝・西田厚聰|世界を震撼させる﹁鯨﹂と﹁鰯﹂の二刀流経営(3)|work=PRESIDENT Online|publisher=PRESIDENT|author=児玉博|accessdate=2015-07-21|date=2008-10-24}}</ref>。[[1970年]]3月に修士課程を修了<ref>[http://www.oist.jp/ja/page/20343 西田厚聰東芝相談役] 沖縄科学技術大学院大学。閲覧する際のアクセスは限られている。</ref>。同年の[[岩波書店]]﹃[[思想 (雑誌)|思想]]﹄8月号には﹁フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論﹂という論文が掲載されている<ref>{{Cite journal|last=厚聡|first=西田|date=1970-08|title=フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1523106604581996800|journal=思想|issue=554|pages=1–13}}</ref>。博士課程に進学し、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]の研究を手掛けていたが、[[日本政治史]]の研究で来日したイラン出身の女性と出会い、恋に落ちて<ref>{{ |
[[三重県]]出身。[[三重県立尾鷲高等学校]]を経て、1968年3月に[[早稲田大学政治経済学部]]を卒業し、[[東京大学大学院]][[東京大学大学院法学政治学研究科|法学政治学研究科]]で[[福田歓一]]の指導を受け、[[西洋政治思想史]]を研究した<ref>{{Cite web|和書|url=http://president.jp/articles/-/2947|title=東芝・西田厚聰|世界を震撼させる﹁鯨﹂と﹁鰯﹂の二刀流経営(3)|work=PRESIDENT Online|publisher=PRESIDENT|author=児玉博|accessdate=2015-07-21|date=2008-10-24}}</ref>。[[1970年]]3月に修士課程を修了<ref>[http://www.oist.jp/ja/page/20343 西田厚聰東芝相談役] 沖縄科学技術大学院大学。閲覧する際のアクセスは限られている。</ref>。同年の[[岩波書店]]﹃[[思想 (雑誌)|思想]]﹄8月号には﹁フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論﹂という論文が掲載されている<ref>{{Cite journal|last=厚聡|first=西田|date=1970-08|title=フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1523106604581996800|journal=思想|issue=554|pages=1–13}}</ref>。博士課程に進学し、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]の研究を手掛けていたが、[[日本政治史]]の研究で来日したイラン出身の女性と出会い、恋に落ちて<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20171211_636599.html?DETAIL|title=元東芝社長・西田厚聰氏﹁死去2か月前の“遺言”﹂|publisher=NEWSポストセブン|date=2017-12-11|accessdate=2019-12-14}}</ref>結婚。イランに渡り、[[東京芝浦電気]]︵現・[[東芝]]︶と現地資本の合弁会社に入社、[[1975年]]5月に東京芝浦電気に入社する<ref name="oist20150331_9">﹃平成26年度事業報告書﹄沖縄科学技術大学院大学学園、2015年3月31日、9頁。</ref><ref name="shokureki">[http://www.oist.jp/ja/page/20343 職歴] 沖縄科学技術大学院大学。閲覧する際のアクセスは限られている。</ref>。
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=== 実業家として === |
=== 実業家として === |
2023年11月7日 (火) 21:40時点における版
にしだ あつとし 西田 厚聰 | |
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生誕 |
1943年12月29日 日本・三重県 |
死没 |
2017年12月8日(73歳没) 日本・東京都 |
出身校 |
早稲田大学第一政治経済学部卒業 東京大学大学院法学政治学研究科 修士課程修了 |
職業 | 会社員 |
著名な実績 |
東芝社長 日本経済団体連合会副会長 |
概要
東芝のイラン現地法人にて採用され、31歳の時に東芝本社に入社。日・米・欧にまたがる東芝の海外PC事業を長く担当。海外現地法人出身・PC部門出身でありながら、PC部門における顕著な功績によって、伝統的に重電部門出身者が重用される東芝のトップにまで上り詰めるという異色の経歴を持つ。 東芝ヨーロッパの上級副社長時代には、欧州で東芝のノートPC︵日本では﹁ダイナブック﹂の商標で知られる︶のセールスマンとして、ノートPC︵当時は﹁ラップトップ﹂とも呼ばれた︶の黎明期であるこの時代に欧州で﹁TOSHIBA﹂ブランドを確立させ、1986年には東芝をノートPC市場で世界1位のシェアにのし上げる。東芝アメリカ情報システム社の社長時代には、﹁コンパック・ショック﹂によるPCの急激な低価格化に揺れる東芝アメリカのPC事業を立て直し、1993年に世界2位に転落した東芝を翌1994年には再び世界一のシェアとする。西田の働きにより、東芝は1986年から2000年(1993年を除く)の長期にわたってノートPC市場でシェア世界1位を維持するという、極めて強力なブランドを確立するに至った。 アメリカ時代の上司だった西室泰三︵のち東芝社長︶に重用され、東芝の海外におけるパーソナルコンピューター事業を興した功績者の一人として、1995年に東芝本社のパソコン事業部の部長に就任。その後は取締役となり、常務、上席常務、執行専務を経て、2004年には赤字となった東芝のPC事業を建て直すべく、PC事業を担う社内カンパニーのトップに就任。わずか1年でPC事業を黒字に転換した功績が評価され、2005年に東芝の社長に就任した。 社長在任中、社内に過剰な業績改善を指示し︵これを西田は﹁ストレッチ﹂と称した︶、出身母体であるパソコン事業に圧力をかけた結果︵特に、ダイナブックの生みの親である溝口哲也を慕う技術畑の人間が弾圧された︶、同事業の利益は50億円水増しされることになった。これ以降、東芝では利益の水増しが常態化することとなった。また原子力産業とメモリー事業の2つに経営資源を集中させる﹁選択と集中﹂を推し進め[2]、2006年には大手原発メーカーのウェスチングハウスを6400億円で買収することを決断したが[2]、これによって東芝が世界一の原発メーカーになるという﹁原子力ルネッサンス﹂の目論見は福島第一原子力発電所事故によって崩壊。2017年には東芝を債務超過に陥れる[2]ことになったため、東芝崩壊の﹁戦犯[3]﹂の一人と目されている。 2009年、代表権のない会長に退くが、後任の社長である佐々木則夫と度々対立し[2]、佐々木社長派と西田・西室派による派閥争いによって、福島原発事故後における﹁原子力見直し﹂の時代の動きに揺れる東芝をさらなる混乱に陥れた。2014年には相談役に退くが、社長在任中の利益水増し問題が発覚して引責辞任した。 自らが育てたPC部門も売却が取りだたされるなど、東芝の解体が進む中、2017年12月に死去。73歳没。経歴
生い立ち
三重県出身。三重県立尾鷲高等学校を経て、1968年3月に早稲田大学政治経済学部を卒業し、東京大学大学院法学政治学研究科で福田歓一の指導を受け、西洋政治思想史を研究した[4]。1970年3月に修士課程を修了[5]。同年の岩波書店﹃思想﹄8月号には﹁フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論﹂という論文が掲載されている[6]。博士課程に進学し、フィヒテの研究を手掛けていたが、日本政治史の研究で来日したイラン出身の女性と出会い、恋に落ちて[7]結婚。イランに渡り、東京芝浦電気︵現・東芝︶と現地資本の合弁会社に入社、1975年5月に東京芝浦電気に入社する[8][9]。実業家として
経営手腕
エピソード
出典
関連人物
関連項目
ビジネス | ||
---|---|---|
先代 岡村正 |
東芝会長 2009年 - 2014年 |
次代 室町正志 |
先代 岡村正 |
東芝社長 2005年 - 2009年 |
次代 佐々木則夫 |
公職 | ||
先代 大歳卓麻 |
総務省 情報通信審議会会長 2012年 - 2015年 |
次代 内山田竹志 |
その他の役職 | ||
先代 野間口有 |
日本防衛装備工業会会長 2010年 - 2012年 |
次代 佐藤育男 |
先代 北島義俊 |
デジタルコンテンツ協会会長 2011年 - 2012年 |
次代 足立直樹 |
非営利団体 | ||
先代 中村徹 |
日本観光振興協会会長 2010年 - 2013年 |
次代 山口範雄 |
先代 金井務 |
国際研修協力機構会長 2013年 - 2015年 |
次代 下村節宏 |