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2014年10月18日 (土) 21:24時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/NasunoYoichi.jpg/280px-NasunoYoichi.jpg)
那須 与一︵なす の よいち、嘉応元年︵1169年︶? - ?︶は、平安時代末期の武将。系図上は那須氏2代当主と伝えられる。父は那須資隆︵太郎︶。妻は新田義重の娘。一般的には本名は宗隆︵﹃平家物語﹄では宗高︶と紹介されることも多いが、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆と名乗ったと伝えられる︵この項目での呼称は﹁与一﹂で統一する︶。
名の由来
略歴
﹃吾妻鏡﹄など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、与一の事跡は軍記物である﹃平家物語﹄や﹃源平盛衰記﹄に伝えるところが大きい︵そのため、学問的には与一の実在すら立証できていない︶。﹃平家物語﹄の記述から逆算すると、1169年︵あるいは1166年、1168年︶頃に誕生した。誕生地は当時の那須氏の居城神田城︵現在の栃木県那須郡那珂川町︶と推測されることが多い。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f4/Battle_of_Yashima_Artwork.jpg/300px-Battle_of_Yashima_Artwork.jpg)
﹃平家物語絵巻﹄巻十一より屋島の戦い﹁扇の的﹂
治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年︵1185年︶の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、源頼朝より丹波・信濃など5カ国に荘園を賜った︵丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘︶。また、十郎為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆ものちに罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。しかし、某年、山城国伏見において死去。法名は即成院殿禅海宗悟大居士︵又は即成院殿月山洞明大居士︶。なお、﹃寛政重修諸家譜﹄では文治5年︵1189年︶8月8日死去、﹃続群書類従﹄では建久元年︵1190年︶10月死去とある。家督は兄の五郎資之︵之隆︶が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の実子︵異説もある︶である頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、建久4年︵1193年︶に源頼朝の那須巻狩の際に饗応役を務めた︵﹃吾妻鏡﹄による︶光資である。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f4/Battle_of_Yashima_Artwork.jpg/300px-Battle_of_Yashima_Artwork.jpg)
異説・伝承
幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年︵1180年︶、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している[1]。﹃平家物語﹄に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。
子孫についてはいないとされているが、歴史学者の那須義定などが主張する異説︵越後那須氏︶もあり、梶原氏と諍いを起こしたため家督を捨てて出奔し、越後国の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女を儲け︵息子は越後那須氏の祖となる︶たという。その他、常陸国、出羽国、阿波国にも与一の末裔と称する一族が存在したという伝承、寺伝がある。また、弘前大学教授夫人殺人事件で犯人とされ有罪判決が下され、後に冤罪が発覚した那須隆は、那須氏36代当主である。︵江戸時代に養子縁組で家名をつないでいるため、那須資房、那須資胤ら統一那須氏の実の子孫ではない︶
また扇の的を射た功名で得たと伝えられている荘園のうち1つの備中国荏原荘がある。この伝承が事実であるかどうかは不明であるが、少なくても鎌倉時代中期の段階で那須氏の一族︵荏原那須氏・備中那須氏︶がこの地域を支配していたことを示す記録が残されている。また、与一に関する伝説の継承には備中那須氏をはじめとする西国の庶流が関わっており、下野那須氏の間では少なくても南北朝期の段階では与一の伝説については認識されていなかった可能性も指摘されている[2]。
また、没年についても、1189年︵又は1190年︶に没したとするのは頼朝の粛清を免れるための偽装、出家した理由は癩病にかかり顔が変わってしまったため、とする伝承もある。また、那須義定によると頼朝の死後に赦免されて那須に戻った後に出家して浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を30年余り続けた後、貞永元年︵1232年︶に中風のため摂津国で没したという。
弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている。
墓所
墓所は、京都府京都市の即成院であるが、兄の那須資之が功照院という寺を建立し、分骨を埋葬したといい、永正11年︵1514年︶に、一度は廃寺になったものの、天正18年︵1590年︶、那須資景が那須氏の菩提寺玄性寺︵栃木県大田原市︶として再建し、那須氏では、こちらを本墓としている。
また、兵庫県神戸市須磨区の碧雲寺宗照院には、那須與一宗高公御墓所という与一の墓とされるものがある。この墓にお参りすると、年老いても下の世話にならないとする言い伝えがある。また近くには与一が信仰したとされる北向八幡神社と、地元の人々が与一を祀った那須神社がある。
山形県米沢市中央5丁目の西蓮寺の北西隣の虚空蔵菩薩堂の前には、那須与一の名を刻む高さ約4.2メートルの三重石塔がある。これは与一の供養塔とされ、塔には﹁那須与一宗隆公﹂、﹁千坂対馬守景親公﹂と刻まれており、裏には﹁享保四年孟夏十三日建立﹂と建立日が刻まれている。千坂景親は上杉謙信の重臣だが、千坂氏は那須氏とは婚族関係にあり、与一の守本尊︵虚空蔵菩薩像︶が伝わっていたとされる。
また扇の的を射た功名で全国に得た荘園のうち1つの備中荏原荘︵現在の岡山県井原市西江原︶の山中にも与一の五輪供養塔が存在する。また備中荏原の菩提寺として開基した永祥寺の境内には、屋島での合戦時に破り捨てた片袖を祭った袖神神社や、那須一族の居城とされる小菅城址や創建した神社も存在する。
後世への影響
演じた俳優
- 勝新太郎(『静と義経』1956年、大映)
- 高橋悦史(『源義経』1966年、NHK大河ドラマ)
- 諸星和己(『源義経』1990年、TBS)
- 今井翼(『義経』2005年、NHK大河ドラマ)
- 松尾英太郎(『偉人の来る部屋』)
那須与一を扱った作品
歌謡曲
- 長編歌謡浪曲 屋島の扇 (三波春夫)
コミック
- 平野耕太『ドリフターズ』(ヤングキングアワーズ2009年6月号より連載中。副主人公格)
盆踊り
堺浦の盆踊りの唄に「那須の与一」があり、古老からの口伝えで歌われている。
脚注
- ^ 那須与一公ゆかりの地
- ^ 山本隆志「白河結城家文書のなかの那須文書」(初出:村井章介 編『中世東国武家文書の研究』(高志書院、2008年)/改題所収「関東御家人那須家の成立と東・西での展開」山本『東国における武士勢力の成立と発展』(思文閣出版、2012年) ISBN 978-4-7842-1601-7)
関連項目
- 那須氏
- むれ源平 石あかりロード
- ドリフターズ (漫画) - 那須与一がメインキャラクターとして登場