「野中兼山」の版間の差分
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== 兼山が登場する作品 == |
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*[[大原富枝]]『婉という女』([[講談社]]、初版1960年) - 兼山四女「婉」の物語 |
*[[大原富枝]]『婉という女』([[講談社]]、初版1960年) - 兼山四女「[[野中婉|婉]]」の物語 |
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**『婉という女・正妻』[[講談社文芸文庫]] |
**新版『婉という女・正妻』[[講談社文芸文庫]]、2005年。ISBN 4061984012 |
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*[[田岡典夫]]『小説野中兼山』([[平凡社]]、 |
*[[田岡典夫]]『小説野中兼山』([[平凡社]] 全3巻、1978-79年) |
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2020年12月31日 (木) 23:25時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/01/Nonaka_Kenzan.jpg/200px-Nonaka_Kenzan.jpg)
野中 兼山︵のなか けんざん、元和元年︵1615年︶ - 寛文3年12月20日︵1664年1月18日︶︶は、江戸時代初期の土佐藩家老、儒学者。谷時中に朱子学を学び[1]、南学による封建道徳の実践に努めた[2]。多くの改革で藩を助けたが、藩士の恨みや、過酷な負担を強いたことによる領民の不興を買い失脚。一族が絶えるまで家族全員が幽閉された。
諱は良継︵よしつぐ︶、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。
灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fb/House_site_of_Nonaka_Kenzan%2C_sekihi.jpg/200px-House_site_of_Nonaka_Kenzan%2C_sekihi.jpg)
野中兼山邸跡
元和元年︵1615年︶、播州姫路に生まれる。
祖父・野中良平の妻は山内一豊の妹・合︵ごう︶で、父・良明は5000石を領していた。藩主・一豊は、良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していたが、一豊の死後に反故にされたために浪人となっていた。兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死後、兼山は母とともに土佐に帰った。
13歳の時、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となった。15歳で元服し、良継と名乗った。
寛永13年︵1636年︶、養父の直継が病死すると野中家を継いで奉行になった。藩主・忠義は、兼山に藩政改革を命じることになる。まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、杉・檜を中心とする森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。物部川に築いた山田堰による灌漑などで開発した新田は7万5千石にも達したという。和紙の材料となる楮栽培や鰹節づくりも奨励した[3]。また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。築港も推し進め、藩内製品の諸国での販売を広める。また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。藩外からも植物、魚類などを輸入して藩内での育成に努めるるなどした。また、捕鯨、陶器、養蜂などの技術者の移入も進めて殖産興業に取り組み、専売制の強化なども行った。これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。
一方で過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止などで領民に不満は溜り、逃散する領民も出てきた。朝寝坊や、酒に酔って人前に出て罰金を課された者もいたほど風紀の取り締まりも厳しかった[4]。また、郷士の役職への取り立てなどは上士の反発を買い対立を深めていった。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2a/Sukumo_elementary_school%2C_sekihi_for_Nonaka_Kenzan%27s_family.jpg/200px-Sukumo_elementary_school%2C_sekihi_for_Nonaka_Kenzan%27s_family.jpg)
一族幽閉地︵高知県宿毛市︶
明暦2年︵1656年︶、藩主忠義が隠居し、3代藩主に忠豊が就く。兼山は引き続き重用され、明暦3年には忠豊とともに江戸城で将軍︵当時は徳川家綱︶に拝謁する栄に浴した。だが寛文3年︵1663年︶、兼山の施政に不満を持つ孕石元政、生駒木工などが家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。郷士を厚遇して藩士の困窮を顧みず、重い課役や専売制で農民や町人を苦しめた旨が挙げられた。忠豊は、叔父である伊予松山藩主松平定行と相談のうえ兼山を罷免した。この政変を﹁寛文の改替﹂と呼ぶ[5]。
失脚した兼山は、思い入れがあった山田堰の工事指揮所近くに隠棲し、三カ月後に吐血して死去。宿毛に配流された家族への報復は過酷で、男系が絶えるまで幽閉が40年続いた。この間、女児も結婚を許されなかった[6]。
来歴
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fb/House_site_of_Nonaka_Kenzan%2C_sekihi.jpg/200px-House_site_of_Nonaka_Kenzan%2C_sekihi.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2a/Sukumo_elementary_school%2C_sekihi_for_Nonaka_Kenzan%27s_family.jpg/200px-Sukumo_elementary_school%2C_sekihi_for_Nonaka_Kenzan%27s_family.jpg)
エピソード
●垂加神道の山崎闇斎の先輩であり、放逐された闇斎を保護した。 ●儒教の定めを強く守り、同姓だった妻・市を離別した。母の死に際しも、儒葬︵儒教による葬儀︶を行い、禁教令の対象であった切支丹ではないかとの嫌疑を一時受けた[7]。 ●兼山の死後、民衆は密かに小祠を建てて神と崇めた。後に江戸幕府の許可を得て﹁春野明神﹂と公称し、明治初年の神仏分離によって﹁春野神社﹂となった。 ●﹁念仏講﹂という組織を作り、積立金による丁重な葬儀を行わせた。四国は中世からハンセン氏病患者などの巡礼地であり、それらの遺体は粗略に扱われていたが、兼山はこれをも篤く葬らせた。天然痘患者の置棄︵おきす︶ても禁じ、儒教の精神により火葬を廃し、﹁棺郭の制﹂を定めて﹁厚板契締︵あついたちぎりじめ︶﹂の丁寧な棺箱に納めて土葬にさせた。 ●﹁春兎通ったあとが百貫目﹂とは、ある人夫が仕事場を兎が一匹走り抜けたが仲間には黙っていて、休み時間にその話をしたところ仲間は仕事をやめて捕まえたのにと残念がった。その話を聞いた兼山が、そのことを仲間に言えば大騒ぎになり仕事も遅れたことだろうと感心をし、その人夫に褒美として山石百貫目の使役料を与えたことによるものである。土木事業
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1d/Tei_Fishing_Port_-_panoramio.jpg/200px-Tei_Fishing_Port_-_panoramio.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dd/Yamadazeki-ato_%28Kami%2C_Kochi%29%2C_zenkei.jpg/200px-Yamadazeki-ato_%28Kami%2C_Kochi%29%2C_zenkei.jpg)
家族
●実高祖父‥野中道永︵播磨国出身、のち美濃国大野郡三輪村伊尾に移住す︶ ●実高祖母‥美濃斎藤氏 ●実曾祖父‥野中伯仙︵1513年︵永正10年︶ - 1585年9月7日︵天正13年8月14日︶︶ ●実曾祖母‥衣斐氏︵1530年︵享禄3年︶ - 1596年10月12日︵慶長元年8月21日︶︶ ●実祖父‥野中良平︵権之進︶︵1549年︵天文18年︶ - 1579年︵天正7年5月︶︶ ●実祖母‥山内一豊の妹︵俗名・合︶ ●実父‥野中良明︵勘解由︶︵1573年︵天正元年︶ - 1618年︵元和4年7月︶︶ ●実母‥秋田氏︵俗名 萬︶、︵1587年︵天正15年︶- 1651年5月23日︵慶安4年4月4日︶︶法名・直信院 ●養父‥野中直継︵玄蕃︶︵1587年︵天正15年︶ - 1636年12月15日︵寛永13年11月18日︶︶ ●養母‥山内可氏の女︵1593年︵文禄2年︶ - 1669年6月19日︵寛文9年5月21日︶︶法名・玄材院 ●本人‥野中良継︵兼山︶ ●正室‥野中直継の二女︵1620年︵元和6年︶ - 1699年8月4日︵元禄12年7月9日︶︶法名・栄順院 ●長男‥野中彝継︵清七︶︵1649年︵慶安2年︶ - 1679年7月20日︵延宝7年6月13日︶︶ ●二男‥野中明継︵欽六︶︵1651年︵慶安4年︶ - 1683年10月21日︵天和3年9月2日︶︶狂死 ●三男‥野中顧一郎 ●四男‥野中畏三郎 ●五男‥野中繼業︵希四郎︶︵1658年︵万治元年︶ - 1698年5月25日︵元禄11年4月16日︶︶ ●六男‥野中行繼︵貞四郎︶︵1663年︵寛文3年︶ - 1703年8月10日︵元禄16年6月28日︶︶自死 ●長女‥順 ●二女‥高木四郎左衛門室︵俗名・米︶︵1647年︵正保4年︶ - 1667年︵寛文7年5月︶︶ ●三女‥寛︵1658年︵万治元年︶ - 1729年︵享保14年11月︶︶ ●四女‥婉︵1661年︵寛文元年︶ - 1726年2月1日︵享保10年12月30日︶︶ ●五女‥将︵1662年︵寛文2年︶ - 1721年8月19日︵享保6年7月27日︶︶兼山が登場する作品
小説 ●大原富枝﹃婉という女﹄︵講談社、初版1960年︶ - 兼山四女﹁婉﹂の物語 ●新版﹃婉という女・正妻﹄講談社文芸文庫、2005年。ISBN 4061984012 ●田岡典夫﹃小説野中兼山﹄︵平凡社 全3巻、1978-79年︶ 映画 ●﹃婉という女﹄︵ほるぷ映画 1971年5月、監督今井正︶参考文献
●﹃野中兼山﹄松沢卓郎著、大日本雄弁会講談社、1941年、︵巻末に﹃事業一覧表﹄﹃系図﹄﹃南学系統図﹄﹃関係年代記︵年譜︶﹄あり︶ ●﹃野中兼山良継―統制経済の先覚者 その思想と行実﹄吉田喜市郎著、1943年 ●﹃野中兼山﹄横川末吉著、人物叢書‥吉川弘文館、1962年 ●﹃野中兼山関係文書﹄高知県文教協会、1965年 ●﹃野中兼山と其の時代﹄平尾道雄著、高知県文教協会、1970年 ●﹃野中兼山﹄小川俊夫著、高知新聞社、2001年 ●﹃野中兼山頌徳碑建立記念誌﹄、1997年 ●﹃漂流﹄吉村昭、1976年関連項目
●南国市 - かつては土佐後免と呼ばれた ●南学 ●土佐藩脚注
外部リンク
- 香南市観光 手結内港
- 細川潤次郎著『野中兼山先生伝 附軼事二十則』(近代デジタルライブラリー、細川潤次郎)
- 土佐藩における野中兼山の藩政改革 : 組織論の視点から平池久義, 『下関市立大学論集』49号、2005年
- 野中兼山の地域開発事業菊岡倶也 『DOBOKU技士会東京』第31号 東京土木施工管理技士会 2005年