「高木兼寛」の版間の差分
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'''高木 兼寛'''︵たかき かねひろ{{efn|名字の読みが﹁たかぎ﹂と表記されることや、名の兼寛は[[音読み]]で﹁けんかん﹂と読むこともある<ref>{{Cite Kotobank|word=高木兼寛|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) [[三浦豊彦]]執筆|accessdate=2022- |
'''高木 兼寛'''︵たかき かねひろ{{efn|名字の読みが﹁たかぎ﹂と表記されることや、名の兼寛は[[音読み]]で﹁けんかん﹂と読むこともある<ref>{{Cite Kotobank|word=高木兼寛|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) [[三浦豊彦]]執筆|accessdate=2022-07-09}}</ref>}}、[[嘉永]]2年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]︿[[1849年]][[10月30日]]﹀ - [[大正]]9年︿[[1920年]]﹀[[4月13日]]︶は、[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]、最終階級は海軍[[軍医総監]]︵[[少将]]相当︶。[[博士︵医学︶|医学博士]]。[[男爵]]。[[東京慈恵会医科大学]]の創設者。
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生誕の地である宮崎では「[[ビタミン]]の父」と紹介している<ref>{{Cite web|和書|title=高木 兼寛|宮崎県郷土先覚者 |url=http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/takaki/ |website=www.pref.miyazaki.lg.jp |access-date=2022-12-07}}</ref>。また、「よこすか[[海軍カレー]]」では、脚気対策として海軍の兵食改革を行った際にカレーを取り入れた人物とみなしている<ref>{{Cite web|和書|title=よこすか海軍カレーとは |url=https://kaigun-curry.net/about |website=カレーの街よこすか - カレーの街よこすか公式サイト |access-date=2022-12-07 |language=ja}}</ref>{{efn|高木兼寛が海軍にカレーを取り入れたことの根拠や出典が記載されておらず史実なのかは不明。}}。 |
生誕の地である宮崎では「[[ビタミン]]の父」と紹介している<ref>{{Cite web|和書|title=高木 兼寛|宮崎県郷土先覚者 |url=http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/takaki/ |website=www.pref.miyazaki.lg.jp |access-date=2022-12-07}}</ref>。また、「よこすか[[海軍カレー]]」では、脚気対策として海軍の兵食改革を行った際にカレーを取り入れた人物とみなしている<ref>{{Cite web|和書|title=よこすか海軍カレーとは |url=https://kaigun-curry.net/about |website=カレーの街よこすか - カレーの街よこすか公式サイト |access-date=2022-12-07 |language=ja}}</ref>{{efn|高木兼寛が海軍にカレーを取り入れたことの根拠や出典が記載されておらず史実なのかは不明。}}。 |
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* 海外での脚気業績に対する高木の評価は高い。﹁独創を尊び成果を重んする西洋医学からみると、高木の﹃食物改良による脚気の撲滅﹄は、発想の独自性と先見性、成果の素晴らしさから、まさしく画期的な業績であった。ビタミンが広く知られた後には、さらにその先見性が高く評価され、ビタミンの先覚者と位置づけられている。﹂︵山下 (2008) pp.454-455︶
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* 海外での脚気業績に対する高木の評価は高い。﹁独創を尊び成果を重んする西洋医学からみると、高木の﹃食物改良による脚気の撲滅﹄は、発想の独自性と先見性、成果の素晴らしさから、まさしく画期的な業績であった。ビタミンが広く知られた後には、さらにその先見性が高く評価され、ビタミンの先覚者と位置づけられている。﹂︵山下 (2008) pp.454-455︶
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* 明治22年([[1889年]])に[[大隈重信]]が[[来島恒喜]]が投じた爆弾により負傷した直後に現場を通りかかり、大隈の最初の処置を行った。その後に駆け付けた[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]、[[佐藤進 (軍医)|佐藤進]]、[[伊東方成]]、[[岩佐純]]、[[池田謙斎]]らとの協議により右足の切断を決定した<ref>服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)60頁</ref>。 |
* 明治22年([[1889年]])に[[大隈重信]]が[[来島恒喜]]が投じた爆弾により負傷した直後に現場を通りかかり、大隈の最初の処置を行った。その後に駆け付けた[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]、[[佐藤進 (軍医)|佐藤進]]、[[伊東方成]]、[[岩佐純]]、[[池田謙斎]]らとの協議により右足の切断を決定した<ref>服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)60頁</ref>。 |
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* [[1887年]]︵明治20年︶、[[東海道線]][[大磯駅]]が開業すると駅前の高台に[[別荘]]を建設。[[大磯町]]が発展する契機を作った<ref>{{Cite book |和書 |author=千田稔 |title=華族総覧 |publisher=講談社現代新書 |year=2009-07 |page=560|isbn=978-4-06-288001-5}}</ref>。
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== 栄典 == |
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[[Category:1849年生]] |
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[[Category:青山霊園に埋葬されている人物]] |
2024年5月13日 (月) 06:40時点における最新版
高木兼寛 | |
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軍医姿の高木兼寛 出生地に近い「穆園(ぼくえん)広場」の案内板より(所在地:宮崎市高岡町小山田)[1] | |
生誕 |
1849年10月30日 日本 日向国諸県郡穆佐郷白土坂 (現・宮崎県宮崎市高岡町小山田) |
死没 |
1920年4月13日(70歳没) 日本 東京府東京市麻布区麻布東鳥居坂町 (現・東京都港区六本木5丁目) |
墓地 | 青山霊園1イ10-21 |
略歴
[編集]医学・看護教育
[編集]兵食改革と脚気論争
[編集]貧民散布論
[編集]その他の功績
[編集]栄典
[編集]これは、生前授与の栄典のリストである。逝去直後、従二位と勲一等旭日大綬章が追贈された。
位階
[編集]勲章等
[編集]- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[28]
- 1891年(明治24年)6月27日 - 勲二等瑞宝章[29]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[30]・勲一等瑞宝章[31]
著作
[編集]単著
[編集]校閲
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]関連作品
[編集]テレビ番組
[編集]関連項目
[編集]- ユミ・シャロー
- 大山捨松
- 鈴木梅太郎
- 森林太郎(森鴎外)
- 東京慈恵会
- 東京慈恵会医科大学
- 東京慈恵会医科大学附属病院
- 慈恵看護専門学校
- 日本の脚気史
- カレーライス - 海軍カレー
- ビタミン
- 道の駅高岡
- 高木岬
外部リンク
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 高木(兼寛)家初代 1905年 - 1920年 |
次代 高木喜寛 |