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2018年3月25日 (日) 08:23時点における版
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エピソード
●幕末の奇兵隊時代、変名として﹁鳥尾小弥太﹂を称した。隊士が集まった夜話の際に、同姓者が多い﹁中村﹂では人間違いで困ると話したところ、系図に詳しい一人が、中村姓の本姓には﹁鳥尾﹂姓があるとしてこれを選び、さらに武張った印象を与えるとして﹁小弥太﹂を選んだ。これは一夜の冗談のつもりだったが、翌日、ある隊士が隊長へ提出する連署の書面に﹁鳥尾小弥太﹂と悪戯で署名したので、これを契機として変名を名乗ったと伝わる。長州藩主・毛利敬親から﹁鳥尾小弥太﹂宛の感状を拝領するにおよんで正式に改名したとも、また、勤王活動の累が家族に及ぶことを畏れた父が勘当したので変名を名乗った、などの説が伝わっている。
●現在の東京都文京区関口付近に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって鳥尾坂と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱︵文京区関口3丁目9と11の間︶が残っている。
●統一学舎を設立した鳥尾は、京都の別荘・一得庵に関西支部の設置を準備したものの、実現させることなく死去した。現在、旧別荘近くの高台寺内に同学舎による顕彰碑が建立されている。
●幕末期、当時奇兵隊少年隊の陣屋であった松林寺︵山口県下関市吉田︶に駐屯していた隊長の鳥尾は、﹁我が国は神国であるにもかかわらず、仏教が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん﹂として激昂し、隊士を引き連れて法専寺︵山口県下関市吉田︶境内にあった6体の地蔵の首を切り落としている。︵首切り地蔵︶なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、セメントで首をつないで補修がなされている。
●明治6年︵1873年︶の第六局長時代、﹁東京湾海防策﹂を建議して同湾を囲繞する沿岸の砲台建設を提言している。これにより同湾の富津沖に海堡の建設がなされた。
●日清戦争当時、日本軍の後背を脅かした清国騎兵に対抗するため、満州の馬賊への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される。
●明治期の教育者・下田歌子に禅学を教授している。
●旧幕臣の中根香亭とは書画骨董の趣味を同じくし、﹃香亭雅談﹄には好事家として言及されている[2]。
●封建制度の終焉となった廃藩置県は、鳥尾と野村靖による会話を山縣に提起したことが発端とする説がある。
●明治33年︵1890年︶の帝国議会。司法大臣・山田顕義がフランス人法律家の任用を可能とする改正案を提議したところ、当初、鳥尾は強硬に反対したものの、翌日の議会では賛成に転じた。この変節には他の議員も驚いたが、山田が涙を揮って苦心を説いたことが変節の理由であり、これに動かされて変節するに及んだという。実際、このような話は他にも沢山あったらしい。
●当時の日本人の外国における面白エピソード集﹃赤毛布﹄︵明治33年︶に、﹁鳥尾小弥太の苺代﹂という項がある。欧州外遊中の鳥尾がパリにて季節はずれの苺を散々食べ散らかし、請求された予想外の代金に驚愕するエピソードが収められている。
●墓所は兵庫県加古川市に存するが、これは父が参勤交代の途次、加古川の旅館菊屋で死亡したためである。維新後に墓参に訪れた際、父の最期を看取った旅館の老婦人から、﹁他は何も気にかかることはないが、江戸に残してきた息子のことが気にかかる﹂との遺言を聞かされた鳥尾は、﹁自分の死後は父の墓に埋葬せよ﹂と遺言している。
官歴
●明治3年︵1870年︶12月‥兵部省出仕
●明治4年︵1871年︶
●7月‥陸軍少将
●10月‥兵学頭
●11月‥参謀局分課
●明治5年︵1872年︶
●2月‥兵学寮頭
●3月‥陸軍省軍務局長
●明治6年︵1873年︶
●3月‥同第一局長兼第二局長
●5月‥免兼同第二局長
●6月‥兼同第六局長
●8月‥兼陸軍少輔
●明治7年︵1874年︶
●2月‥免兼第一局長
●4月‥大阪鎮台司令長官
●8月‥陸軍省参謀局御用掛
●明治8年︵1875年︶4月‥兼元老院議官
●明治9年︵1876年︶
●1月‥陸軍中将、陸軍大輔
●3月‥陸軍省参謀局長
●12月: 兼同議定官
●明治10年︵1877年︶
●2月‥西南戦争行在所中陸軍事務取扱
●12月‥参謀本部御用掛
●明治12年︵1879年︶10月‥近衛都督
●明治15年︵1882年︶4月‥兼太政官統計院長
●明治17年︵1884年︶7月‥子爵叙爵
●明治18年︵1885年︶12月‥元老院議官
●明治19年︵1886年︶2月‥国防会議議員︵欧州出張︶
●明治21年︵1888年︶
●6月‥枢密顧問官
●12月‥予備役
●明治23年︵1890年︶
●5月: 辞職
●7月‥貴族院議員
●明治28年︵1895年︶6月‥枢密顧問官
栄典・授章・授賞
●1878年︵明治11年︶夏 - 勲二等旭日重光章
●1884年︵明治17年︶7月7日 - 子爵[3]
●1886年︵明治19年︶10月20日 - 従三位[4]
●1889年︵明治22年︶
●11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]
●12月27日 - 勲一等瑞宝章[6]
●1902年︵明治35年︶6月30日 - 旭日大綬章[7]
後裔
●子‥ 鳥尾光︵子爵︶
●孫‥ 鳥尾敬光︵子爵︶
孫嫁‥ 鳥尾鶴代︵﹁マダム鳥尾﹂︶
●曾孫‥ 鳥尾敬孝︵プロミュージシャン、実業家︶
著書
●﹃王法論﹄︵1880年︶
●﹃無量寿経論﹄︵1882年︶
●﹃明道協会要領解説﹄︵1884年︶
●﹃仏道本論﹄︵1885年︶
●﹃無神論﹄︵1887年︶
●﹃洋行日記﹄︵1888年︶
●﹃臣の友垣﹄︵1890年︶
●﹃時事談﹄︵1891年︶
●﹃正法眼蔵﹄︵1892年︶
●﹃禅林消息﹄︵1895年︶
●﹃人道要論﹄︵1900年︶
●﹃児恋草﹄︵1901年︶
●﹃統一学﹄︵1902年︶
●﹃道徳弁﹄︵1902年︶
脚注
(一)^ 服部敏良﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄付録﹁近代有名人の死因一覧﹂︵吉川弘文館、2010年︶20頁
(二)^ 中根香亭﹃香亭雅談﹄吉川弘文館、大正9年、上・9p、下・12p頁。
(三)^ ﹃官報﹄第307号﹁叙任及辞令﹂1884年7月8日。
(四)^ ﹃官報﹄第994号﹁叙任及辞令﹂1886年10月21日。
(五)^ ﹃官報﹄第1928号﹁叙任及辞令﹂1889年11月30日。
(六)^ ﹃官報﹄第1952号﹁叙任及辞令﹂1889年12月28日。
(七)^ ﹃官報﹄第5696号﹁叙任及辞令﹂1902年7月1日。